6 出発

 窓からわずかに入ってくる月明かりが、白い壁をぼんやりと照らしている。大人たちがいなくなってから、すぐに窓のブラインドを全開にして、外がよく見えるようにしたのだ。雨はとっくにやんでしまったようで、いまはやけに大きな月が見えている。


 守が案内された部屋は、木製の二段ベッドが二つ置いてある部屋だった。誰もいないからどこに寝てもいいのよと、川田さんに云われていたので、守は一番窓に近い左奥のベッドを選んだ。どうせ荷物も何もないし、とりあえず寝られればどこでもいいのだが、これまでの習慣で、つい入り口から遠いところを選んでしまう。


 あれから、どうやら五日が経ったらしい。守があのマンションから出ることを決意した日、そして宇木田が死んだ日から数えてという意味だ。


 守は、夜になっても誰にも殴られないということに、新鮮な驚きを覚えていた。驚きというより、戸惑っているという方がより正しい表現かもしれない。考えてみれば、この二年間ずっと宇木田の顔色を窺って生きてきた。言動も態度も、宇木田の癇に障らないように注意して毎日を過ごしてきたのだ。それをいきなり、もう誰も虐めないから、何でも話してごらんと云われても無理である。正直、まだ大人と話をするのが少し怖い。


 今日、守は、児童心理司という職業の人に面会させられた。川田さんの説明によれば、心の状態が正しいかどうかを判断する人らしい。何でも、躰が怪我をするのと同じで、心も調子を崩したり、正常な働きをしないことがあるというのだ。もちろん心のなかのことだから、目で見ることはできないが、その分早く発見しないとどんどん悪化してしまうという。


 どんな風にして心のなかを見るんだろうと守は興味を持ったが、実際にはちょっと話をしてから数枚の絵を描かされたり、絵の具が飛び散ったような訳がわからない絵を見せられたりしただけだった。


 かすかに空気が流れる気配を感じた守は、躰にかけてあった薄いタオルケットを肩まで引っ張り上げた。洗濯したばかりらしく、ほんの少しだけ石鹸のいい香りがする。そもそもエアコンが効いている部屋で寝るなんて、足の怪我で入院して以来である。ただし、あの小さな病院で守が寝かされたベッドは最悪で、消毒液のような臭いしか感じ取ることはできなかったのだが。


 こうして二段ベッドの上段で寝ていると、窓から月がよく見えた。今晩は月明かりが明るいので、部屋全体が青白い光で満ちている。


 守は月の明かりで、川田さんが話してくれたギリシャ神話の女神の話を思い出した。この児童相談所の建物と駐車場の間に、白い女神の像が立っている池がある。守がその像に気がついて、川田に質問したのだ。彼女は、笑顔を見せて守に教えてくれた。あれはギリシャ神話の女神、アルテミスといって、お産の神、子供の守護神、そして月の女神として知られているわ、と。守は、その女神の像が何となく気に入り、あれから何度か像を見に池まで行っている。像を見ていると、何だか気が休まるような心地になるのだ。


 あの日以来、守は深く眠ることができなくなっていた。こうしてベッドのなかに入り、やがて微睡みのなかに自分が落ちていこうとすると、決まって一羽の真っ白な鳩が現れて、その白い翼で守の頬を撫でるようにかすめて飛び去っていく。それから、守の前にいつの間にか白い顔をした宇木田高雄が現れて、話しかけてくるのだ。


 彼の態度は日によって様々で、登場してすぐに守を殴ろうとすることもあれば、いままで見たこともないような優しい笑顔で話しかけてきたこともあった。しかし途中からはいつも同じで、突然宇木田の態度が変わり、守に涙を流しながら許しを請い始める。


 宇木田はキッチンの椅子に座っているが、手を後ろで縛られていて身動きが取れない。すでに額が割れていて出血し、鼻から顎にかけて妙に歪んでしまっていて、うまく言葉も出せないようだ。それでも彼は、口から血の泡を飛ばして不明瞭な言葉を守に投げかける。いままでのことは全部謝る、だから助けてくれ、殺さないでくれと、守に哀願するのだ。守が、ふと自分の右手を見ると、そこには血だらけの巨大な金槌が握られていて、その先端部分には、肉片のようなものが付着している。宇木田は、これまでの彼が嘘だと思えるぐらい哀れで、小さな存在に思えた。守の心は妙に静まり帰っていて、高揚感のかけらもなかったが、それを自分がやらなければならないことだけはなんとなく意識していて、ただ機械的に右手を振り上げてから、金槌を宇木田の顔面に思いきり振り下ろす。


 そこで、いつも夢から覚める。

 守は、あの日現場にいたことは自覚しているが、どうしても宇木田が殺害されたときのことは思い出せなくなっていた。夜に自室にいたことまでは覚えているが、そこから先は頭のなかに霧がかかったようにどうにも断片的なのである。はっきりと思い出せるのは、自分が何かから逃げるように家を出たことと、そのときに大事な鞄を肩にかけていたこと、あとは夜の街で何度か立ち止まったことぐらいで、それ以上に詳細なイメージを求めて頭を働かせようとすると、決まってうずくような頭痛が守を襲った。


 だから、夢のなかの出来事がどこまで本当で、どこまで想像なのか、彼自身でも判別がつかない。しかし守は、自分が宇木田が殺されたときすぐ近くにいたことだけは疑っていなかった。確かに目の前で彼が死に、そして間違いなく自分は犯人を見ているはずだと思った。ただ、そこで自分に何が起きて、何を体験したのかだけはどうしても思い出せない。確実に自分のなかにあるはずのものを自由に取り出せないことに、守は云いようのない苛立ちを感じていた。


 守の話を訊きに来た刑事たちも、彼が殺人の詳細や犯人に関してほとんど覚えていないと云うと、現場の写真を見せたり、状況を事細かに話すなどして彼の記憶を呼び覚まそうとした。しかし数枚の写真を見ただけで突発的に酷い頭痛が起こり、とても満足に話ができる状態ではなくなってしまった。あの日は、同席した医師の判断で面談は途中で終了となったが、刑事たちのあの様子だと、多分すぐにまたやってくるはずだ。


 それより鞄だ、と守は思った。

 守は、館内の物音に耳をすませて、しばらく何も聞こえないことを確認してから、物音を立てないようにゆっくりと起き上がった。


 川田さんの説明によれば、この場所は守のような境遇の児童を一時的に宿泊させたり診察したりするための設備なので、数日以内には、一時保護所と呼ばれる専門施設に守は移されることになるという。そうなってしまったら、もう母親のもとに行くことは難しいだろう。一時保護所という場所がどんなところなのかは知らないが、自由に出入りできたり、児童の都合で抜け出せるような場所でないことは、守でも予想できた。鞄のことは警察に話してあるが、もし見つかったとしても、守が一時保護所に移されたあとであっては意味がない。やはり、移される前に自身の力で鞄を見つけて、母親の元に急がなければならないのだ。


 自分のことを気にかけてくれている川田さんや、刑事さんたちには申し訳ないと思うが、無事に母親と会って落ち着いてから連絡すれば、彼らも許してくれるはずである。


 守は、ベッドからそっと降りると、ここに来たときに来ていた衣服を棚から取り出して急いで着替え、その上からパジャマを着た。

 入り口のすぐ横にある鏡に、自分の姿を映して点検する。ジーンズの上からパジャマを履いているので、多少膨らんでいる感じだが、あまり近くから見られなければごまかせそうである。


 物音を立てないように静かにドアを少しだけ開けると、守はそのわずかな隙間に躰を滑り込ませて、薄暗い廊下に出た。廊下は非常灯だけが点いていたが、守がいままでいた部屋よりは明るいので、突き当たりのエレベーターホールまでしっかりと見える。


 もう一度、あの宇木田が殺されたマンションから町田駅までの道を歩いて、鞄をどこで無くしたかを思い出さなければならない。守は、できれば朝までに鞄を見つけ出して、明日の昼には母親のいるところに向けて出発したいと考えていた。


 この薄暗い廊下が、新しい自分に向けて出発する最初のポイントだと守は思った。もう自分を束縛するものは何もないし、気まぐれで暴力を振るう存在もいなくなった。あとは、一度は失ったが再び取り戻せる愛情に向かって、一歩を踏み出せればいいのだ。


 決して足音を立ててはいけないが、守の足取りは彼の弾む心に反応して、いつもより軽く動くようだった。今日ばかりは、ちょっと引きずる右足ですらまったく気にならなかった。

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