異邦人、ダンジョンに潜る。外伝、星の剣。
男は、剣を見る。
刃に映った己を見る。
覇気のない瞳、赤い髪、疲れで曇った顔だ。
続いて手を見る。
刻まれた無数の傷、タコで膨らんだ指、長く剣を持った者の年輪が刻まれた手。かつて、このような手に憧れていた。剣技を重ね、情熱と命を注ぎ、魂を刃と共に研磨した手だ。しかし、いざ同じ手を得て思うのは、疲れだった。
「ふう」
ため息を吐く。
男は、憂鬱であった。
昨晩は疲れ果てて粗末な床に就き、泥のような眠りから覚め、今、問題は何一つ変わりなく存在している。
頭が痛い。
安い酒で乾いた喉を潤し、くたびれた服を着て、自分の長髪と同じ色の赤いマントを羽織る。
腰には体の一部と言える長剣を指し、【赤髪の将軍】としての顔を作り男はテントを出る。
男の名は、シュナ。
かつて【竜甲斬り】と呼ばれた冒険者。
今は、滅びに向かう軍の唯一の将である。
《序章》
獣の時代。
あの戦争が始まってから、十四年の月日が流れていた。
エリュシオンと、新生ヴィンドオブニクル軍の戦いは、当初早期決着が予想されていた。
事実、開戦から二年目の冬。エリュシオンの王都に、新生ヴィンドオブニクル軍は攻め入っていた。
城下は破壊され、火に舐め尽くされ、歯向かった兵と騎士は皆殺され吊るされ、民草は何もかも奪われた。
戦争でよくある、極ありふれた当たり前の日常風景。
最早、新生ヴィンドオブニクル軍を止めるものは、白亜の城の大門一つである。
その時、
一つ首が掲げられた。
女の、獣人の首である。
これが破滅の原因だった。
新生ヴィンドオブニクル軍は一枚岩ではない。二つの勢力が存在する。
一つは、諸王からなる勢力。
冒険者の神ヴィンドオブニクルの一人、【確固たるロブス】の子孫。デュランダル・デュガン・シュテルッヒ・ロブスが頭目の勢力である。
もう一つは、解放奴隷と数多の獣人からなる勢力。
頭目の名は、ロラ。諸王の中の諸王ラ・ダインスレイフ・リオグ・アシュタリア陛下と、ヴィンドオブニクルの一人、【荒れ狂うルミル】の子孫、【優美のレグレ】の子である。
二人の頭目は、事あるごとに衝突した。
デュランダルはヒーム、ロラは獣人。
デュランダルは戦場の後方で策を練り、ロラは必ず戦場の先端にいる。
デュランダルも、ロラも、亡き父と同じ生き方を歩んでいたが、敵味方問わず賞賛されるのはロラの方だった。
戦時下である。策を弄する者より、苛烈に生きる者が声高に讃えられる時代だ。
デュランダルも、ロラも、それは理解していた。
理解しても尚、二人は衝突した。
様々な要因はあったが、結局の所、お互いに馬が合わなかったのだ。
二人の仲は、女たちが取り持っていた。【優美のレグレ】と、黒エルフのマリア。そして、デュランダルの妻であるアメリア姫。
アメリア姫は、アシュタリア陛下の娘である。ロラとは腹違いの姉にあたる。デュランダルも、ロラも、彼女の前では互いに感情を押し殺して平静を保っていた。
彼女は言う。
『敵は死にかけとはいえ、世界最大の王国エリュシオンです。諸王の歴史はエリュシオンとの戦いの歴史、それは敗北の歴史でもあるのです。お二人には、エリュシオンと戦い敗北していった者たちの血が流れている。耐えなさい。あと少し、巨人の心臓を止めるまで。偉業をなした後、まだ互いが憎いというのなら私は止めません。後はお好きなように』
そう、エリュシオンを滅ぼすまでは耐えろ。
それまでは互いを利用しろ。
つまり、大人になれと二人の若者を戒めた。
その後、見違えるようにデュランダルとロラは上手く行った。諸王と、獣人の群れ、ではなく。新生ヴィンドオブニクル軍という一つの軍として快進撃を始める。
安堵のため息を吐いたのは、母と妻だけはない。デュランダルの臣下、ロラの部下たちも、並び立つ両雄の姿に頬がゆるんだ。
ただそれも、開戦から二年目の冬までの話だ。
話を戻そう。
新生ヴィンドオブニクル軍は、エリュシオンの喉元に喰らい付いた。
後は、柔らかい肉を噛みしめるだけ。この世界の歴史において、エリュシオンがここまで追い詰められたのは史上初であり、歴史的快挙である。
そんなエリュシオンを救ったのは、女の首だ。女の名は、【優美のレグレ】。その首を掲げたのは、デュランダルであった。
デュランダルの臣下であり、ロブス家に長年仕える【大釣り竿のデーン】という男がいる。諸王の臣下にしては珍しく魚人と付き合いのある男で、魚釣りをさせたら魚人に勝るとも劣らないと言われた男である。
この男は、デュランダルの凶行を隣で見ていた。
彼の証言によると、デュランダルは少し早い勝利の美酒を飲むのかと思った。酒袋にしては少し大きいと思っていた。中から、たった今斬り落とした女の首が出て来るとは思わなかった。
デュランダルの臣下ですら、彼の凶行を予想できなかった。
そこから始まる惨劇は、誰が予想していただろうか。
先陣を切っていたロラの軍は反転した。デュランダルの軍を壊滅させるために。
デュランダルの軍は、遅れて応戦したという。
混迷を極めた内輪揉めは、軍と軍の戦いではなく『ヒーム』と『獣人』の戦いとなった。
デュランダルの軍にも獣人はいた。ロラの軍にもヒームはいた。それでも構わず、味方同士、敵かどうかもわからず殺し合った。
後続の部隊にも混乱は伝播し、三日三晩戦いは続いた。
戦いの終わり間際、確かな証言ではないが、燃える城下に黒く大きな獣が現れたという。
総数140万といわれた新生ヴィンドオブニクル軍は、この日を境に散り散りとなる。正確な数字はわからないが、10万も兵力は残らなかった。
この乱戦の中でも、悪運強くデュランダルは生き残った。
海を越え、ロラから逃げおおせた。
ロラは、乱戦で重傷を負いデュランダルを追えなかった。しかし、追う必要はなかった。
デュランダルは、左大陸、諸王の大地に足を降ろしたその日に、己の妻に首を刎ねられた。
この“デュランダルの凶行”については、後年様々な説が流れる。
声高に語られたのは、エリュシオンによる策略。
奇説で多いのはロラによる自作自演。
この日を境に消えた黒エルフの策略。
病死したロラの妹の呪い。
獣の呪い。
神の呪い。
幾百の噂が流れ、それを幾千、幾万の言葉が着飾る。真実は噂の海に沈んで消えた。
しかし、定説はある。
それは、
『日陰者は、輝かしいものに泥を投げたくなる』
という嫉妬心だ。
これはデュランダルを殺したアメリア姫の『男の嫉妬など豚の餌にもならないわ』という言葉から来ている。
確かに、戦いで先陣を切っていたのはロラだ。あのまま、エリュシオンを滅ぼしていればデュランダルの名は霞むかもしれない。
しかし、だ。
軍の快進撃を支えていたのは、デュランダルの策によるものだ。戦史の多くにはデュランダルの戦術が残され、その後エリュシオンにも戦術の多くが吸収された。
デュランダルは自己評価の低い人間だったのだろうか? 歴史に霞んで消える程度の男だったのだろうか?
生き残った彼の臣下は、口を揃え否と言う。
彼と戦ったエリュシオンの騎士たちも、否と言った。
それに、【優美のレグレ】は【緋の騎士ザモングラス】の逸話にもあるように優れた剣士であった。デュランダルも諸王の勇士ではあるが、音に聞こえた武勇はない。
他に手引きしたものが――――――――閑話休題。
さて、エリュシオンの話に移ろう。
エリュシオンは滅びかけていた。
城下は燃え、法王は逃げ出し、兵も騎士も殺され、民は………………民は驚くほど被害は少なかった。
とはいえ、家財や金品は奪われ尽くされていた。莫大な額である。通説では新生ヴィンドオブニクル軍に奪われたとあるが、それはまた後で。
民の命は、驚くほど多く助かっていた。
エリュシオンの城下には、巨大な地下迷宮がある。大昔、建国以前よりある地下迷宮である。偶然、エリュシオンにいた冒険者の手引きにより、民はそこに避難していた。
新生ヴィンドオブニクル軍は、城を落とせば勝てると算段を立て、地下迷宮の探索に戦力は割かなかった。もとより、そこまでの余裕はかの軍にない。
迷宮から出てきた民は、黒く焼け焦げた城下の中で白い王子を見つけた。
怪物の死体に座る幼い王子。王子の名は、ステンシル。
曰く、放浪王の隠し子。
曰く、世界を騙した偽王。
曰く、九人目の獣狩りの王子。
自らが語るは、エリュシオン【最後の王子】。
その出自は謎に満ち、だが間違いなく彼がいなければエリュシオンは滅んでいた。ロラと同じく、彼もまた混迷した時代の生んだ怪物の一人である。
民の多くが助かったとはいえ、エリュシオンには多くの人材が必要だった。
まず単純に兵力だ。民は所詮民であり、練兵するには金と時間が必要である。
しかし、金は不思議と湧いて出た。
この王子、必要に迫られた時は、どこからか大金を出してきた。国が傾き、国が亡びる額とポンと魔法のように。
王子の死後、埋蔵金や隠し金庫の噂が絶えなかったのも逸話の一つである。
この金の出所については後世明らかになる。新生ヴィンドオブニクル軍に略奪されたとされる資金と、王子が国を建て直すために支出した額がほぼ同じだったのだ。
戦時の混乱に乗じて、王子は肥え太った既得権益から根こそぎ奪い取っていた。無論、民の小金も合わせてだ。この火事場の徴収は、エリュシオンの大商人や、元貴族たちから子々孫々と憎まれ口を叩かれることになる。小民からは、小金が倍になって戻ってきたと喜ばれた。
救国の英雄が、一部に不人気なのもこういった理由が原因であろう。
次は言葉だ。
どのような時代でも、人を集めるのに必要なものは『言葉』である。
人は『言葉』の元に集うのだ。言うなれば『官位』や『金』『神』すらも言葉に過ぎない。
これはもう、王子の最初に名乗った言葉に全てがある。
最後の王子。
この『最後』という言葉に人々は集まった。
エリュシオンは腐敗していた。
才より血筋、血筋からなる官位が全てである。求められるのは腐敗と同居する才か、利用する才に限る。しかも、その血筋や、官位を持った者にすら、エリュシオンは愛想を尽かされていた。
『ここは、腐った豚の国だな』
エリュシオンに単身乗り込んだ諸王の言葉である。
そんな豚の国も最後。
王子は、国の腐敗は戦火で焼かれたと言う。そして、自分でこの国の王は終わりだ、とも言った。ロラとの戦いが終わった後、王政から民主制に切り替えると宣言したのだ。
「こいつは今までの王とは違う」
民にそう思われれば勝ちである。
王子の初陣は勝利で飾る。
当たり前であるが、世迷い事と声を荒げる者がいた。生き残った貴族や、騎士、法王の残骸に擦り寄る者たち。
彼らの疑念は一つ。
民主制などと言うが、結局は国のトップに居座り続けるのだろう。
否、と王子は言う。
王子を見た者は、頷かざるを得なかった。
王子は足が不自由だった。杖がなければ立つこともできず、歩くには人の肩を借りなければならない。
この時代、身体に欠陥を持った者が、王族、貴族の子供にいた記録はない。暗黙のルールで“産まれたことにならなかった”。
彼らの規範からすれば、この王子が子を成し、子に王位を継がせることなどありえないのだ。もっと言えば生きていることさえも―――――――だがしかし、下卑た者は思い黙る。
これは光明だ。
当時、足に病を抱えた者は早死にすると信じられていた。王子に取り入り、権威と利権を乗っ取れば、後は王子が死ぬのを待つだけ、気の長い話ではない。何なら、早めに病死させればよい。
腹に野望を抱えた者たちを、王子は好んで受け入れたという。
数年後、野望を持った者たちは、綺麗に、誰一人として生き残っていなかった。記録では、皆病死や事故死とされる。
なにも王子の元に集まったのは、腹の腐った者だけではない。忠義者も多くいた。だが、忠義は無から生まれるものではない。
武勇、思想、理念、血筋、家名、様々なものから生じる。王子の場合は、やはり『言葉』。中でも『最後の騎士』という言葉には、人を集める魔力があった。
最後に信じてみようと己が剣を賭ける者。
騎士として最後に名を残そうとする者。
国を愛し、国に裏切られた者。
崇高な精神を持つ者。
政略に敗れた者。
死した英雄。
過去、エリュシオンから去った者たちが続々と集まった。
しかし忠義とは、崇高な精神や、脈々と継がれた使命からしか生まれないのか? いいや、報酬と打算からでも忠義は生まれる。
王子は良く人を見た。
官位や、家名、血筋や人種よりも人を見た。人を見て評価した。
とかく王子は、様々な場所に現れたという。
ある逸話によると、城壁の補修工事をしていた頭領が、一日中作業を見ている少年がいたので食い扶持を探しているのだと思い仕事を教えた。
少年の足が不自由だと知ると、道具の清掃や、整備、壁に刻む意匠の掘り方を教えた。
仕事覚えの早い少年は、仕事場の人間にも受け入れられ、三日ほど過ぎたある日、遅い昼食の途中に騎士の迎えが来て王子だとバレた。
頭領は、腰が抜けたそうだ。
王子と民の逸話は百や千では収まらない。親が子に『悪い事をすると王子が見ているぞ』と躾に使うほど王子は街に、戦場に、噂では余所の大陸に、様々な場所に現れた。
あまりにも神出鬼没なため、複数人いるのではないかと怪しまれるほどだ。
王子は、最も多くの人を見た為政者である。
同時に、多くの人に見られた為政者であった。
それは良い事のように思えるが、良くない事もある。
王子との謁見や、叙任式での暗殺未遂は、記録に残ってるだけでも460件。無論、世界一位の記録である。ちなみに、二位は王子の仇敵となるロラで108件である。
ロラの場合は、暗殺が日常的過ぎて記録に残っていないとの説もある。
ともあれ、この時代はエリュシオンの歴史上、最も多くの騎士がいた。皆最後まで、忠義に厚い騎士であったという。王子の“見かた”は正しかったのであろう。
騎士以外の人選は――――――エリュシオンのその後を見て、判断するのが正しいだろう。
為政者としての王子は、民の人気も相まって後世に語り継がれるほど評価は高い。
が、王子には明確な欠点が存在した。
戦争に、弱いのである。
先も言ったように、この時代は騎士が最も多くいた時代だ。そして、騎士が最も多く死んだ時代でもある。
ロラの傷が癒えた頃、新生ヴィンドオブニクル軍は名を変え『獣人軍』と名乗りだす。
諸王陣営との戦いにより、軍の種族の9割が獣人になったからだ。
王子の内政の手腕は素晴らしいものだった。彼でなければ、半年という短期間で、エリュシオンを再び戦えるまで建て直すことはできなかっただろう。
王子とロラの最初の戦いは、エリュシオン北部平野『死の園ゲッゼ』。
エリュシオンの旧穀倉地帯が近く、過去何度も獣人の奴隷たちが反乱を起こし、その度に血で解決してきた土地である。
ロラ率いる獣人軍8万、迎え撃つのは王子率いるエリュシオン騎士連盟軍10万。
互いに、ここで決着をつける算段であった。
戦いの結末は語る前に、当時の戦争というものについて語る。
魔法使いという大量破壊兵器がいる時代だ。当然、その破壊を対策することが軍と軍の戦いにおいて最重要とされる。
攻めるにも、守るにも、先ずは魔法だ。
デュランダルが旧エリュシオン陣営に連勝できたのは、この魔法使い対策が非常に上手かったからである。
デュランダル曰く、
『魔法使いといえども目は人のもの。欺き、隠れ、静かに殺す。これで雑兵と変わりない』
つまりは夜襲だ。
ある騎士の言葉によると、
『かの軍を日の下で見たことがない。奴らは夜の化け物ではないのか?』
そう思われる戦いの様子だった。
王子は、デュランダルの戦術を学んでいた。対策も十全であった。
しかしロラの軍は、日の下に現れた。ロラは魔物と見間違う巨大な馬に乗り、柱と見間違う大槍を手に一騎で駆けた。
王子や、騎士、ロラの配下ですら、諸王の流儀にあるように、己の胆力を見せるため、もしくは敵に言葉を投げかけるため、ロラは王子の軍に近付いたのだと――――――勘違いしていた。
王子は手記にこう書き残す。
『ロラは、王ではなかった。いや、人という括りで見てはいけないモノだった。10万の我が軍に見向きもせず、奴は一人を殺そうとやってきた』
ロラは、王子を殺しに来た。
王子とは違い、ロラは国ではなく軍ではなく、個人を殺しに来たのだ。
只人なら蟻のように潰される事実を、ロラという男は成し遂げようとした。
たかが、人馬一騎を10万の軍が止められなかった。
エリュシオンの騎士に只人はいない。猛者中の猛者。一人一人が凡兵の百に匹敵する。それが止められないのだ。
万軍を切り開き、ロラは進み殺す。
魔法よりも早く、言葉や祈りよりも早く。
大槍の一薙ぎで凡夫のように騎士が死ぬ。
鍛えられた剣が小枝のようにへし折れた。ロラに届く槍はなく。掠める矢の一つすらない。
かの【再誕の英雄】キウス・ログレット・ロンダールが片腕を犠牲にしなければ、王子の命はここで磨り潰されていた。
元々、ロラの武勇は、彼の父アシュタリア陛下の若き頃に匹敵すると謳われていた。
だが、それは人の範疇だ。
この日のロラは―――――いいや、この日からロラは、“世界に殺せぬものなし”そう謳われる最強の戦士となった。
この戦いで王子の元に集った騎士の半分が戦死した。
ロラの戦果を、後の歴史家は誇張と言い切った。
それはそうだ。
歴史とは勝者の脚色したもの。真実は、あの戦場にいた者だけが知る。ロラと王子、二人と同じ時代を生きた者だけが知る。
それだけでいい。呪いとは、恐れとは、忘れることで消し去ることができるのだ。
戦いが明け、王子を逃すも『獣人軍』は沸く。
誰かが叫ぶ。
「我らが王を見よ!」
誰かが鳴く。
「我らの血を見よ!」
誰かが呼ぶ。
「【獣の王】を見よ!」
新たな【獣の王】が生まれた。
虐げられてきた種族は沸く。新しい時代は我らのものだと。
獣人軍で冷静でいられた者は極わずか。その一人が、シュナだ。
(獣の王? そいつは、エリュシオンに負けた王の名だぞ)
言葉にはしなかった。
後に、シュナは妻子に語る。
「あの時、あの戦場の後、陛下に一言でも声をかけていれば、何かが変わっていたのかもな」
妻の何を言うのか? という問いに彼は答えてはいない。
ロラの最盛期、つまりは獣人の最盛期は10年続いた。死の園ゲッゼの大敗から、エリュシオンの負け戦は長く続いたのだ。
王子の『ロラとは決して戦うな』という命令も原因だ。かつて世界最大の人間国家と言われたエリュシオンが、たった一人を恐れ逃げ続けた。
他国の民衆は笑い。エリュシオンの民衆は青ざめた。
しかし、その逃亡の裏でエリュシオンの騎士たちは粛々と戦っていた。ロラ以外の、獣人軍の将たちと。
王は無敗だが、仕える将は大敗続きだった。
獣人の兵と将は、『ロラのように』と無謀な戦いで死んで行った。狐の方が利口、そう揶揄される野蛮で馬鹿な戦いぶりだ。
馬鹿な将の下では、後身が育つわけもなく。数少ない知恵者も、『デュランダルのように戦うな』と内部から潰された。
組織として、壊れるのは目に見えている。あるいはもう、壊れていたのだろう。レグレの首が掲げられた時に、既に。
これに対してロラは、ロラらしい対策をした。
王子の暗殺である。
一度や二度ではない。獣人軍が記録するだけで、18回。エリュシオンの記録では、107回。ロラは王子を殺そうとし―――――――結局は果たせなかった。
足の不自由な王子が、最強と謳われるロラから逃げおおせるとは、それはそれで馬鹿な話でもある。
開戦から十一年目。
獣人軍は、一向にエリュシオンに近付けないでいた。エリュシオンの中心が、どこかわからないのだ。
王子の政策で、エリュシオンは富と人を中央大陸のあちこちに分散させた。
地図にも載っていない農村や、廃棄された古城、小さな町を整備、発展させ、小規模な都市を数百以上も作り上げた。
かつての王都も形ばかりで、その他の都市と機能は変わりない。
どの都市であろうとも、王子が着任して声をあげれば人は動く、働く、戦う。
この都市群の開発を見逃していたことは、獣人軍の最大の失敗だろう。
それでも、ロラが戦場に出れば無敗なのは変わらない。時折、王子の命令を無視してロラに挑む者もいたが、そんな馬鹿者の末路は、王子の命令の確かさを教えてくれた。
強く、ただ強く在ったロラだが、その人望は結果的に失敗を招く。
獣人軍には獣人が集まった。
他種族の支配から逃れてきた者たちだ。
全てが戦える者なら、戦争は単純に終わっただろう。いや、戦える者も多くいた。いたが、ロラの戦いに続けば大半が帰らない。
ロラを信奉しているからこそ、共に戦えば死ぬのだ。
ロラは、人を顧みない。
エリュシオンの記録によると、ロラが他の戦士を助けた記述はない。隠されていた獣人軍の記録でも同じ。集った民に対して、何か声をかけた記録すらない。
ロラが何を思い、何を思わなかったのか、言葉を残さなかった彼の心中は計り知れない。
だが、獣人は集う。
それはロラ本人に寄るのではなく、独り歩きしたロラの偶像に集うのだ。
集った民は膨れ上がり、しかし戦士は死に、女子供、老人ばかりが残る。
開戦から十二年目。
ロラの腹心、【灰目のデーングル】がエリュシオンに討たれ、獣人軍の“獣人”の将は全滅した。
残ったのは、新生ヴィンドオブニクル軍の生き残り、獣人軍において異端のヒームの将、【赤髪の将軍】シュナである。
彼について、獣人軍が残した記録は驚くほど少ない。
活動がなかったからか? 活躍がなかったからか? 否である。
彼は、この戦争で最も多くの戦闘に参加した将だ。エリュシオンの新生ヴィンドオブニクル軍、獣人軍との交戦記録では、ほぼシュナの名が記載されている。
王子曰く、
『シュナを将とすれば、凡人でも王になれる』
だ、そうな。
王子は、シュナに軍門に降るよう書状を出し、千回断られたと噂される。
しかし、シュナがどんなに働こうとも、拭えないものが、認められないものがあった。
種族の差別意識だ。
彼がどんなに獣人軍のために戦おうが、獣人はヒームを認めない。彼の寿命が獣人たちの虐げられた歴史より長ければ、あるいはどこかで彼は認められたかもしれない。残念だが、個人ならともかく種族全体の意識を変えるには、ヒームの寿命は短すぎる。
不遇の勇将。
それがエリュシオンの評価であり、シュナが味方より敵に評価され続けた理由でもある。
シュナを最後まで認めなかった獣人だが、陣頭指揮ができる者を全て失い、ようやく彼を頼る。いや、問題を押し付けるといった方が近い。
兵数の低下、士気の減少、人材不足、食糧問題と、獣人軍は敗戦寸前の状態である。
そこでシュナは、一つ策を弄した。
ロラと、獣人軍を完全に別けたのだ。
元々ロラと民の足並みは合っていなかった。気ままに王子を追うロラを、ぞろぞろと民はついて行く。この行軍で体力のない子供や老人はバタバタ死んで行った。略奪という手段で食料を得ることができたが、この時の獣人軍3万の食い扶持を得るにはまるで足りない。民には定住する場所が必要だった。
ロラの単独行動は、非常に上手く行った。
民という足枷を外したロラは、今まで以上に神出鬼没となり、エリュシオンの都市に恐怖を振りまいた。
エリュシオンの密偵は優秀であったが、こと相手がロラである。捕捉できないのだ。捕捉したとしても、ロラの槍は密偵の広める情報より早い。
一晩で一つの都市の密偵が、全てロラに殺されたこともあった。
さて、民の方はそう簡単に上手くは行かない。
定住する場所を探そうにも、十数年の間、中央大陸を荒らしまくった集団だ。受け入れる場所があるわけもなく、エリュシオンが見逃すわけもない。
王子の命により、騎士たちが迫る。
この命令には流石の騎士たちも不満を漏らした。
『民を背に戦う。あの赤髪の方が騎士らしい』
と。
こういった戦いぶりも、またエリュシオンでのシュナの人気に繋がる。
ぼやいた騎士は多いが、手心を加えるような軟弱はいない。
これは戦争なのだ。
子が育てば兵になる。女は子を産む。老人は言葉を残す。等しく敵である。
猛攻であった。
ロラの助けが来ると願い、死んで行った者がほとんどだ。
シュナは、二年耐えた。
この二年の間に、ロラがエリュシオンに与えた痛手は―――――――極わずかなものだ。エリュシオンという都市群は、個人が暴れたところで壊れるようなものではなくなっていた。
開戦から十四年目。
獣人軍に犠牲は多く出たが、民の全滅は免れた。代わりにシュナの部隊が全滅する。元冒険者で構成された最古参の部隊だ。
最早、獣人軍に残されたのは雑兵と新兵のみ。
この二年の戦いは、後世シュナの評価が別れた戦いであった。
『行軍の犠牲を無視してでも、ロラと行動を共にするべきだった』という者と、
『ロラにとって民は邪魔でしかない。民意が離れ、軍が瓦解する前に王を隠したのだ』という者、大体であるが、そんな意見で二つに別れる。
どちらも正解だ。
シュナの耳に入れば、彼はそう答えただろう。
そういう男だ。
犠牲を出しながらも、シュナは中央大陸南部の砂漠地帯に逃げ込んだ。日中は陽光に肉を焼かれ、夜は骨まで凍てつく寒さ。砂と硝子しかない不毛の大地である。
ヒームには堪える環境だ。こういう悪環境に獣人は強い。
有利、とは言えない。獣人が悪環境に強くとも、このまま砂漠を南下しても海があるだけ。砂漠を越える体力は民に残っていない。
騎士たちは、砂漠の入り口に陣を引き待ち構えている。
進むも退くもできない袋小路。
将一人、仲間と呼ぶべき者もなく、シュナは悩み、答えが出ず、疲れ、擦り減っていた。
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