異邦人、ダンジョンに潜る。外伝、老人の剣。 【16】
【16】
静まり返った城を進む。
最初に見つけた死体は、壁に擦り付けられて染みになっていた。転がる鎧はひしゃげ、剣は溶けたように捻じ曲がっている。
次の死体は、足首しか残っていなかった。壁に大穴があることから、他の部分はそこに吹っ飛ばされたようだ。
小人の死体も見つけた。いや、圧縮された騎士だった。
他、どれもこれも死体で、どれもこれも元の形をとどめていない。
想像を絶する破壊だ。人間業ではない。
老人が思い浮かべたのは、巨大な獣。しかし、城に入りきる獣となると相手が見えない。
青ざめた少年に、老人は言う。
「吐くなよ」
「安心しろ、爺。姉と一緒にダンジョンの屠殺場に行ったことがある。叔母と一緒に狩りにでかけて獲物を解体した。兄とバッタとったり、父とゴブリンのダンジョンに潜ったことも、だから、まあ、たぶん、大丈夫、大丈夫だと思いたい」
大丈夫の根拠がよくわからない。
「ま、ちょっとおしっこ漏らしたけどな!」
空元気であった。
「こいつは」
老人は、床に転がる三枚おろしの死体を見つめた。転がる帽子と、血で濡れた貴族風の出で立ち。傍には砕けた仕込み杖もある。
恐らく、老人に接触してきた密偵だ。
(今この状況が、こいつらの意図したものでないとするなら?)
一体、何なのだ?
何が暴れている?
「爺、上から物音がするぞ」
「上か」
城の上部から振動を感じた。
老人は濃密な血の匂いの中、静かに呼吸を整える。
思ったよりも体力の限界が近い。たった一戦終えただけというのに、老体のあちこちにガタがきていた。
「ガキ、俺がさっき言ったことを覚えているな?」
「斬れないって思ったら、逃げろってことだろ?」
「そうだ」
子守をしながら戦う余裕は、老人にはもうない。
「で、爺は本当に王子を斬るのか? なんの関係もない主君のために」
「………………」
「あ、迷ったな! その反応は迷っているな! 『斬れぬと一欠けらでも思ったら戦うな』とかキメ顔で言ったくせに、言ったくせに!」
「やかましいぞ、ボケが。ここは敵地だ。エリュシオンの城に忍び込んでいることを忘れるな」
「うむ、その通り。して、上で暴れている奴は誰と思う?」
少年は、もうこの場に慣れていた。
こういうところは、本当に大物だ。
「二人、心当たりがある。一人はロラ、もう一人はお前の親父だ」
だが、二人共こんな戦い方はしない。
「もしくは獣人軍の誰か。それも違うか、かの軍に攻め入るような戦力はない」
仮にシュナが乗り込んできても、やはりこんな戦い方はしない。
「では?」
「エリュシオンの誰それか。俺の全く知らない相手か」
床と壁と天井に走る大きな爪痕。
それを受けたであろう騎士たちの体は、果物のように砕け散っており、元が何人であったのか判別するのには長い時間がかかるだろう。
獣。
獣なのは間違いない。
解せないのは、エリュシオンの騎士が、こうも一方的にやられていることだ。
彼らの剣も、盾も、鎧も、獣に対抗するための細工が施されている。
内の獣を抑えるため、身内から発生した獣を処分するため、それを一方的に蹂躙できる相手とは、誰なのだろうか?
「わからんな」
老人は足を止める。
何がいても………………斬れるのか?
ここまで来て迷う。今更、獣を殺せるのか? そもそも、王子が老人の面を見たいだけの馬鹿者であったのなら、斬るに値する人間なのだろうか。老人の死に付き合わせるに相応しい相手なのか。。
「爺、引き返すか?」
少年は、友のような顔を浮かべる。
「ガキ、俺は二人の王に仕えた」
「知ってる知ってる」
「間違いに気付きながらも、仕えてきた。そうしてきた理由は簡単だ。楽だったのだ。大昔、王に仕えるずっと前に俺を『飼い犬』と呼んだ王がいた。彼は俺の本質を理解していたのだろう」
「爺はサムライだな」
「サム、なんだって?」
「サムライだ。父の国の騎士みたいなもんだ。母曰く『主君と共に間違うのがサムライ』なんだと。私にはよくわからん。私はどんな偉大な王でも、私の道理と合わないなら滅ぼすと思う」
「それは、お前に王者の血が流れているからだ。しかし、飼い犬よりずっと壮絶な人生になるだろう」
「構わん。そっちの方が、私にとっては楽だ」
老人は、長くため息を吐く。
人生の重みと疲れを吐き捨てる長さだ。
「俺は、最後くらい斬る相手を選びたかった。違うな………これも違うか。きっと、王とやらに一矢報いたかった。捨てられた飼い犬の妬みだ」
「おっ、私は今、物凄い妙案を思い付いた。爺は、私に仕えればよいではないか?」
老人は死ぬほど嫌そうな顔を浮かべる。
「絶対に断る。メルムの孫なんかに仕えてたまるか。今すぐ自害するぞ」
「んー超妙案だと思うが」
死体の中、老人と少年は和んだ。
「爺、進もう。あんたの寿命が来る前に。私は王子に興味が湧いてきた。爺が最後にぶち殺そうとした相手だし、それを先に狙ってる奴も気になる。いくぞー」
「ハァ、そうだな」
この少年は、地獄でもこんな感じだろう。
二人は進む。
死体を追い、階段を上り、城の上層部、激しい戦闘音に近付く。
老人は切り替えた。
王子にしても、王子の敵にしても、両方を斬る気概で近付く。
鋼と、肉の潰れる音がした。
老人と少年は、開けた場所に出る。
晩餐会でも開く場所なのだろう。破壊されても豪華さの残る調度品、臓物のぶら下がった煌びやかな照明、ひび割れた大理石の床、緻密な細工の大きな窓枠、今しがた叩き潰された騎士の体。どれもが鮮血で赤い。
赤くないものは三つ。
転がる金の王冠。
灰色の法衣を纏った少年。
そして、黒い熊。
熊がいた。
大熊である。
二メートルはあろう大熊が、巨躯の男の“左半身”から生えていた。
巌のような男だ。手足は丸太のように太く、胸板は人と思えない厚さ。顔も目鼻も厚く大雑把な作り。剥き出しの歯は犬歯が異常に発達し、騎士である鎧の名残は、鉄片となって肉に埋もれている。
普通の状態ではない。
「老人、何者だ?」
男は、老人を威圧した。同じ意志を持って、獣も老人に唸り声を上げる。
「爺―――――」
少年を下がらせ、老人は静かに口を開く。
「【再誕の英雄】キウス・ログレット・ロンダールだな」
老人は、男を見たことがあった。
ロラの刃から王子を守り、片腕を落とした英雄だ。
「貴様、まさか【冒険者の父】か。少し遅かったな。貴様ら獣人軍の宿敵、【最後の王子】は、今この手が殺す」
キウスの大熊が、王子の頭を掴む。
「おお、老人が【冒険者の父】か。すまんな、ちと散らかっていて」
今にも潰されそうだというのに、王子は呑気に老人を見た。
王子は、前に見た時と変わらず幼い容姿だった。中性的で、灰色の長い髪と赤い瞳。細く折れそうな肢体。
キウスの言う通り、今まさに殺されようとしている。
「本当に、くだらねぇ性分だな」
老人とキウスの姿が消えた。
二人は、壁を三つ砕き、王座の置かれた空間に転がる。
キウスは、心臓に突き刺さった剣の鞘を捨てた。斬り落とされた熊の腕も、瞬時に再生する。
「解せんな、冒険者の父」
「それは俺の台詞だ、英雄。身を挺し、ロラから王子を守った貴様が、何故こんな凶行を」
キウスが吠える。
獣が嘆く。
「あの王子は暗君だッ! 奴の統治を静観すれば、騎士の時代は終わる! 英雄の時代も終わる! 獣と戦った栄光も消える! 我らの歴史をッ、誇りをッ、過ちをッ! 全て消し去るつもりなのだ!」
「まさしく、【最後の王子】だな」
老人は笑う。
英雄の怒りは周囲を震わせる。
「許せぬ。この血を、呪いを、忘れることなど許されぬ。永遠に伝え、恐れ、謳われるのだ。守らねばならぬ。全てを殺しても守らねばならぬ。そうでなければ、死した者たちの魂は永遠に報われないのだ」
「キウスよ。死んだ人間にできることなんてない。お前が仕えているのは、王子ではなく、エリュシオンでもなく、自分の安っぽい矜持なのだな」
咆哮に似た、剣と爪のかち合う音。
衝撃で城が揺れた。
老人の老いた腕が、無銘の剣が、冷たくなる血が、肉が、骨が、竜すら一撃で屠るであろう獣の爪を受け止めた。
「やれやれッ」
老人の口端から血がこぼれる。
獣は巨腕を振り上げた。滅茶苦茶に振り回す。
老体でも避けることはできる。経験に従うなら避けるべきだ。しかし、老人は避けなかった。全てを真っ正面から受け止めた。
床が軋み、ひび割れる。肉は裂け、血が飛ぶ、だが老骨は砕けない。手にした剣も砕けない。
(馬鹿なことをやっている)
ガキの自分でもやらない馬鹿だ。
ヴァルシーナと、レムリアが見たら飽きれるだろう。メルムが見たら嘲笑するだろう。母が見たら怒るか、怒るだろうな。
(ああだが、最後くらい格好つけさせろ)
意味のない人生だった。
夢を追っても、見ても、手にすることはできなかった。他人の見た夢に乗っかかっても、何も残らなかった。
しかし、この手には剣がある。手にはまだ、力が残っている。
それだけで、幸福と呼べる。
白刃が閃く。
獣の両腕と頭が斬り飛ばされた。キウスの人であった部分が震える。膨れる。爆ぜて、本物の獣が現れた。
半面が熊、半面がトカゲ。尻尾は大蛇。背には竜のような翼。長く巨大な爪。
叫び声は、様々な生物の断末魔を合わせたかのよう。
負けじと老人も声を張り上げた。
「メルル! 見ろ! これが俺のとっておきだ!」
視界の端に、友の面影を見た。愛した女の面影を見た。
老人は、剣を背負う。
剣に生きた全てを込め。獣を食らう人の形相を浮かべる。
何度、剣を振るったか。
何度、振るっても届く先さえ見えなかった。
その先が、やっと微かに。
―――――――光に届く。
最後の最後に、剣の究極に触れた。
たった一刃である。
老人の剣は、単純な軌道で上から下に獣をなぞった。触れたかさえ定かではない。ただ、空を斬っただけにも見える。
だがしかし、巨大な獣は両断された。
両断された体は、無数に斬り刻まれ、大輪の花のように咲いて散る。千に、万に、億に、塵に。再生の一切を許さず、血風だけを残し無散した。
残ったのは、砕けた玉座とボロボロの老人。
「見たか?」
「見たよ。見たけど、見えなかった」
「強くなれ。少し先で………………待っているぞ」
老人は、剣を捨てた。
やっと手放すことができた。
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