5 愛と罰
大きな海賊船が、風を切って振り子のように揺れていた。
船が頭上を通過するときに巻き起こる風は、こうして彼らが順番を待っている行列のところまでも届いてきそうな感じがした。
彼女は、待ちに待った海賊船にようやく乗れると昨晩から興奮気味で、行列が少し進むたびに小さな声を上げている。もちろんジェットコースターなどの他のアトラクションも楽しみにしていたようだったが、彼女のお気に入りは何といってもこの海賊船で、以前からずっと乗りたいとこぼしていたのだ。
彼は初めて知ったのだが、この手の遊園地のアトラクションにはだいたい身長制限というものがあって、ある程度のスリルが満喫できるタイプの乗り物は、ほとんどが身長一二○センチ以上と決まっているそうだ。彼らが列に並んでいる海賊船もその一つで、行列のスタート地点に一二○センチちょうどに色を塗った棒が設置されていて、その横にチケット確認の際に客の身長をチェックするための係員が立っていた。彼女も最近ようやく身長制限をクリアしたらしく、以前からどうしても乗りたかった海賊船を、今日は心待ちにしていたというわけだ。
海賊船は、二隻の巨大な船が交互に揺れるようになっていて、パンフレットの解説によれば、地上から十五メートルの高さまで上がって急降下するとある。彼は別に高所恐怖症ではなかったが、それなりのスリルが感じられそうな乗り物だなとは思っていた。
「あのね」
いきなり、彼女が下からまっすぐの視線を向けてきた。つないだ手に、さらにぎゅっと力を入れてくる。久しぶりに楽しい思いを満喫しているせいか、その瞳は宝石のように輝いていた。
「絶対、怖いなんて、云わないよ」
彼女は宣言するように、一言ずつ力を入れて云った。これからやってくる興奮を想像しているのだろう。いつもより少し声が高い。彼に向けて云った言葉が、実は自分自身に向けた言葉であることなど、本人も気づいていないはずだ。
「どうかなあ。もしかしたら、乗ってる最中に、もう降ろしてえ、とか云っちゃうかもしれないよ」
「だからあ、絶対云わないもん!」
「すっごく高いところまで行くんだよ。本当に、本当に大丈夫?」
「大丈夫!」
云ったあとで、彼女はべえっと舌を出した。夏の日射しを反射して、彼女の髪がきらきらと輝いている。彼は無意識のうちに、彼女の髪を撫でた。海賊船から降りたら、バッグから帽子を出してやろう。
彼自身、今日という日を大いに楽しんでいる。普段、彼女の母親がこの子に会わせてくれないというわけではないが、こうして二人だけで会えるというのは稀なのだ。実は母親も最初は来ると云っていたが、再婚相手の男がそれを引き留めたらしい。当たり前のことかもしれないが、彼はあの男から敬遠されていた。
彼は、極力あいつ、再婚相手のことは考えないようにしていた。特に今日のような楽しい一日では、完全に忘れていた方がいい。自分のなかの強い感情が漏れ出てきて、万が一それが彼女に伝わると、せっかくの楽しいイベントなのに無用に怖がらせてしまうかもしれないからだ。
行列がまた少し進んだ。夏休みに入った直後ということもあり、学生たちのグループが多く、あちこちで嬌声を上げている。すぐ前に並んでいた女の子たちが、彼女に気づいて話しかけていた。中学生ぐらいの女の子たちのようで、小学生の彼女にしきりに可愛いを連発している。彼女はそれが満更でもないらしく、中学生のお姉さんたちに満面の笑みを見せていた。
こうして、その可愛さを理解してやれる人間と一緒なら、彼女は毎日をもっと幸せに過ごせるのにと思った。彼女だけのことではない。子供というものは本来守られてしかるべきの存在で、無条件に慈しんでやらなければならないのだ。でないと、自分のような足りない人間ができあがってしまう。それだけは避けなくてはならない。
人間は、子供の頃に愛を与えないと、愛を与える存在には決して成長しないと、彼は考えていた。無償の愛を受け継いでこそ、人は我が子を無償で愛することができるのだ。なのに、我が子を愛することもできない奴らが、何故かぽんぽんと子供を生む。そして、慈しむどころか、笑いながら我が子を叩き、脅かし、残酷なほどの虐待を加える。彼はいままでそういった大人をたくさん見てきたし、そのたびに死の縁を彷徨い歩く子供たちを救ってきた。しかし、そのときそのときの子供たちを救うことはできても、根本的な解決には至ってないことは、もうだいぶ前から気づいていたのだ。子供が殺されるのを防ぐためには、子供を虐める親たちを変化させるしかない。しかし、果たしてどうやって変えていくのか、大人が子供を殺せなくするにはどうしたらいいのか。この数年というもの、彼はそのことばかり考えていたが、思わぬ人が自分にきっかけを与えてくれた。恩人といってもいいその人の一言で、自分は遂に方法を見つけ出したのである。
思えば簡単なことだった。子供を虐めれば自分が殺されるかもしれないという、死の恐怖を与えればいいのだ。
子供を虐める親など、死んでしまえばいいと云った人はたくさんいるが、もちろん実行した者はいない。しかし自分ならそれができるはずだった。何故なら、生まれてからずっと愛を受け継がずに生きてきた自分こそ、死の淵を彷徨った子供たちの代表者ともいえる存在だからだ。親からの愛が一番必要だった頃に暴力だけをもらい、そのまま欠けてしまった部分を補わずに成長してしまった自分こそ、虐待されている子供たちの苦しみを代弁して、子供に愛情を発揮できない親どもに殺人という恐怖を与えることができる。いまでは、自分はそのために生まれてきたと思えるぐらいだ。
彼は、薄暗い光で満ちたアパートの一室を思い出した。遂に彼が実行者となることができた、あのアパートだ。そこで彼は電気ポットで湯を沸かし、保温状態になるのをじっと待っていたのだ。部屋の中央には椅子を一つ置き、そこに、スタンガンで自由を奪った保坂武彦を縛りつけておいた。
スタンガンは、肌に直接押し当てて使用すれば一瞬で筋肉が硬直し、思考も停止したようになるが、ドラマや映画のように気絶することはないようだ。保坂武彦も、玄関の入り口でこれを喰らったあとすぐに昏倒したようになったが、目はずっと開いていた。
彼は、保坂武彦の服を素早く脱がせ、腕と足を結束バンドを使って椅子に固定した。次に口のなかには奴自身の靴下を突っ込んで、その上から手ぬぐいで猿ぐつわをかました。これで、動くことはもちろん声を上げることすら絶対に不可能だ。
湯沸かしポットが保温に切り替わる直前に、保坂の目は焦点があった。絶好のタイミングだと思ったのを、彼は覚えている。保坂は自分の息子が気に入らないと、煮えたぎった熱湯をかけたり、熱したスプーンを皮膚に押しつけて遊んでいたのだ。息子が味わった地獄を、これからたっぷり体験するのだから、最初から意識がはっきりしていてもらわないと困る、と彼は思ったのだ。
保坂武彦の目は、彼の姿を捉えて怯えきっていた。その目に向かって、こう語りかけたのを覚えている。おまえは息子の上げた絶叫を覚えているか? 逃げたくても逃げられず、一番愛して欲しいはずの存在に自由を奪われ、熱したスプーンを胸に押しつけられた苦しみを、おまえは息子から感じ取ったのか?
彼は、保坂真一のものと思われるクマの絵が描かれたマグカップに、湯沸かしポットから熱湯を注いだ。それを、すぐさま裸の保坂武彦の躰に無造作にかける。保坂の躰が反り返り、口からくぐもった音が長く漏れ出てきた。
まずは躰、そして腕、足と熱湯をかけていく。そのたびに保坂の躰が激しく痙攣して、口から音が漏れた。保坂の躰の皮膚は、あちこちがピンク色から赤に変わり、ところどころ白く水疱のようなものができていた。どうやら失禁したらしく、わずかに尿の臭いまでする。
彼は、上から保坂の顔を見た。目が真っ赤に充血していて、わずかに震えているが、彼を見る目はまだしっかりとしていた。このとき、そろそろだなと思ったのを彼は記憶している。
湯沸かしポットからマグカップに熱湯を注いだ彼は、それを保坂武彦の頭の上からゆっくりとかけた。ちょろちょろと、なるべく広範囲に、目や耳にもかかるようにかけた。絶叫が聞こえたように思ったが、保坂にはしっかりと猿ぐつわをしていたので、実際に声が聞こえたのではないと思う。しかし、彼の口から強く長く漏れ出たわずかな音や、背骨が折れてしまうのではと思うほど急激に反り返った躰の反射から、保坂武彦が絶叫しているのは感じ取ることができた。彼は、マグカップの熱湯を、それから数回に渡って保坂の頭にかけ続けた。
芋虫のように、椅子に座りながら激しく身をよじる保坂武彦を見て、彼は嬉しくてたまらなくなった。あのとき、保坂は自分の息子に与えた苦しみを直接味わい、己の罪に値する正当な罰を全身で受け止めたのだ。この保坂武彦の償いは、その凄惨さによって見事に彼の意図した通りの遺体となって、子供を虐待している大人全員に恐怖を与えるはずだ。遂に、子供を殺す親どもを止めることができるのである。
頭に何度熱湯をかけたか、彼はよく覚えていなかった。とにかく保坂武彦がまったく動かなくなったので、かけるのをやめたのは覚えている。ちょうど、ポットのお湯も使い切りそうな頃合いだった。
彼は、懐から折り畳み式のナイフを取り出した。
保坂の躰はもう動いてはいなかったが、小刻みに胸は上下していた。呼吸が続いているわけだから、まだ死んではいない。彼は、そのわずかに上下している胸に、中心から少し左寄りにナイフを突き立てた。刃を横にして、わずかに上に向かってナイフを刺し入れる。刺したナイフが、奥で一度、何かの壁に当たるような感触を伝えてくる。そこから彼は一気に力を入れてナイフを押し込むと、ブツッとした感触が手に伝わってきた。おそらく心臓に刃が刺さった手応えだろう。彼は素早くナイフを引き抜くと、持参したペーパータオルをポケットから出して刃を拭い、一緒にポケットに戻した。
刃を抜いたあとの傷口から、吹き出すように赤い血が出てきたのを確認した彼は、そのあともう一度ポットの湯を沸かして、隣室に置いてあった武彦の妻の遺体にも熱湯をかけた。こちらはすでに死んでいたこともあって、ただかけただけという感じだった。死んでいるからか、熱湯をかけても妻の皮膚はあまり変化せず、これでは効果が薄いなと思ったのを記憶している。
唯一残念だったのは、保坂夫妻の息子、真一である、彼としては、親の責任を果たすどころか、虐待の限りを尽くした武彦を、息子の目の前で見事に裁いてやりたかったが、アパートに踏み込んだときにはすでに現実から心を切り離したあとだったらしく、こちらが何をしても反応を見せなかった。結局、真一をアパートに残しておくのもどうかと思ったし、かつ夫妻の遺体もなるべく早く発見してもらいたかったので、真一の衣服に父親の血を少し付け、アパートから少し離れたところまで車で連れて行って、なるべく安全そうな住宅街で置き去りにした。結果的にその後警察に保護されたらしく、そこだけはさすがの彼も胸を撫で下ろした。
一方、あの町田のマンションで殺した宇木田とかいう奴は傑作だった。こいつは、子供の足を金槌で折ったということを、自分で他人に吹聴したらしいのだ。それを知った彼は、喜々として宇木田に罰を与えるための金槌を用意していった。
宇木田は、血を飛び散らせながら少しずつ壊れていった。腕や足の骨が折れる感触や、頭蓋骨が割れる手応えは、彼に仕事の充実感さえ与えてくれるようだった。奴の躰から飛び散った血液が自分に降り掛かるたびに、何故もっと早くこれを始めなかったのかと、疑問に思ったぐらいである。
しかしあのマンションでの殺人は、結果的には最高の作品に仕上がったのだが、最後の最後でけちが付いてしまったのが残念だった。あそこに住んでいた少年。訊けば、宇木田の実の子ではないというが、宇木田によって足を折られた高遠守とかいう少年が、殺人の最後を締めくくるもっとも大事な瞬間で意外な抵抗を見せたのだ。おかげで、彼が自らを象徴していると考えている大事なシンボルを傷つけられ、翌日は仕事にも満足に行けなかった。だが彼は、あの時のことを振り返って、まあいいと考えている。高遠守に特別の興味が湧いてきているのだ。
守と彼は、宇木田高雄の死を確かに共有したのだ。自分を虐めて命を脅かした男の死を、その手で味わったのは間違いない。少し時間が経てば、それがどういう意味を持つのか深く理解する可能性もある。そう、彼がそうであったようにだ。
彼は、少年と自分との関係は終わっていないのかもしれないと、感じていた。いまでは、そのうち再会するのもいいだろうと考えている。
彼女が、つないでいた手をぐいっと引っ張った。列の前が開いたので、もう少し詰めようという合図だった。
いま揺れている海賊船が終わったら、いよいよ自分たちが乗船する番である。彼女の顔には、やがて来るであろう興奮への期待が満ちあふれていた。
「ねえねえ、本当に怖いなんて云わないから」
彼女は大きな丸い瞳で、彼をまっすぐに見つめて云った。
「ずっと、手を握っててくれる?」
彼は、もちろんと答える代わりに、彼女の小さな躰を両手でぎゅっと抱きしめた。こんなにも純粋な魂を、絶対に誰にも汚させはしないと、心に固く誓いながら。
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