異邦人、ダンジョンに潜る。外伝、老人の剣。 【01】
老人は、剣を見る。
刃に映った己を見る。
濁った瞳、枯れた皮膚、すっかり白くなったヒゲと頭髪、どこから見ても老人の顔だ。
続いて手を見る。
皺に飲まれつつある古傷。タコで歪んだ指は古木のようだ。老いは人生を飲み込む。どのような人生を歩もうとも、最後は皆老人なのだ。
ただ老いても尚、残るものはある。
名誉に逸話、血と子、鍛えた物、築き上げた物。
何も残せないで死んでゆく者も多い。何かを残せた者は、幸運なのだ。
老人は、幸運な人間だ。
すきま風が吹く寂れた小屋に住み。友もなく、家族もなく、富もなく。みすぼらしい世捨て人であるが、手にはまだ、力が残っている。
「いい加減、そろそろか」
ため息を吐く。
老人は、憂鬱であった。
自分が曖昧になり、糞尿を垂れ流す前に、一思いに自死するつもりだった。そんな風に考え、女や財産や身内との関係を切って山奥に隠居した。
そうまだ、自分の首を刎ねる力が残っているうちに。
だというのに、ダラダラと十年近く生き延びてしまった。
理由がわからない。生きる理由がないのに、死ねない理由がわからない。
わかるのは痛みと飢えだ。
錆びた膝が痛い。
老いぼれた体が空腹をうったえる。
「いい加減、そろそろだ」
本当に、ただの哀れな何もない老人になる前に、剣を首に当てた。
だが、最後に夢を見る。
長い走馬灯を見る。
【01】
最初の記憶は母の記憶だ。
彼の母は狩人だった。
父はいない。いないことが普通であり、気にしたことはなかった。
母は美しく厳しい人だった。
左大陸は寒く過酷な環境であり、そこに棲む動物たちは飢えて凶暴だ。厳しくなければ、こちらが獲物になる。
雪の美しさと冷たさ、まさに諸王の大地が産んだ女だ。
様々なことを教わった。
罠の仕掛け方、生き物の仕組み、動き、そして殺し方。
この“教え”がなかったら、彼の人生は始まらなかった。
転機が訪れたのは、彼が十三の時、近くの村が襲われた。襲ってきたのは隣国の軍だ。
戦火は人里離れた彼の家まで及ぶ。
母は彼を逃がし、敵に囚われた。森に逃げた彼は母を待った。愚かだと気付いたのは、二日過ぎた後だ。
待つべきではなかった。
家は焼かれていた。捨てられた母の遺体は拷問された痕があった。
彼は、何をすべきかを理解した。
十三の子供であったが、報復する手段は母から教わっていた。
軍を追った。
敵は思ったよりもずっと少数だった。森に誘い込み、罠で十人殺した。弩で六人、農具で三人、頭目らしき男は、石で四肢を砕き、生きたまま焼き殺した。
彼は止まらなかった。
逃げた残党を追って国境を越えた。執念深く、一人残らず、二年かけて全て殺した。
彼は賞金を賭けられ、諸王や傭兵から追われた。
残党の中に王の跡取りがいたことは、かなり後で知ったことだ。
「よう、“森の亡霊”」
彼は傭兵に捕らえられた。
逃げようと思えば逃げられた。
逃げなかったのは、二年休みなく戦った疲れと、復讐を果たした喪失感だ。彼は死ぬことを覚悟していた。
「坊主には、不釣り合いな名前だな。今日から【メディム】と名乗れ」
しかし、傭兵は彼を仲間にした。
『賞金より儲かる腕だ』と傭兵は仲間に話したが、本当の理由は別にあった。
傭兵の名は、ガーシュパル。後に長ったらしい名前で傭兵の王と呼ばれる男。まだこの時は、小さな傭兵団を率いる“只のガーシュパル”だ。
彼は、ガーシュパルから剣を学んだ。
やる気ではなかったが、剣を振るう度にのめり込んでゆく。
血と糞尿の匂いをまき散らす金属の棒が、“たかが”と言い切れない魔性を纏う。閃きで決まる人の生き死に光を見た。刃の輝きに魅入られたのだ。
剣を愛せば愛すほど、剣もまた彼を愛した。欠けた心を埋めるように、彼は剣を振るう。
たった一年で、彼の剣技は傭兵団の中で五本の指に入った。
そしてまた、転機が訪れた。
「ゴロツキ共、アシュタリアと喧嘩だ」
ガーシュパルの言葉に、傭兵団の仲間は正気を疑った。
よりにもよって、アシュタリアだ。
諸王の中で最も恐れられる【黒きグランデル】の国だ。
かの国は勢力こそ大きくはないが、王個人の武勇が飛びぬけているのだ。
グランデルは十四で初陣を飾り、それから二十六年戦い続け、一度も負けたことがない。戦場での戦果はもちろん、一騎討ちや戯れの闘技大会まで負けはない。
アシュタリア自体の敗戦は何度かあるものの、グランデルが戦場に出現すれば途端に勝利が降ってくる。グランデル一人で、いくつもの諸王の勢力図を書き換えてきた。
白い雪すら黒く変える男。
常勝の王、【黒きグランデル】。
百人にも満たない傭兵団が、喧嘩を売っていい相手ではない。
「まあ、聞けや」
ガーシュパルは語る。
今回の仕事は、アシュタリアにちょっかいを出して他の諸王にぶつける。戦争ではない喧嘩程度だ。
言うのは簡単だが、相手が相手だ。
そう曇る仲間にガーシュパルは続ける。
「今回の依頼主はエリュシオンだぞ。前金だけで小さな城が買える額を貰った」
傭兵に、諸王たちが謳う中央への叛意はない。金さえあればなんでもやるのが傭兵だ。額が大きければ大きいほど、依頼主が大金持ちであればあるほど、やる気はでる。
しかも、この件を上手くやればエリュシオンと繋がりができる。
ケチな左大陸の傭兵が、成り上がる大チャンスだ。
問題は、
「策は?」
「そりゃお前だ。坊主」
彼の問いに、ガーシュパルは笑って答えた。
「女を一人攫ってこい」
ガーシュパルの策は、グランデルが熱を上げている愛人を攫い。それを餌にグランデルを誘い出すというもの。
彼はうんざりしつつも、アシュタリアの兵員募集に参加した。傭兵ではなく、戦火で住処を焼かれた哀れな少年として、である。
驚くことに、アシュタリアの兵員試験はグランデルが自ら行っていた。木剣で打ち合い、グランデルが気に入れば採用という流れ。
腕に自信があるとしても、不用心過ぎる。
実際、彼の番来るまでに暗殺者が二人混ざっていた。
グランデルは、それを両断した。木剣で人間の体を両断したのだ。
意味がわからなかった。これは剣技と言っていいのか? 魔法の類ではないのか? 思考していると彼の番がくる。
対峙して理解できたのは、グランデルが大きな人間だということ。
体格もそうだが、存在と気迫が大きいのだ。持つ木の棒すら大きく見える。
理解できたのは、その程度。強さの表層だけ。まだ奥に強さを隠している。
彼は、面白いと思った。
グランデルの強さを理解すれば、自分はさらに強くなれる。
ともなれば、様子見だ。
苛烈に打ち合うように見せて、回避に専念した。受けはしない。受ければ間違いなく骨まで折れる。
彼は、他の参加者の五倍近い時間グランデルと戦った。
紙一重で回避し、鋭く打ち返す度に、周囲から小さな歓声が漏れる。
不意に、彼の木剣はグランデルに素手で掴まれた。木剣を本物の剣と見立てた戦いだ。素手で掴むのは負けを認めることになりかねない。
「貴様、飼い犬だな」
腹部を殴られた。破城槌のような衝撃だった。
目覚めると牢屋にいた。
あ、終わったな。
というのが彼の感想である。傭兵は、利害の一致で行動している集団に過ぎない。つまり、ヘマをした彼を助けにくる理由はないのだ。
自分の命に未練はない。
悔いがあるなら、グランデルの強さに僅かしか触れられなかったこと。一瞬だけ見えた気がした。格の違いでしかないが、あれに刃が届けば自分の剣は輝きを増す。
体が疼く。
幸運にも枷はなく、手足は自由だ。
架空の剣を手に、彼は素振りを始めた。
すると、
「坊や、あなた強いのでしょ? 助けてあげるから、私を国の外に逃がしなさいな」
冷たい牢屋に現れた女は、別世界の生き物と見間違えた。
白銀の長髪と、長い獣耳、白く長い大きな尻尾。肌は雪のように白く、引きちぎった鉄枷を引きずる足首は赤く血を流している。
こいつだ。
彼は、本能的に察した。
グランデル程の男が熱を上げるなら、間違いなくこの女だ。
これが、ヴァルシーナとの出会い。
冒険者になる切っ掛けだった。
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