2 金槌

 右手の人差し指と親指をこめかみに当てて、ゆっくりと力を入れながら揉みほぐす。徳島は目をつぶり、目の奥にじんわりとした疲労感を感じて、パイプ椅子の背もたれに深く寄りかかった。


 京王線調布駅の改札に設置されている防犯カメラの映像は、それほど鮮明なものではないため、ずっと見ていると必要以上に目を酷使してしまう。しかも色のコントラストが浅くて、いまいち服装での個人特定が難しいためか、まばたきの回数がいつも以上に少ないのも、疲れ目の原因となっているようだ。今日一日は、ずっとこうして稲城署の一室に閉じこもって防犯カメラの映像を確認しているのに、いまだにこれといった成果が得られていないのが、徳島は悔しかった。


 目的は、保坂香織がアパートから出たあとの足取りをつかむことである。幸い、香織が着ていた服は彼女の遺体の近くで見つかっていたし、アパート住人の目撃証言もあるので、服装と自宅を出た時間は明確にわかっている。それをもとに彼女の行き先を特定しなければならないのだが、最寄り駅である稲城駅から始まって、沿線の駅の防犯カメラの映像を延々と見続ける作業は、なかなか時間がかかる上に、成果を上げるまでに莫大な時間を消費しそうだった。とりあえず三時間ほど前に、稲城駅のカメラで香織を発見できたのだが、それ以降の足取りはまだつかめていない。


 保坂夫妻の事件からすでに一週間が経過しているが、いまのところ確かな進展も得られず、宮部警部補率いる捜査本部では停滞感のような空気が充満している。


 現場のアパートは、鑑識曰くまったく綺麗なものだった。採取された指紋はいずれも被害者及び真一のもので、不審人物と思われるものは発見されておらず、不明な血痕や体液も一切検出されていない。銀行の通帳や現金もそのまま手つかずの状態で残っているため、強盗殺人の線はすぐに消えている。犯人の仕業と思われるのは、保坂夫妻の携帯電話が見つからないことぐらいで、これはいまだに発見できていない。アパートの住民、及び近隣での訊き込みは、結局確たる目撃証言を得られずに空振りに終わっていた。


 ただ一つ、香織が着ていたとされる衣服から、白と緑に染められた繊維がわずかに発見された。アパート内にこれと合致するものが見当たらなかったので、香織の外出先で付着したものではないかと期待されている。


 アパート以外では、香織の銀行口座に、この三ヶ月間で合計三百万円もの金額が入金されていたことがわかった。これは振り込みではなく、いずれも香織自身が窓口で入金していたことが確認されている。一ヶ月に百万円ずつ、三回に渡っての入金だった。夫の武彦は仕事をしていないし、香織が勤めていたクラブにも確認したが、結局この三百万円の出所は不明のままだ。また、香織の検死結果から、死亡前に性行為があったこともわかったため、香織の交友関係に捜査を進展させる鍵があると思われた。


 宮部警部補は、この香織の足取りと男関係の調査に的を絞ったようで、出所不明の金もそれらに何らかの関係があると見て、捜査を進めている。

 徳島が、目をこすりながら防犯カメラの映像を再び再生させると、扉を開けて栗橋が入ってきた。手には、湯気が上がっている紙コップを二つ持っている。


「おい、訊いたか? 渋谷の爆弾魔事件」

「いえ、テレビでちょっと見たぐらいです。進展したんですか?」

「さっき本庁で同期から訊いたんだがな。ゲーム機の箱のなかには、時限発火装置と一リットルほどのガソリンが入っていたらしい。あと数時間遅かったら、大惨事とはいかないまでも、周りにそれなりの被害が出た可能性もあったそうだ」


 栗橋は紙コップを徳島に渡しながら云った。


「ひどい話ですね。愉快犯なんでしょうけど」

「それがな。箱のなかに、一昔前のゲームソフトの画面写真が入っていたんだと。ミスターボムってやつ。懐かしいけどな」


 子供の頃にゲームで遊んだ記憶の無い徳島でも、そのゲームの名前は知っていた。確か、プレイヤーが火の玉のような爆弾を投げて、モンスターを倒していくゲームである。ガソリンを爆発させるからミスターボムというわけだ。悪趣味な犯人だと、徳島は思った。


「それはそうと、どうよ、香織ちゃんいた?」

「そんな友達みたいな。いませんよ。どこにも」徳島は、コーヒーをすすりながら答えた。

「おかしいな。稲城駅のカメラには映ってたんだから、やっぱり次は調布だと思うんだが。化粧が派手だったし服装からいっても人と会う感じだったんだろ。調布駅で乗り換えて、新宿方面に行ったと思うんだよな」


 京王線は都心から西に伸びる私鉄路線だが、保坂夫妻が住んでいた稲城駅は、その支線にあたる京王相模原線の途中にある。稲城駅から見て、北に向かって四つ目の駅が調布駅で、ここで乗り換えれば新宿まで二十分もかからない。


「それより、すごい雨だぞ。おまえは車だからいいかもしれないが、俺は電車で来てるんだ。まいったな」

「傘は?」

「そんなものはない。三、四日前にここの機捜車を使ったとき、車内に置き忘れちまったらしくてな。あれが最後の一本だった」

「機捜車に置き忘れたなら、車両課に行けばまだあるんじゃないですか。三、四日前なら、保管期間内でしょうし」


 警察車両内で見つかったゴミや持ち主が不明な品物は、すべて一定期間保管しなければならない規則になっている。あとで何が証拠になるかわからないということで、一日一回の清掃時に発見されたものは、レシート一枚、吸い殻一本でも、まずは記録されてから所定の場所に保管されるのだ。保管される期間は署によって若干違うようだが、稲城署では二週間の保管だと徳島は訊いていた。


「面倒くさいんだよ。置き忘れたなんて格好悪いし。署内で貸してもらうかな」


 真夏だというのに、今晩の雨はひどい大雨になりそうだった。昨今ゲリラ豪雨なんて言葉が作られるぐらいで、突然ものすごい降雨量の雨が降り、一時間ほどで止んでしまうことも珍しくなかったが、今晩のはもう少し長く降りそうだった。天気予報では、明日の朝まで大気が不安定で、昼頃から晴れると云ってたなと徳島は思った。どうせ一日中この部屋にこもって防犯カメラの映像を見る予定にしていたから、天気のことなどすっかり忘れていたのだ。


「どうせ俺は今日は帰りませんから」

「また泊まりかよ、って、洋子さんの件、まだ進展なしか」


 徳島はため息をついてから栗橋をにらみつけた。


「そうそう。なんでそのことを宮部班長が知ってるんです? 先輩にしか云ってませんが」

「すまん。云っちゃった」

「云っちゃったじゃないでしょう。まったく」

「まあ、あの人も気にしてるんだよ。なんて云うか、部下思いだしさ」


 徳島がさらに詰問しようとしたところで、映像モニターのすぐ横にある電話が鳴った。ランプが内線での呼び出しであることを示している。


「俺が出るよ」


 徳島よりも先に反応して、栗橋が受話機を取った。相変わらず、その体格に似つかわしくない俊敏な動きだなと徳島は思った。


 電話はどうやら宮部からかかってきたらしい。その宮部と栗橋とのやりとりを訊いていた徳島は、途中で栗橋の口調が変わったことに気がついた。何か起きたとき特有の張りつめた雰囲気が、部屋のなかに充満する。急いでメモを取り始める栗橋を見ながら、徳島はぼんやりと、新しい事件が起きたなと思った。


「はい、それではすぐに向かいます。では」


 栗橋は受話器を置いて、徳島に云った。


「男が一人、自宅で殺されているのが発見されたらしい。場所は町田市金森のマンション。保坂夫妻とは手口が違うらしいが、一応俺たちも現場に向かう」


 徳島はすでに立ち上がって、スーツの上着を手に取っていた。


「一つ問題があるらしい」

「問題?」


 徳島は栗橋を見た。ほんの少しだけ心配そうに見える視線を、徳島に投げかけている。


「その家の子供がな、行方不明になっているそうだ」



 現場は凄惨を極めた、ひどい有様だった。

 部屋はどこにでもあるマンションの一室で、間取りは3DK。その居間の中央に、男が一人、椅子に後ろ手で縛られて死んでいた。遺体の下には血だまりがあったが、床だけでなく、周りの壁やソファ、カーテンなどにもおびただしい量の血痕が付着している。


 男は、全身から出血したかのように真っ赤で、傷口の場所も特定できない状態だった。出血はまだわずかに続いているようで、椅子の下からぽたぽたと血が滴り落ちているのが見えた。


 徳島と栗橋は、現場に到着すると、早速ビニールの靴カバーをつけて、現場の検分を始めた。すでに本庁から鑑識課が到着していて、足跡と指紋の採取、及び写真撮影を済ませていた。所轄である町田署からは制服警官と捜査員が派遣されていて、現場確保などを着実にこなしている。


 最初に遺体を発見したのは、この部屋の隣に住んでいる五十代半ばの山下和代という主婦だった。彼女は以前からここの息子が虐待されていたのを気にしていたらしく、特に隣家の物音には敏感になっていた。そして今晩、深夜だというのに乱暴にドアを開け閉めする音や、通路を誰かが駆けていく音などが続いた。もしかしたら子供がまた虐待されているのかもしれないと思った彼女は、思い切って隣家に行ってみた。ベルを鳴らしても誰も出ないが、ドアは何故か開いていたのでそっとなかに入ってみると、そこで衝撃的な光景を目の当たりにしてしまった、というわけだ。


「さっき連絡があったが、監察医が少し遅れるようだな」


 栗橋が、床の血を踏まないようにゆっくりと移動しながら、遺体を検分していた。


「この雨ですからね。遅れても仕方ないですよ。先輩、凶器の金槌が見つかった場所、ここみたいですね」


 徳島は、遺体から少し離れたところの床にある、直径十センチほどの血痕を指さした。すぐ横には、目印の黄色いプレートが置かれている。ここで鑑識課が血まみれの金槌を見つけたのだ。置いてある向きや状態を確認したい場合は、撮影された写真を見ることになる。


「金槌で滅多打ちか。それにしてもひどいな。どれだけ殴ればこんなになるんだ」


 栗橋が云った通り、遺体の損傷は目も当てられないほど凄惨なものだった。顔、頭はほとんど原形を留めておらず、何度も何度も凶器で叩かれて破壊されている。腕や足も関節以外の部分が曲がっているようなので、どうやら金槌で丁寧に数カ所以上折られてそのまま放置されたのだろう。胴体部も、着ている服を脱がせば躰中に殴打された痕が見つかるはずだ。おそらく、生きながらに金槌で体中を滅多打ちにされて殺されたようである。


 凶器は違うが、現場の印象が保坂夫妻のときとそっくりだ、と徳島には思えた。おそらく栗橋も同じことを考えているだろう。


「これ、稲城のホシと同じですね」

「俺もそう感じるよ。現場の雰囲気が似ているよな。いま探してる子供の躰に、殴打された傷があるかどうか確認しないと。もし金槌による傷があったら、決まりだな」

「子供、どこにいるんでしょうね。保坂真一のときと同じであれば、この近くで見つかってもおかしくないですが。犯人が連れ去った可能性もありますが」

「さっき緊急配備の指令が出た。ここを中心に捜索網を敷くそうだ」


 遠くで、パトカーのサイレンが聞こえた。少しくぐもって聞こえるのは、雨足が強くなってきているからだろう。この家に住んでいた子供は、いま頃どうしているのだろうか。あの虚脱状態になってしまった保坂真一のように、雨のなかを、あてもなく彷徨っているのだろうか。

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