終章
終章
製鉄所。
懍が、玄関で待機している。
懍「おかえりなさい。すごい雨でしたね。もしかしたらと思い、迎えを出そうと思っていましたが、その矢先に帰ってきてくれてよかったです。」
川田「はい、急いで帰ったほうが良いと思ったので。水穂さんが、鎮血の薬出してくれるところまではできたから。」
懍「ああ、そこまではできたんですね。」
川田「はい。布団敷いて休ませますよ。」
懍「そうしてください。」
川田は、水穂がいつも寝起きしている部屋に入っていった。敬子は何をしていいのかわからず、その場に立っているしかできなかった。
懍「どうでした?」
敬子「どうでしたって、私、何もできなくて、、、。」
懍「でも、何か学んだことはありましたよね。」
敬子「今はなんて言っていいのかわからない気持ちです。」
懍「それでいいのですよ。必ず何か、学んだと心は覚えていますから。非常に貴重な経験をされたのではないでしょうか、今回。」
敬子「私は、私は、、、。」
懍「まあ、確かに目の前で人が倒れるというのは、非常に衝撃的なものですからね。」
と、廊下へ移動してしまった。川田と何か話していたが、敬子には聞こえなかった。
敬子はとりあえず自身の部屋に戻った。部屋に入ると、途端に涙が出た。
敬子「私、、、。」
どう表現したらよいのかわからないが、何か熱いものがのどをぐっとこみあげてくる。敬子は、床に崩れおち、いつまでも泣き続けた。時間なんか気にしないで泣き続けた。夕食の合図も、作業をしている人たちの声も聞こえなかった。
気が付くと朝だった。
いつも通りに作業が行われていたし、ご飯の合図も聞こえてきた。
泣きはらした敬子は、全く回転してくれない頭で、ふらりと立ち上がって部屋を出た。自動運転のように歩いて導いてくれたのは水穂の部屋。恐る恐る彼女は戸をたたいた。
敬子「水穂さん。」
声「ああ、どうぞ。空いてますよ。」
敬子は恐る恐る戸を開けた。水穂は、かけ布団の上に座っていた。
敬子「昨日はすみませんでした。私がもっと、気を付けていれば、雨が降ってくる前に、帰ってこれたかもしれなかったのに。本当にごめんなさい。」
水穂「いえ、かまいませんよ。誰でもあんな光景を見たら、気持ち悪いと思って当然のことでしょう。」
敬子「でも、現場にいたのなら、私も助けるべきでしたし。」
水穂「いえいえ、幸い、鎮血の薬いただいていたから、よかったですよ。以前は何もなかったですからね。逆に、謝るのはこっちですよ。びっくりさせてしまって、ご迷惑をおかけしました。」
敬子「そんな、水穂さんに謝られては私も、余計に悪いことをしたなと思ってしまいますし。」
水穂「ご自身を責める必要はないですよ。でも、青柳教授が、彼女が何かを学んでくれればそれでよいと言っていましたので、僕もそのつもりでいますから。」
敬子「ごめんなさい、水穂さん。」
水穂「あと、できれば川田さんをねぎらってやってください。彼がいなかったら、僕も大変なことになるところでした。それは心から感謝してます。僕も、この製鉄所に来てから本当にいろんなことができましたよ。人間、こんな体になっても、何かしらの力を借りて、生かしていただけるんですね。本当に、ありがたいことです。」
敬子「水穂さんは、まだ生きていたいと思いますか?」
水穂「ええ。続く限りはね。どこまでいけるかわからないですけど、いれる限りはこっちにいたいなあと思っていますよ。だって、それが人間というものですからね。体も、心も関係なく。」
敬子「私みたいに、人に迷惑をかけて、捨てられてもですか?」
水穂「僕は、生きたいと思いますね。誰かに捨てられても、自分というものが変わらなければそれでいいでしょうしね。それに、状況が変わることで自分を変えるのではなく、意識を変えるだけだと言われたことがありました。人間それができるから、生きて行かれるんですよ。」
敬子「意識を変えても、環境や立場を変えることはできないですよね。」
水穂「まあ、それはそうですよね。でも、自分というものは変わってはいませんよ。環境が変わらないことを嘆くのは自分があるから嘆くんです。教えましょうか、うまく生きるにはコツがあって、環境の良いところに意識を持っていくか、悪いところに意識をもっていくか、
このいずれかですよ。」
敬子「でも、私は、もう、ここに売られたようなもので、誰からも愛されていないと思ってるんです。」
水穂「それはまちがいですよ。もう少し周りを見渡して御覧なさい。必ず一人見つかります。そして、それは僕ではありません。」
敬子「じゃあ、誰だろう、、、。」
水穂「ヒントを差し上げますよ。もうすぐ、試験の通知をもってかえってきますよ。」
敬子「試験の通知?」
水穂「ええ。」
と外を走ってくるタクシーの音。
敬子「あ、、、。」
水穂「来ましたよ。一番大事な人が。」
敬子「はい、分かりました!」
と急いで立ち上がり、玄関のほうへ行く。
タクシーが止まる。ドアをばたんと閉める音が聞こえる。その音は、非常に軽く、希望に満ちた音。
そして、玄関から一人の男性が入ってくる。
川田「受かったよ!あんな滅茶苦茶な答えしか書いてなかったのに、この僕が受かってしまった!」
敬子「川田さん、おめでとう!」
川田「よくわかったね!正直絶対受からないと思っていたのに、、、。」
敬子「いいえ、私は受かると思ってたわ。昨日は本当にごめんなさい。私、もっと適切にするべきだったと思ったんだけど、どうしたらいいのかわからなくて。」
川田「いいんだよ!これからできるようになれば。」
車いすの音がして懍がやってきた。
懍「ああ、川田さんおかえりなさい。その顔を見ると、、、。」
川田「ええ、教授、受かりました!精神対話士の資格を無事に獲得しました!」
懍「合格おめでとう。この称号は、誰の力を借りたわけでもありません。あなたが、あなただけの力で獲得した財産です。どうかそれを忘れずに、これから躍進していけることを願っております。」
川田「ありがとうございます。青柳教授。僕はこれから、杉三さんのお宅に行って、合格したことを告げに行きます。そして、就職が決まったら、ここは退出します。本当に長い間居座ってしまいましたけれども、これで、ピリオドが打てます。本当にありがとうございました!」
敬子の心に再び何かが動く。
敬子「ここを出ていくの?川田さん、、、。」
川田「そうだよ。だって、もう就職するんだから、居ても意味がないじゃない。ここは、苦しんでいる人が幸せって何なのか学びに来るところでしょ。だからもう十分な幸せを掴めた僕には必要ないの。教授、近いうちに不動産屋さんで、良いアパートを探して、退出しますので。」
敬子「どこに住むの?」
川田「わかんないよ。どの施設に就職するかかで。影山美千恵社長の経営する施設は、富士市内だけではなく、沼津なんかにも支部があるらしいから、そっちに行くかもしれないし、、、。」
懍「まあ、焦らずゆっくり、進路を決定なさってください。」
敬子「ま、待って川田さん!」
川田「どうしたの?」
敬子「私、わたし、、、。」
川田「緊張しないで、言ってごらんよ!」
敬子「川田さんのそばを離れたくない!」
懍「二人とも、お互いの気持ちに素直になったほうがいいですよ。顔を見ればすぐにわかりますよ。それに、もう、外の世界で暮らしてもいいと思いますけどね。」
川田「しかし、経済力など、、、。」
敬子「自信がないのよ。」
懍「ゆっくりでいいから、どうしたらいいのか考えてくださいね。」
敬子はとまどった顔をし、川田は決意に満ちた顔に変わる。
懍「お邪魔虫は、消えましょうか。」
と、静かに去る。
川田「敬子さん、敬子さんの気持ちはわかりますよ。だから、こうしましょう。僕が、敬子さんを長年苦しめてきたコンプレックスを変えて見せます。そのためにはどうするか。」
敬子「どうするかって、、、。」
川田「この紙のこの枠に名前を書いて!」
と言って、きちんとたたまれた一枚の紙を開く。
左枠に川田淳と書いてある。
敬子「はい!」
と、涙をこぼしながらペンをとり、、、。
敬子「これからずっと、よろしくお願いします。」
と、ペンを置く。
川田「ええ、了解しました。川田敬子さん!」
敬子「はい!」
空は青空。昨日の雨など嘘のように光が降り注ぐ、明るい空だった。
杉三中編 捨て犬 増田朋美 @masubuchi4996
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