第2話

 昨日と同じ時間と場所で、私と守屋くんは向かい合う。西日がまぶしい。

 まるで告白でもするみたいに、心臓がばくばくしてる。なんだ、これ。あー、もう早く終わらせてしまおう。

 私は守屋くんをキッと見上げて、

「まずはお友達からということでどう?」

「いやだ」

 はぁ? な、なんで? 

 わっ、わっ、わっ、私から妥協をしたのに断るとは……。こっ、こっ、この野郎!

 あっ……。一晩たって冷静になっちゃったのかな? そっか、そうだよね。痣を見て好きになった気持ちなんて、すぐ消えちゃうに決まってるもんね。

 あー、悩んで損した。もう、こういうのやめて欲しいな。あー、もう! 殺したい!

「遊佐さんは友達って感じじゃないんだよな~。遊佐さんは彼女って感じだぜ」

「はぁ?」

「遊佐さんは友達なんかじゃねぇ! 俺の大切な彼女だッ!」

「黙れ!」

 くたばれ!

「遊佐さんが友達になるなんて見当違いなこと言うから……」

 ……見当違いなの?

「だってお互いのこと知らないと、つきあったりできないでしょう?」

「遊佐さんは彼女っぽいんだもん」

 っぽい、とか適当なこと言うな。この野郎!

「俺とつきあいながら、互いのことを知っていけばいいじゃん!」

「あのね! 私はつきあうほど守屋くんのこと好きじゃないし、そもそも守屋くんのこと全然知らないの! キックボクシングしてるクラスメイトってことしか知らないの! だからまずはお友達から!」

「でもさぁ……」

「なんでそんなにわがまま? 少しは困惑してる私の気持ちを考えたらどうなの?」

 こんなに自分のことばっかり押し付けて、他人の気持ちを想像することさえできない人なんかとは友達にもなれない。

「だってさぁ……」

「だって何よ」

 急に守屋くんはもじもじする。男らしくないぞ。シャンとしろ、シャンと。ボケが!

「今すぐに彼女になってもらわないと、他の男に遊佐さんを取られちゃうかもしれないじゃん」

「……はぁ?」

 なんて言った?

「俺の彼女だって気持ちがあれば、遊佐さんはそっちの男に行かないかもしれないけど、友達だったらさ……。『私、好きな男子がいるんだぁ』とか俺に相談しちゃったりして。そんなことになったら俺、ゼッテー泣く!」

「……あのね」

 素で頭痛がしそうだ。

 想像力が豊すぎる。狂ってるんじゃないだろうか?

「俺、遊佐さんとつきあいたい! だから一秒でも早く、俺の遊佐さんになって欲しいんだ。もちろん、遊佐さんにも私の守屋って思って欲しい!」

 ……この男は。

「私がもてそうに見える?」

「見えない」

 見えないっていうのも頭に来るなぁ。

「見えないけど、そんなのわかんねぇよ。この瞬間にだって、向こうから遊佐さんのこと大好きな、遊佐さん好みの男が全力疾走してくるかもしんねーじゃん。そんなこと考えたら不眠で死ぬ!」

 勝手に死ねよ!

 ……なんで私はこんなに愛されてるんだ?

「ねぇ? 改めて聞くけど私の痣がどうしてそんなに好きなの?」

 おでこをハンカチで擦ってから、両手で前髪を分ける。

「うおおおおおっ!」

 守屋くんは大げさによろめいて、顔を背ける。

「ど、どうしたの?」

「どうしたもこうしたもねぇよ! 急にそういうことするなよ!」

「そっ、そんなに変なことした?」

「ちょっと想像してみろって。肩が凄いセクシーな女の人が急に服を脱いで肩を出したらドキドキするだろ? 胸が綺麗な女の人が急に服を脱いで胸を……」

「ストップ! わかった。いわんとしてることは完全に理解したからそれ以上、言わなくていい」

 ……つまり守屋くんにとって、私の痣はそういうポイントなわけだ。急に胸を見せられたようなものなんだ。

 それって、つまり──。

「超変態じゃんッ!」

 おまえ死ぬほどの変態じゃん! 末期だ! 末期!

「そうだよ! 超変態なんだよ! 昨日、それに気づいて、俺だって死ぬほど悩んでるんだよ! だけど変態にだって人権あるだろ! 変態だって生きてるんだよ!」

「ほれほれ、これでどうだ?」

「うおおっ?」

 前髪を両手でかきあげて、でこを守屋くんに近づける。

「うわっ! ちょっと、やめろって」

「ほらほら~」

「やめろってマジで」

「ほらほら、どうだどうだ~……あっ」

 まずい。

 守屋くんの顔が真っ赤になって、息が荒くなってきた。冗談ですまなくなる雰囲気が漂ってしまう1秒前の空気だ。

 私は慌てて前髪を下ろして、そっけない感じになるように脱力して、

「本当に私の痣が好きなんだね」

「好きなんだよ」

 ふーん。なんかまぁ……。悪い気分ではないかな? 圧倒的に勝者って感じがするし。

 これを利用して、金儲けとかできそうだ。

 まぁ、搾取する相手は守屋くんしかいないから、守屋くんが破産した時点で終わりだけど。

「質問。もし私の痣より、守屋くん好みの痣を持つ女の子が現れたらどうするの? そっちの女の子に行っちゃう?」

「それはない」

「どうして断言できるの?」

「……俺さ。昨日、自分の性癖に気づいちゃっただろ。一応ショックでさ。どういうことかと考えるために、ネットで痣を持つ女の人の写真を見たんだ。だけどさ、遊佐さんのじゃないとダメ。遊佐さんの顔にあるから好きなんだと思う」

「………」

「確かに変態だと思うぜ。ドン引きだと思うけどさ。だけど、落ち着いて考えて!」

「私は落ち着いてるから。守屋くんが落ち着こうな?」

「顔が好きで告白するのって普通だろ? 美少女ってモテるじゃん。それが許されるなら、俺の変態さって許されないか? もちろん、遊佐さんが許さないって言うなら、それで終わりのことではあるんだけど……」

「守屋くん」

「は、はい」

「やっぱり、お友達から」

「えーっ」

 この野郎!

「不満そうにするな。正直、守屋くんの気持ちを受け止められるとは、とても思えない」

「さっき、でこを見せつけて追っかけまわしたくせに」

「とにかく! 私はもっと守屋くんのこと知らないと、答えは出せない」

「でもその間に別の好きな男ができたら」

「その時はあきらめて」

「えーっ!」

「そこまで責任取れない! それに私は今まで好きになった男の人なんかいないから、そういうとこは安心していいと思う」

「それでも不安なのが恋だろ!」

「男のくせに恋とか言うな! 気持ち悪い」

「わかったよ。……んじゃ、友達から」

 物凄く不満そうな顔だ。妥協してやってるのに、なんだこの態度。

「うん、友達から」

 はー、こんな当たり前の結論に達するのに、なんでこんなに大騒ぎしなきゃいけないんだろう。

 守屋くんは大きなため息をついて、

「俺って、彼女がいたことないし、女友達もいたことないんだよな~」

「そうなの? 女の子と話し慣れてる感じ、するけど」

「あー、うちのジムって女子会員も多いからそういうとこはあるかもしんねー。でも友達かっていうと違うからさ。……で、女友達ってどうすればいいんだ?」

「どうすればって……」

「なんかこうビジョンが見えねぇんだよ」

「だから……一緒に遊んだりとか」

「ラブホに行ったりとか」

「死ね。そういう冗談言ったら、本当にどうにかするからね!」

「わかった。でもさ、一緒に遊んだりするのって、つきあってるのと同じじゃね?」

「……距離感が違うの。ベタベタしてないっていうか、さわやかな感じで」

「つきあうとそれが湿った感じに?」

「……湿ったって言うと凄く嫌な感じがするね」

「面倒だから、もう彼女ってことでよくね?」

 あきらめの悪い男だ。

「よくない。まずはお友達から! そんなに文句ばっかり言うんだったら友達にならないよ?」

「わかったって。んじゃ、まずは水族館にでも行こうぜ。俺、水族館好きなんだよね」

 ……この男、デートする気まんまんだな。

「次の日曜日と言いたいところだけどデビュー戦が一ヵ月後なんだよね。だからそれまでガッチリ練習しなきゃいけないんで、お預けということで」

「まぁ、私は別にいつでもいいんだけどさ」

「ファイトマネーが5千円くらい出るから、それでおごるよ! 断るなよ?」

「はいはい、わかりました。っていうか5千円しかでないんだ?」

「最初はそんなもんだって。んじゃ、俺、トレーニングに戻るから」

「わかった。んじゃね。バイバイ」

「浮気すんなよ?」

「まだつきあってないってば」

「まだか……」

「感慨深げにつぶやかないように」

 確かに、つきあう予定はないのに、まだ、と言うのは変だった。

 何がおかしいのか、また爆笑しながら守屋くんは走り去っていく。

 私はその背中を見つめてため息。

 守屋くんの気持ちだけでなく、自分の気持ちさえも、心底わからない。

 家に帰ったら、今日も滅茶苦茶じたばたして、友達にならなければよかったと繰り返し思ったり、痣のことで悩んで泣いたりするんだろうけど……。

 だけど、まぁ、これでいいのだろう。

 そういうのも、こみ、で、なんとなく悪い気持ちではなかった。

 不思議と、守屋くんのこと、嫌いじゃなかった。



 友達になってから2週間。学校帰りに守屋くんと一緒に土手をテクテク歩くのが、なんとなく日課になってしまった。

「遊佐さん、今日も授業中に本を読んでたな~」

「暗記するの苦手だから。どうせ聞いてもすぐ忘れちゃうもん。テスト前に暗記するんだから、ちゃんと話を聞く必要ないじゃん。っていうか、授業中に私を見るな~」

「で、何の本を読んでたの?」

「江戸川乱歩」

「あ! 知ってる。怪人二十面相な? 二十面相な!」

「それであってるから、顔を近づけないように! 接近するチャンスにするな。二十面相は子供向けで、私が読んでるのは大人向けだから、結構違うもんだよ」

「ふ~ん、おもしろい?」

「おもしろいけど……。もしかして貸して欲しい?」

「うんっ! うんっ! うんっ! 欲しい」

 ぶんぶん、と首を縦に振る。

 散歩に行きましょうよ、ね? 行こうよ! とうったえる柴犬みたいなテンションだ。

「貸してもいいけど……。結構、変な話だよ?」

「いいよ、いいよ。どんな内容だとしても遊佐さんが読むなら読むって」

 私はカバンをごそごそして江戸川乱歩の短編集を差し出しながら、

「……本に変なことしないでよ?」

 守屋くんは受け取りながら、

「変なことって?」

「……匂いをかいだりとか、頬擦りしたりとか、そういうの」

「ああ、そのくらいのことは普通にするよ」

「平然と言うな! 返せっ!」

「返さん! この本でいろんなことをして楽しむんだ!」

「い、いろんなことってなによ!」

「言ったら遊佐さんドン引きするからとても言えない。そして、いろんなことをした本を遊佐さんに返すことで、このプレイは完了するのである!」

「プレイ言うな! 死んでしまえ! ……いい? 信用してるからね。変ことしないでよ」

「わかってるって。あんま異常なことはしないように努力するよ」

 ……ってことは、匂いかいだり、頬擦りしたりはするのか。

 まぁ、冗談で言ってるんだろうけど。……冗談だよね? どこまで冗談かよくわからない微妙なラインを綱渡りされると疲れちゃうよ。

 守屋くんは本をカバンにしまおうとして、軽くよろめいた。

「あのさ、気になってたんだけど……。日に日にげっそりしてない? なんかフラフラな感じだし」

 ただでさえ痩せてるのに、さらにひょろっとなっちゃったみたいだ。

「体重落としてる最中だからさ」

「ん? そんなに痩せてるのに、ダイエットしてんの?」

「スポーツ選手には、ダイエットじゃなくて減量と言って欲しいものだね」

 誇らしげに言う。

「ということはキックボクシング関係で?」

「そういうことだー。キックボクシングって互いに同じ体重で戦うんだよ。だから約束した体重まで落とさないとダメなの」

「ふ~ん。何キロくらい落とさないとダメなの?」

「1ヶ月で8キロ」

「はぁっ? は、8キロ?! ちょ、ちょっとどうやって落としてるの? 教えて!」

 そんなスピードで体重を落とす方法があるなら聞きたい!

「飯の量を劇的に減らして、練習に励む」

「あー……。物凄く真っ当な方法なんだね」

 どんなダイエット法よりもそれが一番か。もっと劇的な方法があるのかと期待しちゃったよ。

「それでも落ちなかったら水飲むのを止める」

「えっ?! 水まで?」

「水抜きは本当に最後の手段だけどな。だけどおもしろいぜ。100グラムの肉を食うじゃん。そしたらキッチリ100グラム体重が増えてんの。普通の時だったら飯を食っても食わなくてもそんなに体重って変わんないじゃん」

「……そんな急激に体重を落とすって、体に悪そうだね?」

「超悪いんじゃないかな」

「なんで、そんなことするの? いつもの体重で試合をすればいいじゃん」

「わかってねーな。普段の体って余計な贅肉がついた状態だろ? それを削ぎ落として筋肉だけの体になった方が強いんだ。荷物を背負って走るのと、手ぶらで走るのと、どっちが早く走れっかわかるだろ?」

「つまり、贅肉はおもりってこと?」

「そういうこと。だから普段の体重より軽い体重で戦った方が有利なわけ。あ、でも健康のためには贅肉ってある程度あった方がいいらしいぜ。だから遊佐さんはダイエットする必要なし」

「私って太ってない?」

「太ってねーよ」

「でも隣を歩いてる男子の方が痩せてる状況ってなんかイヤだな」

 守屋くんは、あはは、と軽く笑って、

「変なこと気にするんだな」

「そう? 普通の感想だと思うけど」

「もうこの話はやめようぜ。減量の話をしてると腹が減る。あー、カツ丼が食いてぇ!」

 守屋くんはカチカチと歯を鳴らす。

「やっぱりカツ丼なんだ」

 いかにもって感じだ。

「やっぱり、カツ丼なんだよな~。天丼じゃないんだよ。カツ丼なんだ。もしはビッグマック! 油たっぷりの肉が欲しいぜ!」

「あははは。じゃ、試合が終わったら一緒に食べに行こうか?」

「マジで? 一緒に行ってくれるの?」

「え? う、うん。行くけど?」

「あー、でも初めて2人で入る店がカツ丼屋っていうのはなんか違うくね?」

「男のくせにそんなこと気にするのって気持ち悪いよ。それは女の子の台詞じゃない?」

「遊佐さんは気にしないの?」

「私はそういうとこに、無頓着なタイプだから問題なし」

「それって具体的にどういうこと?」

「ん? 恋愛なんかバカバカしいと思ってるタイプってこと」

「そうなん? 俺のこの思いもバカバカしいの?」

「まっ、バカバカしいんじゃない?」

「くあっ、遊佐さんクール! 俺のイメージしてた女の子と違うぜ」

「嫌いになった?」

「いや、ますます好きになった! そういうのってカッコイイじゃん」

「そういえば、今日の遊佐さんは安全? それとも危険?」

 最初の出会いが出会いだったとはいえ、こんなこと気軽に質問される私ってすげーな。

「今日はどっちでもない。中間って感じだけど?」

「そっか~。そういう曖昧な期間もあるわけか、女体の神秘だな」

「女体って言葉の響き、エロい感じがして、凄くヤだな~」

「どっちかだったらよかったのに……」

「なんで?」

 守屋くんは立ち止まってポケットをごそごそすると、

「はい、これ」

 チケットを私に手渡した。

「ビッグバンファイト9……? これって」

「もちろん、俺のデビュー戦のチケット」

「え? いいの? ただでもらっちゃって」

「おう。だからちゃんと来てくれよな」

「別に買ってもよかったのに」

 まぁ、さすがにこれだけ会話してるんだから、試合を見に行くつもりではいた。

「いいって。その代わりちゃんと応援してくれよな!」

「……守屋くんファイトォ」

「声が死んでんぞ」

「まっ、少しは親しくなったから、前より応援する気はあるよ」

「少しかよ」

 何がおかしいのか守屋くんは爆笑した。

「で、これと私の安全日と危険日がどう関係あるわけ?」

「安全日だったら安全に勝てそうだし、危険日だったらスリリングに勝てそうじゃん」

「あー。でも、所詮は字面の話だからね」

「ちょっとは自分のことを信じろって!」

 なんで怒るんだよ。私の安全日は別に守屋くんの安全日なわけじゃない。

「わかりました。んじゃ、その日が安全日になるように頑張るよ」

 怪訝そうに私を見下ろして、

「頑張ってどうにかなることなんか?」

「私の整理って割と一定の周期じゃないから、生活リズムを崩せば、簡単に生理が遅れたり早くなったりするんだよね」

 男の子相手にスゲー話をしてるな、って思う。

「そんな体に悪いことしなくてもいいって」

「ちょっとくらいさせなさいよ。だって守屋くんは体に悪いことしてるんだから、私だってしたっていいでしょ? きゃっ!」

 守屋くんがあの瞬間移動のような動きで、一度姿を消してから、私の正面に回って、

「な、な、なに?」

「ありがとう、遊佐さんッ! 俺は猛烈に感動してる! 遊佐さんが俺のためにそこまでのことしてくれるなんて!」

「いや、そこまでのことじゃないってば」

 深夜まで起きてるとか、その程度のことだし……。

「お礼に抱きしめてあげるくらいしかできないけど……」

 調子に乗るな!

「そんなお礼はいらん! いいから、試合をがんばりなさいよ」

「……抱きしめさせてくれたら、試合に勝てる気がするんだけどな」

「ダメ」

「ダメか~」

「ダメ」

 また守屋くん爆笑。

「んじゃ、俺はそろそろトレーニングに戻るから」

「んっ、行ってらっしゃい」

 ひょろひょろの守屋くんが腿を高く上げて走っていく。

 ……本当に私のこと好きなんだなぁ。

 なんかこのままぐいぐい押されて、つきあうことになってしまいそうな予感がする。

 でも、そんなのでいいのかなぁ?

 私の気持ちは……。

 私はどうしたいんだろう?


 守屋くんからもらったキックボクシングのチケットをポケットに入れて電車に乗り、約1時間。午後5時30分、ドーム球場の側にある空色の建物を見上げる。

 ……んんっ? 会場はビルの5階なの?

 どういうこと? なんか変な感じがする。だって、体育館みたいなとこでするんだよね? そういうのって、建物そのものが会場だったりするんじゃないの? 

 ビルの5階って。

 そんなところで蹴ったり殴ったりして、その振動でビルが壊れたりしないんだろうか? ビルは大丈夫なの?

 半信半疑のままビルのエレベーターに乗り5階へ。こっちが試合会場です、みたいな案内がないので不安になる。

 ……普通のオフィスとかだったらどうしよう?

 エレベーターから降りたら、その不安は消えた。いかにもそれっぽい場所だったのだ。地元の市民体育館の入口に雰囲気がちょっと似てる。

 ……ここがビルの5階かぁ。やっぱり釈然としないなぁ。

 それっぽい人にチケットを切り取ってもらって中に入る。売店とトイレのある狭いロービーを横切って、短い階段を上ると……。

 ……うっ。

 思わず息を呑んだ。

 薄暗い白熱灯の光に照らされた四角い空間。

 その中央にリングがあった。

 あそこで守屋くんが戦うのかと思うとなんだか凄く不思議な気がする。

 リングを取り囲むパイプ椅子。その後ろに固定の椅子。会場の広さは、だいたい縦横20メートルくらい?

 リングは異様な存在感を持っていた。

 なんていえばいいんだろう? 神殿、といえば大げさすぎるけど……。それに近い何かがある。

 周囲をロープに囲まれているせいで、普通の人は入っちゃいけないんだっていう威圧感があって……。

 見ているだけで、もにゃもにゃした気持ちになってしまう。

 第一試合を見ようという人は少ないのか、お客さんはまだまばらで、私みたいな女子高生の姿は皆無。

 ヤクザっぽいけどヤクザじゃないんだろうなって感じの服装の人がぽつぽつ。Tシャツ姿のスポーツマン風の人がぽつぽつ。あんまりスポーツしてなさそうな人もぽつぽつ。

 アンダーグラウンドの世界に来てしまった、という恐怖が軽く走る。

 変にうろちょろしてたら、ヤクザ風の人にどなられそうなので、チケットに書かれた番号の椅子を探して座る。映画館にあるような固定椅子で、想像していたよりはふわふわだ。

 ……いったいキックボクシングってどういうものなんだろう。

 時間がたつにつれて、人が入ってくる。

 30分くらいして、客席が1/3くらい埋まったところで、素人っぽいアナウンサーの人が、うまく聞き取れないことを叫んだ。

 これから試合が始まります、ということを告げたようだ。

 まず試合前のセレモニーみたいのがあったりするのかな? ん? ……えっ? えええっ?

 ──不意。

 不意に、だった。

 大きな短パンをはいて、グローブを手につけた守屋くんが、通路を歩いて普通に入ってきた。

 入場曲とかそういうのもなく。

 ただ普通に。なにげなく入ってきて、なにげなくリングに入った。

 私の姿には全然気づいてないし、私を捜すそぶりも見せない。

 ちょっと悔しい気もするけど、これから試合をするんだから、そんなの当たり前だ。

 ……あれが守屋くん?

 当たり前だけど、守屋くんの裸を見たのは初めてだ。細長い体に贅肉は全然ついてなくて筋肉だけって感じ。

 生で、って言うとなんだかいやらしい感じだけど、男の人の裸を生で見たのは、いつ以来か思い出せないくらい前な気がする。

 アナウンサーの人が何か言っているけど、守屋くんを見るのに夢中で、頭に入ってこない。

 自分でもビックリだ。

 どうして私はこんなに食い入るように、守屋くんを見ているんだろう? いや、応援しに来たんだからそれでいいんだけど……そうじゃなくて。

 とにかく守屋くんを見ることしかできない。

 普段は柴犬みたいな顔なのに、今は眉間に皺がよって、目が釣り上がって、まるで猛犬だ。ドーベルマンだ。

 いつの間にか守屋くんと同じ様な体型の対戦相手がリングに入っていた。またアナウンサーが何か喋って突然……カーンッ、と乾いた金属の音がした。

 それは試合の始まる合図だった。

 守屋くんと対戦相手が同じ速度で近づき、バシン、とイヤな音が響いた。守屋くんが対戦相手の足を蹴った音。

 まっ、マジか!

 本当に蹴るんだ!

 もう一回、バシン、という音。今度は守屋くんが蹴られた音。

 ……人間の肉と肉がぶつかったらこんなに痛そうな音がするんだ。

 あんな鈍くて大きな音がするなんて、絶対に痛いに決まってる。

 心臓がズキズキする。私の体まで痛くなる。

 肉と肉のぶつかる音。

 痛い。痛い。痛い。痛い。

 守屋くんが必死に、必死に、動いてる。腕が足が動いて、顔が歪んで。呼吸するたびに筋肉しかないお腹が前後に動いて。

 痛い。痛い。痛い。痛い。

 心臓が、肺が……。

「守屋くんッ!」

 叫んでいた。

 私は! 守屋くんが、動いて、手を。

 目をそらしたいのに、そらせな「守屋くんッ!!」

 がんばれ、とか、そんな無責任なこと言えない。ただ名前を……。そこから先に踏み込んでいいとは思えない。友達でしかない私が、そこまで言っていいと思えない。

 だって、そんなの無責任だ。

 あんなに頑張ってる守屋くんに、もっとがんばれだなんて、そんな無責任なこと、友達の立場では言えない。

 言えるわけない。

 だから、ただ、名前を、今は、

「守屋くんッ!」

 私は……。

「守屋くんッ!」

 守屋くんが必死に動いてる。怖い顔で。

 その先を言うということは、私は……。

 私は、覚悟を。

 そうなるって、決めないと。

 だから、

 決めて。

 今、言いたいから!

 ただ、言いたいから!

 私は!

 覚悟。

 言う!

 私は!

 決めた。

 だから、

 言え! 言ってしまえ!

 言うの?

 こんなので、流されて、それ言っちゃていいの?

 いいの?

 雰囲気だけじゃん!

 自分の心がどこにあるのかわかんないのに……。

 だったら、言わないほうが……。

 うん、言わない方が……。

「がんばれ!」

 叫んでいた。

「守屋くんッ! 守屋くんッ! が、がんばれ! がんばれ守屋くんッ! がんばれ!」

 守屋くんと対戦相手がぐちゃくちゃと近づいて、ガチン、と凄く嫌な音がした。何がどうなったのか全然わかんない。

 試合を監視してる白い服を着た人が、二人の間に入る。

 えっ?

 守屋くんの額から、血が……血が……。血が出て。鼻筋から唇に向かって、流れて、血が、流れて……。口元まで垂れている。

 リングに白衣を着た人が上がってきて、守屋くんの額を見る。

 血が……。

 タオルでごしごしって荒っぽく拭かれて。額が血で、拭かれて。守屋くんの血が。血が出て、顔が。凄い、顔で。顔で。精一杯の顔で、守屋くんが喋ってる。おっかない獣みたいな。狼みたいな顔で、白衣の人に怒鳴っている。

「大丈夫です! まだできます!」

 会場に響く。

 あんな顔、私にはしたことない。見たことのない守屋くんがリングにいる。

 その顔が怖くて、泣きそうだ。

「大丈夫です! まだできます!」

 大きな声が。

 私は守屋くんの名前を呼ぶこともできずに、見つめるだけで。当たり前だけど、それしかできなくて。その距離感に。届かなくて。私の気持ちが、少しも、届いてないみたいで。痛い。だけど……。だから!

 私は力いっぱい、守屋くんを見つめる。

 守屋くんがまた怒鳴る。

「大丈夫です! まだできます!」

 白衣の人が両手で×を作ると同時に、カーンッと金属音。

 守屋くんがそのままリングに崩れ落ちる。

 対戦相手が自分の肘を観客に見せつけながら小刻みにジャンプしてる。嬉しそうに。ぴょんぴょんぴょん。

 肘で守屋くんの額をぐちゃっとしたのだと、観客に自慢している。

 守屋くんは泣いてる。

 守屋くんはきっと私のことなんか、少しも考えてない。

 そういう守屋くんを見るのは初めてで。とっても、胸が痛い。お腹がキューッとして、何が何だかわからないまま、泣いてしまいそうになっている。

 私が負けたわけじゃないのに。

 体がバラバラになってしまいそうだ。

 だけど、私のこと考えてない守屋くんを見れたのが……嬉しくて。なんだかちょっと不思議な気分だ。

 アナウンサーが勝敗を告げる。

 守屋くんの負け。

 守屋くんの。

 今日の私は、危険日だ。

 危険な、私。だった。


 8時。私は会場近くの駅で立ち尽くしている。会場にいるのが辛くて、守屋くんの試合が終わったら外に出てしまったのだ。

 一緒に帰ろうと約束していたから、先に帰っちゃうわけにもいかない。だからって喫茶店に入るような気分でもなく。ただじっと駅で立っている。

 足の裏の感覚が遠い。トランポリンの上にたっているような気がして、少しでも力を抜いたら、そのまま倒れてしまいそうだ。

 手を振りながら、笑顔の守屋くんが小走りで近づいてくる。

「額、大丈夫なの?」

 そんなこと後で聞けばいいのに。今はもっと言わなきゃいけないことがあるのに……。

「おおう、大丈夫。お医者さんに6針縫ってもらったから、もう大丈夫」

 6針!

「それって全然大丈夫じゃない!」

「いや、大丈夫。キックボクシングじゃよくあることなんだ。せっかく来てもらったのに負けちゃってごめんな~」

「そんなことどうでもいいよ。私はその……えっと……。守屋くんってこういう人なんだって……少しだけわかった気がした」

「なんか照れくさいな」

 こんなことで照れるな。私はこれからもっと恥ずかしいことを言わないといけないんだからさ。

「だから……その、うん。か、彼女に……。彼女になれる気がした。というか、なってもいい……じゃなくて、なるよ。守屋くんの特別になる。ああいう守屋くんを知って、私は守屋くんのこと好きになれそうな気がした」

 というか、もう好きになってしまっているんじゃないだろうか?

 今日の守屋くんの姿を、私は一生忘れない気がする。

「ダメだ」

「はぁっ?」

「まだ彼女になっちゃダメだ」

 こっ、この野郎!

 ……何を言い出した?

 昨日まであんなになってくれ、なってくれってせがんでたくせに!

「だって、あんなので好きになってもらうのって、なんか違うだろ?」

「どういうこと?」

「試合に負けたって同情でそういうこと言われたくないんだよ」

「ばっ、バカじゃないの! 私がキックボクシングをする人なら、守屋くんを殴ったり蹴ったりしてる! あー、殴りたい! 守屋くんのことぼっこぼっこにしてしまいたい。できれば亡き者にしてしまいたい」

 守屋くんはへらへら笑いながら、

「なんでそんなに怒ってんだよ」

 笑うな、アホ! ぶっ殺すぞ! 

 人の覚悟をなんだと思ってんだ!

「守屋くんにそんなこと言う権利はない! ド変態のくせに! 痣を見て好きになることに比べれば、がんばってる男の子を見て好きになるなんて全然普通のことじゃない!」

「でもこのタイミングはな~」

「なんでそういうの気にするの! こ、この……このいくじなしがぁ!」

「い、いくじなしなの、俺?」

「そうだよ。ほら、彼女だよ。守屋くんの目の前にいるのは、守屋くんの彼女。だからごちゃごちゃ言わないで、手を握りなさいよ。ほら、早く! このチャンスを逃すようだったら心の底から軽蔑する! 握らないなら、すぐ死ね! 自分を恥じて死ね! ほら、そこに川があるから、溺死しろ!」

 キッ、と守屋くんをにらみながら、手を差し出す。

「遊佐さんって結構、気が強くて押しの強いタイプだよな~」

「守屋くんほどじゃない」

「そんなことないと思うけどな~」

 苦笑して、守屋くんは私の手を握った。

「うあっ? 手が硬い。なにこれ?」

 がっちがち。鉄みたい。

「遊佐さんの手はすっげーやわらかい。あははははっ。すっげー。遊佐さんの手を握ってる」

「嬉しい?」

「超嬉しい! やべっ、興奮してきた」

「そういう反応は嬉しくないな~」

「いや、でも、興奮するぜ」

「あっそう。……あのさ……。ごめんね。……今日、危険日だったんだ」

「いいって、エッチなことならいつでもできるだろ?」

「バカ! そういうことじゃない! そんなことはするつもりないから、いつでもできるとか言うな!」

 そこまでの覚悟はできてない!

「わかった、わかったって。で、何?」

「そんな日に応援に来てごめん。字面的に縁起が悪そう……というか悪いでしょ? 一応、安全日になるように努力はしたんだけどね」

「努力してくれただけで超嬉しいって!」

「謝っておかないとダメな気がして。それだけ」

 もし勝っていたとしたら、守屋くんは遊佐さんのおかけで勝てたとか言ってくれるはずだから、今回は私がごめんって言わないといけない気がするんだ。

 私は守屋くんの手をぐっと引っ張って、

「じゃ、行こう!」

「行くってどこにだよ?」

「カツ丼屋に決まってんじゃん」

 今の私ってとってもいい笑顔をしてるんだろうなぁ、ってわかった。

 こんな顔を見せてしまったら、もう後戻りはできないなって、そう思った。



 試合を終えて、守屋くんのトレーニングは少しの間お休み。体を休ませないといけないらしい。というわけで最近は割と長い時間、守屋くんと一緒にいる。

 土手で立ち止まって、並ん川を見下ろす。いつものように歩いてたらすぐに別れなきゃいけない場所にたどり着いてしまうからだ。

 不自然に近い距離に守屋くんが立っているけど、それが少しもイヤじゃなかった。

 最初っからそうだったけど、生理的嫌悪感は全然ないんだよな~。

「遊佐さんってさ~」

「ん~」

「変態だよね」

「はぁっ?!」

 何をしみじみとした口調で言い出した?!

 しかも断定?! 守屋くんだけにはそういうこと言われたくないんですけど!

「前に借りた江戸川乱歩。枕元に置いて一緒に寝たりさ。あー遊佐さんの手がこの本をさわってたんだなぁ、と思いながら撫で回したりしてたんだけど……」

「本当にそういうことしたの! 超気持ち悪いッ!」

「舐めたりはしなかったぜ?」

「当たり前!」

「本当は少し舐めたけどな」

「死んで! 彼氏になったからって何でも許されると思うなよ? なんでそんな変態的なことしてる人に変態だなんて言われるわけ?」

 もうイヤだ! なんでこんな人が私の彼氏なの? 最悪だ。

「でさ~。遊佐さんの存在を味わいつくしてから……」

「味わいつくさないで!」

「んなこと言ってももう遅せぇよ。味わいつくしてから、読んでみたんだよ」

「……一応、読みはしたわけね」

「そしたらさ! 愛する人の腐乱死体とか! 愛する人を食っちゃったりとか! 殺人鬼がぐちゃぐちゃぐちゃだったりさ! 超グロいじゃん!」

「乱歩ってそういう作家だからね」

「あんな怖くてグロいもんを授業中に読んでるなんて信じらんねーよ!」

「別にいいじゃん。誰かに迷惑をかけてるわけじゃないんだからさ」

「……俺、頑張るよ」

「……え? あっ、うん? 何を? 読書をってこと?」

「遊佐さんが俺にああいうグロいことしてみたいんだとしても、殺されるのはアレだけどその寸前まで耐えるよ」

「あんなことしたくない!」

 恍惚状態で守屋くんの腐乱死体に埋まったりしたくない!

「私はああいう性癖なので覚悟してください、って意味で俺に貸したんじゃないの?」

「変な深読みしないで。私はただ物語としておもしろいって思っただけ」

「確かに、おもしろかったぜ」

「本当に?」

「おう! 人間ってこんなことを思いついたりするんだーって、感動したぜ。グロいだけじゃなくて、人間の感情っていうのかな? うまく言えないけどそういうのが、うん。よかった」

 ……あっ。

 胸が熱くなる。

 ……うはっ。

 私がおもしろいと思ってるものを、おもしろい、って言ってもらえるって……うっ、嬉しいぞ。たったこれだけのことが、こんなに嬉しいだなんて予想してなかったぞ?

「ま、また……何か貸そうか?」

「マジで? うん、貸して、貸して!」

「貸すけど、本に変なことしないでよ」

「わかった。今後は遊佐さん自身に変なことするように努力するからさ」

「もっとダメ!」

「んじゃ、本と遊佐さんのどっちに変なことすればいいんだよ!」

「なんで二択になるのよ! どっちもしちゃダメ!」

「じゃ、使い古した歯ブラシをちょうだい」

「冗談だとしても、よくそんな下品で嫌われそうなこと言えるね? 嫌われると思わないわけ?」

 今から川に沈め!

「んじゃ、俺の愛の衝動はどこにぶつければいいんだよぉ」

「本気で落ち込んだ声を出さないように」

 こういう時の守屋くんってどこまでが本気で、どこからが冗談なのか微妙にわかりづらいからちょっと怖いんだよね。あわよくばって気持ちが見え隠れするというか……。隙あらば狙います、って言われてるみたいでさ。

 ……それに……超本気で言われたら、いろいろ拒みきれないような気もするし。拒めないだろうなぁ、って考えてる自分もちょっと怖い。

 …………………………………いつか。

 一ヵ月後か一年後かわかんないけど、守屋くんとエッチなことしてしまうんだろうな。

 全然リアルに考えられないのに、客観的に考えて、絶対にそうなってしまうだろうことが、とっても不思議だ。いつか魔法の国に連れて行きますからね~、と真顔で言われているような気分。ありえないことが本当になってしまう不思議。本当に不思議。

「俺さ~」

「ん~?」

「遊佐さんに悪いことしたなぁ、って思う」

「……何を思ってそんなこと言い出したかわからないけど、悪いことは沢山したね」

「沢山はしてねーだろ」

「したよ。不意にキスしようとしたこと3回あったし。みんなの見てる前で手を握ろうとしたし。そういうのは恥ずかしいからダメ。あと、自分だけ猫を抱っこしてから逃がしちゃったし。私もなでくりしたかったのに。鼻毛が出てないのに、鼻毛が出てると言って私をおろおろさせたし。猫の脳の乾物と言ってクルミの実を見せて私を驚かせたし……」

「いろいろ覚えてるな~」

「守屋くんってイタズラ好きだよね。……これから先が思いやられる」

「これから先ってことは、俺とずっとつきあうつもりでいるわけだな。イェーイ」

 うぜぇ。

「で、どの悪事のことを言ってるわけ?」

「痣のこと」

「ふんっ」

「……鼻で笑うなよ」

「今更、謝るようなこと?」

「あの時の俺って自分のことしか考えてなかっただろ?」

「誰が見てもそうだね~」

「あんなに痣、痣、言っちゃってさ。興奮しちゃってさ、遊佐さんが傷つくかもってこと考えてなかった。だから、悪かったな~、って思う」

「なんで急にそんなこと言い出したの?」

「遊佐さんが彼女になってくれた日のことを思い返してさ~」

「あ~」

「情けない姿を見せちゃった日に、彼女になるって言ってもらって……同情で言われたのかな~、って考えたら傷ついた。俺も同じことを遊佐さんに思わせちゃってたんじゃないかって考えたら……すっげー、反省した」

「私は同情なんかで言ってないよ。勝ったとか負けたとか関係なく、守屋くんのこと……カッコイイなぁ、と思っただけで」

「俺だって同情なんかで言ってないよ。守屋さんの痣が……その、素敵というか、可愛いというか……なんていうか……」

「エロい?」

「そうそう、エロいなぁ、って違うって! じゃなくてズキュンと来ただけだから」

「とにかくお互いに同情で言ったわけじゃないんだから、後ろめたく思う必要なんかないよ。それにさ……私は守屋くんとつきあうことになってよかったと思ってる」

「おおっ? どうして?」

「どうしてって……それは、秘密ですわい」

「えーっ!」

 最近、気づいたのだ。

 守屋くんと出会ってから死にたいって考えてないことに。

 守屋くんに振り回されて、そんなこと考えるヒマがなかったというのもあると思うし。それよりなにより、こんなものを好きって言ってくれる人がいるって思うと……。

 なんていうか、嬉しいとかじゃなくて、ほっとするとかじゃなくて……。えっと……そうだ。

 ──気が遠くなる。

 これを好きな人がいるかと思うと、大宇宙に放り出されたような、どうだっていいや~、という気持ちになるのだ。

 ジャッ、と靴底で地面を擦る音。

「むっ」

 私は唇をキュッと閉じて、素早く後ろに跳ね、視界を広く持つように意識しながら顎を引く。

 守屋くんが素早く私の正面に回る動きが見えた。

「ふふふふっ、もうその魔法には引っかからないのだよ」

「やるな、遊佐さん」

「何度もやられれば、このくらいの反応できるようになるって」

 まぁ、文系少女の枠を凌駕した動きではある。もしかして私って運動が嫌いなだけで、運動神経はよかったりするのだろうか?

「……遊佐さんにも反応されてしまうって、俺ってフットワーク下手なんかなぁ」

「もっと騙す動きを入れた方がいいんじゃないの? もっと細かく左右に体を振るとかさ。左右だけじゃなくて前後の動きをもっと混ぜてさ。これからこう動きます、っていうのがわかっちゃうんだよね」

「……なんつーか、的確なアドバイスだな~。ジムの人にも頭を使って動けってよく言われるんだよ」

「で、なに? よからぬことを言うつもりなんでしょ?」

「うん」

 ……うん、って。

 言うんだ、よからぬこと。

「最近、遊佐さんの痣を見てない」

 私はハシッと両手で前髪の上からデコを押さえる。

「なんで隠すんだよ」

「隠すよ。だって見せたら興奮すんじゃん」

「しちゃダメかよ!」

「ダメだよ!」

 当たり前のことを半切れ気味に言うな。

「うむむむむっ!」

 守屋くんは、ばっ、と自分の前髪をかきあげた。

「抜糸は明日だから、まだこんもりしてるだろ?」

 試合の時の傷を私に見せつける。

「してるけど……。それが?」

「俺は見せたんだから、遊佐さんも見せないといけないと思います」

 はぁ~。

「そんなもの交換条件になりません。私は別に守屋くんの額なんか見たくなかったもん」

「……だったら、もっと見せたくないもの見せるぞ」

「それってなによ?」

「両手でデコを左右に引っ張って、傷口を開いてやる」

「やれるもんなら……」

 やってみろ……なんて言ったら、このバカは本当にやりかねない。まさかしないだろうけど、絶対にしないと思うまでは、守屋くんを信用できない。

 私のため……というか、自分の欲望を満たすためならそのくらいのことしかねない危うさがある。まったくなんて彼氏だ。

 強引で滅茶苦茶なんだからなぁ。

「あんまりジロジロ見たらヤだからね」

「う、うん! 俺が前髪を開いてもいい?」

「……いいけど」

 あー、期待に満ちた目が重い! その視線だけで額に穴が開きそう。

 ううう~~っ。

 守屋くんはやけにゆっくりと、過剰に優しい手つきで私の前髪を分ける。

「あんまりちゃんと見えないな」

「ファンデ塗ってるから」

 痣用のファンデの色と、私の肌の色がほとんど一緒だったので、結構うまく隠れてしまうのだ。ファンデの色と肌の色が合わなくて苦労する、って話を聞いたことあるから私はラッキーなんだと思う。

「拭ってもいい?」

「いいけど……」

「ちょい動くなよ?」

「うん……。うわっ! ななななっ、なぜそんなに顔を近づける?」

「舐め取ろうかと思って」

「アホか!」

 急いでハンカチでゴシゴシとファンデを拭い取る。

「俺の体の心配? ファンデって舐めたら毒なの?」

「知るか! 舐められるのが嫌なだけ!」

「俺、遊佐さんにだったらおでこを舐めてもらいたいけどな~」

「私はイヤなの!」

「照れ屋さんめ~」

 見当違いのことを言いながら、守屋くんは再びじっと私の痣を見つめる。

「うっ……。んっ………」

 なんとなく、きをつけ、の姿勢になってしまう。なんだろう? そうするのが正しいことのような気がしたんだ。

 見られてるだけなのに、おでこが熱い。ジンジンする。皮膚がドロドロに溶けて、頭蓋骨が露になってしまいそうだ。

 うっ、うううっ。

 少しずつ荒くなってきた守屋くんの息が顔にかかって……。それが全然イヤじゃないのが不思議で変な気持ちだ。

 今日の守屋くんは汗の匂いがしないな、なんてこと思って……。

 ちょっと汗臭い方が守屋くんらしいのに、なんてことを思って……。

 そういうことを思っていたら、くらくら、する。ぐらぐら、になってしまう。

「も、もういいでしょ?」

「ここにキスしてもいい?」

「……ッ!」

「するぞ」

「ちょ、ちょっと、ストップ!」

「んじゃ、するから」

「バカ! ストップだって言ってんじゃん!」

「ダメ?」

「……ダメじゃないけど」

 だ、ダメじゃないけど? な、何を口走っているんだ、私は! ダメじゃないの? そうなの? そうなんだ?

 ダメじゃ……ないんだ?

「ダメじゃないけど、舐めたりしたらヤだ。あ、当てるだけね」

「わかったよ」

 守屋くんの顔が近づいてくる。

 うっ、うあっ! 心臓が! 心臓が破裂する! 守屋くんの、唇が……。

 ……んっ。

 おでこに、むにっ、とやわらかい感触。

 ううっ!

「……ッ! んっ」

 唇がゆっくりと痣をなぞるように動いている。

 うっ、くぅぅぅっ!

 体がガチガチで、長い鉄の棒を飲み込んだみたいだ。

「ンンッ」

 死ぬ、死んでしまうってば。緊張で頭がおかしくなってしまう。脳細胞が死んで、頭が悪くなってしまう!

 ちゅっ、と守屋くんが私の肌を吸う。ほんの微かな痛みなのに、物凄く痛かったみたいに、全身が震えてしまう。

「はい、お終い」

 守屋くんが顔を離して、ささっ、と私の前髪を元に戻す。

 私は努力して、余裕の笑みをなんとか作り、

「もういいの?」

 守屋くんはやけに真剣な顔で、

「うん。遊佐さん震えてたから、また悪いことしちゃってるんだなぁ、と思ってさ」

 うっ! 震えてるのバレてたんだ。虚勢を張った意味ナシ!

「ち、違う! 別にイヤでそうなったんじゃなくて、緊張しただけだから……」

 守屋くんは、ほっ、としたように笑って、

「そっか~。俺も凄い緊張してた」

「……そう」

 されないよりは、してもらってた方がいいよね。

「ま、今日はこれでお終い。まだ本当のキスもしてないのに、こういう変態的なことに夢中になるのも何だしな~」

「変態的って言うな!」

「じゃ、なんていえばいいんだよ」

「それは……わかんないけど。もっと、ロマンチックな言い方があるでしょ?」

「ロマンチック!」

 守屋くん爆笑。

 あー、殺したい。亡き者にしてしまいたいわ。せっかくさせてあげたのに! 体がガチガチで死んじゃいそうになったのに、その反応は酷いと思います。

「そういえば今日は安全日、危険日? こんな目にあったんだから危険日なんじゃないのか?」

 まぁ、確かに守屋くんは危険ではあるけども、それは今に始まったことじゃない。

「別に守屋くんは危険じゃないでしょ? 私が本当にイヤがることはしないじゃない」

 信用してることをアピールして釘をさしておく。

「それにもう測るのやめたから、わかんないんだ」

「え? なんで? エッチなことする時に困んじゃん」

「その時はちゃんと避妊しろ、バカめ」

 ようは……。

 死にたいな、って気持ちがあったからだ。

 その不安から逃れるために、何かにすがりつきたかったから……。だから、安全日、という字面を見て、私は安全なんだって思いたかった。

 守屋くんにすがったり、守ったりして欲しいとは思わないけど……いや、ちょっとは思うけど。だけど、そういうんじゃなくて、守屋くんとこうなってからは、死にたいなんて思わなくなった。

 だから、もう毎朝、体温を測る必要はないのだ。

 恥ずかしいから、このことは守屋くんに言わないけどね。

「守屋くん、屈みなさい」

「ん? なんで?」

「今度は私が守屋くんのおでこの傷口にキスしたげるから」

「俺の変態が感染しちゃったか?」

「そうかもね。されたくないの?」

「されたい、されたい!」

 お座りを命じられた柴犬みたいに、嬉しそうに屈む。

 キスする前に守屋くんの頭をなでなで。

「これからもよろしくね」

「一生、遊佐さんのこと大切にするぜ」

「はいはい」

 一生って……重いなぁ。

 まぁ、でも……そんなこと考えたことなかったけど、もしかしたら、そういうことになる可能性だってあるのか……な?

 どうなんだろう? まぁ……別に、私もそれでもいいけどさ。ん~、もしかして、初めて好きになった男の子だから、テンションが上がっちゃってこんなこと考えてるだけなのかしらん?

 まっ、今はそんなことどうでもいいや。

 私は守屋くんの前髪をかきわけて、唇を近づけながら、

 ありがとね、守屋くん。

 そんなことを本気で思っていた。

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安全日は安全だけど危険。 渡辺ファッキン僚一 @fuckinwatanabe

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