第3話 急
第1次試験の4日後、水曜に、高名な機械会社からの合格通知書が届いた。さらに4日後の日曜に、最終面接を行うとの由である。
今野のほうはどうだったのであろうと、私は考えた。
(ケツカラチガ)
彼は、応募資格ぎりぎりの年齢であり、妻帯者でもある。子供も1人は確実にいる。こちらは、履歴書の上では、独身ということになっている。会社のほうとしては、「付属品」代のかからない、安い買物のほうがありがたいにちがいない。英語の会話能力であれば、帰国子女であったこともあり、こちらのほうが上に決まっている。
(ケツカラチガ)
今野は落ちた。そう考えるほうが自然であるように、私には思われた。惻隠の情は、そこはかとなく催した。だが、しばらくすると、私は鼻唄まじりに手足の爪を切りはじめた。そのあとには、面接での受けを好くしようとの思いから、床屋へも足を運んだ。
最終試験の当日になった。採用条件を確認しにいくといった寛いだ心持で、私はアパー
トを出た。
順番を待つための控え室に通されると、着座した2人の姿があった。なんと、一方は今野のものである。
(ケツカラチガ)
この回は個別に行われるということで、合格通知書には、私の面接試験が開始される時刻も記されていた。その10分前に、私は訪れている。今野たちは2人とも、早く来すぎたのであろう。そう考えた。
(ケツカラチガ)
前回に同じく、今野は知らん顔を決め込んでいた。私のほうでも目を向けずにおいた。
(ケツカラチガ)
指定された刻限になっても、私は呼ばれなかった。10分ほどが過ぎたところで、第1次試験の際に配布や回収をしていた男が、駆け込んできた。
「お待たせいたしました。こちらの都合で遅れてしまって、申し訳ございません。それでは今野さん、どうぞ」
(ケツカラチガ)
こともあろうに、私は今野の次なのであった。通知書の段階から、こちらのほうが後回しにされているわけだ。焦りを覚えないではいられなくなった。
(ケツカラチガケツカラチガッ)
自分に代って、悪魔に「難を挿入された男」なのだ。そんな考え、今野に対して感じていた負い目のようなものも、こっぱみじんに吹き飛ばされてしまった。
(ケツカラチガ)
30分弱ののち、私が呼ばれた。今野とは、通路ですれちがうこともなかった。
身にまとっている雰囲気からして偉そうな中年男が、正面に3人いた。その脇で控えている人事部長が、進行役を務めた。はじめのうちに投げかけられたのは、1次面接での質問をなぞるような愚問ばかりであった。
「そら。きみはあれ、あれだよね。あそこ。控え室で、きみのまえの番のひと。今野満男君と、会ったでしょ?」
専務であるという男が、その顎先を摘みながらで、尋ねてきた。その心のほうは、見えない。必要最低限を、私は答えた。
「長いこと同僚だったんだってねえ、K計算機で。これは、彼にもお願いしたことなんだけどね。ちょっとでいいんだ。きみの口から、今野満男君のセールスポイントを、聞かせてもらいたい。ただし英語でね」
職務面における今野の長所を挙げよ。そうは求められていないものと、私は解した。見方を変えれば彼の弱点にもなるようなこと。たとえば、日本人らしく控え目であるということ。家長にふさわしく家庭的であるということ。10年以上も髪型やメガネを変えないほどに意志強固であるということ、を陳べた。
「ありがとう。ペーパーテストも満点だったんだけど、きみの英語力はすばらしいね」
「お褒めにあずかり、光栄であります」
役職のわからない唯一の男が、上体を前後に揺らしだした。オットセイのようである。それを見た人事部長が、頷いたのち、首から上を私のほうへ振り向けた。その男からの質問が来るぞとの、合図であるらしかった。
「あのあの。バカにすんなって怒られるような質問するけど、けっこう大事なことなんだよね。えーっと。今野君は、お酒は全然ダメらしいんだけど、きみはどうですか?」
反対の答を期待しているのが丸わかりだ。私は大袈裟に返しておいた。
「ほう。酒豪なんだね」
引き取ったのは、専務であった。
「いや結構結構。僕もそれなりには、いける口なんだけどね。ホワイトピープルと比べたら、足許にも及ばないんだよ。同じピッチでやってて、ふと気づいたら、アンフェアな条件を飲まされてた、なあんてことも、あったりしてね。あはは」
話し好きの人間には、遅滞なく頷きの言葉のみを返してやるにかぎる。
「さようですか」
「うん、そうなんだ。でもまいっちゃうよね。いったいあのひとたちって、どんなレバーしてるのかね? ウシの胃じゃないけど、肝臓を5つぐらい持ってるのかね? ねえタカハシ常務。あなたも、我々のあいだではカメだって言われてるけど、ホワイトピープルにはかなわんでしょう?」
「いやあ、チャイナメンにもかないませんわ」
そこからは、雑談に近い話となった。それを締め括ったのは、人事部長である。
「最後に、わたくしのほうから1つ、質問させてください。遠藤さんはお1人でお住まいのようですが、恋人はいらっしゃいますか?」
私は噴き出しそうになった。訊かれるであろうと想っていたことを、案にたがわず尋ねられた。そのことによるのではなかった。耳慣れない単語が、そこに含まれていたからである。口にして恥ずかしくないのかと思いながら、ただ否と、私は答えておいた。
その翌日の午後に、内定の電話連絡をもらえた。一両日中に、会社の指定する医療機関で、健康診断を受けてほしい。その名称、電話番号、所在地、最寄りの駅は。そういったことも、あわせて伝えられた。
「うかがってはいけないことなのかもしれませんが、何人が内定をいただけたのでしょう?」
今野はどうなったのか。本当のところ、私はそう訊きたいのであった。
「予定よりおひとかた増えて、6名です」
人事部長は「恥語」を平然と口にできるような男である。やはり通じなかった。診断の場に赴けば、内定者の名簿か何かが用意されていよう。いずれ判明するものと考え、私は収めておいた。
通話を終えるまでには、その翌日に出かけていくことを決めていた。受話器を戻すことなく、私は指定病院に電話をかけた。硫酸バリウムを飲んでもらう。よって、飲まず食わず喫わずで8時間以上を過ごし、訪れてもらいたい。そういうことであった。
一時的なことにせよ、普段は自由にできるあれこれを禁止されるというのは、鬱陶しいものである。受話器を戻すのと同時に、私は溜息をついた。すると、軍艦が接近してくるのが、目の端に観えた。悪い報せであったことを想っているらしく、その速度は、いつになくゆるやかなものであった。哀れに思われ、私のほうから言葉を発した。
「なんだそうだったのっ。やったじゃないこの色男っ。からだは健康そのものなんだからもう決まったも同然よっ。あそうだそうっ。前祝いもかねて、今晩は早めにガッツリと、ぶ厚いステーキ食べましょ。これからあたし、ソッコーでお肉とワイン、買いいってくるわ」
私も嬉しくはあった。これで、おまえに攻め立てられる生活からも、逃れられるのだ。軍艦の轟かせた祝砲を、笑顔で聞き流した。
その油断を、夕食後に突かれる破目となった。敵は、アルコールをも燃料にしている。
「んねえ。……いいじゃないの。どうせ早く寝なくちゃいけないんだし。睡眠薬がわりよ。んね。……おふろ入ってから出かければいいんだし。んね。……おふろ出てきたら、すぐにバスタオルでふきふきしてあげるし。んね。……お気に入りのプレーントオのおクツだって、おとといのうちにもう、鏡面しあげしてあんのよ。んね。……ねえってばあ」
執拗であった。神経戦のほうが疲れそうに思えてきた。はやばやと、私は白旗を挙げた。こちらの布団、ドックに入ってくることを、軍艦に許した。要望に沿った調整を施しにかかった。
予想どおりで、病院には名簿のようなものが用意されていた。人事部長の言ったとおりでもあった。6人の姓名が、段々に並べられていた。私の知っている名前は、自分のものだけだった。何も感じなかった。というより、淋しさと同量の嬉しさが足し込まれており、私の心はプラスマイナス0(ゼロ)、無の状態になっていた。
「下着と靴下だけで、この検査着を着てください。いいですよね? LLで」
そう言いながらで、受付の女は、ポリ袋のなかに整然と畳まれている衣類を差し出してきた。頷きながらで、私はそれを受け取った。
「時計とか貴金属とかも、はずしてロッカーに入れてください。スリッパもロッカーのなかに入ってます。院内はそれで歩いてください。それから、ロッカーにちゃんと鍵をかけてください。鍵にゴム輪が付いてますから、どっちかの手首に付けといてください」
矢継ぎ早の指示に、私は軍艦のことを思い出させられた。うんざりしながらで、ロッカールームのありかを尋ねた。
胃のエックス線での撮影は最後だ。ブロンドの東洋人看護婦は、私の問いにそう答えた。
「レントゲンのあと、下剤を服んでいただくからなんです。排便されるまでには個人差があって、ご帰宅なさってからっていうかたがほとんどなんです。でも、そうじゃないときも、なくはないんです。そうなると、いっぺんにたくさんのかたが、院内のトイレでお出しになることになります。その場合、院内のトイレが、詰まっちゃうおそれもあるんです。ですから、検査の最後にバリウムを飲んでいただく、そして下剤を服んでいただく。そうすることで、なるべく院外のトイレで排便していただく。分散してお出しいただけるように、当院でも計画しているわけなんです。それに、きょう検査をお受けになるのは、T機械の関係のかただけじゃ、ありませんので」
大腸のなかで固まると厄介なことになるというのは、誰かから聞いていた。水を流しまくれば済みそうなトイレの下水管でさえ、その事情は変わらないらしい。バリウムを飲むのが生まれて初めての私は、緊張を覚えた。
とはいえ、月並な検査が続くうち、私の気分は回復していった。看護婦たちの女の部分を、なめるように観賞できるまでになることができた。
心電図を採られたあと、白衣に大きな陰影をつけられる若い女体から、手のひら大の紙片を渡された。終着点に至るための案内図なのであった。進路が、矢印で記されている。恐る恐るで、私はそれに従った。
ドアをノックすると、中年の、肥満した看護婦が出てきた。会社名と氏名を問われた。私が答えると、その2つを唱えながらで、彼女は引っ込んでしまった。再びで肉まんのような顔を見せると、白いプラスチックでできた楕円の番号札を、手渡してきた。それを帰りに受付へ出すようにと、指示されもした。従う意向を口にしたところで、ようやくのこと、私はその中年女の管理下にある部屋に入れてもらえた。
太っちょの看護婦が何ゆえにドタバタやっていたのかは、入ってから理解できた。室内がやけに狭いのだった。
奥にガラス張りの一画がある。そのなかでは、検査着姿の男が、板状のものを背負って浮かんでいる。その手前の左右には、壁を背もたれにしたベンチが、しつらえられている。双方に2人ずつ、男が腰かけている。いずれもが40年配のようである。それというのに、愛の告白を終えたばかりの少年にも似た、不安げな横顔を見せている。
4人の男たちの前方には、大人1人がどうにか通れるほどの空間しかない。看護婦と私が並んで立っている場所、出入口付近にも、畳半分の面積はない。手前に座っている2人へなら、そこからでも手が届きそうである。
「はいそれじゃあ。今度は左を下にして、横向きになって。……そうそう。それで右腕をうしろに持ってくる。……うーん。もうちょっと身体を開き気味にする。ゴルフクラブやバットを振るときの、テイクバックを思い出して。……うんそうだっ。そのままで動かないっ」
男の声での小うるさい命令が、部屋中に響き渡るようになっていた。ガラスケースの真横に、指令室のようなものがある。声はそこから、スピーカーを通して噴き出されてくる。そのことを認めたとき、私は丸い力に肩を叩かれた。
「どうしたの?」
「いえあの。バリウムは……」
「あなたはまだまだ、ずっと先です。えーっと。次はと……。17番のカナイさんですっ。ほらあなた。彼がどいたとこへ座りにいって」
私とカナイとが入れ替わった。自分の番が来たときに備え、私はカナイの様子を見守っていることにした。
一息で呑むようにと言い、看護婦が、ビールのロング缶ほどもあろう紙コップを、カナイに手渡した。彼は従った。あっという間に終えた。小麦粉に口づけしたかのように、その唇を白く染めていた。彼の飲み干したものこそが、噂にだけ聞いていたバリウムであったことを、私はその色で悟った。
前と同じ台詞が、看護婦の口から噴き出された。しかし、このときの彼女がカナイに受け取らせたのは、手のなかに収まるほどの紙コップであった。カナイの首が伸びた。呑み終えるや、彼は顔を顰めた。前のときには見られなかったことである。私は目を鋭くした。
「がまんよ。炭酸だから、ゲップ出したくなってるんだろうけど、グッとこらえるのよ。すぐ楽になれるんだから。奥さんとの夜のことを思い出して。グ、グヘヘヘ」
看護婦の余計な一言により、カナイの辛さのほどが、私にも伝わってきた。一方、それに先立つ彼女の言葉どおり、ややあると、カナイの表情は元に戻された。いや、一仕事やっつけたかのような清々しささえ、その顔のどこかには浮かべられている。ともあれと、私は思った。苦しみは一過性のものなのであろう。確認する機会はあと3回もあるのだ。取越し苦労で胃が荒れるということもありえなくはない。そう考え、私はガラスケースのほうへ顔を振り向けた。
相も変わらずの不気味な光景が、目に入ってきた。生きている剥製。そんなものででもあるかのように、ケース内にいる男が見えた。私は俯き、番号札をいじくりだした。
オオヤマも、カナイと同じ経過を辿った。何事もなく検査を終え、看護婦から下剤をもらい、服んでから部屋を出ていった。
3人目、ツノダが剥製になったところで、指令室の男の声が、看護婦に向けられたものとなった。その回の終了後に、彼がトイレに行くつもりであること。彼が戻ってくるまで、次の番の者にバリウムを飲ませないでもらいたいことを、一方的に告げた。
私のあとに入室者はなかった。横幅のある看護婦を含めても、3人だけになったからか、部屋が広く感じられた。他の2人も同感しているとみえ、寛いだ雰囲気が漂いはじめていた。するうち、看護婦と目が合ったので、私は疑問に思うところを訊いてみることにした。
「ぼく、生まれて初めてでバリウム飲むんですけど。下剤だけで、残らず出てくるもんなんですか?」
「ええ。ごくまれに、カンチョウしなくちゃダメな人も、いますけどね。でもそんなかたは、100人に1人ぐらいです。いままで見てておわかりでしょうけど、炭酸の苦しさで、バリウム吐いたひとなんていなかったでしょ? それとおんなじで、普通は心配ないです」
「でも、吐いちゃうひともいるから、看護婦さんが励ましのお言葉を、かけられてるわけですよね? 心配だな、ぼく」
「大丈夫ですよ、あなたなら。立派な体格なさってるんだし。わたしも長年、この仕事やってきてますから。心配なのはむしろ……」
そこで看護婦は、縦長の台の上に載せてある紙片を覗き込んだ。彼女お手製の対照表か何かであるらしい。
「むしろ20番のヒラノさんのほうです。おヤセになってるし」
私の斜向いに腰かけている男に、彼女は目を注いでいた。
「ええ? あはは。お言葉ですけどね、看護婦さん。僕なら絶対に大丈夫ですよ。バリウム飲んだ経験だって、これまでに2回あるんです。それに僕は、ビールが大好きでね。大ジョッキを一気で呑めるほどなんです。まさかそんな、はは。バリウムを吐くだなんて」
そこでヒラノは、銀縁メガネの鼻を押し上げた。言葉は丸みを帯びたものであったが、その表情は角張っている。
「そうなんですの?」
「そうですよ。でも心外だな。長年このお仕事やってるかたから、吐きそうな男だと思われるなんて。小学生のときの遠足で、ビニール袋もたされてバスの最前列に座らされてた奴らと、似たような存在に思われてるなんて。ケチな女房に、洋服代も馬鹿にならないからって言われて、体型維持に努めてるんですけど。そんなにひ弱そうに見えますか?」
看護婦は、焚火にあたるときのように、左右の手のひらをヒラノへと向けた。
「ごめんなさいね、ご気分を害しちゃって。冗談だと思って忘れてください」
指令室の男が戻ってきた。看護婦がヒラノを呼んだ。見ていろとばかりに勢い込み、彼は手渡されたものを口に運んでいった。あっという間にそれを逆さまにした。その言にたがわず、見事な呑みっぷりであった。痩身ではあるが、彼の頭部は大きい。私は「うわばみ」という死語を連想させられた。
自信に満ちあふれた顔で、ヒラノは看護婦と紙コップを交換した。それの大きさは、前のものの半分もない。彼がビール党であること、炭酸飲料を好むことも、聞かされている。なおさら早く空けられてしまうだけであろう。私の興味は半減した。だが、よそを向くことまではしなかった。
(ケツカラチガ)
なぜなのか、その言葉がまた、私の頭のなかで聞えた。髪型こそ七三わけにしているものの、ヒラノが、どことなく今野と似ているように思われていたのかもしれない。
小ぶりな紙コップが動きだした。その底がヒラノの鼻を隠した、その瞬間である。カランと、乾いた音が鳴った。確乎として突き出ていた青白いものの外側から、真っ白なものが噴き出してきた。紙コップが消えた。そのときにはもう、ヒラノの口と前身頃は白く爛れていた。空いた手で喉を押えながら、彼は床に向かっての咆哮を繰り返しだした。
何度目かに固い音が聞えた。白い水溜りのなかから、銀色の棒が生えていた。それがメガネの蔓の一方であることは、上方の曲がり具合で、私にもわかった。
(ケツカラチガ)
私がぼんやりしているうちにも、室内は騒然となっていた。ヒラノは、いつしか蹲ってしまっている。つまるところ、騒々しいのは、床の後始末に大童となっている看護婦だけなのであった。そして、吐き散らされたもののなかにメガネが沈んでいるということを、鈍感な彼女は見過しているらしかった。片づけにいそしんでいる荒々しい手つきのほどにも、そのことはうかがわれた。
「もおーっ。あたしの言ってたとおりだったじゃないよおっ。まったくうっ。偉そうなことさんざんほざいてたくせにいっ」
警告しようと思い、私は口を開いた。だが、発することのできたのは、短い声だけであった。その音量も、看護婦の喚き声のそれには、遠く及ばなかった。罵詈とともに、彼女は床を拭き続けていた。メガネをハネてからも、その口舌や右手が、止められることはなかった。
目にも留まらぬ速度で動いていた物体が、私のスリッパの先で静止した。どういう成行きでそうなったのか、白色に濡れそぼった2枚を仰向けている。その着色料がヒラノの内臓から放たれた汚水であることに、私は気づいた。拾ってやろうとは思えなかった。それまでの姿勢のまま、ただ見下ろしていた。
(ケツカラチガ)
ややあると、丸みを帯びた面の片方から、生々しい色沢が失われはじめた。訝しく思い、私は凝視した。その面が、重力の働くほう、床のほうへと、白い液体を吸い込んでいるのが見て取れた。フレームに収まってはいるものの、そのメガネレンズは割れているのだった。
(ケツカラチガケツカラチガッ)
記憶を呼び覚ましてから間がなかったためであろう。山梨の旅館の浴場のタイルに転がっていた今野のメガネの映像が、それに重なった。渡嘉敷に犯されて失神していた彼の姿が、私の頭のなかで大写しになった。
(ケツカラチガケツカラチガケツカラチガッ)
看護婦が気づき、ヒラノのメガネを拾いにきた。そのことで、肉眼でとらえていたほうは、消された。だが、頭のなかに観えているほうは、窄められこそすれ、消されはしなかった。
(ケツカラチガッ)
ヒラノは休んでいるように命じられた。私がバリウムを飲む番となった。
白い粘土を水で溶いたかのような液体のあとを、炭酸水に追わせもした。たしかにおくびを出しそうにはなった。だが、堪えられぬほどの苦しさは覚えなかった。レントゲン撮影も無事に済ませられた。ヒラノ以外に同じく、私も、下剤を服んだうえで退室した。
帰路、自宅アパートまでは一時間半ほどかかる。家畜の屎尿処理場を想わせる、電車の駅のトイレを利用することは、御免こうむりたい。病院でバリウムを出しきってから帰ろうと、私は決めた。
院内をぶらついていると、「ヒラノ事件」の映像が、私の頭のなかに再現された。現場にあったときには催さなかった笑いが、このときとばかりに込み上げてきた。私は危険を感じた。発狂したと疑われぬよう、人気のない場所へと急いだ。そこに辿り着いてから、心と身体をつなげた。
看護婦から注意されていたというのに、その言葉をないがしろにしたというのに、他の者が我慢できたというのに、ヒラノはバリウムを吐いたのだ。自分のメガネにまで吐きかけ、挙句には、そのレンズの1枚を割られてしまいもしたのである。なんたる無様な男なのか。ギャグ漫画を読んでいるときのように、私は声をあげて笑った。他方、その主人公たる彼は、実在する人間なのだ。私の笑い声は大きくなる一方であった。
気がつくと、涙を流してまで笑っていた。身体も熱くなっている。私は自分を整えにかかった。まぶたで目を拭ってから、手の甲で顔を拭った。大きく息を吸うことを心がけながら、歩みを再開した。頭のなかに残っている映像を、呼気と一緒に吐き出してしまうように努めた。
激しく揺さぶっていたためであろう。腹に1回目の、下りの波が押し寄せてきていることを、私は感知した。それで、目的地は定められた。
残滓の下りるのを待つ時間が来た。白色の壁を眺めていると、頭のなかに黒い点があることに気づいた。白一面の何かを見ていなければ意識されえないような、ごく小さな穴である。私はそちらに目を向けた。
すると、そうされることを待っていたかのように、その黒点が、色の曖昧な小さな丸へと、一瞬のうちに変化した。どんどんと引き伸ばされていった。
(ケツカラチガ)
頭に聞えたその言葉で、「今野事件」の映像であることが掴めた。怒り肩で尻の小さいやせぎすの男が、全裸で俯せになっている。その様子が画面いっぱいに広がりきると、のろい映画ででもあるかのように、映し出されていたものがコマとなって進みだした。間をおかず、私は驚かされることになった。自分の鼻から、明らかにそれとわかる笑いの息が、噴き出されていたからである。
(ケツカラチガケツカラチガケツカラチガッ)
ヒラノのそれとは異なり、今野の事件は、いかにも不慮の災難に違いなかった。誰かから注意を受けていたわけでもなければ、防ぎようがあったわけでもない。いわば天災に近い。しかし、このときの私には、両者が遭遇した事件に共通する何ものかが、あるように思われてならないのだった。
(ケツカラチガッ)
鼻での笑いは、その考えにほだされた感情によっての、身体的反応であったともいえよう。無論のこと、その何ものかとは、「割れたレンズともどもに水浸しになっているメガネ」などという、単純な共通項ではない。下唇を噛み、下腹部に力をまとめつつ、私はその漠たるものを探りはじめた。
どれほどの時間が過ぎていたのであろうか。腹のなかの水面がすっかり凪(な)いでいるのを、私は感じた。正気づいた。捜しものは、依然として見つけられないままなのであった。
それはさておき、ここでの用は済んでいる。探索の続きは、帰りの車中ででもやればいいのだーー
無意識のうちにも、利き手が動いていた。いつにないザラついた感触が、指先の皮膚に返されてきた。用を為せば充分といった、悪質な再生紙なのであろう。
たしかに、トイレットペーパーとしての役目を果せるのであれば、粗悪なものであろうとも一向に構わないわけだ。そういう物品として加工されているものであれば、そこにあってしかるべきなわけである。万物には必ずやその存在理由がある、かーー
そこで、私の頭の中央に、1つの単語が転げ落ちてきた。「役割」という言葉である。私はハッとした。一旦は落し紙から手を引っ込めた。
ヒラノの事件と今野のそれに共通する何ものかとは、実に、この世における彼らの役割、なのではなかろうか。つまり、人の世に「絶対」ということなどありえないのを知らしめるための存在が、彼らなのではないのかーー
考えに飛躍を感じはしたものの、私はそこまでで切り上げてしまった。所詮は他人事なのである。中断していた作業にとりかかった。
その顔を見れば、笑わずにはいられぬかもしれない。2度と再びヒラノに出会わぬことを切に祈りながら、私はそそくさと着替えた。
ヒラノという男の存在が、私のなかにあった今野へのうしろめたさのようなものを、スッパリと断ち切ってくれた気がしていた。
そうなのだ。今野は、自分の身がわりで、ああなったわけではないのだ。渡嘉敷という沖縄出身の鬼畜に犯されるべくして、あの会社に、あの日あの場所に、存在していたのだ。そんなことを自分に言い聞かせながら、私は自宅アパートへと帰っていった。
健康面には自信がある。肥満していることもあり、胃が悪いはずもなかった。高名機械会社へと通いだす日がいつになるのか。そのことだけが、私の気がかりになっていた。
ところが、なのであった。あろうことか、私は健康診断でハネられてしまったのである。もちろん、T機械指定の医療機関にも電話をかけ、どこが悪かったのかを問うた。何ひとつ明かされなかった。入社が叶わなくなったという事実だけを、残されることとなった。
あるいは、自分もまた、今野やヒラノに同じく、この世で道化師のような役を担わされているのではないか。そんなことが想われた。
私は自暴自棄に陥った。軍艦からの攻撃の一々に応じだした。男の液を、出し尽してしまう日もあった。
「でもさあ。マジでどっか、悪いんじゃないの? 念のために、近くの病院で調べてもらっといたほうがいいわよ。これからのこともあるんだしい」
「どっか悪かったら、おまえどうすんだ?」
「それは……。そりゃあがまんするわよ。よくなってくれるまではね」
私は勧めに応じた。通り一遍の検査では、何の異常も見つからなかった。精密に調べたことの結果は、3日後までわからないという。
その日にまた、私は病院に出かけていった。
「やはり、血液のほうには、何の問題もありませんでした。中性脂肪も正常値ですし。ただ尿のほうでですね。……多量のタンパクが、検出されてますね」
その直後、一瞬だけ、医者の目許が弛んだかのように、私には見えた。
「でもまあ。別の可能性も、ありますからね」
検査報告書をデスクマットに預けると、返す手で、医者はカルテを取った。
「ええっと……。ご結婚のほうは、と……」
恋人はいないのか。人事部長からのその問いが、即座に思い起された。今野やヒラノに同じく、私もまた、想わぬ隙を突かれてしまったのである。
[ 完 ]
役まわり すりらあ @thriller
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます