第二章

1 ナイフ

 階段の手すりをまず右手で掴むと、高遠守たかとおまもるは一呼吸置いてから、慎重に階下に向かって降り始めた。右足の膝が、体重をかけた分だけわずかに痛む。


 守は雨が近いことを確信した。こうやって膝にじんわりとした痛みが走るときは、決まって天気が悪くなる。早ければ今晩、遅くても明日の朝には雨が降るはずだ。


 一階の廊下まで降りてくると、守は廊下の右の方に視線を走らせた。廊下には幾人かの生徒たちが歩いているだけで、大人らしい人影は見当たらない。右の廊下の先には職員室があり、すでに先ほどホームルームを終えたばかりの教師たちが集まっている頃だろう。


 守は、担任教師である佳枝先生の姿が見えないことを確認してから、職員室に背を向けて、急いで廊下を左に曲がった。その先にある下足箱が並ぶ玄関ホールを過ぎれば、もう大丈夫なはずだ。右足にあまり体重を載せないようにしながら、守は歩調を速めた。

 十五分ほど前、ホームルームが終わった直後に、守は佳枝先生に呼び止められた。


「あ、高遠君、帰る前に職員室に来てね。ちょっと訊きたいことがあるから」


 佳枝先生の声は優しかったが、目は笑っていなかったし、どこか真剣な印象を守に与えた。大人が、子供の顔色を窺うときの言い方だ、と守は思った。


 今日は間違いなく先生から呼び出されることになると、彼は朝から覚悟していた。守の左目尻から頬にかけて、うっすらと青痣ができていたからだ。昨晩、ようやくあいつが寝てからずいぶん冷やしたのだが、それでもこれだけ目立つ痣ができてしまった。普段は顔だと学校にばれてしまうということで、殴られる箇所は腹や背中に集中していたが、昨日のあいつはひどく酔っ払っていて、そういったことにまったく注意を払わなかったのだ。


 おそらく佳枝先生は、守と話をしたあとに、保健室に連れて行って、保健のみどり先生の診察を受けさせようとするだろう。それだけはなんとしても避けなければならない。診察を受けて前のように通報でもされようものなら、さすがにあいつだって黙ってはいないはずだ。他の大人たちにへらへら笑って取り繕ったあとに、守にだけは鬼の形相を見せて「なんでチクったりするんだ、このバカ野郎!」とでも叫び、また自分を殴るだろう。結局、最後にひどくぶたれるのは守なのだ。


 守は玄関ホールで下足箱から自分の靴を取り出し、上履きから履き替えると、そのまま校庭横の通学路を歩き始めた。学校から自宅のマンションまでは歩いて十五分ほどだが、少し右足を引きずるため、おおよそ二十分はかかる。


 守が、なんとかこの生活から逃げなくてはならないと思い始めたのは、一ヶ月ほど前からだ。すでに、母が持っていた品で残していきたくないものや、自分にとって最低限必要と思われるものは、あいつの目を盗んで全部お気に入りの青いスポーツバッグのなかにしまってある。家を出るときには、とりあえずそのバッグ一つを持って出れば大丈夫なようにしておきたかった。


 一番の問題は金だった。小学生が集められる金額にはどうしたって限界があるし、家には彼がくすねても見つからないような現金はまず存在しない。しかし、さすがに一文無しで家出をするわけにはいかないというのは小学生でも理解できた。水はともかく、食べ物ばかりは買わなければならないだろうし、電車やタクシーにだって乗る必要に迫られるかもしれない。


 どうしようかと頭を悩ませる日々だったが、四日ほど前、守の机の引き出しの奥から母の手紙と一緒に現金二万円が出てきたことで、この問題は一気に解決した。手紙には、母の筆跡で守に対する謝罪の言葉が数行だけの短い言葉で綴られており、最後に、いま彼女がいると思える場所の住所が書かれていた。軍資金だけでなく、目的地も手に入れたのだと、守は驚喜した。自分をおいて出て行ってしまった母は、実は自分のために行き先を用意してくれていたのだと、守にはそう思えて仕方がなかった。


 あとは実行するだけなのだ。一度あの家を出たらもう決して戻らないし、二度とあいつの顔を見ることはない。いや見なくても済むように、慎重に行動しなくてはならない。


 自宅の前の坂道にさしかかったあたりで、どこか遠くから、低く地を揺るがすような雷の音が響いてきた。守は、街が見渡せる坂道の上の方から、遠くの雲の流れを注視した。やはり雨が来る。そしてこの雨はきっとひどく降るだろうと、守には何故か予感があった。ひどい雨があたりの地面を叩き、ごーごーと台風のような音が街全体を包む。


 今晩、街を出ようと、守はこのとき決意した。

 雨のなかを、すっと姿を消すようにこの街から消えてしまおう。きっと誰も自分を追わないし、無事に母と会えれば、いままでの悪いことは全部忘れてしまうに違いない。そう思うと、いまから激しい雨が降るのが待ち遠しくなってきた。


 守は、遠くの方に黒々と広がりつつある雨雲を眺めながら、自宅のマンションの鍵をカバンから取り出した。


「おまえ、今日学校の先生からなんか云われなかったか?」


 家に戻ると、すぐにあいつが訊いてきた。


「え、いや」

「嘘云うなよ。さっき、担任から電話来たぜ。あの佳枝とかいう生意気な女だ。おまえに用があるとかで、俺には何も云わなかったが」


 守は唖然とした。たとえ呼び出しをすっぽかされたとはいえ、この状態で家に直接電話なんかすれば、守が養父に責められるかもしれないと、何故佳枝先生は察してくれないのか。


「おまえ、顔に痣あるよな。それのことでも訊かれたか。前みたいに、児童相談所の話とか出てねえだろうな」


 守は答えなかった。一度こうなるともう駄目だ。何を云っても、その言葉尻だけを取らえて自分の言葉を返してくる。いつもそうだ、と守は思った。彼が何か主張しても、こいつは一切訊こうとはせずに暴力で優位に立とうとする。


「おい! なんか云えってんだよ。また昨日と同じでだんまりか」


 しばしの沈黙の後、守は、養父が手を挙げるのを見た。その瞬間目をつむる。甲高い音が自分の頬で炸裂したのを感じ、次に首が回って躰ごと吹っ飛んだ。居間のカーペットに、鈍い音を立てて倒れ込む。


 守は、いつもしているように、素早く手で頭と顔をかばい、足を曲げて丸くなった。そこにすかさず蹴りが飛んできて、守の背中を直撃する。一瞬、息が詰まって目の前が暗くなった。


「馬鹿にしやがって。この餓鬼が」


 もう一発、今度は守の尻に蹴りが当たった。鈍い痛みが、背中に続いて尻にも走った。頭上から荒い息遣いが聞こえてくる。


「……またあとで詳しく訊くからな。もういいから、さっさと自分の部屋に行け」


 守は痛さをこらえて急いで立ち上がり、自分の部屋へと向かった。もたもたしていると、また殴られてまう。


 守たちが住んでいる五階建ての白いマンションは、東京町田市のベッドタウンにあり、周囲が閑静な住宅地ということもあって、家族の入居者か、まだ子供がいない夫婦世帯の入居が多かった。守の一家も、最初の頃は一見そうした家族世帯の一つとしてこのマンションの四階に引っ越してきたのだが、現在では、何故か血の繋がっていない男と守の二人だけで暮らしている。


 二年前の春頃、まだ埼玉県の上尾市に住んでいたとき、守が学校から当時住んでいたアパートに帰ってくると、母の静江と一緒に見知らぬ男がいた。男は宇木田高雄と名乗り、これからちょくちょく会うのでよろしくな、と守に声をかけた。確か彼が三年生になったばかりで、もう大人の考えだってだいぶわかる頃だったから、母がこの一見気さくそうに見える優男と、ずっと一緒にいたがっているということはすぐに察しがついた。


 生まれたときから父親というものを知らない守は、いきなり自分たちに近づいてきたこの大人を警戒したが、静江はすぐに宇木田にどっぷりはまっていったようだ。それからというもの、宇木田は一週間のうち、二、三日は守の家で過ごすようになった。


 宇木田は、当時母が勤めていた工場の近くの店でバーテンをしていたらしく、会話がうまくて、流行のファッションや芸能の話題に詳しかった。芸能関係で働いていたことがあると、ことあるごとに喋っていた宇木田を、母が熱いまなざしで見つめていたのを、守は覚えていた。一方、母の静江は、若くして守を産んだが元々は東京で雑誌のモデルをやっていたこともあるという、なかなかの美人だった。だが、幼い守を抱えて生活するだけで精一杯という状態のなか、母は徐々にかつての華やかな生活から離れていったらしい。そんなとき、都会の匂いのする宇木田という男に出会って、また自分の夢を思い出したのかもしれなかった。


 そして二年前のある日、まったく突然に静江は引っ越しを宣言した。東京の西端に位置する町田市に移り、宇木田と一緒に住むというのだ。守は反対したが、母は最初から聞く耳を持たず、守にはこれは決定だとしか云わなかった。何故町田だったかはいまもってまったくわからない。東京まで出やすいとか、それまで勤務していた工場と似たような職場が近くにあるとか、確かそんなようなことを母は説明していたが、守はそのことよりも宇木田と一緒に住むのだけがとにかく嫌だった。


 仕方なく引っ越してきたこのマンションだったが、守が思った通り、平穏な日々を過ごせたのは最初の半年だけである。すぐに静江と宇木田は昼夜問わず口論するようになり、守の食事にも気を配る余裕すらなくなったのだ。二人は終始苛立つようになり、会話をすればかなりの確率で喧嘩へと突入した。


 あれは確か、守が四年生にあがって少し経った頃だったと思う。夜、ふと目が覚めると、寝ている守の頭を撫でながら、涙を流している母に気がついた。母の発する思い詰めた雰囲気から、守は起きてはいけないような気がして、なかなか母に話しかけることができずにいると、静江が小さな声で「ごめんね」と云ったのが聞こえた。

 その三日後、静江は忽然と姿を消した。宇木田に訊いても、母のことは何も語らず、険悪な目を向けるだけだったが、一度だけ酒を呑みながら守にこう云った。


「静江のことなんて、忘れちまったほうがいいぜ。おまえなんか必要ないんだってよ。一応約束だし、金ももらってるからな。中学を出るまでは面倒見てやるが、それまではここで俺の飯でも作るんだな」


 どうやら母は、宇木田と何らかの取り決めをして守を託したらしいが、彼はこんな奴と一緒にいるよりも、母とともに歩んでいきたかった。何故、母は自分を捨てて一人で人生を歩む道を選択したのか。何故宇木田のような屑に、自分を託すような真似をしたのか。守にはどうしても思い当たるふしがなかった。


 守は、捨てられたということがなかなか理解できず、しばらく抜け殻のような毎日を送ったが、その姿が宇木田には気に入らなくて仕方がなかったらしい。やがて何かにつけて彼を殴り、虐めるようになった。食事がまずい。顔が気に入らない。帰ってくるのが遅い。云うことが気に入らない。返事が遅い。宇木田にとって、理由は何でもよかったのだ。目的は、守を虐めて憂さを晴らすことにあったのだから、気に入らないところを見つけた瞬間に守を殴りつけて、自分のなかのストレスを発散させた。


 ある日、酔っ払った宇木田は、工具箱から金槌を取り出すと、それで守の背中や腹をこづいて遊んでいた。そのときの宇木田は、珍しく静江の話を守にした。どこで知り合い、どんな話をして、静江がどんな話題が好きだったか。しかしその内容が、息子が見ていないところで、二人が何を楽しんでいたかということに及ぶと、守は遂に我慢ができなくなった。


「おまえの母ちゃんはな、俺の下でひいひい叫ぶのが好きだったぜ。そんときの台詞を教えてやるよ。静江はな……」


 その瞬間、守は宇木田の喉に掴みかかっていた。自分の母をもて遊んだこの悪魔を、絞め殺してやろうと守は本気で考えた。しかし、最初のうちこそ守の突然の攻撃に動転していた宇木田だったが、やがてゆっくりと形勢を逆転させると、守の四肢を押さえて身動きを奪ってしまった。

 宇木田は、まだ手に持っていた金槌を守の右足にあててから、彼の耳元でそっと呟いた。


「おまえさ、やっぱ生意気だわ」


 守の右膝に金槌が振り下ろされた瞬間、信じられないほどの激痛が守を襲い、そのせいで背中が反り返った。宇木田は酒臭い息を吐きながら、笑っている。笑いながら、守の右足に再び金槌を振り下ろした。その瞬間、守は絶叫している自分の声を聞いた。そんな叫び声を自分が出すなんて、これまで考えたこともない。もうやめてくれ、お願いだから、それを振り下ろさないで。守がそう云おうとした瞬間、宇木田はさっきよりも高く金槌を振り上げた。


 守は、そのまま気を失った。次に気がついたのは、病院のベッドの上であった。

 守の右足は膝関節のすぐ下の部分が骨折しており、太さが二倍になるほど腫れ上がっていた。入院二ヶ月、全治四ヶ月と診断されたこの傷について、宇木田は自宅内での事故と説明したらしい。そして驚いたことに、守が運び込まれた個人病院はこの説明を鵜呑みにして守の治療にあたった。結局、入院していた二ヶ月間、守にとっては実に穏やかな日々だったが、どうやら守が血だらけで運ばれたのを見ていた隣家の人が児童相談所に通報したらしく、病室に川田さんという女性職員が何度か見舞いに来てくれて、守の足の傷が本当に事故によるものかどうかを訊いてきた。


 あのとき守が正直に話していれば、川田さんの示してくれた一つの可能性、あのマンションから出て養護施設に行くことを望んでいれば、いま頃はまったく違う人生に向かってすでに歩んでいたはずである。しかし守には、どうしても母のことが気にかかった。もしかしたら、また母が帰ってくるかもしれないし、せめて連絡だけでも取れるかもしれないと思うと、母との唯一の接点であったあのマンションから出て行くというのは、難しいように思えた。


 結局、守は川田さんに嘘をついて、自分の意思で町田のマンションに帰ってきた。右足もやがて癒えたが、いまだに少しだけ違和感があり、引きずるようにしか歩けない。


 宇木田は、守が児童相談所に密告したといまでも思っていて、彼を殴るときに、必ず「チクりやがって」と悪態をつく。どうやら、川田さんが宇木田に面談して何かを云ったらしく、児童相談所の話になると宇木田はそわそわするようになった。


 実際、この家で虐待騒ぎがあったというのは、周囲でも噂になっているらしい。たまに心配して連絡をくれる川田さんによれば、すでに数件の通報があったという。守は、同じ階の右隣に住んでいる山下のおばさんは、確実に通報してくれた一人だろうなと思った。彼女は、守が学校から帰ってくるときによく挨拶をしてきて、困ったことがあったらいつでも部屋に来てくれていいのよと云っていたのだ。


 守は、自分の部屋に入ると学校のカバンを椅子にかけた。宇木田は隣の部屋にいるが、何の音も聞こえてこない。今日は水曜日なので、宇木田は休みのはずだから、夕食ができるまで寝て過ごす気なのかもしれない。

 すでに時間は五時近くになる。そろそろ守は夕飯の食事をしないとならなかった。少しでも遅れると、また面倒なことになる。


 守は、音を立てないように注意して押し入れを開けると、布団の向こう側に押し込んである青いスポーツバッグを取り出して、床に置いた。

 ジッパーの音が響かないようにゆっくりバッグを開けると、なかから折り畳み式のナイフを取り出して、拳のなかに入れて握りしめる。今日は、一日中これをポケットに忍ばせると、心に決めていた。


 宇木田に会うのも今日が最後なのだ。もし、彼に一撃を加える機会があるとすれば、チャンスは今晩だけである。守は、それを絶対にやると決めてはいなかったが、そのときがくれば、自分は何の躊躇いもなく実行できると確信していた。もう絶対に殴らせないし、奴に虐められるのはごめんだ。次に僕を殴ろうとしたら、必ず思い知らせてやる。

 守は、ナイフを持った自分を恐れて立ち尽くす宇木田を想像して、少し気分をよくした。


 ナイフは小さいのにずっしりとした手応えを守に与えてくれた。彼は小さな笑みを浮かべると、手のなかの重さをひとしきり楽しんだあとで、ズボンのポケットに滑り込ませた。

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