2 天使の盾

 剣崎所長が教えてくれた法人は、新宿区四谷の雑居ビルにオフィスを構えていた。

 新宿御苑から靖国通り方面に五分ほど歩いて、賑やかな大通りから一つ裏通りに入ると、あまり大きくないオフィスビルが林立する閑静な地域に入る。そのなかの一角に、壁面が煉瓦調のブロックで敷き詰められた七階建ての細長いビルが建っていた。


 エントランスに入ると、一基だけの小さなエレベーターがあって、すぐ横に管理人室から覗けるようになっている小窓が見える。徳島は、エレベーターの扉の脇にあるフロア別のネームプレートを確認した。二階のところに、「NPO法人 天使の盾」とある。


 徳島と栗橋はエレベーターに乗って二階まで上がり、薄汚れたパーテーションで区切られた受付ホールに出ると、インターフォンで来訪を告げた。


「少しお待ちください。いま担当の者がご案内しますから」


 幾分くだけた口調の若者の声。スピーカーの向こうからは、大きな物を動かすときの床をこするような音や、数人の笑い声が聞こえてきた。徳島が受話器を置くと、栗橋が周囲の気配を窺いながら呟く。


「忙しいのかな。ずいぶんざわついた感じがする」

「どうでしょうね。確かに慌ただしいようですが」


 奥に通じているらしい扉の一つが開いて、二十代前半に見える若い女性が顔を出した。カジュアルな服装で、眼鏡をかけている。


「ええと、先ほどご連絡いただいた警察の方ですよね。お二方ですか?」

「はい、我々だけですが」

「こちらにどうぞ。代表の木崎がお会いいたします」


 二人が通されたのは六畳程度の小さな会議室で、ミーティングテーブルと椅子が四脚あるだけのシンプルな部屋だった。ただし、入って左側の壁一面に大きな業務用のパソコンラックが設置されていて、十台以上のコンピューターが所狭しと並んでいる。どれも稼働しているらしく、赤や緑のLEDランプが忙しそうに明滅していた。エアコンがよく効いているのは、このコンピューターの発する熱で室温が上がらないようにするための対策だろう。


 徳島と栗橋が椅子にかけて待っていると、やがて麻のジャケットを着た三十代後半ぐらいの男が現れた。


「すいません、引っ越してきたばかりで、まだどたばたしてましてね。お待たせしちゃいました?」

「いえいえ、こちらこそお忙しいところ申し訳ありません。なるほど、引っ越しされたばかりなんですね」

「ええ、先週ここに移ってきたんですが、まだ片付いてなくて」


 徳島は懐から警察手帳を取り出して、木崎に見せた。


「警視庁の徳島と栗橋といいます」


 木崎は、徳島の手帳を見たあとに、ジャケットの胸ポケットから名刺を取り出して二人に差し出した。


「改めまして、天使の盾代表の木崎義人きざきよしとです」


 栗橋が、木崎の名刺をしげしげと眺めながら答えた。


「木崎さん、テレビに出てらっしゃいますよね。最近見たことがありますよ」

「ええ、例の殺人事件が起きて以来、児童虐待に関する報道番組が増えていて、コメンテーターとして呼ばれることが急に多くなったんですよ。もう忙しくてたまりません。刑事さんたちも、その殺人事件のことでいらっしゃったんでしょう?」

「まあそんなところです」と徳島。


 入り口のドアが開いて、先ほど会議室まで案内してくれた女性が、冷たいお茶の入ったグラスを三つ運んできた。木崎は女性に「めぐみちゃん、ありがとね」と礼を云ってウィンクをした。徳島は、めぐみと呼ばれた女性がほんの少しだけうんざりしたような様子を見せたと感じた。


「で、どうなんです? 犯人、捕まりそうなんですか?」木崎は、徳島たちに椅子を勧めて云った。

「すいません。捜査の進捗に関しては、ちょっと」

「そうですよね。そりゃあそうだ」大げさに残念そうな素振りを見せてから、木崎は笑顔で云った。

「訊かれるのはこっちで、刑事さんたちは訊く方ですもんね。さて、それでは刑事さんたちの用件に移りましょうか。電話で訊きましたが、うちのホームページに不審な書き込みがあるとか」

「ええ、先日発生した殺人事件に関連してなんですが、どうやら被害者を二組とも知っている人物によるものらしくて」

「こちらでも、ご連絡をいただいてからスタッフに確認させましたよ。ちょっと失礼」木崎はミーティングデスクの上にあるビジネスフォンの受話器を取ってから、内線ボタンを押した。

「ああ、相馬君いるかな。会議室に来てくれと伝えてほしいんだ。頼むよ」受話器を置いてから、彼は徳島たちを見た。

「いま現場を統括しているスタッフを呼びました。相馬という者で、うちのシステム管理から、ボランティアスタッフのまとめまでをすべて担当しています」


 お茶に口を付けていた栗橋が、木崎を見て云った。


「そのあたりも、木崎さんがやられていると思ってましたが」

「いやいや、現場はもう任せっきりですよ。うちはNPO法人といってもあまり大きな組織ではないんですが、それでもボランティアと常勤のスタッフを集めれば、二十名以上にはなります。とても一人でまとめていくのは無理ですから、優秀な人材を適材適所に配置して、効率的に仕事を進めていますね」

「この天使の盾という法人は、児童虐待の防止を目的とした民間の団体、という理解でいいんですよね?」

「ええ、児童虐待を早期に発見して対処するため、または防止するための法人として、八年前に設立されました。行政だけではなかなか難しい部分を、民間で何とかしよういうことで誕生したわけです。虐待を見つけたけど行政には相談しにくいとか、あと我が子は可愛いけど、仕事のストレスからどうしても手が出てしまうとか、まあいろいろな事情を抱えた人たちの相談役のような団体でしょうか」


 会議室の扉をノックする音が聞こえてから、一人の男が入ってきた。年は二十三か四ぐらいで、身長はそんなに高くない。白い半袖のシャツに、ベージュのチノパンを合わせている。


「ああ、ご紹介しましょう。彼が相馬です」

相馬由多加そうまゆたかといいます」相馬は刑事たちに一礼すると、すぐに木崎の方を向いて云った。

「例の書き込みの件ですよね?」

「そうそう。刑事さんたちに協力してあげてほしいんだ」


 相馬は部屋の隅にあった折り畳みのパイプ椅子を持ってきて座ると、ミーティングデスクの上に設置されているパソコンのモニターを起動させた。すでにパソコンは立ち上がっていたらしく、画面に天使の盾のホームページがすぐに表示される。徳島が、昨日捜査本部で確認したばかりの画面だ。


「これですよね」


 モニターの前に置いてあったマウスを操作して、相馬は素早く目的のページを探し当てた。複数の書き込みが表示されている画面が表示される。町田児童相談所の所長である剣崎氏より知らされた書き込みと、同じものである。


『いま世の中を賑わせている事件、稲城と町田の虐待親殺しの事件ですが、あれ、私が通報しました。稲城は子供に熱湯かけるバカ夫婦。町田は子供を殴るロクデナシ。二組とも、死んで当然の愚かな親。あいつらが何をしてたのか、テレビでは詳しく紹介されてないけど、本当はひどい虐待が行われていた。連中が殺されてなければ、子供の方が先に死んでたかも。だから、こんなことになって当然、天罰みたいなもんです。子供を殺す親は、通報すれば死ぬんじゃないかな。

ロシナンテ data: 2010-08-07』


 書き込みの日付が八月七日となっている。宇木田殺しが七月三十日だから、約一週間後に書かれたようだ。ちょうどテレビの報道が過熱し始めた頃である。


「そう、これです」

「ずいぶんと過激ですが、このあと他のユーザーから注意を促す内容の書き込みが続いてますね。最後は、ロシナンテが一応謝罪する形で終わっています」

「こういった、割ときわどい内容の書き込みは多いんですか?」

「ないわけではないですね。うちのホームページは、もともと虐待されている児童を早期に発見して行政に伝えたり、子供のことで悩んでいる親同士が相談し合ったりする場を目指して作られているんですが、たまに感情的な書き込みをして、ユーザー同士で、まあ喧嘩みたいになったりするんです」

「このロシナンテという人物が通報したというのは?」

「ホームページのなかに、我々天使の盾への通報ということで、児童虐待を知らせてもらう機能があるんです。直接行政に話すのはちょっとという方が結構いるんで、まず私たちに相談してもらって、必要とあらばこちらで児相に通報するという流れですね」

「なるほど。ロシナンテ氏の通報の記録って、保存されてたりします?」

「もう調べてあります」


 相馬は、コンピューターの画面に別の画面を表示させた。どうやら通報の記録が一覧で表示されているらしい。


「二つありました。両方ともメールによる通報です。まずこちらが最近のものですね」


 画面にメールの文面が表示された。


『深刻な児童虐待を発見したので、通報します。場所は東京都稲城市長峰三丁目のアパート、パークハイム長峰二○四号室。この家の子供と話しました。火傷の痕がひどいので、一刻も無駄にはできないと思います。

ロシナンテ data: 2010-06-02』


「保坂夫妻の殺害より一ヶ月以上前だな」と栗橋。

「このあと、うちのボランティアがロシナンテ氏と電話で話したそうです。確かに緊急性がありそうだということで、町田児童相談所に通告したと記録されています」

「もう一つは?」


 徳島の問いに、相馬は小さく頷いてからマウスを操作して、次のメールを表示させた。


『急いで保護してほしい子供を発見しました。町田市金森二丁目のマンション。ここの四階に住んでいる男は、自分の子供を金槌で殴って骨折させたと云っている。男の名前は宇木田、または高遠。

ロシナンテ data: 2010-05-20』


「日付が五月ですから、保坂夫妻よりも前に宇木田を通報してますね。しかもこれは」


 徳島が栗橋を見ると、彼もやはり同じことを考えているようだった。このロシナンテ氏は、宇木田が高遠守に金槌を振り下ろした事実を知っている。


「宇木田高雄と直接話したような印象だな。しかし名前は知らない」徳島の言葉を引き継ぐように、栗橋が答えた。

「確か表札が宇木田と高遠の連名でしたよね。あれを見た可能性は?」

「多分、それだな。宇木田とどこかで話したが、知り合いではなかった。名前は表札で知った。このロシナンテという人物が何者か、記録はあるんですか?」


 パソコンのモニターから目を離さずに、相馬が答えた。


「最初の通報のときにスタッフが電話で話していますから、そのときの電話番号と名前だけ記録されています。長内圭一おさないけいいちという方ですね。あとでメールの文面と一緒に記録をお渡しいたします」

「助かります」


 相馬は、徳島と栗橋に頭だけで軽く一礼すると、木崎の方を向いて云った。


「作業に戻りたいんで、もういいですか?」

「ああ、ありがとう。助かったよ。記録は、あとで小山田君にでも渡しておいてくれ。彼女が刑事さんたちに渡すから」

「わかりました。あと木崎さん、真琴ちゃんからさっき連絡ありましたけど」

「えっと、ああ、そう? また電話来たら、こっちから折り返すって云っておいて」


 相馬は頷いてから、刑事たちに再度軽く頭を下げて、部屋を出て行った。


「ぶっきらぼうな男なんですが、優秀でしてね」


 相馬の出て行った扉を見ながら、木崎が独り言のように云った。


「そのようですね」

「彼がいてくれるんで、私はテレビとかに出たりできるんです。児童虐待は根深い問題ですが、世間に知られていないことが多いので、私は以前から皆さんへの啓蒙活動に力を入れたかったんです。虐待を通報するのが義務だということを知らない人ですら、まだまだ結構いますから」

「それには、木崎さんが有名になるのが一番ですね」と栗橋が明るい声で云った。徳島は、栗橋の声のなかに茶化すようなニュアンスをわずかながらに感じた。

「いえいえ、有名だなんてそんな。ただ私の声が、もっと大勢の方に届けばいいなという思いはありますけどね。まあ、テレビなんかに出ていると、いろいろいいこともありますが」そう云うと木崎は、ニヤッと笑った。


 徳島は、どうも最初からわだかまっていた自分の思いが、ここでようやくはっきりと理解できた。自分は、この木崎という男が信用できないのだ。児童虐待に対する問題意識はあるのだろうが、物腰や言動の随所に世俗的な欲が見え隠れしていて、そこがどうにも鼻につく。こういった団体の代表は、必ず聖人君子でなければならないとまではさすがに徳島も思わないが、児童虐待が問題になっているいまの時流にうまく乗って、自らの名前を売ろうとしている魂胆が見えるのも考えものである。


 頃合いだ、と徳島は判断した。ここで入手できる情報はもうなさそうである。徳島たちは、木崎に今後も同様の書き込みがあった場合は知らせてほしいと頼んでから、その場を辞した。


 帰り際、木崎に云われてエレベーターの前の受付ホールで待っていると、来たときに会議室へと案内してくれた眼鏡の女性が現れた。彼女が、メールの文面などを記録したディスクを渡してくれるらしい。徳島は、栗橋の右頬が気持ち上に上がっていることに気がついた。


「先ほどはどうも。あなたが小山田さん?」

「あら、刑事さんがどうして私の名前を知っているんですか?」

「木崎さんがね、名前を云ってたから」

「あらやだ。刑事さんに名前覚えられるの、なんか怖いわ」

「怖いなんてことないですよ。僕、栗橋。こっちが徳島」


 これは自分には決してできないと徳島は思う。刑事で訊き込みをしている最中に、「僕、栗橋」とかいう口調はとても無理だ。


「小山田めぐみといいます」


 ぺこりと頭を下げて、彼女は屈託のない笑みを見せた。


「またここに来るかもしれないからさ、よろしくね。しかし大変だね。まだ引っ越し終わってないんでしょ?」

「大変ですよ。お金がないから、全部自分たちでやらなきゃならないんです。でも、前の事務所よりも広いから、我慢しないと」

「木崎さんも一緒にやってるの? あの人偉いでしょ?」

「いやあ、まあ偉いというか、うーん、そうですねえ。そりゃあ、確かに代表ですから偉いんだけど、私たちと一緒に引っ越しも全部やったし、自分で工具使ってここのパーテーションを組み立てたりとかもしてましたから、案外普通の人なんですよ」


 小山田めぐみはそう云うと、一瞬あたりに目を配ってから声を潜めて云った。


「でもね、女の子にはちょっと評判悪いんです。二人っきりになると、すぐにいやらしいこと云うんですよ。こんなこと云うと怒られちゃうかもしれないけど」

「そうなんだあ。でも大丈夫。告げ口したりなんか絶対しないから」栗橋は、頼もしそうに両腕を組んだ。大柄な躰がより目立つ。

「ところでさ、真琴ちゃんって誰?」

「ああ、真琴ちゃん」


 小山田めぐみは、あたりの気配を少しだけ窺ってから云った。


「木崎さんの娘さんなんですよ。そりゃあもう可愛くて、お人形さんみたいな子なんです。確か、いま小学生かな」

「へえ、木崎さん結婚してるんだ」

「過去形ですよ。してたが正解。前の奥さんはもう再婚したらしいです。いまは、真琴ちゃんと月に一回ぐらいは会ってるみたいですね。なんですか、これ。刑事さん、木崎代表を疑ってるの?」

「まさか。会ってみたらすごい人だったからさ。感心しちゃってね」

「すごいですかあ? でも、さっき相馬さんって人に会ったと思うけど、彼の方がすごいですよ」

「ああ、会ったね。確かに優秀な人だった」

「でも無口だったでしょ? 彼はいつもそうなんだけど、この事務所は相馬さんが動かしているようなものなんです。あたしたちボランティアスタッフのまとめからホームページの維持管理まで、相馬さんがほとんどやってるから」

「それはすごいね。じゃあ現場が相馬さんで、広告塔が木崎さんって感じ?」

「そんな感じかな。こないだなんか、相馬さんが引っ越しのときに怪我をして一日休んだんです。たちまちスタッフの仕事がどたばたしちゃって大変だったんですよ。あ、いけない。これを渡すんでしたよね」


 彼女は手に持っていたディスクを栗橋に渡した。


「ちょっと話し過ぎちゃったかも。木崎代表には黙っててくださいね」

「大丈夫、世間話だしね。ではこれ、もらっていきます。ありがとうございました」


 栗橋が彼女に礼を云うと、小山田めぐみは笑みを返してから、奥に戻っていった。

 徳島と栗橋は、エレベーターで一階に下りると、ビルから出て炎天下のなかを歩き始めた。栗橋はビルを一瞬振り返って、天使の盾の事務所が入っている二階を仰ぎ見ながら云った。


「いいね。俺、ああいう子が好みかも」

「先輩も、訊き込みの現場でよくやりますね。俺には、あれはできない」

「いろいろ訊けたろ? 次に来る機会があればもっと仲良くなれるかもしれん。それはそうと、お前はどう思った?」

「木崎ですか?」


 栗橋が頷く。徳島は、木崎の言葉を思い出しながら答えた。


「話がよく出来すぎている気がしますね。我々に対しての準備が良すぎるというか」

「同感だな。何か、作ったような印象を受けた。それがどこかは、明確に云えないんだが。あと、あの木崎という男はどことなく胡散臭い。これは、お互い忘れないようにしておこう」


 徳島は、いまさらながら、この先輩刑事の捜査員としての嗅覚に驚いた。栗橋は、木崎に違和感を感じたからこそ、小山田めぐみにも探りを入れたのだ。そして見事に、天使の盾の内部情報や木崎の人となりを訊き出している。

 まだまだ自分が覚えることは多いなと、徳島は思った。

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