KOPI コピ
河嶌レイ
KOPI コピ
ねえ、こーちゃん、今度あたしが男にフラれたら、あたしと一緒に暮らしてくれる?あたし、こーちゃんを食べさせてあげれると思うよ。だからこーちゃんは心配しなくていいから。ずっと売れないライターでいいからね?
「ねえ、こーちゃん……あたしね、やっぱりこーちゃんに抱かれるのが一番好きだな……」
サエコはそう言うと思い切り抱き付いてきた。生温かいベッドはほんのり汗で湿っていて、作動しているエアコンから吹き出る風の音だけが聞こえている。昂りが収まるとサエコの体温はあっという間に下がってしまうのか、ひんやりとした肌が心地よい。シンガポールの空は夜七時を過ぎてもまだ明るいけれど、、ホテルの部屋はカーテンが閉まっているから外が暗いのかどうかはわからない。チェックインした後はずっとサエコを貪っていたわけだから、時間の感覚がわからなくなっている。わたしの体はもう七時くらいの感覚でいるが、果たしてどうか。
「ふうん……で、やっぱり今回も振られたの?新しい彼とは四ヶ月くらいはうまくいっていたみたいだけど?」
うまく体を反転させて、わたしはペットボトルに手を伸ばした。今日はやけに喉が渇く。適度な運動には発汗作用があるから、とりあえず体にはいいに違いない。
「えーなんでわかるかなあ……あたしの顔、そんなに寂しそう?」
「んー……サエコがこんな風にわたしに甘えるってことは、男に振られたに決まってるじゃない」
「ひっどーい。こーちゃん相変わらずひどいわ」
「そうかなー」
サエコはひとしきり満足するとおしゃべりになる。たっぷり抱かれた後は安心しきってしまうためか、日ごろ溜め込んできたうっぷんを晴らさんばかりにしゃべりまくるのだ。サエコの目はくるくるとよく回り、口元は自由自在に引っ張られたりすぼんだりする。とにかく忙しくて、眺めていても飽きることがないのだ。
「アキラはさあ……あ、彼、アキラっていうのね。最初はやさしかったの。外資系大手のマーケティングマネージャー。頭もいいしオシャレだし。でもね、だんだん鼻についてきて。まず付き合い始めて二ヶ月後にはあたしのこと『オマエ』なんて呼び始めるわけ。ヤな感じじゃない?」
やれやれ、せっかくひと眠りでもしようかと思ったのに、このままいくとサエコ・オンステージになってしまう。わたしにとって純粋な「愛の行為」の後というのは、聖母に抱かれて眠る幼子のようにやすらかなものであらねばならないというのに。
「なんて野郎だろうね。わたしでさえ『アンタ』なんて呼ばないのにねえ」
「でしょ?こーちゃんはそういうとこちゃんとしてるよね?なんていうかさ、ていねいなの。あたしのこと、ちゃんと尊重してくれてるっていうか。こーちゃんとあたしは、いわばセフレみたいなもんで、会えばエッチしちゃうじゃない?でもこーちゃんはなんていうか、すごくやさしいの。あたしの好きなとこ全部知ってるし、与えることにしか興味ないっていうのもすごいし」
「まあねえ……やっぱり無償の愛、かなあ……」
サエコはセックスのことを「エッチ」と言う。「セックス」より語感がかわいいのだそうだ。ちょっと古くさい感じもするけれど、そこらへんは妥協しないらしい。
「アキラはさ、あたしが感じてるかなんて関係ないの。あいつは自分だけ気持ちよくなりたくって、こっちは痛いのにぜんぜんお構いなしで。なんかもう我慢するのも限界で」
結局サエコのほうからさよならしたんだろうか?いつもは振られてばかりなのに。
「そうだよねえ。そういうのは我慢しないほうがいいと思うよ?長く付き合おうっていうんならなおさら」
「でしょ?だからあたし言ったの。痛いからやめてって。でね」
サエコは枕を抱きかかえるように、天井に背を向けた。
「もうちょっと時間をかけてやろうよって……」
「そしたら?」
「そしたらさ、そのあと連絡が来ないのよ。全然よ?」
「あー……」
「これってなんだと思う?あたしまたフラれたの?」
「んー……それって振られたって言わないんじゃないかな?なんというか、コミュニケーションがうまくいかなかっただけで。すれ違いだよ、単なる。サエコはそのアキラって子のことまだ好きなの?」
「なんかもうわかんない。そんなこと言ったらこーちゃんのほうが好き。こーちゃんはあたしのこと絶対に傷つけないし、一緒にいて楽しいし、お話もたくさんできるし。こーちゃんなら、ご飯食べに行っても映画を観に行ってもエッチしても楽しいもん。あたしのことすっごく満たしてくれるもん。こーちゃんが女のひととか関係ない。こーちゃんはやさしいのよ」
その割には新しい男ができると途端に消息を断つよね?めちゃめちゃわかりやすくていいけど。
フロアに脱ぎ散らかされた服をお互いに着せ合って、なんとか体裁を整える。無償の愛の行為の後でもお腹は減るというものだ。いつも宿泊するホテルはブギスというエリアにあるインターコンチネンタルで、近くのローカル・レストランでラクサを食べてお腹を満たすと、サエコがいきなり長いため息をついた。
「ねえこーちゃん、これからコピ飲みに行こうか?」
コピ。Kopiと書く。つまりは東南アジアのコーヒーのことで、これがたまらなく甘い。コーヒーに砂糖と加糖練乳が加わっていて、ホットとアイスがある。応用編もあって、Kopi O(コピ・オー)はコーヒーと砂糖、Kopi C(コピ・シー)はコーヒーと無糖練乳のみだ。サエコは砂糖と加糖練乳の入った普通のコピが好きで、初めて飲んだときには「頭痛がするくらいに甘い!」と頭を抱えたくらいだが、やはり飲む度にクセになっていったらしく、今ではシンガポールに来たらコピなしでは生きられないと言う。
ホテルに隣接しているショッピングモールの中にもコピを飲めるカフェは入っているが、今日のサエコの雰囲気では、日本人観光客もたくさんいるであろうと思われるこの場所での会話は憚られる。さて……。
「どこかもうちょっと遠いとこで飲みたいな、コピ」
なかなか気が合う。こんなところでも、わたしとサエコは波長が合うのだ。こういう感覚はどうでもよさそうで、実は大事なものだ。わたしはサエコのそのどうでもいいところが好きだった。些細なことだが積み重なると大きい。
「MRT(地下鉄)で一本のところにいいとこあるよ。新しいラインができてね」
「新しい線って、ダウンタウン・ラインでしょう?青いラインの。乗る乗る」
「本当にしょぼいんだけど、いいかな?」
「そういうとこに行きたい気分なの、今のあたしは」
「じゃあピッタリだ。行こう」
そう言うと、わたしは週末で賑わっている駅ビルの店の通路をサエコの手を引きながら歩き出した。サエコの目が「こんなとこで手なんか握っていいの?」と訊いていた。わたしは軽く微笑んでウインクをした。
地下鉄の中でのわたしたちは無言だった。サエコといえば、駅に着く度に乗り込んでくる人びとを眺めていた。ヒジャブを被っている女性、ベビーカーを押すインド人夫婦、兵役中なのかミリタリー服姿でスマホを操る若者。韓国語で会話をする家族。車内のモニターには「痴漢は犯罪です」というドラマ仕立ての広告が流れている。発車すると、今度は窓ガラスに映った乗客たちを眺め始めた。
各駅に近づく度に、四つの言語で車内アナウンスが流れる。その繰り返しがいくつかされるうちに目的の駅に着いた。ドアが開くとそこからは「美世界」という中国語の駅名が飛び込んできた。ビューティーワールド駅。この駅の外にそのローカルカフェがあった。
"Kopi and Kopi C, please."
こんな時間に飲み物だけかという顔をされた気がするが、問題ない。この通りは小さなローカル・レストランが並んでいて、いわば激戦区だ。海南鶏飯(チキンライス)で有名な老舗の支店も二軒あるが、美味しくなければ三ヶ月で潰れてしまう店もあり、しょっちゅう店の入れ替わりがある。夜九時を過ぎても賑わっていて、かなり活気のある通りだ。
「コピってさ、もんのすごく甘いじゃない?頭が痛くなるくらい。なんでこんなに甘いんだろうって思うの。でもこんなに暑いとこに住んでるんだから、それに負けないくらいの甘いやつ飲まないとやってられないんだと思うの。恋だってそうなのよ。恋の真っ只中ってその暑さで気が狂っちゃいそうなの。だからもっともっと甘いのが欲しくなって、いっぱいエッチしたくなっちゃうの。でもコピって飲み続けたら死んじゃうと思うんだよね。だって甘過ぎるもん。飲めよって言われてもこっちの準備だってあるし。飲みたいから飲むんであって、飲めって言われたって飲めないよ」
「飲めとか飲むとか、なんかちょっと表現が露骨だねえ」
いきなり大胆な会話が始まってやや面食らったわたしは、サエコをたしなめるように耳元で囁いた。
「もう!こーちゃん、あたしはいま真面目なの!真面目な話をしているの!」
「はいはい」
「でね、こーちゃんってそこがうまいわけ。こーちゃんはあたしが飲みたくなるようにしてくれるの。あたしの喉が渇くように、ちゃんとしてくれるわけ」
「でもさ、サエコのほうは濡れ……」
「もーバカバカ!こーちゃんのバカ!」
「サエコの演説がすごくてさ、なんかこう……つい突っ込みたくなって……」
「こーちゃんはさ、『ほら、本当は喉が渇いてんだろ?飲めよ?』とか言わないわけ。黙ってひたすらあたしに奉仕してくれるの。そういうの、こーちゃんだけなの」
どうやらサエコは真剣なようだ。セックスについての哲学的アプローチとサエコのあどけない表情がいまひとつマッチしていない。
「でもさ、こーちゃんってバイなんでしょう?男のひととかともするんでしょう?ちょっとそこんとこよくわかんないのよね」
サエコは顔を近付けると、わたしの目を覗き込んだ。
「あんなにあたしのこと気持ちよくしてくれるのに、こーちゃんは他の誰かにそういうことしてもらうんだ」
コピをすすりながら辺りを見回す。店内はひとの話し声で賑わっているにしても会話の内容が少々アレだ。わたしはなんとなく居心地が悪くなって、天井を見つめるふりをして鼻から息を吸い込んだ。
「そんなこと言われてもねえ……」
「どんな男のひとなら抱かれたいって思うの?」
「知らないよそんなこと」
「こーちゃんは男のひととどんなエッチするの?」
「あのさあ。そういうのわかんないから。抱くとか抱かれるとか。頭で考えてすることじゃないし」
「ふーん……こーちゃん答えづらそうだね。前からずっと訊きたかったの。こーちゃんさ、フリーライターって言ってたけど本当はどうなの?あんまり儲かってなさそうだし。本当はジゴロなんじゃない?なんかそんな匂いがするんだよね。お金持ちのマダムとかを相手にこう……だってこーちゃん女心よく知ってるし、扱いもうまいし、なんていうか、ついお世話したくなっちゃうのよね。別にジゴロが悪いって言ってるんじゃなくてね。こーちゃんのこともっとよく知りたくなったっていうか」
そういうサエコだって自称キャビンアテンダントだがそれもあやしかった。なんとなくお互いのプライベートは詮索しないでここまでやってきたから、サエコの職業がなんなのかは未だ不明だ。名字でさえ知らないし、下の名前に「子」が付くなんていまどきダサい、なのにお母さんはサエなんて名前でズルい、と言っていたことだけはよく覚えている。最初に出会ったのは確か知り合いのパーティーで、なんとなく意気投合して酔った勢いでサエコが宿泊しているホテルまで転がり込んだんだった。そしてその夜、サエコの方から誘われて関係を持ったってわけだ。その後は一ヶ月半に一度くらい、サエコの方から連絡が来てサエコが泊まるホテルで会うといったペース。会えば必ず体を重ねた。実はサエコはヘテロだし、わたしはといえばそこらへんの線引きはない。線引きするのはどうも苦手だ。白紙に直線を描きなさいっていう問題だって嫌いなくらいなんだから。わたしにとって男とか女とかというのは、わたしの淫らな指で描く直線みたいなものだ。ただ、ヘテロの女の子だから「そんなことはしない」ということもないのは確かで、とかく女というものは業が深い。百合好きな女の子が多いのもうなずける。まぁ実際どれだけの女の子が実践しているかどうかはわからないとしても。
「ジゴロねえ……それもいいかなあ……」
「こーちゃんって、誰かをものすごく好きになることってないの?あたしじゃなくても、誰かをってこと。好きで好きでたまらなくて、ずっと一緒にいたくて。独り占めにしたくて涙が出るの。そのくらい好きになるっていう意味だよ?」
「んー……そんなの疲れないかな?しばらくはいいとしても、それってひどく疲れそうだ。それに相手も自分と同じだけ好きになってくれるとは限らないでしょう?」
「そりゃそうだけど……こーちゃんそんなんで寂しくなったりしないの?」
「どうかな……サエコみたいに声をかけてくれる子もいるしね」
「こーちゃんって誰でもいいの?あたしじゃなかったら、他の子でもいいの?」
「それってヤキモチ?」
「ヤキモチっていうか……こーちゃんのこと心配してるわけ。男のひとでも女のひとでも、誰かを一生懸命に想うって大事なんじゃないかなって思うわけ」
「コピは甘過ぎるんじゃなかったの?飲み過ぎたら死んじゃうって言ったのはサエコじゃない?」
「飲み過ぎちゃいけないけど、それでも飲みたくなるのがコピなんじゃない。こーちゃんってわかってるようでわかってないのね」
「体に一番いいのは水だよ」
「こーちゃんのバカッ!」
サエコはそう声を荒げると、むくれた顔をして残りのコピを飲み干した。サエコの脳に激甘の糖分が注がれ、きっとすぐに頭痛がするに違いない。眉間にしわを寄せたサエコの顔はびっくりするほどきれいだった。
「こーちゃん、どうしてこーちゃんは男のひとじゃないんだろう。こーちゃんが男のひとだったらよかったのに。そしたらあたしはこーちゃんと付き合って、もっともっと好きになると思うの。みんなにこーちゃんを自慢して、しばらくしたらお母さんにも報告するかもしれない。たくさんエッチして、あたし、今よりもっともっときれいになるの。みんなに『サエコ、最近きれいになったね』って言われてさー。そういうの、いいと思わない?」
わたしはサエコのそんなところが好きだ。バカなサエコ。自分のしあわせしか考えていなくて、正直でたくましくて。いつかきっと、冴えないけれどサエコに惚れて惚れて惚れぬいた男と出会ってしあわせになる。イケメンとか肩書とか、そういうのはサエコをしあわせにはしない。サエコの足の裏を舐めるように愛してくれる男が、いつかきっと見つかるだろう。
コピを飲み終えた後、中心街の方向までひと駅分一緒に歩いた。暗くなっても安心して女ふたりで歩道を歩けるのはこの国の良いところでもある。いたるところに防犯カメラがあるので路上で下手なことはできないが。二階建てバスが走り去る音がする。街路樹や植え込みの熱帯植物が街灯に照らされている。月はぼんやりとしか見えない。たぶんこの国は明る過ぎるのだ。
駅が近付くと、サエコがぽつりとわたしに言った。
「ねえ、こーちゃん、今度あたしが男にフラれたら、あたしと一緒に暮らしてくれる?あたし、こーちゃんを食べさせてあげれると思うよ。だからこーちゃんは心配しなくていいから。ずっと売れないライターでいいからね?」
あの夜以来、サエコはわたしの前から姿を消した。サエコから完全に連絡がなくなってからもう一年半経つ。わたしはというと、激甘コピを忌み嫌う女をパトロンに持ち、ライター同士をコーディネートする小さな事務所を構えた。サエコはコピの甘さに耐えられなくなったのかもしれない。今頃生温かい布団の中で、足の裏でも舐められているのだろうか。そして今わたしは、サエコが愛したその激甘のコピを飲みながらこの原稿を書いている。あっけなく旦那を捨てたサエコからのメールが、いつか来るような気がして。
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