3 痣

 避けきれると思ったのに、その男の拳は予想していた軌道から少しずれて、綺麗にこめかみの下あたりを捉えた。一瞬目の前が真っ白になって、体勢を大きく右に崩す。次の瞬間、今度は左の拳がボディに入り、息が止まった。膝に力が入らなくなって、腰が抜けたように尻餅をつく。躰の芯に響くパンチだな、と上條健吾かみじょうけんごは思った。


「手荒なことはあんまりしたくないんだがね、上條さん」


 拳を構えた若者の後ろから、ダークスーツ姿の男が傘を差して現れた。男は肩に付いた水滴を払いながら、上條に歩み寄る。口のなかが切れたらしく血の味がした。


「志賀さんか」


 上條は幾度か咳をしながら、濡れた地面に口のなかの血を吐き捨てた。


「何故だい? 仕事は完璧だったはずだろ」

「ああ、いい仕事だったよ。だから報酬は払った。取引きは成立。今後ともよろしくってやつだ」

「だったら」


 志賀は、首を左右に振りながら、仕方なさそうに両手を少し挙げた。


「しかし、やり過ぎはなしだ」

「ああ、あれか」上條は無理に笑みを作ろうとした。何とか地面に手をついて躰を起こし、ふらつきながら立ち上がる。「こちらとしてはサービスのつもりだったんだが」

「余計なことだったのさ。あんたはヤクザ者の面子ってもんがわかっちゃいない。おい、タイチ」


 志賀の合図で、タイチと呼ばれた男が小さく頷いた。


「もう少しやっとけ」


 タイチはすっと腰を落として前屈みになり、小さくファイティングポーズを作った。小柄でまだ若い。やはり経験者か、と上條が思った瞬間、いきなり二発連続でパンチを浴びた。ほとんど視界に入らないところから拳が来るので、避けることなど不可能である。上條も数回手を出してみたが、当たるどころか、逆に体勢を崩したところに、しこたまいいパンチを喰らってしまった。これなら、防御だけに徹したほうがまだましだ。


 上條が、この駐車場に来たのはたまたまではない。いつも町田に来るときは、ここのコインパーキングにバイクを停めているのだ。町田の大通りから少し奥に入ったところに位置するため、大抵は数台の空きがあって使い勝手がいいのである。しかし、裏通りで人通りが少ないということは、こういうことも起こりやすいんだなと、上條は妙に冷めた頭で考えた。おそらく、志賀は以前から彼の行動をある程度洗っていたのだろう。外注先をしっかり調べてから仕事を発注するのは、企業もヤクザも同じである。


 志賀が属している大谷組は、東京西部をまとめている広域暴力団の末端組織だが、ちょっと変わった特徴を持った組として知られている。いわゆるITヤクザというやつで、企業や官公庁への不正アクセスやインターネットでの詐欺行為などを得意とし、さらに本家や他の組が使用するネットワークシステムの構築及び維持管理まで行っているという。


 その大谷組から、自分たちが管理している組の基幹サーバーにハッキングをかけてくれと依頼されたのが、およそ二ヶ月前のことだった。これは、普通の企業でもよく行われることだが、自前のシステムのセキュリティに絶対の自信を持っている場合に、それを実証するための手段として実施されることが多い。外部の者にわざとハッキングをさせて、そのセキュリティの脆弱性を探るわけだが、実際に見つかると大事になるので極々内密に行われる。通常の企業では、そういった仕事は一部のセキュリティ専門会社に発注をかけて行う。しかし暴力団の場合ではさすがに堅気の会社に発注するわけにはいかないので、上條のような裏稼業専門のプロに仕事を依頼してくるというわけだ。


「それにしても、上條さんは腕がいいよね。若頭の件は、俺がなんとかするからさ。うちの専属にならないか?」


 上條がさらに数発いいパンチを顔面にもらっているのを眺めながら、志賀が云った。


「ごめん……こうむるよ。フリーの方が性に合ってる」

「そうかあ、そいつは残念だなあ」


 本当に残念そうに答えると、志賀は煙草を取り出して一本くわえた。

 今回の仕事は、上條にとって実に楽な仕事だった。実際、ここ二年間ぐらいはこの手の仕事が増えていて、ずいぶん稼がせてもらっている。しかし今回の仕事では、ただ楽に仕事を終えるだけでなく、つい余計な遊びを入れてしまった。


 上條は、大谷組の基幹サーバーに侵入する際に、組の若頭の情婦に接触して、彼女に割り振られたメールアドレスを足掛かりにハッキングをかけた。その後、侵入に成功した証拠として、若頭と情婦の個人的なメールのやり取りと、ファイルサーバーに上がっていた二人の情事の写真を提出したのである。それらの証拠書類は、上條に仕事を依頼してきた志賀と、その上の組長しか見ていないはずだが、それを知った若頭が、恥をかかされたということで上條に恨みをもったらしい。おそらくは、組から公式に手出しを禁止された若頭が、どうしてもと志賀に制裁を頼んだというのが、ことの真相だろう。


 結局、このちょっとした遊び心のせいで、いまこうして人気のない駐車場でボクサーくずれの男にほとんど無抵抗の状態で殴られているわけだから、志賀の云う通り、しなくてもいい遊びだったのだ。


 上條は、最初のうちこそ両手を挙げてガードしていたが、タイチの繰り出す重いパンチを受けているうちに徐々にガードも下がり、やがて顎にきつい一発をもらって、上半身から地面に崩れ落ちた。気は失っていないが、軽い脳震盪を起こしたらしく、まともに起き上がれる気がしない。


 志賀が煙草を持った手で合図をすると、タイチがファイティングポーズを解いて何も云わずに後ろに下がった。


「じゃ、こんなところで。次は、さらにいい仕事を期待していますよ。上條さん」


 軽い口調で、志賀が云う。

 彼は持っていた煙草を最後に深く吸うと、濡れた路面に捨てた。地面に仰向けに転がっている上條に、軽く手を振る。


 軽口の一つでも云ってやろうかと思ったが、呼吸がうまく整わないので、言葉が出せなかった。志賀とタイチの二人はすでに去ったらしく、駐車場には上條が一人取り残されている。


 おそらく、たっぷり十五分は動けなかった上條だったが、雨のなかでずっとここで休んでいるわけにもいかず、仕方なく上半身だけ無理矢理起こして、自分の躰を一通り確認した。左目の上が切れて出血しているが、血が出ているのはそのぐらいで、あとはすべて打撲で済んでいる。ただし、明日の朝にはひどい顔になっているのは間違いなく、しばらくは躰中が痛むはずだ。骨は折らずに、当分苦しむだけの痛みを残す。タイチはいい仕事をしたわけだ、と上條は思った。


 今日、このままバイクに乗って、相模原市にある自分の部屋まで帰るのは不可能と判断した上條は、ここから歩いて十分ほどの距離にある珠子の家に行くことにした。そこでならシャワーを浴びて応急処置もできるし、第一ぐっすりと眠ることができる。彼はゆっくり立ち上がってから、その場を離れようと一歩を踏み出した。


 そこで上條は、自分をじっと見つめている視線に気がつき、思わず身構えてしまった。駐車場の入り口のところに、いつの間にか一人の少年が立っていて、彼を凝視している。


「見せもんじゃねえぞ、坊主」


 ちょっとすごんでみせたが、少年はまったく何の反応も示さなかった。見たところ十歳か、そのぐらい。小学校の高学年ぐらいに見えると上條は思った。おかしいなと、ふと違和感を覚えた上條は、少年に近づいてみる。この雨のなか、傘も差していないし、荷物も持っていない。しかもよく見ると、左の目尻から頬にかけて、うっすらと青痣が見える。


「おまえ、どうしたんだ。それじゃあ濡れっちまうだろ。家から追い出されでもしたか?」


 少年は、上條の目を見て、何かを喋ろうと口を開けた。唇が少しだけ言葉を綴ったかのように動いたが、上條には何も聞こえない。


「おい、何だって?」


 上條は、少年の両肩を掴んだ。まったくの無表情だった少年が、上條から視線をはずして、空を見上げた。上條もつられて空を見る。雨が降りそそぐ、漆黒の闇だけが見えた。やがて少年は、一言だけ小さく呟くと、上條の両手に体重を預けるように失神した。

 いきなり両手に少年の全体重がかかった上條は、慌てて少年を抱きかかえる。


「ちょっと、おまえ」


 いきなり自分の手のなかで意識を失ってしまった少年に、上條は動揺した。遠くでパトカーのサイレンが聞こえてくる。雨足も、少しずつ降りが強くなってきているように感じた。

 これは一体どうすればいいんだと、上條は少年を抱きかかえたまま、不安そうに天を仰いだ。



「で、結局うちに来るわけね」


 その通りだなと、上條は素直に思った。本当に困ると、彼の足はつい珠子のマンションの方に向いてしまう。何もないとあんまり逢いに来ないくせに、といつも皮肉混じりに云われるが、それに関して明確に答えたことはない。


 上條は、駐車場で気を失った少年を仕方なく珠子の家まで連れてきた。最初、このまま警察まで連れていけば解決じゃないかとも思ったが、二人ともずぶ濡れの上、上條が顔から血を流していて、一方少年は顔に青痣を作って気絶しているとあれば、警察も上條をすぐには帰さないであろう。しかも上條は、守の右手に大量の血が付いていることも発見していた。雨で大半が流れてしまったようだが、よく見れば指の先などに痕跡が残っている。叩けば山ほど埃が出る身の上なだけに、こんなシチュエーションで警察の厄介になるのは是非とも避けたかった。


 珠子は、突然やって来た上條が、気を失った少年を背負っているのに気がつくと、すぐに彼から少年を取り上げて完璧な看護体制を作り上げた。上條がひどい顔をしているのは、とりあえず無視されている。自分の傷はすべて自分で応急処置をする羽目になると、上條はここに来るまでにすでに覚悟していた。


 少年を居間のソファの上に横たえると、珠子はよく乾いたタオルを数枚持ってきて少年の顔と頭を優しく拭き始めた。そのあいだにシャワーだけでも浴びておこうと上條は思い、そそくさとバスルームに行く。


 森川珠子は、こんなときに何があったのかと取り乱すような女ではない。まず必要な行動をして、その後に説明があればそれで良し。なければないで、ぐっと堪えるぐらいの器量を持っている女だ、と上條は思っている。裏社会で生活をする男と付き合っているだけに、その男が何でも教えてくれるわけではないというのも、きちんと理解しているはずだ。もちろん、知らない方がいいことは多いし、上條自身、自分の女に何でも話すような男ではない。その代わり、珠子自身は、上條に対して思ったことをすぐに云う性格である。気に入らないことがあると、ずけずけと口に出して、彼を困らせることもしばしばあった。だが上條は、そんな裏表のない珠子の性格が特に気に入っていた。しかも、これで実は町田駅前にあるキャバクラ「ミネルヴァ」のナンバーワンホステスなのである。もちろんなかなかの美人なのだが、こうして自宅で上下ジャージ姿にスッピンでいる限りは、とてもそうとは思えない。ナンバーワンというのもどうやら自称らしく、上條は、本当かどうか最近はちょっと怪しいなと思っていた。


 熱いシャワーは、顔の傷だけでなく躰中にしみた。改めて確認してみると、全身うっすらと痣だらけで躰の節々が痛んだ。しばらくの間痛みだけを残す制裁は、ヤクザにとっては一番軽い処罰といっていい。報酬と罰をきちんとわけて与えるのも、彼ららしいやり方といえた。


 バスルームから出ると、珠子が少年のすぐそばに座ってこちらを見ていた。少年は目を閉じてゆっくりとした寝息を立てている。よほど疲れていたようだ。


「健ちゃん、その顔。ずいぶんやられたみたいね。大丈夫なの?」


 もめ事は大丈夫なのか、という意味なのだろう。


「ああ、問題ない。傷も、まあ見た目ほどひどくはない」

「なら、いいんだけど。その傷、あとでちゃんと手当てしたげるね」


 上條は小さく頷いて、助かったと思った。自分でやるのは、実は得意ではない。


「この子、どこから連れてきたの?」

「道で拾ったんだ。俺が殴ったんじゃないぞ。会ったときにはもうそんな顔だったんだ」

「健ちゃんがやったとは思ってないよ。これ、見た?」


 珠子は、少年にかけてあった毛布を静かに持ち上げて、少年の上半身を上條に見せた。そこには胸から腹にかけてどす黒い痣があちこちに広がっていて、健康な部分を探すのが難しいぐらいだった。殴られてできた痣の上から、それが治る前にまた殴る。これを何度か繰り返すと、ちょうどこんな感じの黒い痣になっていく。しかし子供の躰にこんな広範囲にわたって黒い痣が見られるなんて、本当ならあり得ないことだと上條は思った。これは、誰かが長い期間に渡って子供に暴行を加えた証なのだ。上條は、自分の血が熱くなっていくのを感じた。


「背中もひどいものだったよ。あと、右足の膝」


 上條は毛布を取って、少年の右足を露出させた。ちょうど膝のすぐ下のあたりが、いびつに歪んでいる。三カ所ほど大きな縫合痕があるので、最近大きな手術をしたことがわかる。これでは、満足に走ることすらできないのではないか。


「どんな理由があるかわかんないけどさ」


 珠子が、いつの間にかぽろぽろと涙を流していた。


「こんなにひどい目に遭ってる子は、あたし初めて見たよ。誰がこんなことしたのかな」


 上條は、珠子の横に座り、腕を伸ばしてそっと肩を引き寄せた。そのまま、手の平で彼女の髪に触れる。珠子の横顔からは、少年の傷に衝撃を受け、悲しみと怒りを抑えきれなくなっている表情が窺えた。


 これをやったのはきっと親だよ、という言葉を上條は呑み込んだ。しかし彼は知っている。こういう傷を子供に残す可能性が一番高いのは、子供の最も身近にいる存在、親なのだ。

 あいつも、やはりそうだった、と上條は友のことを思い出す。躰に残された傷は、あのときもこんなに黒々としていたっけ。

 上條は少年の毛布をもう一度しっかりとかけてやってから、珠子の頭をぽんと叩いた。


「さあ、こいつをゆっくり寝かせてやろう。隣の部屋で、今度は俺の傷の手当てをしてくれ」


 珠子は、小さく頷いてから静かに立ち上がった。そのあいだも、少年の姿からは決して目を逸らすことはなかった。

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