山の波 淵の底

たびー

 山の波 淵の底

「ここの奥へ行くと?」

 夏だというのに、帰宅早々袖なしの綿入れ半纏を着た老人が、吉野にたずねた。

「ええ、ネットで見たんです。ずいぶんきれいな淵があるようですね」

 いろりの熾火を火箸でわずかに崩すと、長井老人は白くなった眉毛をへの字に曲げた。

「感心せんな。海上は険しいところだぞ」

「かいじょう?」

「ああ、そこの地名だ。山なのに奇妙だろう。海のものが山の中にあるからだろうな」

「貝の化石でも出るんですか?」

 ま、そんなとこだと老人は答えた。太古に海から一気に隆起した山脈ならば、山の中で貝や魚の化石が見つかる。ヒマラヤや北上山地のように。

 そんな場所だからこそ、自分の求めるものがあるのだという根拠につながるような気がして、吉野は長井の話に耳を傾けた。

「あそこはゲートの向こうだ。立ち入り禁止だ。おれも前に行ったのは、ずいぶん前のことだ。それも営林署の連中に道案内を頼まれてな。勝手には入らん」

 吉野は思わず背後の窓から、ゲートがあるという裏山をのぞき見たが、さっきまでの夕日はすでに幾重にもかさなった山の向こうへと沈み、闇がひろがるばかりだった。

「何年かまえに、誰か来ませんでしたか?」

 さてな、と長井老人はあぐらの膝に手をおいた。

「狼ノおいのさわには、もうおれしか住んでいないのは、来るときに見て分かっただろう。おれだって、いつもいるわけじゃない。たまに畑の世話やら墓参りやらに来るくらいだ」

 長井老人とは、廃線が決まった無人駅で出会った。生活に鉄道を利用している者などいそうもない、山の中の無人駅のホームで長井老人と二人降り立ったとき、自然と目があった。

 どこへ行くかたずねられたので、吉野はひとまず狼ノ沢の名を伝えたのだ。本当の目的地は名前すらわからないまま来たのだ。

「集落に長井さん一人になってどれくらいですか」

 狼ノ沢地区はいわゆる限界集落だったのだろう。若者の流失と住民の高齢化が進み、亡くなるか去るかしたのだ。残された家々は、どこも窓や扉は閉ざされていた。けれども元来雪の多い地域だ。雪の重みで住むべき人のいない家は屋根が壊れ、簡素な造りの小屋などは崩れているのが目に付いた。

「少しずつ減っていって、おれだけが残されたのは二十年ぐらい前か」

 長井の家は集落内のどこよりも大きく、もとは茅葺と思われる急勾配の屋根が乗っていた。トタンの錆具合を見るに、変えてしばらく経つように感じられた。けれど、家の中はさながら昔話に出てくるような、たたずまいのままだった。

 吉野は自在鉤の下がる囲炉裏など初めて見た。床や太い梁がむき出しの天井は黒光りし、湧水が水道替わりで裏山から引き入れ溜めておけるように甕が土間に置かれていた。使いやすいようにその横に流しが設えてあり、かまどが二つある。

「ここは山が深くて昔から天狗だとか山男だとか話が伝わってるから、ずいぶんまえにはあんたみたいな若い学生が話を聞きに来たもんだ」

 吉野は苦笑した。大学を卒業してからだいぶたつが、長井くらいの年齢からしたら同じようなものなのだろう。

「長井さんは、何か見たことは?」

 学生たちは民話の収集にフィールドワークしに来たのかも知れない。たしかに語り継がれる物語がありそうな雰囲気のある地域だ。

「そうだなあ。山いっぱいに狐火が灯ったのを見たことがあったけんど、子どものころの話だ。今となっては夢かうつつか」

 長井老人は、立ち上がると造りつけの戸棚を開けて、大ぶりなガラス瓶を持ってきた。どうやら果実酒らしい。蓋をひらくと、甘い香りが漂った。

「こんなものしかなくて、悪いな。駅で誘ったのはおれなのに」

 白い湯呑に金色の酒を長井は注いだ。

「いいえ、野営を覚悟していたので、泊めていただけて助かりました。それに、山のものがこんなに豊かだなんて、初めて知りました」

 鮎の燻製や、採れたての山菜のおひたし。若く柔らかいタケノコの天ぷら、塩漬けにした茸のおろし和えや老人がここで育てたという米。派手なものはない。長井が用意した素朴でつつましやかな料理だった。けれど水が違うのか、それとも駅から散々山道を歩いて疲れていたからか、吉野にはどれもこれも素晴らしく感じられた。

 渡された果実酒もまた、芳醇な香りがした。

「山はいい。おれひとりくらい難なく養う。もっと人がいた時には、山へ猟へも出かけた。春は山菜、秋は茸。みんな自分だけのとっておきの場所を、それぞれ内緒にしていた。実の親子でも、いよいよって時にしか教えなかったもんだ」

 誰にも知られない場所があるということだ。吉野が目指す場も、もしかしたらそんなふうに隠された淵なのかも知れない。

「吉野さんは、なんで海上に行きたがるんだ。しかもたった一人で。来る時に見てたが、あんたは山にあまり慣れていないようだが」

 とっぷりと日が暮れ、天井から下がった石油ランプ一つと囲炉裏の小さな炎が、老人の落ちくぼんだ目だけを光らせて見せる。

「一緒に来るはずだった友人に急に仕事が入ったんです。夏の休暇はずらせなかったんで僕だけで。友人のほうがアウトドアの上級者ですが、僕もこう見えて渓流にはよく釣りに行くんですよ」

 老人の表情から察するに、まだ納得がいかないらしく無言で酒をあおった。

「釣りはついでです……ネットで見たんです。きれいな画像を。青く見える淵というか川の淀みでしょうか。背景には紫の花がたくさん写っていました」

 紫の花は、藤の花かなにかか。淵の背後の崖にびっしりと咲いていた。

「ただ、その画像はひどくピンボケで。だから、どうしてもその風景を写真に撮りたいと思いました」

 吉野はディパックの中から、一眼レフのカメラを取り出して見せた。

「よぐ、わがったじゃ」

 老人のひどく訛った言葉に、吉野はなぜか胸の内を見透かされたように感じて、一瞬鼓動が早くなった。

 不意に外で甲高い女の悲鳴がして、吉野は手にしたカメラを落としそうになった。悲鳴は山にこだまして長く尾を引いた。

「ひ、こ、声が……!」

「ありゃあ、鳥の鳴き声だ」

 間延びするような声で、長井老が答えた。それから飲み干した湯呑を囲炉裏ばたに置いた。

「あそこは行くも帰るのも大変だ。山のことが分かってないと、手痛い目に合う。駅からここまで来る間に、何回も転びそうになってた、あんたの技量じゃ無理だわ」

 駅から集落までは、道と呼べるものはなかった。落ち葉が深く積もった山の斜面に、わずかについた筋のようなくぼみを歩いてきたのだ。長井老と出会わなければ、吉野は道に迷っていただろう。

「気をつけて行きます」

 吉野は焦った。ここで手ぶらで帰っては、わざわざ休みを取ってまで来たかいがなくなる。いや、思惑が外れてしまう。

「悪いことは言わねぇ。止めておけ。この近くにだって、きれいな場所はたくさんある。鮎や岩魚も釣れる川が何本もある。教えてやるから、明日はこの辺の写真を撮って帰ることだ」

 すげなく言い置くと、風呂を焚いて来ると老人は腰を上げ光の輪から外れた。

 吉野はカメラを強く握った。

 帰るわけにはいかない。せっかく、ここまで来たのに。とっておきの場所を、必ずやカメラに収めて見せる。吉野はちろちろと燃える炎を見つめた。



「吉野さん、写真も撮るんですね」

 いつのまにか釣り仲間に加わった矢口が吉野に話しかけてきたのは、そう前のことではない。せいぜいが三年か四年前だ。

「新聞ひらいたら、吉野さんの名前があって朝からビックリしましたよ」

 地元新聞社主催のフォトコンテストの結果を、たまたま目にしたのだろう。すごいなあ、と言われて吉野は悪い気はしなかった。

「でも、三席だったから」

 大手新聞社ではなく、地元紙。それのさらに三席となれば吉野自身は嬉しさ半分、歯がゆさ半分な結果だった。

「オレもやろうかな。みんなみたいに釣りするわけでもないから。河原で燻製作るのも悪くないけど、ついでの楽しみが増える」

 矢口の動機はごく軽いものだった。頼られるまま、吉野が何かと矢口にカメラのイロハを教えた。

「カメラ、楽しいっす。吉野さんの写真はキレイだ。オレもこんなふうに撮りたい」

 吉野が撮った自然の姿を、矢口はうっとりとして見つめたものだ。春の桜、夏の渓流、秋の紅葉、冬の樹氷。

 手放しで吉野をほめる矢口は、釣り仲間に同行すると写真を撮るようになっていった。

 吉野のような風景を撮ることには、あまり向いていなかったので、人物をテーマにしたらどうかと勧めた。

 料理がうまくて、すぐに誰とでも打ち解ける。矢口は自然に吉野たちのメンバーになっていたように、人の懐へ入るのがうまい奴だ。人物を撮るほうが性に合っていたらしい。めきめきと腕をあげ、少しずつコンテストへ投稿するようにもなり、そして……。



 襖のむこうで着信音がした。

 いつの間にか眠っていた吉野は、暗闇の中で思わず枕元のスマートフォンを手探りした。

「……ああ、何もねぇよ……」

 長井老の声がした。家族からだろうか。携帯で話しているようだ。湿っぽい布団にくるまったまま、スマートフォンを起動させると画面の隅にアンテナが一本だけ立っている。山奥の廃村にも関わらず、電波が届くようだ。

 吉野はネットに接続して、ブックマークしてあるサイトへと行った。個人のブログだ。ブログの あるじは『リトルフット』という。そこに例の画像があるのだ。

 まるでイタリアの青の洞窟のような水をたたえた淵と、紫にけぶる崖。記事のタイトルは『遅咲きの花たち』という。

 ゆるくピンぼけした画像は携帯電話で撮られたものかも知れない。画素が荒いのだ。

 詳しい場所を知りたくて、リトルフットへ吉野はメッセージを何度か送信したけれど、なしのつぶてだった。ブログは、淵の記事を最後に更新されていない。日付は五年前のちょうど今頃のものだ。

 場所を特定するために、ブログに投稿された足取りを辿った。淵にいたる一連の記録は、携帯電話から直接投稿されたもののようで、吉野が今日おりた駅の表示板がわずかに写っている記事があった。

 そこからは、根気強く情報を集めた。似たような画像はないか、ネットの海を漁った。図書館で古い写真雑誌を隅から隅まで目を通した。

 そしてようやく目星をつけたのだ。

「あそごはな、行ったらワガネぇどごなんだ。山のカミは女だがら」

 親しい者と話しているようで、長井の言葉は地元訛りがきつくなっている。

「笑いごとでね。たしかにあそごは魚っコ、いぐらでもいる。タゲノゴもマイタケもある。だども、そったなごどで入らねぇ。あそごはワガネんだ。男らは、ぜってぇ行ったらワガネ」

 吉野は聞き慣れない言葉に耳をすました。ワガネ……とは駄目という意味のようだ。

「あそごは……奴らがいやがる……。だがらメイシンだどが言ってるわりに、営林署の連中もおっかねくて柵つぐってヘレねぐしたんだ。……明日の朝、帰ぇす」

 柵、とはゲートのことだろう。では、奴らとは? 猿でもいるのだろうか。

 迷信という言葉に耳をそばだてたが、永井老は短い挨拶の言葉とともに通話を切ったようだ。

 明日の朝、帰すといっていたのは、むろん吉野のことだろう。

 ここまで来て、水を差す者が現れるとは。明日は日の出まえ、長井が寝ている間に家を出ようと決めた。吉野はスマートフォンのタイマーを三時に設定した。野営覚悟で来たから、食べ物も飲み物もライトも準備してある。

 かならず、あの景色を手に入れる。そして、今度こそは……。

 目をつぶった吉野は、唇をかみしめた。



 吉野は笹の藪に難渋しながらも道なき道を進んだ。

 まだ日の出前だが、空は白々とし始めている。ヘッドランプはもう切ってもよさそうだ。吉野は目の高さの笹をかき分けた。

 囲炉裏端に床を敷いて寝ていた長井老人を起こさぬよう、家をそっと抜け出したときはまだ暗かった。裏山のゲートを乗り越えしばらく行くと、軽自動車一台通れるくらいの道はすぐに草に埋もれて見えなくなった。

 ネットの地図で目星をつけた。そして、この一年間計画を練った。

 山肌の入り組んだなかを流れる川、駅の表示板、淵に至るまでのわずかな画像。最後に残った候補地、目的の沢はいちばん人の入りにくい地形に思えた。おそらくは、海上のどこかにあの場所はあるはずだ。

 もしも違っていたら? 吉野は胸にわきあがる不安を首をふって退けた。



 矢口が、一席を取った。

 吉野はマンションの玄関で、新聞をひらいた手が震えた。

 矢口は釣り仲間の子どもたちがシャボン玉を追いかける、愛らしい笑顔とみずみずしい躍動感をとらえていた。

 ふつう、人はレンズを向けられたなら緊張する。しかし、矢口のくしゃくしゃの笑顔はその緊張をとく。いつも遊び相手をしてくれる矢口を子どもたちは大好きだ。だからこそ、こんな一瞬が撮れたのだろう。

 機材がよくなかったか、構図か、色のバランスか……。吉野は紙面に載った自分と矢口の写真を穴があくほど見比べた。気がつくと新聞はグシャグシャになって吉野の足元に落ちていた。

 吉野の写真は三席だった。



「まさか一席が取れるなんて、信じられなくて」

 戸惑いをふくんで照れ笑いする矢口に、吉野は精いっぱい取り繕って祝いの言葉をかけた。

「吉野さんが色々と教えてくれたからっす。ありがとうございます」

 どこまでも気のいい奴なのだ。吉野の焼けるような思いにも気づかず、頭を下げる。

 自分よりもあとから始めたくせに、たかがアウトドアのついでだったくせに。

 一席といっても、しょせんは地方紙のコンテストじゃないか。

 いくらでもケチのつけようは、あっただろう。けれど、その「しょせんは地方紙」で吉野は三席以上の賞を取ったことがないのだ。

 吉野は矢口の躍進を突き付けられた。まぐれだろう、という吉野の読みは外れた。

 矢口はその次の回でも一席を飾り、ついには全国紙のコンテストにも写真が載るようになったのだ。

 それでも偉ぶることなく、いつも吉野に声をかけてきた。

「オレ、カメラを始めてから毎日が楽しいです。変わりばえしない風景にキラキラしたものが隠れているんですね。吉野さんの写真がすごく良かったから気づけました。カメラ、楽しいっス」

 そりゃ楽しいだろう。結果がついてくるのだから。吉野は矢口を避けるあまり、釣りへも行かなくなった。

 誰も撮ったことない風景で挑まないと入選は難しい。そう焦るあまりに、肝心のカメラから遠ざかり吉野が撮影地をがむしゃらに漁っていた時に、淵の画像に行き当たったのだ。一目で魅了され、これならば負けないという手ごたえを感じた。

 撮る、そして今度こそ一席を狙う。



 はたから見たら、くだらないことだろう。仕事でもなければプロでもない。たかが素人の趣味の腕比べ。ちっぽけなプライドを守るために、ひと気のない山奥に分け入り自ら危険に身を晒すのは馬鹿げた行動だと思われるだろう。

 けれど、吉野には胸に消せない「敗北」の焼き印が押されたように感じていた。それを消すためには、入選して一矢報いるしかない。

 吉野は草や蔦に足をとられながらも川のせせらぎを聞きつけ、眼下に目を転じた。山間(やまあい)に細く清い流れが見えた。

 楢やブナの葉のむこうに、紫の色が見え隠れしている。藤の花か? 吉野は花を目指して必死で進んだ。

 川の音が大きくなる。日の出を迎えて小鳥たちがさえずりだす。山の濃い草いきれと土の匂いが日光とともに足元から湧き上がる。花は少しも近くならない。あと少し、あと少しなのに! 

 吉野は気持ちが先走りした。草と蔦が絡み合った場へ踏み出した足が空(くう)を踏んだ。ふわりとした感覚のあと、叫ぶ間もなく斜面を転落する。

 滑落したのが数秒にも数分にも感じられた。衝撃とともに、吉野は河原に転がり出ていた。足といわず全身を襲う痛みより、カメラの無事を先に確かめた。手袋をしていたので手は大丈夫だった。足は軽い打撲、顔は枝で切ったのか、拭った手袋にわずかに血がついた。

 這いつくばったまま、カメラをケースカバーから出して電源を入れる。かすかなモーター音とともにシャッターが開いた。いつものように構えてファインダーを覗くと紫の色が見えた。

 花だ。

 吉野は白い小石の河原に、よろめき立ち上がった。岩壁の割れ目から数本、幹を生やした桐の大木があった。桐には藤の蔓が絡まり、今を盛りと二種類の紫の花が咲いていた。濃い藤の紫と、淡い桐の紫。まるで雲がたなびいているようだった。

 そしてその下には、水をたたえ青く淀む淵があった。

 川が正面の岩壁にぶつかり鉤の手に折れ、流れを緩やかにしていた。まるで静かな海のように水がたゆたっている。河原の小石は砂浜のように感じられる。

 吉野は息をのんだ。

 深い谷間にある川岸に朝の光がさしてきた。岩壁は白く輝き、濃淡のある紫の花々を鮮やかに見せた。きらめく水面は青く澄みわたり、すでに一枚の絵が完成されようとしている。

 吉野はこの機を逃すまいと、何枚もシャッターを切った。足の痛みも忘れ、河原を移動しながらアングルを変え何度も何度も。刻一刻と変わりゆく淵の青さに目を奪われる。

 ここは手つかずの場所だ。これを公募に出せたなら、きっと審査員の目を引くだろう。

 周囲の木々も夏の緑が生命力を放ち、ときおりカッコウの声がこだました。

 みずみずしい美しさに引き込まれ、吉野はいつしか無心になっていった。シャッターを押すたびごとに、これを誰かに見せたい、誰かに見せたいという想いばかりが強くなっていく。

 それはきっとコンテストの審査員ではない。身近な仲間たちに、こんな素敵な場所があったと教えたいのだ。

 もとより自分が写真を始めたころは、そんな気持ちだったはずだ。

 吉野は撮影の手を止めて入道雲が湧く空を見あげた。

「楽しい……」

 そう思えたのはいつ以来だっただろう。

 ふいに矢口の笑顔が思い出された。--吉野さん、こないだの写真見せて、オレのも見て。それから、吉野さんから教わったレンズ、ボーナスで買ったっす!

 トンビが谷の間をゆっくり円を描いて飛んでいた。吉野は大きく深呼吸をした。


 ひとしきり撮影を終えて、吉野は水際へと近づいた。

 水の中をよく見ると、魚影が濃くなっていた。人が足を踏み入れることが難しい地だ。きっと無防備な魚がたくさんいる。釣竿をおろしたなら、どれだけ釣れるか。

 今度は、皆を案内しよう。ふと、あたりを見渡すと、当然だが道らしいものはない。行きも帰りも大変だという長井老人の言葉を思い出した。

 帰れるだろうか。急に体のあちこちが痛み出した。落ち着こうと、吉野はしゃがんで川の水へと手をひたした。と、同時に出しぬけに背後で笑い声がした。

 ばね仕掛けのように立ちあがり振り返ると、一羽の鳥が飛び立った。吉野は詰まった呼吸を整えようとした。真夏の日差しを受け乍ら、冷や汗が流れる。どこからか視線を感じてあたりを見渡した。

 長井老人が言っていた「奴ら」は何なのだろうか。ゲートが作られ集落の住民すら足を踏み入れなかった理由は。けれど、なんの異変も見つからなかった。

 川の水で顔でも洗ってしゃんとしよう。そう思いカメラを置くと、再び水辺にしゃがんだ吉野は、足元の石に紛れていた金属の塊を見つけた。

 本来は白かったと思われるボディは塗装がはげて錆びていた。今では珍しくなった二つ折りの携帯電話だ。ここを以前訪れた誰かが落としたのか。吉野はズボンからスマートフォンを取り出して電波を確認した。途切れがちだが、たしかに電波が届いている。

 ブログの写真は、ここからサイトへ投稿出来なくもない。これは、リトルフットのものだろうか。まさかと、吉野は頭(かぶり)を振った。

 顔を洗ったら何か食べよう。起きてからろくに食べずに歩きどおしだった。帰り道はそれから考えよう。携帯電話を傍らに置いて、両手を水に差し入れた。すると吉野の手元へと魚が泳ぎよってきた。

 流線型の銀の体に、赤く見える木の葉模様の斑紋がある。

「ヤマメかな」

 自分の影が水に映りこんでよく見えない。胸ビレがなぜか不自然に長いように感じる。もっとよく見よう、と吉野は水面へと顔を近づけた。魚が眼前で跳ね上がり、奇妙なシルエットが空中に止まっているように見えた。

「!」

 一瞬のち、魚はしぶきをあげ、波紋の中へと泳ぎ去った。

「まさか」

 吉野は思わず水へと足を踏み入れた。真夏とはいえ、清洌な水は吉野を震え上がらせた。膝の深さまで行くと、すぐにまた魚が寄ってきた。

 そして、水面へと顔をあげた。……顔が、あった。

 長い黒髪を水にはなち、ヤマメの体と尾をもつ小さな人魚は吉野を見つめ微笑みかけた。瞳は白目がなく、まるで星空が埋め込まれたようだった。小さな胸のふくらみと、かすかに口角をあげた赤い唇。

 するりと身を翻し、人魚は淵へと泳ぎ去る。

「まってくれ!」

 水の冷たさも忘れ、吉野は川へと勢いよく突き進んだ。写真を撮らなければと焦った吉野の手からスマートフォンが落ちる。ゆるい流れに体が押され足元が崩れ、吉野はあっけなく水へと沈んだ。淀みは水流にけずられ、岸から一気に深くなっていたのだ。

 なすすべもなく、沈みゆく吉野の周りに集まった無数の人魚は思いがけない力で、さらに深みへと体を引いていく。

 見上げた水面みなもには、黄金きんの光が差し込み、柱が神殿のごとく林立する。あまりに美しく吉野は恐怖を忘れた。


 こんな写真が撮れたなら、どんなにか幸せだろう。


 コンテストのことも、矢口へのわだかまりも全てが消え去った。

 それは、まばたきをする間にも満たなかったろう。

 水は一気に肺へと押し寄せてきた。人魚たちが吉野を水底へと導いていく。


 ……吉野さんには、世界はこんなふうに見えてるんスね。きれいだな、ほんとうにきれいだな……

 

 ああ。矢口にも、この光景を見せたい。

 

 吉野は最後にそう思った。



「どいつもこいつも。おれは、やめろと忠告したんだからな」

 長井老人は、昼近くに白い河原で吉野のカメラと荷物を見つけた。

 降るような蝉の声が山にこだまして耳にうるさい。首に巻いた手拭いで汗を拭くと、胸ポケットから携帯電話を取り出した。

「お久しぶりです、狼ノ沢の長井です。はあ、そぉです……察しがいくて助かります。いつもの場所……はい」

 通報は短時間で終わった。

 淵の真ん中にうつぶせで浮かぶ吉野を収用するのは、警察や消防団に任せるしかない。

 長井は河原の石の間から錆びついた携帯電話を拾いあげた。

「五年前……たしか小芦こあしとかいう奴の」

 そのまま背負ったバッグへしまい込むと、淵に向かって手を合わせた。

「お前らの欲しいものはクレてやった。これでしばらくは悪さするなよ、わがったな!」


 海のうえではなく、山の上にある海……海上。


 ぱしゃんと、ヤマメがはねた。

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山の波 淵の底 たびー @tabinyan0701

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