第四章

1 立ち入り調査

 児童相談所が所有する白いワゴン車の車内には、いつか一時保護棟でかいだ消毒液の匂いが、うっすらと香っていた。


 運転席のすぐ後ろに座っていた栗橋が、窓から右前方を指さす。徳島が身を乗り出してそちらを見ると、屋根がえび茶色の一軒家が見えた。ブロック塀で囲まれている、壁がクリーム色の家。虐待が行われているという先入観もあるが、暗くて重苦しい負のオーラのようなものが立ち昇っているように、徳島には思えた。


「どの家かわかりました?」


 助手席から、川田美恵が徳島たちに語りかけた。


「あれですか。ブロック塀の家」


 小さく頷いた川田は、手に持っている書類をめくりながら何かを確認している。


「町田署の生活安全課から応援が来ることになっていますので、もう少し待ってください。彼らが来てから開始します」

「婦警も来るんですよね?」


 栗橋が窓の向こうに見える家を凝視しながら、川田に質問した。

 ワゴン車の窓にはスモークフィルムが貼ってあるため、向こうからはこちらの姿が見えないはずだ。


「ええ。今回の保護対象は女の子ですから。二名のうち一名は女性の警官が来てくれることになっています」


 ワゴン車のなかには、徳島と栗橋、そして川田美恵以外に、川田の同僚の児童福祉司が一名と、児相の一時保護棟に在籍している看護師が一人、計五人が乗っていた。

 川田は、全員の視線が自分に集まっているのを確かめてから早口で話し始めた。


「いまのうちに目的を確認しておきます。今回の立ち入り調査は、対象家族の長女が通っている中学校からの通告により、緊急的に実施するものです。対象家族の世帯主は前澤智宏氏、四十二歳。無職なので、外出している可能性は低いです。妻の香苗さんは近所のスーパーで勤務中のため、帰宅は夕方以降。スーパーに問い合わせたら八時までのシフトに入っているとのことなので、あと四、五時間は帰ってこないはずです」

「中学校からの通告なんですね」

「担任の教師が、長女の前澤喜美から話を訊いて、義父による性的虐待の可能性が高いと判断したのが、今日の正午過ぎです。その後すぐに児相に通告してきました。喜美には小学六年生の妹、清美がいるのですが、この時点でもう学校を出て帰宅していたので、残念ながら保護はできませんでした。今回の立ち入り調査の最大の目的は、この前澤清美を一時保護して、親から切り離すことにあります」

「長女の前澤喜美は、もう?」

「ええ、彼女はすでに児相内で保護して、いま頃医師の診察を受けているはずです。児相としては、その診断の結果で、立ち入り調査前に親権の一時停止を発令する考えです」

「姉妹ともに、ですか」

「もちろんです。親権が停止されたら、すぐに連絡が来ることになっています」

「川田さん、警察が着いたみたいです」


 運転席に座っていた川田の同僚の児童福祉司が、フロントウィンドウ越しに前方を指さした。パトカーが一台、徳島たちのワゴン車を追い越してから、五メートルほど先の路肩に停車するのが見える。


 川田はパトカーを一瞥すると、両手を一度擦り合わせてから深呼吸した。やはり、多少は緊張しているんだなと徳島は思った。


「まず最初に私が話をします。その後室内に入りますが、部屋のなかのものには一切手を触れないようにお願いします。大事なのはまず前澤清美の保護で、これが何よりも優先されますから。次に、室内に虐待を示すものを見つけること。もし発見できれば証拠として撮影を行います」


 川田の同僚が一眼レフのカメラを取り出して全員に見せてから、肩にかけた。


「そして重要なことですが、万が一でも前澤氏から妨害にあたる行為があった場合は、同行していただく警察の方、町田署の警察官の方々が対処されます。徳島さんと栗橋さんは」


 栗橋が川田を見てニコリと微笑んだ。


「今回は見学ですので、一切手を出さないでください」


 わざとがっかりした顔を、栗橋はして見せた。これでも川田の緊張を和らげようと気を遣っているのかもしれない。正直、捜査一課に所属している徳島や栗橋は、この手のことには慣れていることもあって、特別緊張はしていなかった。


 携帯電話の着信音が鳴り響いた。川田がグレージャケットの胸ポケットから携帯電話を取り出して、通話ボタンを押した。


「川田です。はい……承知しました。それでは」


 通話を切って、彼女は全員を見渡す。


「いま、親権の一時停止が発令されました。これより、前澤氏宅の立ち入り調査を開始いたします」


 徳島たちが一斉にワゴン車から降りると、前に停まっていたパトカーから二名の制服警官が降りてきた。川田が先ほど話していた通り、一名は婦警である。


 川田を先頭に、一行は二車線の道路を横切り、屋根がえび茶色のブロック塀に囲まれた家の前まで足早に歩いた。門扉が半分ほど開いていたので、構わずそのまま玄関扉の前まで行くと、川田が扉の横に付いていたブザーを押した。


 何の反応もない。川田が再びブザーを押す。

 しばしの間があってから、家のなかでどたばたと歩き回る音が聞こえてきた。音がやがて玄関に近づき、鍵を開く音がそれに続くと、十五センチほど勢いよく扉が開いた。


「何だよ、鍵持って出ただろ……おい、なんだ、あんたたち」


 無精ひげを生やした男が、驚いた顔で徳島たちを見ていた。おおかた長女の喜美が帰ってきたものと思って扉を開けたら、そこに制服警官の姿を見つけてぎょっとしたというところだろう。

 川田が、身分証明書を提示しながら、男に云った。


「町田児童相談所から来ました川田と申します。前澤智宏さんですね?」

「そうだけど。児童相談所って、一体何の用だよ」

「本日、児童虐待防止法の第九条により、これからお宅への立ち入り調査を実施いたします。こちらが詳細を明記した書類になりますので」川田は懐から一通の封書を出して、前澤に差し出した。

「あとでよくお読みになってください」

「いや、あのよう、立ち入りって、こいつら全員うちに入るってこと?」

「そうです。あと前澤清美さんはご在宅ですか?」

「ああ、ちょっと前に帰ってきてるけど。あんた、何でそんなことまで」

「前澤清美さんは、児童相談所の判断で本日一時保護させていただきます」

 前澤が扉を全部開けて、外に出てきた。怒りで目が大きく見開いている。

「あんたね、いきなりやってきて、そんなことできるわけないだろ」

「立ち入り調査と児童の一時保護は、法律で認められている行為です。もし我々を立ち入らせない場合は、強制的に入ることになりますが」


 川田は二名の制服警官の方をちらと見た。前澤が、一瞬ひるんだ表情を作る。


「しかし、俺は親だぞ。親がいるのに、他人のあんたらが人の子供を保護できるわけないだろ」

「前澤喜美さんと清美さんに対するあなたと奥さんの親権は、町田児童相談所の所長命令により、先ほど一時停止されました。なお、喜美さんはすでに我々が保護しています」

「なんだと! おまえ、何勝手なことしてんだよ!」


 唐突に、前澤が川田につかみかかった。

 その瞬間、男の制服警官が前澤と川田の間に強引に躰を入れて、前澤の両腕を抑えた。


「まあまあ、前澤さん。大人しくしてもらわないと、あとでいろいろ不利なことになりますから。我々も手荒な真似はしたくないし」


 徳島は、この五十代ぐらいに見える男性警官の手慣れた対応に感心した。児相の立ち入り調査は必ず警官が同行するというから、元々少年事件を担当する生活安全課の警官は、ある程度児相の立ち入り調査にも慣れてしまうのかもしれない。


「いや、でも……しかし」


 突然狼狽気味になってしまった前澤に、警官が少し大きな声でゆっくり云った。自分の顔を、前澤の顔に極端に近づけている。


「あのね、前澤さん。これはもう仕方がないことなの。我々は今日必ずこの家に入るし、お宅のお子さんも一時的だけど連れて行っちゃうから。ね、仕方ないでしょ?」

「あ、いや、まあ」

「どうなの? 入るよ?」


 警官の威圧的な声で、怒りが一瞬で狼狽に変わってしまった前澤は、下を向いたまま、ゆっくり扉を開けた。


「い、いいです。どうぞ」


 前澤からその言葉が出た途端、川田と同僚の児童福祉司、及び看護師がすぐに行動に移った。彼らは、迅速に家のなかに入ると、まず次女の清美の捜索を開始した。


「清美さん、いますか。児童相談所の者です」


 川田が大声で呼びかけているのが聞こえた。

 男の警官が前澤を監視しているようなので、徳島と栗橋も家のなかに入った。玄関で靴を脱いで、廊下を歩く。左に二階に通じる階段があり、右に和室が一部屋。奥が居間とキッチンに通じているようだ。


 徳島は右の和室を覗いてみた。

 部屋の真ん中に布団が敷いたままになっていて、奥には勉強机と小さなテレビが一つ。左側の壁際には腰の高さの本棚があって、その上にはぬいぐるみが何個か置いてある。壁に掛けてある服の感じから、長女の喜美の部屋だろうと徳島は思った。


「おい、これ見ろ」


 栗橋は、テレビの下にある小さなテレビ台の前にかがんでいた。テレビ台の前面にはガラスがはまっていて、上段には小さなDVDプレイヤーが置いてあり、下段には本やDVDのソフトが入るようになっている。


 徳島がテレビ台のなかをのぞき込むと、そこには中学生の女の子の部屋には決してそぐわない物が並んでいた。


「これ、アダルトDVDだよな。しかも十枚以上ある」


 栗橋はDVDのタイトルを一つ一つ確認しているようだ。


「どれもロリコン物だぜ。あいつ、これ観ながら娘とやってたのか。本当にひでえな」


 徳島は立ち上がって布団を見た。

 部屋の中央に敷かれた布団は、寝乱れたままの状態で、枕やタオルケットも乱雑な状態であった。シーツも乱れていて、しばらくは替えていないように見える。よく見れば、ティッシュボックスが枕元に置いてあるというのも、少女の部屋には似つかわしくない。

 徳島は自分の体温が高くなっていくような感覚を感じ始めていた。冷静に、もっと冷静にと、自分自身に命令する。


「徳島」


 唐突に、栗橋が話しかけてきた。


「はい」


 振り向いて栗橋を見ると、彼は射貫くような視線で徳島を見ていた。


「お前、大丈夫だろうな。もし無理なら」

「いえ、問題ありません」


 徳島は一回大きく息を吐いた。本当に問題ない、まだ自分を抑えられる。


「大丈夫ですよ、先輩」

「そうか。ならいいが」


 そのとき、徳島たちの上の方から声が聞こえた。わずかに徳島たちを呼んでいるように聞こえる。おそらく、二階にいる川田たちだろう。


「川田さんかな。行ってみましょう」


 栗橋は、徳島の言葉に小さく頷くと先に部屋から出た。徳島もあとに続く。部屋を出て二階への階段を昇っていくと、今度ははっきりとした声が聞こえた。


「徳島さん、栗橋さん、こちらに。奥の部屋です」


 階段を昇りきると、そこには短い廊下があって、奥の一部屋の前に、児童福祉司の男が緊張で張り詰めた表情を浮かべて立っていた。


 男のところまで行くと、室内から緊迫した雰囲気が伝わってきた。どうやら清美を見つけたらしく、川田と児相から同行してきた看護師が彼女に呼びかけているようだ。


「清美ちゃん、いいから、大丈夫だから」

「だめ、近寄らないで」


 徳島が部屋を覗いてみると、部屋の奥に毛布をかぶった少女が一人、うずくまっているのが見えた。泣いているらしく、時折、嗚咽するような声が聞こえてくる。


「ねえ、清美ちゃん、喜美お姉ちゃんも私たちと一緒にいるのよ。もう何も心配しなくていいから」

「いや!」


 児童福祉司の男が、徳島たちに耳打ちしてきた。


「あの毛布のなかに、どうやら刃物を持っているらしくて」

「何故毛布を?」

「裸だったんですよ、その、どうやら我々が来る直前まで……」

「何てこった」栗橋がこめかみを手で押さえて云った。

「お願い、清美ちゃん。それを捨てて、私たちと一緒に行きましょう」

「だめ!」


 清美の叫ぶような言葉が響く。すぐに川田が柔らかい口調で語りかけた。


「私たちと行けば、ここから出られるわ」

「どうせ、またここに帰ってくるに決まってる! いままでもそうだったよ! お姉ちゃんもそうだった! 誰もあたしたちの云うことなんか訊かないで、あいつの話ばっかり訊いて、最後はまたここに戻ってくる!」


 清美はかぶっていた毛布のなかから、カッターナイフを持った右手を取り出した。刃はすでに左の手首にあたっている。


「清美ちゃん!」


 川田が一歩前に出て近寄ろうとした。しかし、清美の左手首にあてられた刃が震えているのを見て、それ以上は近づけない。

 清美の目から涙がぽろぽろと流れ出た。カッターナイフをあてた状態のままの両腕を、川田たちに差し出すように前に出した。


「どうして誰もあいつを捕まえてくれないの? 刑務所に入れてくれないの? ねえ、どうして?」

「お願いだから、清美ちゃん、落ち着いて」


 徳島には、清美が一瞬笑ったように思えた。嘘ばっかり云う大人たちを、まるで嘲笑うかのような表情で、その場にいる全員を見たような気がした。


「駄目!」


 川田が叫んだ瞬間、清美は左手首にあてていたカッターナイフを素早く横に引いた。川田と看護師が素早く清美に駆け寄る。それを見ていた徳島たちも、急いで部屋の奥まで入った。


 暴れる清美を川田は必死に押さえ込もうとしていた。栗橋が素早く動いて、清美の右手からカッターナイフを奪う。清美は毛布がはだけて上半身が露わになってしまっている。


 血が、清美の左手から滴っていた。看護師が清美の左手首を押さえて、傷を確認している。


「吉村さん、傷は」川田が看護師に尋ねた。

「大丈夫、浅いです」


 吉村と呼ばれた看護師は、肩にかけていた医療バッグから、すでに止血用と思われるキットを取り出している。


 徳島は、床に落ちていた別の毛布を取って清美の上半身をくるみながら、暴れようとする清美を押さえ込もうとした。


「いやあ! 触らないで! 汚いから!」

「汚くなんかないから! 清美ちゃんは汚くなんかない!」


 川田は両腕を清美の上半身にまわし、しっかりと抱きしめた。その川田の体温が伝わってようやく安心したのか、清美の抵抗はそこで途切れた。清美の耳元で、川田がそっとささやくのが聞こえる。


「大丈夫、絶対にここには戻さないから。私が約束する。清美ちゃんも、あなたのお姉ちゃんも、もう決してここには戻らない」


 その言葉を訊いて、清美は目をつぶったまま激しく泣き始めた。全身の力が抜けた清美の、嗚咽する声だけが室内に響く。


 徳島は、泣きじゃくる清美を強く抱きしめている川田を見た。彼女は目をつぶって、愛しい我が子を抱きしめるかのように清美を抱擁していた。それはまるで、腕のなかの大切な存在がどこかへ飛び去っていかないように、しっかりと子供を抱きしめる母親のようだと、徳島は思った。




 前澤清美の精神状態が落ち着いたのを見計らって、児相のスタッフたちがまず彼女をワゴン車に乗せ、看護師と川田の同僚が一足先に戻ることになった。


 世帯主である前澤智宏は、とりあえず居間で待機させて、制服警官の二人と栗橋が見張るようについている。その間に、川田は徳島を連れて、家のなかの撮影に回った。


 改めて家のなかを見て回った徳島は、その凄惨さに目を見張った。

 一階にあった長女の部屋だけでもひどい性的虐待の痕跡が見られたが、次女である清美の部屋も同じような状態で、日常的に義父から性的行為を強要されている様子がありありと窺えた。


 川田が、清美の部屋に貼ってあった縦四十センチぐらいのカレンダーを撮影しながら徳島に話しかけた。


「このカレンダーに貼ってあるシール、何かわかります?」


 そのカレンダーは一月ずつめくるタイプのもので、大勢の少女たちで構成されているアイドルグループの写真が大きくデザインされていた。徳島がよく見てみると、一週間のうち二日から三日程度の割合で、かわいらしくデフォルメされたライオンのシールが貼ってあるのが見える。


「これは?」

「長女の喜美さんから訊いたんです。前澤智宏は、彼女と妹に、自分とセックスした日を記録するように云われていたそうです」

「じゃあ、このシールが?」


 川田は小さく頷くと、カレンダーを壁から外して過去のページもパラパラとめくって、深いため息をついた。


「もうずいぶん前からですね。このシールで、おそらく彼女たちの生理も含めて管理していたんでしょう。避妊はしていたようなんですが、どこまで本当なのかはまだわかりません。しかしこのカレンダーに関しては、あの男の自己満足のためという意味合いが大きかったんじゃないかと思います。自分が娘たちを犯した日を、こうやっていつでも見られるようにしていたのは、彼にとってのトロフィーみたいなものだったのかも」

「では、下の部屋にも?」


 徳島は長女の部屋を思い出してみたが、カレンダーのようなものは思い出せなかった。


「喜美さんは手帳に付けていました。児相で保護したとき、見せてもらったんです。あの男は、する前に必ず手帳を見せろと喜美さんに云っていたらしいです」


 徳島は、怒りで目の前が真っ赤になるような錯覚を覚えた。いますぐ居間に走っていって、前澤智宏に襲いかかってやりたい。


「母親はどうしてたんでしょう。この状況では、自分の娘たちがこんな目に遭ってるのを知らなかったとは思えないが」

「やはり知ってたみたいですね。しかし、暴力で支配されていたようです。この家では、あの男が絶対的権力を持った王様で、妻と、妻の連れ子たちをそれぞれ違う部屋に押し込めて、日替わりで性欲の捌け口にしていたらしいですから」

「母親とは、話すんですか?」

「ええ、さっき母親とは連絡が取れました。今日はこちらに帰らず、実家に行くようですね。明日、児相に来てもらうよう手配しました」


 その方がいいと、徳島は思った。こんな状況で家に帰ってきたら、怒り狂った王様に何をされるかわかったものではないだろうから。

 さらに数枚の写真を撮影してから、川田はカレンダーの前を離れた。


「川田さん、あの」


 徳島は、川田の背中に向かって唐突に語りかけた。彼女が振り返って徳島を見る。


「前は、すいませんでした」


 徳島は川田の目を見た。そこには、徳島のなかに秘められている激情を読み取ったのか、わずかに憐れみを思わせる色が湛えられていた。川田は、口元にほんの少しだけの笑みを浮かべながら徳島に云った。


「もう気にしないでください」


 彼女は、右手をそっと出して徳島の腕に触れた。


「この現実は、決して忘れられるものではないですよね、徳島さん。むしろ忘れずに、いまの私たちにできることをするしかない。子供を守るために、何ができるかを知ることも大事ですから」

「そうですね。そうだと思います。あの前澤智宏をこのままにしておく気はないんでしょう?」

「ええ。先ほどうちの剣崎とも話しました。この件に関しては、徹底的にやる方針です」


 川田の目の奥には不敵な光が輝いていた。徳島は、川田と話せたことで、少しだけ躰のなかで渦巻く激情が和らいだ気がした。


 家のなかの写真を一通り撮り終えると、川田と徳島は、居間で栗橋たちと合流してから前澤智宏と対峙した。


 川田は、立ち入り調査と一時保護実施に関する書類を改めて前澤に渡し、数日以内に児相に面談のため来所するように命令した。


 おそらくこの男は、強姦罪で刑事告訴されることになるだろうと、徳島は思った。これだけの物証が揃っていて、なおかつ児相と長女がしっかりと証言をすれば、間違いなく実刑判決が出るだろう。おそらく、五年から八年。しかし、実際にこの家のなかに渦巻く凄惨な空気を吸い、清美の悲痛な叫びを聞いた徳島にとっては、例え十年でも軽すぎると思える。いっそ殺されればいいとすら思い、そこで徳島ははっとした。


 自分の感情に流され過ぎてはいけない。感情の赴くままに自分を野放しにすると、やがて警察官という領域からも逸脱してしまう。例え子供を苦しめる親でも、人権を尊重して接するのが警察官というものだし、それが周りからも求められているのだ。だが、しかし。人間としての自分はどうだろうと、徳島は思った。もし、前澤智宏と二人だけでいたら、俺はこの男をどうしてしまうだろう。果たして、保坂夫妻と宇木田殺しの犯人のように、殺意で自分を真っ黒に塗りつぶしてしまうのだろうか。


 徳島はわずかにかぶりを振って、自分の考えを否定した。

 俺は、そうなりたくないから刑事として犯人を追っているのかもしれない。刑事が犯人を追うということは、法律の枠組のなかで犯罪者と接することだから、自分の感情だけで動くことは決してない。云ってしまえば、一人の人間として行動する以前に、組織の一員として縛られていることになる。いまの自分はそれでいいと、徳島は思う。警察官でいる限り、自分は絶対に一線を踏み越えないはずなのだ。




 結局、徳島たちが町田児童相談所に戻ったのは、夜の八時を少し過ぎた頃だった。児相では所長の剣崎が、徳島と栗橋の二人を待っていた。


「いやあ、ご苦労様でした。立ち入り調査に同行したいと云われたときは驚きましたが、さすが刑事さんですね。この手のことには慣れていらっしゃるようで」

「いえ、こちらこそありがとうございました。大変参考になりました」


 栗橋が剣崎に礼を云いながら、所長室のソファに腰掛けた。徳島も、剣崎に勧められるままに寛ぐことにした。


「それにしても、児童相談所の方があんなに大変な仕事をやってらっしゃるとは、正直思っていませんでした」

「刑事さんほどではないかもしれませんがね。立ち入り調査は児童保護が主目的になることが多いですから、親御さん次第なんですが、いろいろとトラブルも多いんですよ。彼らも子供を取られるわけですから、結構抵抗するんです。その分職員の危険も大きいわけで」

「制服警官が同行してましたよね」

「ええ、児童虐待防止法の改正で、立ち入り調査に警察や医療スタッフの同行が認められるようになりましたから。あれで随分効果が出るようになったんです。しかし、今回のように刑事さんの同行というのは初めてですよ」

「まあ、見学ですから」

「いえいえ、前澤清美さんが軽傷で済んだのは、お二方が素早く取り押さえてくれたからだと、川田から聞いております」

「いや、あの程度のことしかできませんでした」


 栗橋は珍しく沈んだ面持ちだった。彼は、前澤家を出てからずっと無言だった。

 今回の立ち入り調査への同行は、もともとは川田美恵の身辺調査とアリバイ確認がことの発端だった。川田が、生前の保坂夫妻と宇木田高雄の両方と接触があった数少ない人間ということで、徳島は栗橋に相談して、アリバイだけでも確認しておこうということになった。そこで早速川田に連絡を取ってみると、これから緊急の立ち入り調査があると云われたのだ。ここで一度上司の判断を仰いだ方がいいということで宮部警部補に相談すると、事件の背景を理解する上で参考になるかもしれないから、ぜひ見学してこいと命じられてしまった。いま捜査本部では、保坂香織の足取り調査がこれといって成果を上げず、かといって宇木田殺害に関しても物証の少なさから停滞ムードが漂っている。宮部にしてみれば、目先を変える何かヒントのようなものが見つかることを期待してのことかもしれなかった。


「それにしても刑事さん、あれから高遠守君の足取りは何かわかりましたか? 川田も心配してて、毎日確認されるんですが」

「ええ、今日川田さんからも訊かれましたが、こちらにもまだ何も連絡がありませんね。捜索自体は町田署が受け持ちで、進展があればすぐ連絡が来ることになっているんですが」


 徳島はそう答えると、出された麦茶を一口啜った。剣崎が話を続ける。


「彼の件は本当に心配ですね。守君には短期の記憶障害があったようですから、特に気になるのですよ。あの不安定な状態のままでは、外に出るべきではないのに」


 高遠守が、あれからすぐに児相から姿を消してしまったのは、徳島にとっても意外だった。話によれば、深夜に児相の一階にあるトイレの窓から外に出たらしく、児相から支給されたパジャマだけがトイレに脱ぎ捨てられていたという。町田署も再度守を捜索しているが、以前ほどの熱意では探されていないようだと、徳島は思った。今回は、すでに生きている事がわかっている上に、守が自分の意思で姿をくらませたからである。


 高遠守はどこに行ってしまったのか、いや、何故いなくなったのかはまったくわからなかったが、それが事件に関係しているかどうかが、徳島は気になった。守は事件の日の詳細をほとんど覚えていない。あとで医師にも確認したが、それは嘘ではなく、おそらくストレスを回避するための防御機能として一時的な記憶障害が起きている可能性があるという。もし彼が犯人を目撃していて、それを犯人が知っている場合、最悪狙われることだってあり得ない話ではないのだ。完全に彼の身の上が安全だといえない以上、何とか早急に保護されることを徳島は願っていた。


「それで、話は変わるんですが」


 唐突に、剣崎の口調が変わった。いつもの闊達とした明るい物言いから、少し低い声に変化している。


「刑事さんたちは、川田のことで訊きたいことがあるんですね?」


 徳島と栗橋の動きが止まった。栗橋が、剣崎に答える。


「ええ、保坂夫妻の事件当夜と、宇木田高雄の殺害時に彼女がどこにいたかなんですが」

「アリバイってやつですか。まあ、その二組と直接の知り合いだったわけですからね。無理もありませんが」

「我々も一応確認して報告しなければなりませんから」

「いやいや、それはもう十分理解してますよ。そしてこの件はすぐに解決できます」

「というと?」

「まず保坂夫妻の事件当夜は、彼女はここで夜勤だったはずです。数名の職員と一緒でしたから、確実なアリバイと云っていいでしょうな」

「なるほど。では、宇木田高雄が殺害された日は?」

「あの日はものすごい雨の日でしたからよく覚えているんですが、確か早退してお姉さんの家に行くと行ってました。彼女の姉は千葉で教員をやってるんですが、よくそちらに遊びに行くみたいですね」

「では、そのお姉さんに確認を取れば証明できますね」

「ええ。確か、こちらに緊急連絡先として登録していましたから、連絡先は私からお伝えできますよ。確認して、彼女への疑いを早く晴らしてやってください」

「ありがとうございます。助かります」

「川田のお姉さんには男のお子さんがいるんですが、彼女もその甥っ子が可愛くて仕方ないらしいですね」

「川田さんは結婚されていないんですか。お子さんがいらっしゃってもおかしくないと思ってましたが」


 徳島たちは、いつの間にかメモを取り出して剣崎からの言葉を訊いていた。

 剣崎は、麦茶を一気に口のなかに流し込んでから、大きなため息をついて云った。


「うん、これは彼女の個人的な話になってしまうんですが、実は彼女、五年前に子供を事故で亡くしてるんです。しかも男の子と女の子をいっぺんにね」

「それは……」

「ひどい話ですよ。彼女がまだ八王子の児童相談所に勤務していた頃の話で、私も詳しくは知らないんですが、どうやらその直後に離婚もしたようです。だからいまは一人暮らしですね」

「そうですか」

「そのせいでしょうか。彼女、人一倍この仕事に熱心ですよ。命をかけていると云ってもいい。子供を救いたいという思いでは、誰にも負けないですな」


 徳島は、前澤清美を両腕でしっかりと抱きしめる川田美恵を思い出した。あの瞬間、清美にとって川田は必要な存在になったが、実は川田にとっても大事な一瞬だったのかもしれない。


「ああ、それともう一つ。刑事さんたちにお教えしておきたいことがあります」

「何です?」

「児童を虐待から守ることを目的とした民間のホームページがあるんです。うちの職員が、そこで気になる書き込みを見つけましてね」


 徳島と栗橋は顔を見合わせた。栗橋が、剣崎に問いかける。


「どんな内容です?」

「どうやら書き込んだ者は、保坂夫妻と宇木田氏を知っていたようですね。どちらの虐待も自分が通報したと書いてありました。それと」

「それと?」

「あれは天罰だと、そう書いてあったんです」

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