第2話 破

 沖縄出身の人と、なぜか私は縁がある。知り合った人数だけでも、100人を下るまい。もちろん、そのことのみでは、根拠として不充分であろう。生まれてから34年間のうちに。首都圏内において。その2つを補足すれば、多くからの同意を得られるのではなかろうか。

 陽気で世話ずきな人ばかりであった。その親切すぎることが、時に、私には疎ましく思われたものだ。彼らは、恩着せがましくもなかった。表面的には対等に接していたものの、私は自分の未熟さを痛感させられていた。私の過去の女に、かの地からの者がいないのには、そういったことも多分に影響していよう。

 沖縄出身の人は、みんな好人物である。そう断言したい。言い切っても構わない気がする。しかし、今野と再会してしまった私は、発声器官にためらいを覚える。たった1人だけだが、悪人もいたからだ。

 その男は、K計算機の海外営業部、北米課に在籍していた。すなわち、私や今野と同一の会社、ビル、フロア、区画で、働いていた。職階は同じであるというのに、彼の年齢は我々のそれを大きく上回っていた。一回りと少し年長なのを明かされた憶えが、私にはある。日本の大学を受験するために、アメリカのパスポートを取得せねばならなかった世代だ。そのことも、何かの折に、本人から聞かされた。そういう事情によるのか、英語を流暢に話すことは、彼はできた。誰もが認める美点といえばそんなことぐらいで、ひがみっぽく、尊大で、自己中心的な男だった。その肌の色を見なければ、その名字を聞かなければ、とても沖縄出身者だとは思えない男なのであった。ボクシングの元世界チャンピオンには迷惑千万なことに違いないが、その男の姓も「渡嘉敷(とかしき)」という。

 渡嘉敷は、課長たちと同年輩であった。

 昇格試験に落ち続けているわけだから、渡嘉敷の頭脳は、かなり悪いものといえる。にもかかわらず、本人は、そうは思っていないようだった。沖縄県出身者を蔑視する何者かの策動により、自分は不当におとしめられている。そう公言して憚らないのであった。学習能力を持たない男、反省することのできない男、ともいえよう。そんな男のやることに、ミスが起きないわけはない。

「ちょっと渡嘉敷さんっ」

 係長からのその呼掛けには、彼はただ首を動かすだけだ。何か用があるのなら、きさまのほうからわが許へ出向いてこい。そう言わんばかりである。課長からのそれには、彼は猛然と席を起っていく。抗議するためにである。相手の許に行き着くや、仁王立ちとなる。

「それは西村君。言ってみれば冤罪ってもんだよ。悪いのは俺じゃあない。きみが俺の下に付けた若堀(わかほり)。あいつが愚鈍すぎるからだよ」

「ンンッ。それにせよです。課長である僕からすれば。若堀君を指導してるのはあなた、渡嘉敷先輩じゃないですか。彼のポカは、あなたのポカってことにも、なるんですよ」

「でも西村君。その理屈が成立するんであればだよ。俺の失策はきみの失策ってことにも、なるんじゃないのかね? エヘ、エヘヘヘ」

 そんなふうにどこまででも渡嘉敷は、減らず口をたたき続ける。やがて彼は、胸を反らし、大股で自席へと戻りだす。北米課長のほうで折れたに違いない。我々はそう察することとなる。ところが、それでは終らない場合もある。課長にも課長としての面子がある。

「おい渡嘉敷君っ。ちょっと来たまえっ」

 課長に泣きつかれた次長か部長が、そう呼びつけるときも、ないではない。

 すると渡嘉敷は、前屈みの姿勢でとぼとぼと、どちらかの席へと向かっていく。足を止めてからは、両手を前で組み、こうべを垂れる。裁判官から判決内容を聞かされているときの、おのが非を認めきっている被告人のように、身じろぎすらしなくなる。

 ややあると渡嘉敷は、傍目にもわかるほどに、ぷるぷると上体を震わせだす。続いて、ひっくひっくと肩を上下させる。泣いているようにしか見えない。苦りきった表情で、年長者は一旦、眼前にいる男から目を逸らす。そこで、自分たちが衆目を浴びているということに、管理職のほうで気づく。弱いものイジメをしていると想われているのではないか。そんな不安からか、状況を持て余しているといったそぶりを見せる。首を、傾げたり回したりしだすのである。

 そうなるのを待っていたかのように渡嘉敷は、みずからのズボンの膝を舐めんばかりにして、深々と一礼する。低い姿勢のまま、転がるように、年長者の背後へと回っていく。次の瞬間にはもう、相手の肩を揉みはじめている。そうされることにより、感情までがほぐされてしまうのだろうか。次長か部長は結局、下からの要請を却下する。渡嘉敷の尻拭いを、課長か係長に押しつけてしまう。

 じっさい渡嘉敷は、揉むということがうまいようであった。我々は、揉まれている人間の表情によって、そうであるらしいということを察するよりほかなかった。次長と部長を除き、その奉仕にあずかれたのは、40歳を超える未婚の女たちだけであったからだ。どういうわけでなのか、それら「お局さん」と呼ばれている口やかましく文句を言うだけの女たちも、渡嘉敷にはやすやすと、肩や足裏のみならず、胸や尻の膨らみまでをも、揉ませるのだった。物陰で行われている場合には、老嬢(オールドミス)たちの呻き声で、そのうまさのほどが推察された。男性社員たちは、素直に妬んでいた。若手女性社員たちは、おのれの容貌の美醜を棚に上げて、危機を語り合っていた。

 要するに渡嘉敷は、海外営業部員のほとんどからすれば、鼻つまみ者なのであった。

 一説によれば渡嘉敷は、かつて大学野球の花形選手であったという。その栄誉によって会社にも引っぱられた。その大学とは、形だけの最高学府であり、実際のところは運動部のみで成り立っているような「体育学校」である。ゆえに、そこの出身者は、人並みはずれて頭が悪いのだ。そういう話も聞かされた。

 たしかに渡嘉敷は、すでに中年まっさかりの年齢にあったというのに、K計算機の野球部に所属していた。レギュラー選手でもあった。そのキャッチャー姿での活躍ぶりが、A4判の社内報の1ページに、写真つきで報じられたこともある。さらには、競技歴の長い185センチの私に何度となく、それへの入部を求めてきてもいた。私が彼と直接に言葉を交わしたのは、そんな折だけなのだった。

 夜の時間まで会社に提供するのはまっぴらだった私は、なるたけ渡嘉敷を避けるようにしていた。彼の話に耳を貸したが最後、おいそれとは解放してもらえなくなるためだ。子沢山であるがゆえで、会社から2時間半もかかる土地にマイホームを構えている。それも、渡嘉敷が私に、哀れっぽく語ってきたことの1つである。彼には役職手当が付かない。残業代を稼ぎたがっているふうでもあった。

 ところで、メーカー、製造会社であればどこででもそうであろうが、もっとも力を持っているのは、現業部門である。私の勤めていたK計算機とて、その例外ではなかった。

 上半期後と下半期後。11月下旬と5月下旬の年に2回、主力工場の存する山梨県内で、慰労会を催さねばならない慣例になっていた。無論のこと、それに要する費用の一切は、現業部門の外の負担とされていた。

 日本全国、4ヶ所の工場から、課長格以上が集まってくる。総勢50余名が、一張羅を着込み、蟹股で、鼻の穴をおっぴろげて、本社側と対峙しにくる。このときとばかりに威張り散らし、酒乱なのかその芝居なのか、狼藉の数々を働く。そうなることが知れているためであろう。1泊2日で、温泉旅館で行われるのが常であった。また、本社側のいずれの部とも、役職にない者が参加するしきたりにもなっていた。暴れ者どもを取りおさえるのには、若い力が必要である。そんな理由にもよるのだろうが、工場側から平生の鬱憤をぶつけられて凹まされることを、営業部門の管理職者たちが回避した結果でもあったろう。

 だからといって、工場側の出席者たちの心中を考えれば、明らかに「生贄」とわかる無能な若輩、入社1、2年の者を、送り出すわけにもいかない。あるていど仕事に通じている者、係長の補佐役のような立場にある者に、「貧乏くじ」を引かせようということになる。すなわち、私や今野、そして渡嘉敷が、それぞれの課の代表者として選ばれてしまう。

 そういうとき、本社側ばかりではなしに工場側の課長たちとも同年輩である渡嘉敷は、俄然、有利な立場を得られることとなる。

 内部では力を持っているものの、現業部門が社外からの脚光を浴びることは極めて少ない。ほとんどない、と言ってもいい。工場側の役職者たちは、自分たちが2級品あつかいされているものと、信じきっている。

 一方、渡嘉敷はといえば、万年平社員である。不遇な者同士という間柄で、本社側の役職者たちの悪口に、大輪の花を咲かせられる。

 換言すれば、その場にあっての渡嘉敷は、双方の折衝役にもなりえる存在、ということになる。慰労会が穏やかなうちに終るよう、うまく取り計らってもらいたい。それが、私や今野やの願うところなのであった。

 私たちが弱腰になっているということを、悪賢い渡嘉敷が見逃すわけがない。

「何ぼんやりしとるんだ遠藤っ。ビールほか酒類が払底しとるという事実が現認できんのかっ。早急に注文してこんかっ」

 すっかり我々の上長になりきってしまう。そのことに反発する者もある。財務部など、管理部門からの参加者だ。

「なんですかそれっ。あなたごときに、しかも呼捨てで、命令される覚えはありませんよ。工場側のかたでもないっていうのに」

「なんだとこの弱輩者っ。……そうかい、ヘヘ。了解した。……いまの発言をお聞きになりましたか? 相田大部長。こやつ、おのれが財務部門の主任クラスを恣にしておるため、すでにエリートコースを驀進中であるものと誤認し、調子づいとるんです。こういう輩がおるので、工場側に対する感謝の念が、本社側で希薄になってまいるんです。こやつが役職に就任した際のことを、想像なさってみてください。私が憤怒を禁じえなくなるのも、しごくもっともなことだと思われませんか?」

「そんなっ。ぼくはあなた、渡嘉敷さんに言ってるんであって」

「黙れっ。きさまごときの意見なんぞ俺は求めておらん。……いかがお思いになります? 相田大部長」

 そこで渡嘉敷は、彼の両脇にいる課長たちの背後に、すっと両腕を回す。がっちりと肩を組む。さも親しげな様子を偽造する。そのうえで、綻ばせた浅黒い顔を、これ見よがしに付近一帯に振り向ける。渡嘉敷ほどではないにせよ、隣の男も、しわっぽい顔をしていたりする。われら田舎者同士。そんな感じで、実に絵になっている。作り物には見えない。

「いやけしからんっ。実にけしからんことだっ。やい総務部の小僧っ」

 岩手工場の相田第3製造部長は、右手の人差指を突き出したまま、立ち上がっていた。

「はっ。あ、あの。お言葉ですが、ぼくは財務部なんですけど」

「やかましいっ。きさまっ。罰としてそこでっ。腕立て伏せ50回だっ。……それでいいよね? 渡嘉敷君」

「結構です。このもやし野郎の腐敗しきった性根を、身体のほうから蘇生させてやろうというご配慮ですね。……おみごとっ。さすがは相田大部長っ。……ささ。お盃をば」

 渡嘉敷が野球部員であるということは、社内報によって知れ渡っている。そのことを、工場側でも酌むのであろう。彼に反逆した者への仕打ちには、運動部でのしごきのような内容が、必ずや採択されるのだった。


 あれは、5月の回のこと、であったろうか。そうだ、5月の慰労会での出来事にちがいない。参加者のほぼ全員が浴衣姿であった。その確乎とした記憶が、私にあるからだ。


 主力工場の長が乾杯の音頭をとったのちしばらくは、大半の者が食べもので腹を満たすことに没頭する。一段落したのち、本社側が酌をして回りだす。仕事に関することのほか、共有できる話題は少ない。言葉のやりとりが途切れがちになるのは時間の問題といえる。ともすれば、とうに片がついている内乱のことを思い起され、難癖をつけられる破目にもなりかねない。そこで必要となってくるのが、「余興」である。若い酌婦たちを宴席に招き入れ、色気づいた酒盛りへと発展させる……

 田舎者は純朴だ。酒席に異性がいれば、好(よ)く思われたい一心、モテたい一心で、陽気な男を演じるに決まっている。渡嘉敷のその考えによって、どの回からか、宴たけなわになるやで女たちが現れる運びとなっていた。

 そして、渡嘉敷の奸策は図に当たった。中年男はいよいよ居丈高になった。職階が同じであろうとも、社歴からすれば大先輩であることにまちがいはない。慰労会に限って、私たちは彼の言いなりになることを決めた。


 その5月の慰労会で、「惨事」は起きたのである。

 工場長の1人が、午後9時を回ったところで、我々のもとへやってきた。彼は下戸なのだった。

「おい渡嘉敷君。次の準備はできてるんだろうね? これ。こっちの」

 両手首を回し、親指を突き立てて見せた。

「ご心配には及びませんよ、名取大工場長。10卓を用意させてございます。初回の組合せも、すでに決定させておりますし。のっけから工場長がたがご対戦になるような運びにも、なとり。あははは、つまらんシャレをば。なっとり、ませんので。何卒ご安心のほどを」

「ご苦労さん。あいかわらず手回しがいいね、きみは。さすがは、当社野球部の正捕手だ」

 それもまた、どの回からか恒例になっていたもの。トーナメント形式での麻雀大会の開催を、名取工場長は求めてきたのである。ただ、その頃合が、通常よりも1時間ほど早いのだった。工場側の誰よりも時間にはやかましい人物なので、私は軽く驚かされた。しかし、とりたてての理由があるとも考えられなかった。結果、私は忘れることにした。そこに「悪魔の導き」があったというのに……

 やがて、麻雀大会の開催刻限となった。

 上位2人が勝ち残り、別のそれらと卓を囲む。そのことが繰り返される。4度目で、優勝者が決まる。

 悪知恵は働くくせに、渡嘉敷はひどく弱いのだった。手許の牌を見た段階から、自分が高得点で上がることだけを、夢見てしまうようである。他者の手の内をまったく顧みなくなるのだ。腕前以前の問題といえよう。初回に私と同卓だったその日にも、最下位で敗退していた。

 私のほうは、第2回戦でも1位であった。運が良かったとしか思われない。なぜなら、その日の私は酩酊していたからだ。

 酌婦たちのなかに好みのタイプのを見つけたため、口説き落そうと迫った。ところが、敵は場慣れしていた。酒豪でもあった。逆寄せされ、満席の電車では帰宅できないほどにまで酔わされてしまっていたのである。

 眠さが頂点に達していた。第2回戦終了後、自己都合で退きたいことを、私は申し出た。2位と3位にあとを任せ、自分の荷物を置いてある部屋、すでに布団が延べられているであろう部屋へと、千鳥足を踏みだした。出入口からもっとも遠い寝床に、身を横たえた。あっけなく意識を失った。

 どれほどの時間が経っていたのかは、わからない。息苦しさを、なぜなのか私は覚えた。そのことにより、おぼろに意識が戻った。とはいえ、眠気が緩んだわけではない。目を開くのも物憂い。寝返りを打ってみた。格段に呼吸しやすくなったので、私は全身を寛げた。

 だが、数秒ののちには元の状態に戻されてしまった。私も元の寝姿、仰向けになってみた。再びで楽になれた。しかし、さらに数秒が過ぎると、また苦しまされるようになった。

 ある映像が、私の頭のなかに浮かんできた。

 それは、私の寝顔を覗き込んでいる、メガネを掛けたままの父親の面であった。酒に爛れきった色をしている。内臓が腐っているかのような、なんとも臭い息を吹きかけてくる。

 幼稚園児のころにまぶたの隙間からとらえた映像、古い記憶である。ところが、その悪臭は、現実に鼻腔を悩ませているのだった。怪訝に思い、私は幼いときに倣って薄目を開けてみた。

 顔の上に黒っぽいものの浮かんでいるのが、ほの見えた。距離が近すぎるため、細かい点までは認められない。生暖かさを感じた。臭みが、より濃厚になった気がした。首から上だけを、私は片側に捻じ向けた。目に映る風景が、それで変わった。柄ものの浴衣の袖と、男の前腕の一部とが、視界を分断している。

 その直後であった。横顔の1ヶ所が湿っぽくなったのを、私は感じた。それもまた、幼稚園児のころの記憶に含まれていたものだった。父親の唇の感触である。この場に彼がいようはずがない。自分の身の上に起きている事態を、私は理解した。首から下をも、顔を向けているほうへと捻った。そうすることで、片側の肩を用い、上にいる男とのあいだに距離を設けようと図ったのだ。その唇は、いとも簡単に離れた。もとよりが、体重を掛けられているわけではなかった。次なるの武器を、私は使うことにした。

「このド変態野郎。誰だてめえは」

「あれ? 目覚めてたのか?」

 前腕の色を見た時点で、あるいはとは、想っていた。まちがいなかった。渡嘉敷である。

「なんだおっさんか。これ以上ヘンなことしてみろ。ぶちのめすからな」

「ふふふーん。そんな薄情なこと言うなよ、遠藤君たら。きみが入社してきたときから、俺はきみに恋着してきたんだぜ。こういう機会を、どれほど待望してきたことか。まさかきみ、俺のことが嫌いなのか?」

「当り前だ。おれが好きなのは、パイオツとツーケのでっかい、チャンネエだけなんだよ」

「そんなあ。きみのためなら俺、如何なることでもする。懸命に尽すよ。だから俺のことも愛してくれ。衷心より懇願する」

 そこで、渡嘉敷は私に伸しかかってきた。頭部は小さいが、幅のある胴体をしている。カナブン、に似ているといえよう。いや、臭みを帯びていることからすれば、カメムシ、に近いか。それはともかく、膝から下を除き、細身のこちらは彼の体躯にすっぽりと包まれてしまった。

「このバカ野郎っ。にょうぼ子供に恥ずかしくねえのかっ。3秒以内に離れろっ。マジでブン殴るぞっ。……よおおっさん。おれがボクシング部だったってこたあ、知ってるよな。働けねえ身体になっても、おら知らねえぞ」

 我に返ったようで、渡嘉敷は軽くなった。だが、依然として私の上からは消えていかない。両腕をつっかい棒のようにして身体を支え、上空に浮いているらしい。その後の会社生活もあるわけで、私としても、できれば彼を殴りたくはない。もう一度、似たような警告を発してみた。それでも彼は動かなかった。

 平手での攻撃なら、傷を負わせる心配はない。ビンタを食らわせてやってもよかったが、彼もまた、元学生スポーツ選手である。そんな体罰には馴れっこになっているに違いなかった。男だけにある急所を、私は全力で叩いてやることにした。

 覿面だった。渡嘉敷は横向きに倒れた。両手で股を押え、芋虫のように蠢きはじめた。私は起き上がった。ふてぶてしい感触が、手の平には残っていた。

「いくらおめえがモーホ。ホモ野郎でもさ。おめえには家庭がある。おめえが稼がねえと、嫁さんとガキどもが食いっぱぐれるんだ。今回は誰にも言わねえでおいてやる。だから2度と同じこと、すんじゃねえぞ。わかったなおっさん。今度やりやがったら、おめえのタマキンの片方、容赦なく握りつぶすぞ」

「す。すまなかった遠藤君。俺が性急だった。頼むから再考してくれ」

 私は返さず、出入口へと向かっていった。ドアにロックが掛けられていた。それを解くと、笑いが込み上げてきた。恥知らずな渡嘉敷でも、フラレたことは堪えるにちがいないからである。こののちには、「秘密」を暴露するのをほのめかしてやることで、彼を意のままに操ってやれるのだ。そんな喜びによる笑いなのであった。酒の酔いが、いまだ醒めていなかったものとみえる。

 麻雀会場に、私は入った。決勝戦に至っていることを、誰かから聞かされた。とうに興味はない。壁にもたれ、私は目を閉じた。

 警笛を想わせる真っ赤な声に、現実へと引き戻された。私は目を慣らしにかかった。

「麻雀なんかあとにしてくださいなっ。男湯から悲鳴が聞えたんですっ。ウチにお泊りなのはお客さんがただけなんですっ。従業員はもうみんな休んでおりますしっ。どなたか見にいってくださいましよっ」

 決勝戦の卓を囲んでいる4人だけを残し、私たちはどかどかと、浴場に向かって歩きだした。

 何のためらいも見せることなく、四国工場の三田村生産管理課長が、磨りガラスの戸を引き開けた。脱衣篭には、2人分の衣類しか見られなかった。銀縁メガネの鼻をずり上げてから、課長はさらに奥へと、歩みを再開させた。私たちもあとに続いた。

 洗い場には、幅広の、浅黒い背中が浮かんでいるだけであった。渡嘉敷のものに違いなかった。先頭にある者も、そのことに気づいていた。背中の持主の名を、誰に告げるともなく口にしていたからである。我々は、足を留めている三田村課長に弾かれるようにして、彼の左右のどちらかへと溜まっていった。

 一方の太ももに載せたタオルへ石鹸をこすり付けている男は、私たちをちらと見ることもしないでいた。一心不乱といった感じで同じ動作、鉋かけのような動きを続けている。我々は、墓石の群と化すよりほかなかった。 最前列では5基が横並びになっていた。そのうちの1本、三田村課長ではない1人が、真っ赤な声を噴き上げた。

「おいっ。湯船の横で誰かが倒れてるぞっ」

 声こそ上げなかっただけで、三田村課長ほか最前列にいる者らは、全員がその事態に気づいていたらしい。なぜなら、先の絶叫を合図とするかのように、どやどやと浴場へなだれ込んでいったからである。私たちも倣った。

 長髪の、おかっぱ頭にも似た髪型の男が、タイルに俯せていた。その骨格からして、確実に、その裸体は女のものではなかった。片側のレンズに大きなひびが入っている丸メガネ、茶色のセルフレームのそれが、全裸の痩せた男のそばに転がっていた。そんなものを掛けたままで入浴する猜疑心の強い人間など、そうはいない。倒れ伏しているのが今野であることは、ほぼまちがいのないことであった。

 すでに現場に至っていた数人が、自然発生的に、救助者になろうとする動きを見せた。

「おい待てっ。ちょっと待てっ」

 姿の認められない誰かが、そう叫んだ。

「そうだっ。脳溢血かもしれんしなっ」

 同種の者のうちの別の誰かが、そう受けた。

「そうじゃないんだっ。見てみろっ。ケツから血がっ。肛門から血が垂れてるじゃないかっ」

「うおっ」

「うおおっ」

「どわああっ」

 格闘するときのような声が、ひとしきり噴き上げられた。

「どうしてケツから血がっ」

「なんでなんだよおっ」

「痔で倒れてるのかっ」

「風呂場でクソしたのかっ」

「なんでケツから血がっ」

 太やかで短い腕の1本が、そこで突き上げられた。三田村課長のものであった。

「ともかくだっ。脳がどうかしたわけじゃあなさそうだ。気を失ってるだけなんだ。みんなで担ぎ出してやろう。痩せてる今野君なら、わざわざ担架もってくる必要もあるまい」

「三田村の言うとおりだ。よしっ。おれ、浴衣ぬぐからさ。今野君に着せてやろう」

「よしきたっ。おれも脱ぐよ。おれので、前のほうは覆ってやればいい」

「よっしゃあっ。当社の結束力の見せどころだっ」

「盛り上がってきましたよこれは」

「ほらっ。んなこと言ってないで。きみはさっさとそっち持って」

「へいへい」

 俯せの身体に浴衣の1枚が掛けられると、5人ほどがそれに手を掛けた。まずは仰向けにした。やはり今野なのであった。少年のものででもあるかのようなその細身には似つかわしくないものら、ニンジンほどもあろう陰茎とタマネギほどもあろう陰嚢が、引き起されたときの反動で揺れていた。もう1枚の浴衣であごから下を覆われた今野は、8人がかりで浴場の外へと運ばれはじめた。メガネを拾いあげた別な1人が、飼主に従順な犬のように、猛然とそのあとを追っていった。

 一連の動きを、私はただぼんやりと見守っていた。事がそこに至っても背を向けたままでいる、なおもタオルへ石鹸をこすり付けている渡嘉敷のことが、ただただ異様に思われた。やがて、ある考えが頭の真ん中に落ちてきた。すべてに合点が行った。今野が、私の代りに襲われたこと。抵抗むなしく渡嘉敷に犯されてしまったことを、私は了解した。

 今野を介抱している数名を除き、我々は麻雀の部屋に押し込められた。救急車のサイレンの音は、いつまで経っても聞えてはこなかった。

 山梨にある主力工場の長、岩城工場長が優勝することで、麻雀大会の決着はついた。そのときには、事件の当事者の一方である渡嘉敷も、会場となった部屋に戻ってきていた。なに食わぬ顔で、各賞の発表、賞品の授与を行いはじめた。別室で今野の世話をしていた面々のなかにも、その対象者はあった。拍手に包まれ、本人みずからが箱入りの物品を受け取っていた。それを見たこともあり、私は、今野のことが大事には至っていないのを想った。

 今野と相部屋であることを、私は旅館に着いた時点から知っていた。しかるべき手当を施され、すでに休んでいるにちがいない。そう想いながらも黙したままで、私は浴衣の群れとともに寝部屋の集落へと向かっていった。もちろん、闊歩する一団のなかに渡嘉敷の姿も含まれていた。そのこともあってであろう。誰1人として、歩きながらの話題に今野のことを採用している者はいないようであった。

 行き着くと、部屋は無人だった。反射的に、私は今野の荷物を見てみた。案の定、それもなくなっていた。同室の最年長者である主力工場の小田切第1製造部長が、まず、出入口のドアに鍵を掛けることを、その近くにいた者に命じた。続いて、我々を呼び寄せ、彼の四囲に座らせた。

「いいかみんな。今夜の風呂場でのことは、見なかったことにするんだ。これは業務命令、社命だぞ。わかったな。他の部屋でもその話がいま、為されているはずだ。もっとも、渡嘉敷のいるとこでは、どうかわからないけどな」

 本社側の1人、財務部の木村が、他の者らより前に上半身を乗り出した。

「あの部長。今野君は? 病院に行ったんですか?」

「いや。タクシーで、東京の自宅に帰らせた。ともかく、きみたちは忘れてやるんだ。あとはおれたち、部長クラスで決めるから。な」

 常で、その5月の回の慰労会も、土曜日に行われていた。日曜の昼食を終えたところで、散会となった。そこからは、自由行動となる。

 週明け早々にも、何か非日常的な動きが見られるのだろうか。そんなことを考えながら、私は日曜の午後を過ごした。楽しみでならなかった。できれば、最大限に禍々しいことのほうがありがたい。そうも思われた。

(ケツカラチガ)

 半日が経つのがもどかしかった。今野のことは、すでに他人事になっていた。

 月曜の海外営業部に、今野の姿は見られなかった。渡嘉敷も、同じ職場にいるわけである。無理もないことだと思い、私は首肯した。一方、その加害者のほうはといえば、のうのうと、またのらくらと、平常どおりにやっていることが認められた。それを見るにつけ、いずれ痛い目に遭わせてやろうと、私は憤りを蓄えるに留めておいた。

 次の日も、その次の日にも、今野は出社していなかった。

(ケツカラチガ)

 今野の負ったであろう心の傷をときに想いつつも、私は淡々と職務を遂行していた。きっちりと定時で退社し、肉体関係のある女のアパートにしけこんだり、したいのだった。

 同一のフロア、同一の区画には存するものの、欧州課とアジア課とは、2つの事務机の島、アフリカ課と中近東課を、あいだに挟んでいる。そこそこの距離を隔てているといえる。木曜、「事件」から4日目の昼休みに、何気ないふうを装い、私は今野のデスクを見にいってみた。

(ケツカラチガ)

 そこで、驚くべき事実を知らされることとなった。今野のにおいを帯びた一切が、その職場からなくなっていたのである。

(ケツカラチガ)

 当然のこと、私はその午後に行動を起した。すなわち、今野の直属の上長である矢島係長に、その真相を尋ねた。濁った答しか返されなかった。

 次の変化は、その翌日に、誰の目にもはっきりとわかる形でもたらされた。そちらは、ちょっとした騒動になった。

 コンピュータールームの手前にあった渡嘉敷の席が、そのデスクごと、消されていたのだ。ただ、そちらの理由は、その午後の、常務兼海外営業部長からの伝達文書によって明らかにされた。一身上の都合により、渡嘉敷正男は、本年6月1日より、四国工場の子会社であるところの『鳴門梱包』へ出向するーーそのことだけが、事務的に、社名入りのA4の白紙に、機械文字で印されていた。

 渡嘉敷がいなくなってからも、今野は現れなかった。

(ケツカラチガ)

 私はもとより、慰労会に参加した他の課の男たちも、今野と渡嘉敷のことについては、口を閉ざしているらしかった。去るもの日々に疎し、ともいう。やがて、「事件」の当事者それぞれのことを話題にする社員も、職場にはいなくなった。冷淡なものであった。


 「惨事」から1ヵ月ばかりが過ぎたころ、すなわちその年の6月の下旬、製品の早期出荷を依頼するためで、欧州課とアジア課の1人ずつが、山梨にある主力工場に出向かねばならなくなった。

 販売予測が狂った、予想外に売れてしまったために、そうなったわけではある。だからといって、現業部門が「うれしい悲鳴」などあげるはずもなく、忙しくなることを呪うばかりだ。電話での依頼などでは許されるはずもない。米つきバッタに、なりにいかねばならない。以前であれば、私と今野とが、行くところであった。

(ケツカラチガ)

 今野の席は、空いたままにされていた。代役に立ったのは、その直属の上長である矢島係長だった。

 主力工場内を午前中から平身低頭して歩いても、何やかやで夕方までを潰されてしまう。さらには、甲府駅に近い飲み屋街を引きずり回され、最終の上り電車、八王子にまでしか辿り着けない中央線に駆け込まねば済まなくされる。いつものことではないかと、出張する以前から、私は諦めていた。

 矢島係長は、自家用車でやってきているのだった。工場側からの酒の誘いを断れるようにわざとそうしているということが、私には読めた。口封じを目論んだのか、係長は早々に、帰りには拙宅付近まで送ってくれると言ってきた。私は、ありがたく受ける旨を彼に返すと、工場の誰彼にもそのことを述べて回った。遠距離の片道の交通費を、小遣銭に当てられるのだ。そんな単純な、姑息な喜びしか、そのときには覚えなかった。

 海外営業部の会議で意見を交わしたことはあるものの、私と矢島係長とは、個人的にはほとんど話したことのない間柄であった。加えて、彼は寡黙な人物として通っていた。

 車外はすでに闇に包まれている。密室である。

(ケツカラチガ)

 高速道路を飛ばすことに神経を傾けられるほうは、まだいい。助手席の私は、気詰りでならなかった。

「係長。ラジオかけても、よろしいですか?」

「ん? ……あの。……遠藤君さ」

 名字まで呼ばれたので、私は車から飛び降りたくさえなった。

(ケツカラチガッ)

 矢島係長は、40も半らで独身の、同性愛者の噂も喧しい美男である。

(ケツカラチガッ)

 本邦でただ1人しか認知されていない、眼鏡をかけた歌舞伎役者にも似ている。

「あ、おイヤですか?」

(ケツカラチガッ)

「あ。じゃあ。そこにあるテープおかけましょうか? ね」

(ケツカラチガッ)

「あ、モダンジャズだ。こいつぁいいや」

(ケツカラチガッ)

 私がテープを押し込むと、直後に矢島係長が左手でイジェクト(とりだし)ボタンを押した。

「いや、遠藤君さ」

(ケツカラチガケツカラチガケツカラチガッ)

「あのさ。きみさ」

(ケツカラチガケツカラチガッ)

「うーんとさ。あのあの」

(ケツカラチガケツカラチガッ)

「きみも見たんだろ? あのときの現場」

 ちらりと目を向けてくることもせず、矢島係長はそう問いかけてきた。何のことなのかが判然としないため、私は黙っていた。

(ケツカラチガ)

「今野のことだよ。もういいと思うから、教えとこう。彼、とっくに会社、辞めてるんだ」

 驚きの声しか、私は返せなかった。再びで、車内はエンジン音だけになった。

(ケツカラチガ)

「救急車ごとだったんだよ、ホントは。肛門と直腸の、手術までしたんだからね。地元で噂になるのがイヤで、工場の奴らが……」

「はあ……」

(ケツカラチガ)

 5分ほどが後方に飛んでからであったか。係長は唐突に、言葉を繋げだした。

「僕は今野のことが、気の毒でしょうがないよ。あんな悪党、警察に訴えてやればよかったんだ。ホントなら、刑事事件、傷害事件じゃないか。僕だったらそうした。でも、家庭がある今野は、そうはいかなかったんだろう」

 噂にたがう饒舌ぶりが、彼の悔しさのほどを物語っているように、私には思われた。

(ケツカラチガ)

「なあ見たんだろ? きみも現場を」

「え、ええ。ただ、今野さんはそのときにはもう、気を失って倒れてましたけど」

(ケツカラチガ)

「うう……。なんて恥知らずな奴なんだろう、あの沖縄野郎は。……どうして。……なんで。……今野のことが好きなんだったらせめて。……誰にも知られないようにして、抱いてやれなかったんだ。僕はね、遠藤君。渡嘉敷のそういう卑劣なところだけでも、憎くてたまらないんだよ。どんなに非力な今野だって、風呂場でじゃなかったら、戦いようがあったはずなんだ」

 私は、矢島係長と今野に肉体関係があったということを、そこで用いられた1つの単語によって確信した。どちらか一方なのか双方ともなのかが、相手の臭い排泄物が出てくる孔)へおのが男の芯を挿入し、悦んだ挙句、男の液を放出していたというわけである。その行為を想像しただけで、私は腹を震わせそうになった。大いなる寛ぎを覚えた。係長が、渡嘉敷のようにはなりえない男色者、満たされぬ欲情を第3者の尻で処理してしまおうなどとは考えない人物だということが、掴めたからであった。

「そうかもしれませんね。今野さんも、いきなりのことだったとはいえケロヨン。いやケロリンの、プラスチックの桶でもブン回して、あの沖縄野郎のチンポを、ひっぱたいてやればよかったんですよね。うすぎたねえ伸しイカみたくなるまで、ぶっ叩いてやればよかったんですよ」

「たしかに遠藤君ならそうできるよな。背も高いし筋肉質だし。でも今野は……。やせっぽちの今野は……。ちっくしょおーっ。俺が今野だったらあーっ」

 そう叫んだかと思うと、矢島係長はクラクションを鳴らした。出棺のときの霊柩車が響かせるような、間延びした音が撒き散らされた。そのときの中央自動車道のそのあたりに車は1台もなく、弊害は生じなかった。

 悲憤の発散により、今野との愛の日々を、事件にまつわる一切を葬ることができたのか、そこからの係長は押し黙ってしまった。車から降りるときの謝礼のほか、私のほうでも無言を貫いた。

 渡嘉敷の急所を、平手で叩くのではなく、拳骨で殴っていたら、今野は無事に慰労会を終えることができたのではなかったか。渡嘉敷のほうも、何日か血尿が出るていどのことで、済まされていたにちがいない。この自分が甘かったのだ。余計な配慮さえしていなければ、「忌わしい事件」を未然に食い止められたはずなのだ。そんな自責の念を、矢島係長の叫び声の記憶が、私のなかに喚起した。

(ケツカラチガ)

 悪魔に加担してしまったかのようなうしろめたさを胸に、私は過ごしはじめた。

 しかし、それも長くは続かなかった。今野と渡嘉敷、その2人について話す相手がいなくなったこともあり、2人の存在も、2人の事件も、私は時の経過とともに忘れていった。やがては忘れきった。



 

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