先生と少女Bの場合
本のページを捲る音。
独特な匂いがふわりと香る。
西陽が射す図書室には、私と先生。ふたりきり。
……放課後のこの時間は先生を独り占めできる。私の特別な時間だ。
○
「そろそろ、閉めますよ」
先生の、低くて渋い声が特別な時間の終わりを告げる。あーあ……。
「もう少しで、読み終わりまーす……」
「……あと半分あるようですが?」
私の手元を見ながら、意地悪く笑う先生が電気を消していく。時間切れだ。
鞄に本を仕舞って、戸締りを手伝う。
「今日は何を読んでいたんですか?」
「図書だよりでオススメされてた本です」
「あぁ、あの本ですか。最後の大番狂わせに期待してください」
「おぉっ、楽しみですね」
窓を閉め終わる。先生が鍵を手にして、さぁ出ますよと手招きする。先生の細い細い指が夕陽に照らされて、少し切なくなる。
「先生また痩せましたかー?」
「いやぁどうだろう。体重測ってませんから」
確実に痩せた。それは一目瞭然だ。先生はいつもはぐらかすから、私はそれが悲しい。
「……ちゃんと食べてくださいよ?」
「わかってますよ。心配かけてごめんなさい」
カチャリ。鍵が閉まる。隙間から射していた西陽が途切れ、少し暗くなる。
進むとすぐに窓があるが、東向きだから暗い。近づく春は、まだ冷たさを帯びている。
ギリギリまで図書室に残るようになったきっかけ。誰にも話していない秘密。
……まぁ保健の先生は知っているけれど。
ある昼休み。先生に呼び出され、成績のことを叱責された帰り。
あの頃はまだ誤魔化しようのない冬が居て、それが私の悔しさを煽っていた。
そのまま教室に戻るのも癪で、私はブラブラとあてもなく校内を歩いていた。見慣れた校舎。
……ん。
え、え……?
壁にもたれて蹲っている誰か。それは見慣れた景色の中でひどく浮いていて、私は異変を察して駆け寄った。
「大丈夫ですか⁉︎」
顔を覗き込む。青ざめた表情は別人のようだったが、司書の先生だとわかった。
「あぁ、大丈夫、です……」
「全然大丈夫じゃなさそうです。保健室、行きましょう」
「いやぁ、職員が保健室だなんて……。収まりますから大丈夫ですよ」
「いいえ、連れて行きます」
自分の肩に先生の左腕をかける。身長からは想像も出来ないほど軽くて、持ち上げるのにあまり苦労しなかった。
もちろん先生も力を入れていたのだろうが、それにしても軽すぎた。
保健室にたどり着く。
勢いよくドアを開けてしまった。養護教諭が驚いたようにこちらを振り向く。
「どうしたの?ドアは静かに開けてちょうだい」
「すみません。あの、先生が……」
「あっ。ここに座らせてください」
事情は知っているような顔だった。よくあることなのだろうか?
「すみません……」
背もたれに身体を預けながら、申し訳なさそうに呟く先生。
「謝らないでください。あ、それじゃあ私はこれで」
「連れてきてくれてありがとう」
養護教諭にそう言われ、お辞儀をして扉の方へ。
「あの……」
か細い声に呼び止められる。
「はい」
「ありがとうございました」
「……お大事にっ」
扉を閉めたあと、またご飯食べてないのね、という言葉を聞いてしまった。それであの細さか。
何か事情があるのだろうけれど、そこに踏み込むのはいけない。聞かなかったことにして、歩き出した。
それからというもの、私はなぜか先生が動けなくなる場面に遭遇するようになり、交わす言葉もその度に増えた。……私は放っておけなくなっていた。
放っておきたくない。
そうこうしているうちに、事情を知った。
詳しい内容は分からないけれど、食欲が全く湧かないらしい。そういう病気なのだそうだ。
拒食症とは違うようで、先生は食べたいけど食べれないんです、と悲しそうに笑っていた。
先生は、色々なことを知っていた。お喋りするのが楽しくて、図書室に通うようになっていた。
小説が好き、というわけではなかったけれど、先生にオススメされる本を読むようになり、本が好きになっていった。
……先生のことも。
比例するように、止めどなく。
でもきっとこの気持ちに気付かれてはいけない。叶うはずもなくて、もちろん届けてもダメだ。
一度だけ、冗談めかして恋人さんは?と訊いたことがある。
困ったように、残念ながら、と笑う先生に、そのときほんとうに好きだと告白してしまいそうになった。
私はとにかく、先生に元気を出してもらえてばそれでいい。そう思うことにした。
思考を切り替えて、私は先生の前ではとにかく明るく振る舞うようにしている。
時々、心配したりもして。
ご飯食べてますか、とか。寝てますか、とか。
来年は図書委員になろうとも思っている。図書委員になれば、もっと手伝いやすくなるから。
「先生っ」
「あぁ、こんにちは」
そして、今日も私は図書室を訪れる。
恋心は奥の奥に仕舞い込んで、私は笑う。
先生にも笑っていて欲しいから。
その気持ちが届いたのか届かなかったのか、先生はふっと笑顔を見せてくれた。
それだけで充分……。
夕陽が満ちる特別な空間。
先生と私。
生徒の出払った静かな空間に、小さな物音と本の匂いが溶けこむ。
カウンターの方を見ると、先生が寝息を立てていた。頬杖をついて、船を漕いでいる。
珍しくて、可愛く思えてしまった。
「……好きって、言わないから。せめて想わせていてください」
静かな部屋には予想以上に響いて、慌てて本に視線を戻す。
呟きを包むように、刺す夕陽が柔らかくなったような気がした。
−先生と少女Bの場合 fin.
恋愛録 藍雨 @haru_unknown
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