安全日は安全だけど危険。

渡辺ファッキン僚一

第1話

 高校からの帰り。

 駅前の本屋をはしごしてから、西日の射す土手をテクテク歩く。

 なんだかつまらないな~、という気持ちを抱えて歩く。

 誰かと喋りたいな~、なんてことを考えながら歩く。

 せっかく初めて自分のことを知った日なのに、いつもと変わらない一日だなんて。

 あーっ! 大声で叫びたい!

「今日の私は安全なんですっ!」って!

 叫びたい!

 まぁ、そんな恥ずかしいこと絶対にしないけどね。

 なんとなくすぐには家に帰りたくない気分だったので、土手をあてどもなく歩く。当然、多くの人とすれ違う。

 犬とお散歩中の人だったり、買い物袋を抱えた主婦だったり、帰宅途中の小学生の集団だったり……。

 ──ん?

 ジョギングしているトレーニングウェアの男の人が前から近づいてきた時、脳内で微かにピリピリって電流が走った気がした。

 見るからにスポーツ大好きって感じの走り方だ。

 腿の上がり方とか、手の振り方とかで、そういうのわかる。

 スポーツ嫌いの私が同じことをすれば、四肢の動きはもっともっと不機嫌そうになるはずだ。

 ……ん~。

 私は彼の何を気にしてるんだろう?

 すれ違って、あれ? 

 一、二、三秒。あれれ? 

 違和感に引きずられて振り返る。同じタイミングで男の人も振り返っていた。

「遊佐さん?」

 男の子は、私の苗字を呼んだ。

「えっと……あー……。もっ、森崎くん?」

「おしい! ちょい違う。俺の出席番号は森崎の次。守屋だよ、守屋」

「ごめん。守屋くんか……。どこかで見たと思ったんだ」

「どこかって、同じクラスなんだからそりゃ見てるだろ」

 笑いながら私に近づく。一歩、二歩、三歩、で、ストップ。

 あー、距離だなぁ。って思う。

 これはあんまり親しくない男女の距離だ。

 守屋くんのこと全然知らないけど、照れ屋さんで常識人かな?

 ……一応、クラスメイトと出会って会話しちゃったんだから、会話のキャッチボールを二、三回はした方がいいんだよね? 

 だよね? 判断、間違ってないよね?

 近づいたってことは、守屋くんもそのつもりなんだろうし。でも親しくない人と喋るのって緊張するからイヤだな。

 というか面倒だ。

 でもこのタイミングで、また明日、とは言いづらい。

 それに考えてみれば……誰かと喋りたい気分だったし。

 大人しめな私が喋りたくて悶々としてるなんて、滅多にないことだ。

 それで、これなんだから、奇跡的なタイミングと言えないこともない。

 えーっと、よし。……喋ろう! 喋るのだ。がんばれ、私。

 すっ、スムーズに!

 行けッ!

「守屋くんは部活の最中?」

「んにゃ、俺、帰宅部だから」

「んじゃ……えっと、その……こっ、個人活動?」

「……っていうのかなぁ? あーっ……と誰にも言わない?」

 守屋くんは照れくさそうに頬を指でかく。

 おおう?

 心の中で軽く仰け反る。

「もしかして秘密話?」

「……そういうことになるかな」

「私に話しちゃうの? たまたま会っただけで、守屋くんの顔と名前さえ一致してない私なんかに? なんで?」

 唐突すぎる。ちょっと待ってほしい。そういうの支えられる自信がない。

 守屋くんは何がおかしいのかくすくす笑う。

「そうそう。話しちゃうんだよ。なんか言っちゃいたい気分なんだ。迷惑か?」

 普通に迷惑だ。

 だけど…………まぁ、考えてみればどうでもいい相手だからこそ、秘密話ができる、ということなのかもしれない。

 よっ、よし。聞く!

「誰でもいいから言っちゃいたい気分って、なんかわかる。だから聞くよ。その代わり、あとから私の話も聞いて欲しい」

「遊佐さんも話したいことあんの? オッケー聞く聞く」

 なんだか軽いな~。別にいいんだけどさ。

 守屋くんはちょっと自慢げに胸を張って、

「あのさ……俺、キックボクシングをやってんだ」

「……へ~」

「……反応鈍いな」

 キックボクシングって言われてもな……。

「それって秘密にしなきゃいけないようなこと? キックボクシングのこと良く知らないけど……悪事?」

「悪事じゃねーよ。健全」

「じゃ、どうして隠すの?」

「だってさ~。格闘技やってるなんて、俺って強くなりたいんです、って主張する感じがすんじゃん」

「……? 主張しちゃダメなの?」

 よくわからんことを言う人だなぁ。

 スポーツしてる人は多かれ少なかれ似たようなことを考えてるもんじゃないの?

 人より速く走りたいのも、人よりゴールを決めたいのも、人より強くなりたいのも、同じ様なものだと思うけど。

 まぁ、私にしてみれば、どれも興味のない話ではあるけど……。

「ダメってことはないけどさ。そういうのは俺だけが知っていればいいことっつーか、みんなに伝える必要ねーっつーか」

 よくわからんなぁ。

「……男のプライドとかそういうの?」

「そう言われるのも恥ずかしくて嫌っつーかさ。うーん、うまく言えないけど、言いたくないんだよ。それに校則違反だからな」

「ウチの学校、キックボクシング禁止って校則があるの?」

「じゃなくて、夏休み以外のアルバイト禁止だろ?」

「……キックボクシングがアルバイト?」

「アルバイトとは違うかもしんねーけど。俺、今度、プロデビューすんだよね。プロってわけで、一応、金が発生するからさ~。凄く少しだけど」

「あー、なるほど。それは学校じゃ言いづらいね」

「そういうこと。だから秘密なんだよ。でもさ、ほら。秘密にしつつも誰かに頑張れ、って言ってもらいたい気持ちもあるわけじゃん。それが女の子だったりしたら最高じゃん!」

 おい! 

 ちょっと待てよ、そこの男子!

 ……おい!

 ちょっと待っていただけますか?

 男子さん?

 ……もしかしてだ。

「もしかして、それが目的で私に話したわけ?」

「そう、それ! 遊佐さん、察しがいいな」

 そこまで言われて気づかないバカがいるか!

「言ってくれたら嬉しいな~」

 仔犬みたいな目で私を真っ直ぐに見る。

 どんだけ周囲から愛されて育ったら、こんなこと言って、こんな目ができるんだ?!

 正気とは思えない。

「守屋くんは、そういうラブコメ的? スポーツ青春物的? とにかくそういうアレがお望みなわけだ」

「うん、うん! 理解してもらえて嬉しい! 言って言って!」

 うわ~。

 正直、苦手だなー。というか無理だなー。

 でも、断りづらいなー。

 断ったら、しこりを残しそうだもんなー。

 言うのと言わないのと、どっちが面倒なことになるんだ?

 あー、もう! これだから人間って嫌だ。

 ……でもせっかく私なんかに話してくれたわけだし、ちょっとはがんばってみっか~。

「あー、がんばれ」

「……心がこもってねーなー」

「守屋くんファイトォ」

「声が死んでんぞ」

「あのね~。ハッキリ言うけど、親しくもないのに、心こめて応援するなんて無理だから」

「だとしてもさ。へー、キックボクシングやってんだー、凄い! カッコイイ、がんばってー! とかのミーハーな反応くらいできんだろ?」

「はんっ」

「…………鼻で笑うなよ」

「私、文系だから、そういうことしないの。秘密を打ち明ける相手を間違えてる」

「いや……」

「ん?」

「俺は間違えてねー!」

 絶対確実に間違えてると思うよ? っていうか大声出すなよ。うるさい。

「俺ってマゾいからさ、そういう冷たい反応に燃える。いつか心の底から応援してもらえるようにがんばる! 決めたぜ!」

 うわっ。

 離れたい。

 家に帰りたい。

 なーんか厄介な人に捕まったっぽい。

 どうしようかなぁ。話を打ち切って離れた方がよさげ?

 っていうか、立ち位置に比べて、会話の距離が近いよ、変な人だなぁ。

 なんなんだ、コイツは!

「俺の話はもういいや。じゃ、次、遊佐さんの秘密」

「あー」

 どうしようかな~。ここで私だけ話さなかったら、興味を持って欲しくて、そういう意地悪をしてる雰囲気になっちゃいそう。

 考えすぎかな? 考えすぎだとは思うけど、そんな風に思われるのはイヤだから言っちゃうか。

「……今日の私は安全なんだよね。アイアムセーフ。いえーい」

 気の抜けた声で淡々と言う。

「安全? 神社でお守りを買って来たとか?」

「そういうオカルト話じゃなくて、事実として安全なの」

「言っている意味がわかんねー。つまり、俺が遊佐さんを殴ろうとしても、遊佐さんの守護霊みたいのが俺を殴り返すとか、そういうの?」

「どういうのなの、それ?」

 そいうアニメあるけどさ! 

 ……もしかして守屋くんとアニメとか漫画の趣味があったりするかな? えっと、そんなことはどうでもいいとして……。

「だからオカルト話じゃないって。女の人にあるでしょう? 安全な日と危険な日が」

「え? ……あっ! あーっ! あ~。安全日ってエロいことしても子供のできない、その安全日のこと?」

「まー、そういうこと」

 え?

 守屋くんが私の頭からつま先までを、じーっと見た。

 ええっ?!

「う、うわっ!」

 視線が私の体をなぞったのがハッキリとわかった。

 きっ、きっ、気持ち悪い!

「……胸の前で腕を組むな、仰け反るな、バックステップ踏むな。何もしねーよ」

「で、でも、今、変な目で私を見たよね?」

「急にそんなこと言われたら、つい見ちゃうに決まってんじゃん。俺は悪くないぞ。悪くないとは思うけど、ごめん。いや、やっぱり俺が悪かったな、ごめん」

 あー、ビックリした! 

 心臓が凄いドキドキしてる。

 あー、ビックリした。ビックリした! 

 喉がカラカラカカラカラカラだ。

 こんな露骨に自分が性の対象になるとは思わなかった。

「もう、止めて! 私をそんな目で見てもしょうがないじゃん! 無意味だから止めてよ」

 私なんかで興奮する男子がいるわけないんだからさ。

 そういう気の迷いは勘弁して欲しい、本当に。

「だから、しょうがない、とかしょうがあるとかじゃなくてだな」

 しょうがあるなんて表現はないよ。

 守屋くんは呆れたように肩を落として、

「安全日って言葉に、そういう意味が含まれてるんだから、どうしたってそういうの意識しちゃうだろうが」

 そう言われたら、そうなのかもしれないけどさ。

 ……だけど自分にそんな魅力がないことくらい知ってるから、そんな目で見られるなんて思ってなかったんだもん。

 まだ心臓がバクバクしてるよ! もう! あー、驚いた。

 守屋くんは大げさに、わざとらしく周囲を見回す。

「……えーっと、ここらへんって、ラブホどこにあったっけ?」

 このタイミンクで勇気のあるボケだな。

「知りません、行きません」

「あ、遊佐さんちょっと笑った。今のボケはちょっとチャレンジャーな俺だったから、外したらやべ~と思ったんだけど、よかった」

「今のはギャグだってわかったからさ。そのくらいは引きはしないですよ。……さっきの視線は引いたけど」

「で、どうして安全日だってことを俺に言ったの? 俺をさそってんの?」

「さそうか。勘違いされないように一応、言っておくけど、私は処女だから」

 守屋くんはビシッと手を上げて、

「はい! 俺も童貞です!」

 ……特別な関係でもないし、そもそも仲良くもないのに、なんでこんな告白をし合ってんの? 

 まぁ、別にいいんだけどさ。

「私らくらいの年齢で普通に処女やってれば、普通に自分の安全日や危険日を知らないと思うんだよね~」

「へー、そうなんだ」

「だいたいはわかるけどね。正確なのはわかんないよ。安全日を知るのは大変なんだ」

「え? そうなの? っていうか、俺は安全日のこと全然知らないな」

「毎朝毎朝、休まずに体温を測らないといけないの。しかも寝て起きてすぐだよ。女子は、朝が忙しいんだから普通は、この時点でダメでしょ?」

「食パンと体温計をくわえて走るわけにはいかねーもんな」

 あははは、画期的な朝のシーンだ。そんなアニメや漫画があるなら見てみたい。

「記録していくとわかるんだけど、体温の高い時期と低い時期があって……」

「ん? 高い時期? 低い時期? 女って変温動物?」

 私らはトカゲか。

「男と同じ恒温動物だよ。だけど、月の半分は低くて、もう半分は高いの。で、低い日から高い日に変化する辺りが危険日で、高い日の真ん中くらいから生理が始まる日までが安全日」

「生理とか、体温が違うとか……。女ってなんか怖ぇーな」

「そう? おもしろいじゃん」

 この程度の話で引くな。

 こんなんで引いてたら、女とつきあうの無理だぞ?

「で、なんで処女なのにそんなの調べてんの? あ、もしかして予定があるとか? マジで? スゲー! 誰? 俺の知ってる奴?」

 急にはしゃぐな。見苦しい。そもそも、おまえが誰を知ってるかなんて知らん。

「違う違う。だいたい初めての時なんて、予定通りにいかないもんじゃないの? 詳しくは知らないけどさ」

「俺でよかったら、予定をバッチリ合わせるぜ」

「あー……。今のギャグはちょっと笑えないな~」

「難しいな」

 そうかぁ? 変にリアルなのや、変な願望が見えるのは、ダメってだけのことだ。

「じゃ、なんで安全日を調べてるの?」

「字面がさ……」

「じづら?」

「うん。安全日って単語が頼もしくない? なんていうかさ。その……世界中で何が起こったって、私は安全なんだって思えるような気がする」

 そうなのだ。私は普通の女の子で、普通の文系女子で、普通の普通の普通の女の子でしかないんだけど……。

 まぁ、ちょっと普通じゃないとこもあるんだけど……。

 心が、ふにゃふにゃ、するというか。

 どうしたらいいのか、わからない時がある。

 そういう時って、死にたくなる。

 絶対死なないってわかってる。自殺する勇気はない。

 だけど、死にたくなる。

 死ぬことを思うと、安心しちゃうのだ。

 ビルから飛び降りてつぶれちゃえば終わりだ、って考える。

 一度、考え始めると何時間も死ぬこと考えちゃう。

 そういうのは、その……。不健全というか、いけないことだから……。

 だから、安全日。

 私は安全だって、思える日。

 何があってもなくても、完全完璧に平気だって思える日。

「私は安全が欲しいんだ。安全日の私は安全な私。セーフな私なわけじゃん。そう考えると落ち着くような気がするんだ」

「ふ~ん。でもさ。冷静に考えれば全然安全じゃねーよなー」

「なんで? 安全日だよ? 安全に決まってんじゃん」

 あ、ん、ぜ、ん、び。

 そうつぶやくだけで、ほっ、とするよ。

「んなわけねーだろ。だってさ、俺は遊佐さんとエッチなことしたいなぁ、と思ったら安全日を狙うぜ? それって危険じゃないか? いや別に俺で例えることはないんだけどさ。遊佐さんとエロいことしたい男なら、そう考えるんじゃね?」

「ん? ……ん~、あー、そうか。それはそうか……」

「安全日って危険日なんじゃないの?」

 それは……そうだ。

 当たり前の話なのに、指摘されるまで思いつきもしなかった。

「そうかもしれないけど……。私が言ってるのはその……もっと文系な話? 現実は別にどうでもいいの。問題なのは安全日って字面」

 それに、そもそも……。

「私とそういうことしたい男の子なんかいるわけないから、そういう現実、を考える必要はないよ」

「あー。……ん~、遊佐さん、男をなめすぎだぜ、マジで」

「どういうこと?」

「今すぐ遊佐さんをどうにかしようとは思わないけどさ、遊佐さんがOKなら俺すぐにでも遊佐さんとエロいことできるよ?」

「……はぁ?」

「……そんなにも、疑わしげで嫌そうな目を見たの初めてかもしんねぇ」

 そう言ってへらへらと笑う。

「だって私なんかとエッチなことしたい男なんかいるわけないじゃん」

「んなことねぇって」

「んなことあるよ!」

「ねぇよ!」

「ある!」

「ないってば!」

「俺がねぇって言ってる時点でねぇんだってば!」

 ……この糞野郎!

「そんなに言うなら、証拠見せてあげる」

「証拠?」

 私は眉の下でパッツンに揃えた前髪を分けて、額を制服の袖でゴシゴシ拭いた。

「あっ」

 守屋くんが息を呑む。

「ほら、ね?」

 私のおでこにはロールシャッハテストの母親カードみたいな形の青黒い痣があるのだ。

 普段は痣用のファンデで目立たないように隠してる。

 時間をかければレーザー治療で消せるかもしれないけど、これを消してしまったら、私まで消えてしまう気がするというか……。

 ちょっと他人と距離を置いて、文系で物静かで、男の子と付き合うことなんか最初っから諦めてる自分まで消えてしまいそうで、怖いのだ。

 そんな自分なんか消えていいじゃん、って思うことだってある。

 だけど、私は私なわけで。

 痣のある私しか私は知らないわけで。

 私は今の自分が消えちゃってもいいと思えるほどの覚悟も勇気もないのだ。それが後ろ向きな私だとしても、だ。

 消えちゃってもいいけど、消しちゃう勇気もない。

 だから、そのままにしつつも目立たないようにする、という中途半端な気持ちのまま今に至っている。

「こんな女の子とお付き合いしたいとは思わないでしょ?」

 守屋くんは両手で自分の頭を抱えた。

「うっ、うっ、うがぁあぁ!」

「うっ、うがぁ?!」

 守屋くんは思いっきり仰け反ると、回れ右をして走り出した。

 えっ? えええっ?!

 今までこの痣でいろんな反応をする人を見てきたけど、こんな反応は初めてだ。

 傷つく前に唖然としてしまう。

 守屋くんは10メートルくらい走ってから、またくるっと回って全力で戻って来る。

 おおっ?

 距離! 距離が近いよ、守屋くん!

 男の子の汗の匂いが微かに届く。私の体臭とは明らかに違う。隠す気のない露骨な体の匂いだ。

 喉仏を上下させてから、

「遊佐さん! 変なこと言ってもいい?」

「ダメ」

 こんな近距離で変なことなんか聞きたくねーです。

「聞いて欲しいから言わせて欲しい」

「私は聞きたくない」

「言わせてくれ!」

「そんなに言いたいんだったら、私に許可なんか求めずに勝手に言ってよ」

「俺、遊佐さんのこと好きだっ!」

「………」

 はぁ?

 守屋くんはまた仔犬の目で私をじっと見ている。

 撫でて欲しい、可愛がって欲しい、遊んで欲しい、って容赦なく遠慮なく露骨に訴えるキラキラキラキラの目だ。

 人間がこんな目をして許されるのは小学生までだ。

 小学校に戻れ!

「遊佐さん、好きだ!」

「……どういう冗談?」

「冗談なんかじゃねー!」

「病気? ……ごめん。私、黄色い救急車ってどうやって呼べばいいかわかんないんだよね。普通に119でいいのかな?」

「なんで告白したら病人扱いなんだよ!」

「病人じゃん! 私のことなんか何も知らないじゃん? 質問。私の下の名前は?」

「……さち子!」

「全然、違う!」

「美羽!」

「違う」

「結衣!」

「微妙に本気で狙うのやめてくんない?」

 そういう名前の人、多そうだ。

「知らないよ! 趣味も知らん。家族も知らん。どこ中卒かも知らん。何もかも知らん。だけど好きだ!」

「……痣を見て好きになったんだよね?」

「う、うん。痣を見た瞬間にズキンッとなった! 好きだ、遊佐さん!」

 この男は何なんだ?

「ちょっと待って。……つまり、その……。痣のあるかわいそうな私に同情したと?」

「わからん。そうかもしんないし、そうじゃないかもしんない。とにかく好きになった」

「同情で好きになられてもなぁ」

「理由なんかどうでもいいんだよ! この胸にズシンときた切ない気持ちをどうすればいいんだよ! 責任とれよ!」

「とれるか!」

 無茶苦茶すぎる!

「とにかくつきあおう。これからデート行こうぜ!」

「行くか!」

「んじゃ、ラブホでいいよ!」

「よくないよ!」

「じゃ、キスで我慢するから」

「死んで! ほんと、死んじゃえよ、おまえ!」

 あー、もう! なんだこれ? なんですかこれは? 意味が……意味がわからない。

 今日、授業中にニーチェの『この人を見よ』をこっそり読んでいて、自信満々にわけわかんないこと書いてるのに物凄く引いたんだけど……。

 守屋くんはニーチェより上。

 だって、何を言っているのか全然わかんないんだもん。

「落ち着こう。落ち着いて、守屋くん」

「無理に決まってんじゃん!」

「いいから落ち着け。もし本当に私のこと好きなら、どうして痣を見たら好きになったのか冷静になって考えよう」

「えーっ」

「不満そうな顔しないで」

「だって、こんなに遊佐さんのこと好きなのに、冷静とか言われても困るな~」

「突然好きだって言われた私だって困ってる! だいたいさ、こんなので好きになられても困る。正直、怖いよ。ハッキリ言って、逃げたいし! 悪印象しかないから!」

「んなことねぇって! だって一目ぼれとかあんじゃん! 痣を見て好きになるのだってその一種じゃん!」

「だから、こんなとこに一目ぼれされても困るんだってば!」

「俺がどこで一目ぼれしようが俺の勝手じゃん!」

「ちょっと黙れ! ……んじゃ、こうしようよ。明日になっても私のこと好きだったら少しは真面目に話を聞いてあげる」

 とにかく今は逃げたい。

 なんとしてでもこの場から立ち去りたい。

「オッケー! ぜってー好きなままだぜ!」

「恥ずかしいから教室で騒いだりしないで。教室では今までどおり」

「恥ずかしがり屋さんだな」

「黙れ」

 私が武器と権力を持っていたら、守屋くんを亡き者にしているかもしれない。

「明日、今と同じ時間にここで答えを聞かせてもらうってことでいい?」

「オッケー、オッケー」

「あと、そうね。……守屋くんってどういう人なの?」

「俺にも興味持ってくれるの? マジで? 超嬉しい!」

「黙れ。そういうんじゃなくて、守屋くんがどういう人かわかんないと、断る時にどう言えば、傷つけずにすむかわかんないでしょ」

「ひでぇ!」

「趣味とかさ、好きなモノとか、特技とか、そういうの教えてよ」

「好きな人は遊佐さん!」

「それはいいって!」

 うっとおしいなぁ、もう!

「趣味はキックボクシング!」

「そのキックボクシングっていうのが私にはよくわかんないんだよね」

「マイナースポーツだからなぁ。……ん~。……んじゃ、遊佐さん、ちょっと動かないで。絶対に変なことしないから」

「それって変なことする前ふり?」

「違うって。遊佐さんに少しでもふれたら切腹して果てるから安心して」

「安心できないなぁ」

 そんなこと言って絶対に切腹なんかしないわけでしょ? されたら凄い困るけどさ~。私が介錯しないといけないだろうし……。

「……動かなければいいわけ?」

「そう。絶対に動くなよ~」

 守屋くんは肘を曲げた両腕を自分の胸の前で構えて、

 えっ?

「きゃっ?!」

 私は悲鳴を上げた。守屋くんが消えた。

「うわわっ?!」

 突然、目の前に守屋くんの顔。

「ええっ?」

 その顔がまた一瞬で消えて、今度は私の真横に守屋くんの顔。また消えて今度はキス寸前くらいの距離に。

「……ッ!」

 守屋くんは笑顔で後ろに下がって、

「どう? びっくりしたっしょ?」

「した、超した! なに、今の? 超能力?」

 何された? 視界から守屋くんが消えたり出たりして、なんだ?

「違ぇよ。フットワーク。ああいう風に動きながら蹴ったり殴ったりするの。それがキックボクシング」

「あんなことできるなら、守屋くんは誰にでも勝てるんじゃないの?」

 だって、見えないところから殴られたらどうしようもない。

「そんなわけないって。このくらい練習すれば誰にでもできるよ」

「そうなの?」

「そうだよ。相手の死角に入り込むように、上半身を動かせばいいだけのことだし」

 腰から上で逆三角錐を描くように上半身を回す。

「離れて見れば、俺がどうやって動いたかわかるでしょ? これを急に近くでやられると相手がどこに行ったかわかんなくなっちゃうんだよね。それにちょっとトリックを使ったしな」

「トリック?」

「動くなって言っただろ。体をひねったり、首を動かしたりして視角を広くとらないと、動きを追えないから、消えたように見えるってわけだぜ」

「へー」

 私は平静を装う。心臓がドキドキしてる。相手がいきなり視界から消えるって、かなり怖かったのだ。こういうことがこの世にあるなんて知らなかった。

 こんなことしながら、殴ったり蹴ったりするなんて……。そんなのとっても怖いに決まっている。

「あのさ。どうしてキックボクシングをしてるの?」

「家の近くにジムがあったから」

「それだけが理由じゃないよね?」

「体を動かすのが好きだからさ~」

「………」

 本当にそんな理由で、こんな怖いことしてるとしたら、同じ人間とは思えない。別種の生き物だと考えたほうがしっくり来る。

 獣の一種だな、コイツは。

 守屋くんは不意に真面目な顔になって、

「本当はさ~」

「本当は?」

「……本当は遊佐さんにキスしちゃおうかと思ったんだよな~」

「はっ、はあ~!」

「だって言われた通りにじっとしてるし、すっげー無防備だったし。唇、柔らかそうだったしさ」

「あ、あのね!」

「だけど今日は遊佐さんの安全日だからな。せっかく安全な日なのにそんなことしたら申し訳ないじゃん」

「安全日じゃなかったらしてた?」

「してた!」

「…………安全日でよかった」

 股間を蹴り上げてやろうかと思った。

 まっ、冗談で言ってるんだろうけどさ~。言っていい冗談と悪い冗談があるよね。

 私は守屋くんをにらんで、

「守屋くんって滅茶苦茶な人だってよくわかった」

「でも遊佐さんの安全日に協力するくらいの優しさはあるぜ」

「その程度のことを優しさとか言われても」

「それに仲良くもない男子に、自分の安全日を告白しちゃう遊佐さんだって、かなり滅茶苦茶じゃん」

 ……それを言われちゃうと言い返せないんだけどね。

 一瞬、会話がストップしたタイミングで、

「んじゃ、俺、トレーニングの途中だったから、そろそろ戻るよ」

「え? あっ、うん」

 自分勝手に背を向けて守屋くんは走り出してしまう。

 私はずっと逃げるタイミングを計っていたのに、おまえが先に行くのか……。

 しかも、自分勝手なタイミングで振り返って、

「遊佐さん、愛してる!」

「そういうことを叫ぶな!」

 何がおかしいのか爆笑しながら、守屋くんは走り去っていく。

 ……はぁ。

 いったいなんだったんだろう? 

 嵐だ。超大嵐。そういうのに巻き込まれた気分。

 なんかもうよくわかんないうちに互いの秘密を打ち明けて、痣を見せて、告白されて、変な動きで怖い気持ちにさせられて……。

 そんなことがあったのに……そこまでのことがあったのに、無事でこうやって立ってるし、歩くことだってできるわけだから。

 やっぱり今日は安全日なんだなって。

 そう納得できる変な気持ちだった。


 普通に家に帰って家族に「ただいま~」。

 ソファーにだらしなく寝転がってNHKの相撲中継を淡々と見る妹の腹を犬にするみたいにぐにぐに。キャッキャッと妹が身をよじる。母親の作ったご飯を食べてから入浴。

 部屋に戻って髪を乾かしてから明日の予習。理解力の遅い私は数学と英語の予習をしておかないと授業についていけない。

 他の暗記系はテスト前にがんばればいいから放置。

 さてと。まずは数学。……(a + b)(x + y)=ax……ay + bx + ……+ a×10×10 + b×……うあああっ!

 ベッドに向かってシャーペンを投げる。続けて、ノート、教科書をパンパン投げる。

 あー、もう!

 もう! なんで守屋くんの顔が頭にこびりついて、くっそー! 

 超うっとおしい!

 全然好きじゃないから! 

 というか、好きとか嫌いとか考えたことないから!

 なんで告白された私が、守屋くんのことを考えなきゃいけないんだ。ぶっ殺したい!

 重い!

 誰かに好きって言われるのが、こんなに重くて面倒なことだったなんて!

 他人の恋に巻き込まれるのは超面倒くさい!

 私は何にも悪いことしてないのに、何でこんな目に!

 通り魔! 守屋くんは通り魔!

 あー、とため息をついて、手鏡をかざす。

 前髪を分ける。お風呂上りで、ファンデを塗ってないから青黒い痣がくっきり。

 ……どうしてこんなのが好きなわけ?

 やっぱり、同情なのかな? かわいそうな私を見て、それで好きになっちゃったのかな?

 ……あー、なんだろう! 泣きたくなって来た! というかすでに涙が滲んでるよ。

 今の私って凄く惨めなんじゃ? 

 何のとりえもないから、こんなとこで誰かに好きになられてしまうんじゃないかな?

 全部、私が悪いんじゃないのか?

 うーっ!

 パタンと手鏡を机の上に伏せる。

「あー、もう!」

 掛け布団の上のノート、教科書、シャーペンをばっと床に落として、布団にもぐりこむ。

 何かにくるまっていないと、発狂してしまいそうだ。できれば布団とかじゃなくて、鋼鉄とかの頑丈な金属にくるまりたい。

 ……あーっ! もー! もー! もー!

 なんで私がこんな思いをしなきゃいけないんだぁ! なんで落ち込んで泣きそうにならなきゃいけないんだ!

 マーキングをする熊みたいに、枕に顔をぐりぐり押し付ける。

「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、んっ……うわあぁぁっ! うきゃあああぁぁ」

 全然、安全日じゃなかった!

 危険日じゃん!

 安全日を誰かに言いたいだなんて、なんで思ったんだろう? バカだ!

 もー! 考えるのはやめ! ダメ! もう考えないんだから!

 ……無!

 頭の中を灰色に! 何も考えない。何も考えない。私は何も考えられない。いざ、無の境地へと! 私は!

 …………………………………………。

 …………………………………………。

 …………………………………………。

 …………男子ってもっと臭いと思ってたんだけどな。

「うがっ!」

 布団を蹴り上げて跳ね起きる。

 机の引き出しを開けて、入学記念のクラス集合写真を引っ張り出す。えっと、守屋くんは……これだ。痩せて背の高い、柴犬みたいな顔の男子。

 冷静に一度、考えてもろ!

 もし!

 もしもしもしもしもしもしもし、つつつつつつつつつつつつつ、つきあうことになっててててててててててててて。

 ……私はこれとキスできるのだろうか?

 いや、比較対象が必要だ。

 クラスの端から順番に男子の顔をじっと見ていく。

 この人はつり目で怖そうだから無理だ。できない。次の人は女顔。せっかく男に生まれたのに女顔って好みじゃない。

 キスはできるけどつきあうのはなんかイヤ。

 次はぼんやりした顔。なんか生理的に無理。

 ……できないできないできるできないできるできないできないできないできないできるできない……で。

 次は守屋くんの番。

 客観的に、冷静に、判断しよう。

 守屋くんは……。

 守屋くんとは……。

 キス……。

 ……キス。

 そんな風になりたくないのに、顔が一気に熱くなる。怖くて鏡を見れないけど、多分、真っ赤だ。

 守屋くんとは……とは、とは、とは。

 キスできる!

 うああぁぁぁぁぁぁっ!

 あのテンションの守屋くんに、こんなこと言ったら絶対にキスされてしまう。間違いなくされてしまう!

 そのまま一気に大変なとこまで連れ去られてしまいそうな気さえする。

 一気に?

 連れ去られて?

 何を?

 うっ、うっ、うあああぁぁ!?

 なななな、何を? 何を考えていた? 私は変なこと考えそうになってた? だって、だって、そんなのまだ早い! 早いとかじゃなくて、そんなの一生することないって思ってたのに!

 なんで、こんな急に、目の前に?

 って、バカか! そんなのしたくないッ!

 危ない! なんか変な場所に連れ去られそうになってた! おおおおっ、オッカナイ。危ない! ダメだ!

 どうしたらいいのか、全然わかんなくなってきた! 守屋くんとつきあってもいいような気が一瞬したけど、それってキスしてもいいから、なんて理由だ。

 なにそれ? 発想が全然文系女子じゃないんじゃん? 

 ガツガツしてんじゃん! 処女の発想じゃない!

 だから!

 だから! だから、私はどうすればいいんだ! どうすればいいんだ!

 あっ、はっ! うあっ! そうだ!

 なんで、この便利な言葉を思いつかなかったんだろう!

 まずはお友達から!

 これだぁ。

 はぁ、よかった。

 これで安心できる。

 お友達になって、つきあえそうならつきあえばいいんだし、ダメそうなら断ればいいんだ。なーんだ、それだけのことか。

 私は何をジタバタしてたんだ。

 まったく……はぁ。めでたし、めでたし。

 肩の荷が降りたよ、本当に。

 おばあさんみたいに、ゆっくりとした動作で床に散らばった教科書とノートとシャーペンを拾う。

 これで解決。予習、予習と。

 まずはお友達から! それで終わり!

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