<第五章:星々の彼方より帰還せり> 【02】


【02】


 橋の下で彼女が待っている。

「走れ」

 全細胞に命令する。夜の街を駆け抜ける。

 すれ違う人々は混乱していた。飛び交う言葉は『王』『軍』『死』『黒い竜』『火』『草原』。

 人混みが邪魔だ。壁を蹴って跳び上がり、建物の屋根を走る。

 焼け焦げた匂いを感じた。街の外、草原に燻る火を見た。

 今が何時か理解した。

 新生ヴィンドオブニクル軍とレムリア軍が、黒い竜により壊滅した後。レムリア王が、ラザリッサに自らの死を偽装させた直後。

 遥か上空にラザリッサの気配を捉える。時間がない。一分一秒が惜しい。

 目的地が見えた。

 建物の隙間に飛び込み、路地裏に着地。大した運動ではないのに心臓が激しく脈打つ。

 吐きそうなほど様々な思いが脳みそを駆け巡る。

 時間が惜しい。惜しいというのに、足が固まる。

 橋の下で眠るエルフを見つけた。

 愛らしい女性だ。闇夜に映える長い金髪、エルフにしては小柄で少し垂れ気味の長い耳。出会った時と同じ白いローブ姿に大きな杖を抱いていた。おとなしめな雰囲気と服装なのに、女性として出る所は出ていて肉感的だ。

 出会った時と何も変わらない。ただ妹はいない。ただ一人で誰かを待って、待ちぼうけ眠ってしまったようだ。

 静謐な眠りに見えた。

 起こしたら脆いガラス細工のように壊れてしまいそう。

「ッ」

 あと一歩が踏み出せない。

 考えないようにしていた事が頭を巡る。

 ラナは、僕の事を覚えているのか? いや、覚えていたとしても今の僕がわかるのか?

 忌まわしい王子と同じ髪色。目の色は左右とも彼女と同じ金に戻ったが、これまで乗り越えてきた出来事は僕の人相を変えている。

 前よりも荒んだ。擦れた。やつれた。

 一縷の希望にすがって、壊れた心体を騙し騙しここまでやってきた。その希望に『誰?』と否定されたら、僕は砕ける。

 色んなものに支えられて、たどり着いた結果がそれでは、あまりにも、あまりにもと足が止まる。動かない。

「何をやっている。さっさと起こして連れて帰れ」

「は?」

 背後に急な声、腰を蹴られ―――――バランスを崩して彼女の前に滑り込む。

「う?」

 ラナが目覚めた。

 僕を見て、

「あら、おかえりなさい」

 ごく普通に僕と認識した。それはそれで思考が固まる。

 ポンチョで義手を隠し、右手をラナに伸ばす。情けない事に震えていた。吹雪の中にいてもここまで震えなかった。

「ぼ、僕がわかるのか?」

「夫の顔は忘れませんよ」

 ラナの手が僕の手に触れる。

 五指が絡む。

 繋ぐ。

 せき止めていた感情が一気に吹き出た。ラナを引き寄せて抱き締める。たおやかな胸に顔を埋めて声を上げた。泣いているのか、吠えているのか、よくわからない声が自分の喉から出た。

「あらまあ、よしよし」

 少し困ったようなラナの声。髪を撫でられる感触が心地良い。

「この髪、灰でも被ったのかと思ったら染めたのですね」

「君を、千年探していた」

「え、そんなに?」

「すまん、気持ちの問題だ」

 感極まってよくわからない事を口走る。目眩と安堵、睡魔に似た心地良さ、このまま死ぬのも良いかと思う。

 その前に、

「ん」

 ラナの唇を奪った。久しぶりで怖くて、上唇に軽く触れるだけのキス。でもラナの方からむしゃぶりついてくる。

 情熱的に、別の生き物のように互いの舌を動かす。絡め合う。貪り合う。自然と胸をまさぐった。揉みしだいた。義手で尻を掴んで持ち上げる。

「ッ、はぁはぁ」

 少し離れ額を合わせる。

 呼吸を忘れた。興奮も相まって酸欠になりかけた。

「左手のこれは鎧で?」

「義手だ。元のは取れた。気にするな」

 間近でラナが僕の目を覗き見る。甘い吐息を感じる。

「左目も何か違いますね。不思議な力を感じる」

「一度潰れてから色々あり、とある王子にもらった」

「この数日で一体何が、妹やパーティの皆はあなたの事を忘れるし、街は混乱を、んっっ」

「すまん」

 つい、胸から手を下げ過ぎてしまった。


「おい、貴様ら。まさか私の前で始めるつもりか?」


 僕を蹴った声の主を、完全に忘れていた。

「いえ、見せつけてやろうかと」

 ラナは堂々と自分の父親に言う。

「メルム」

「馴れ馴れしく呼ぶな、異邦人」

 メルムがいた。

 前と変わらぬ姿で義父がいる。

「いや、もしかしたら私と貴様は馴れ馴れしい関係になるのか? 想像できんな。気色悪い」

 憎まれ口も変わらず。冷たく見える目は、僕の腰にある剣を見ていた。

「メルム、僕は」

「言うな。貴様は先の時間から来たのだろ? ダンジョンの上層で似たような者を目にした。それが街に降りてきてもおかしくはない」

「先の時間? え、あなたは」

「ラナ、落ち着いて聞いてくれ。僕は確かに未来から来た。そして君は死ぬ。草原を焼いた竜に食い殺される。それを回避する為に僕は来た。信じられない話だが、僕を信じてくれるか?」

 荒唐無稽な話だ。異世界の神々の物語でも、こんな馬鹿げた話はない。

「信じます。当たり前でしょ」

 あっさりラナは信じた。

 一瞬たりとも迷わなかった。

 一つ確信する。

「僕は異世界に来て沢山の選択をしたが、その最良は君と結婚した事だ」

 似たような事を前にも言った気がする。気がするだけかもしれないが、何度でも口にする。

「………それは、それは私も嬉しいで、ッッッ」

 平静だったラナは、顔を真っ赤にする。真っ赤にして、細い金属の棒を取り出して僕の言葉を木の札に彫り出した。

「嬉しいので永遠に保存します」

「恥ずかしいな!」

 などとやっていると、

「いちゃつくな。竜が来るのに悠長にしていて良いのか?」

 義父からありがたいツッコミが来た。

 時間がない。急いでガンメリーのメモ内容を説明しなければ。

「ラナ、時間ってものは張力がある。歴史の修正力とも言うらしい。原則として起こった事は変えられない。君が死ぬ事を今回避したとしても、死は別の形ですぐ襲いかかってくる。しかも、その反動は大きくなって君が死ぬまで何度も何度も繰り返される。これが運命というやつらしい」

「え? それじゃ私は」

 ラナの雲った顔に笑いかける。

「大丈夫だ。死んでもらうが、死なせない。イゾラ、出せるか?」

『はい、スタンバっていました。テザラクト・ボックスから素体を転送します』

 銀の剣が出るのと同じように、中空から素体が出て来た。

 眠った裸体のエルフを片手で受け止める。

 船の機能で作り出したラナそのものの体だ。隣に本物がいても錯覚するほど似ている。

「ラナ、これは君だ。魂がないだけで全く同じ体だ。こいつを竜に食わせて歴史を騙す。服と下着を脱いでこいつに着せてくれ。杖も私物も全て忘れずに持たせてくれ」

「………………これ、気持ち悪い」

「我慢してくれ」

 僕も気分は良くない。この模造のラナが目を覚まして『殺さないで』と言ったら守ってしまうだろう。

「ほーよくできているな」

 メルムは無遠慮に、自分の娘のそっくりさんの胸を揉む。

 そういえばこういう奴だった。死んでから勝手に美化していた。

「異邦人、その話も信じてやる。ならこれもつけてやろう」

 メルムは指輪を取り出して、模造のラナの人差し指にはめた。金色の指輪だ。牢で見つかったあの指輪だ。

「ほら、残りだ」

 放り投げられた銀と黒の指輪を受け取る。

「あなた、その指輪は?」

「結婚指輪だ。ラナにもある」

 後の金の指輪を取り出す。牢からガンメリーが回収して、ずっとポケットにしまっていた。ラナの死んだ証のようで、見るのも触れるのも恐ろしい指輪だった。それでも捨てられなかった物だ。ようやくそれを、彼女の薬指にはめる。

「ラナ、結婚しよう」

「はい、してます」

 という事で、

「脱いでくれ」

 百年の恋も冷めかけそうな顔で、ラナは服も下着も脱いで、三人がかりで模造のラナに着せた。

 中々、ロマンティックに行かない。それはそれで僕らしいのかもしれない。


 模造のラナを橋の下に寝かせる。ついさっきまでのラナと全く同じだ。

 僕のポンチョは二つに裂かれて、本物のラナの即席下着になった。それでも露出が多いのでメルムからマントをもらった。まだまだエライ格好だが仕方ない。

「あなた、この後は?」

「もう一つ、僕を信じてくれるか?」

「幾つでも信じますけど」

「“僕を見捨ててくれ”。今、街のどこかにいる僕を捨てて、この僕と来てくれ」

「ですが、それでは」

 おかしな話だが、難しい問題だ。僕が逆の立場なら『はい』と簡単には言えない。彼女の背負う苦難を少しでも軽くしようと命を賭ける。ラナも同じ事をする人間だろう。

「夫の命令に迷うな。馬鹿が」

「キャッ!」

 メルムがラナの尻を叩いた。結構、良い音がした。

「ラウアリュナ。貴様の男は私の剣を継いだ。魂を継いだ。私は、生半可な英雄如きにこの剣を託さん」

 メルムが剣で、僕の剣を指す。

「そうですか、それは私に何の関係が?」

 ラナが冷たい。

 裸を見られた事と尻を叩かれた事が原因、ではなく根深い親子の確執が原因だろう。

「それはつまり、この男の言葉はエルフの王の言葉だ。今更父親として貴様に何か言うつもりはない。しかし、王の言葉は聞け。助言程度にでも聞け」

「………はあ」

 冷たい。

 ラナはメルムを無視して僕を見る。

「あなたは、この後どうなるの?」

「僕は」

 ラナがいなくて死ぬほど苦しむ。苦しんで藻掻いて、だが、

「君を忘れる。自分を忘れる。全ての人に忘れ去られる。だが、失った絆を取り戻した。だからこうやって、君の元にたどり着いた。ここが僕の到達点なんだ。頼む、一緒に来てくれ」

 ラナの手を取り乞う。

 もう一度、今度は軽く唇を重ねた。

「行きます。あなたがどこに行こうとも、ついて行きます」

 決断したラナの返事は早い。

『ソーヤ隊員。ポータルが開かれます。不安定です、すぐに入ってください』

 僕らの傍に黒いポータルが現れた。元の時間、塔に戻るポータルだ。

 ラナの手を握りポータルに向かう。

 だが、最後に言葉を。運命を変える力がなくとも言葉を紡ぐ。

「メルム、あんたは!」

「黙ってろ。男の最後はてめぇ勝手に決めるもんだ。例え、息子でも決めるな」

『ソーヤ隊員、早く!』

 イゾラが急かす。

 ラナも駆け出し、足は止まらない。ポータルはもう目の前だ。

 もう一言くらい。せめて、この不器用な義父に感謝の言葉を―――――ああ、また時間がない。

 ポータルに入った。過去の世界は閉じた。

 なのに、メルムの言葉は聞こえた。


「後は任せろ。忘れたとしても、上手くやってやる」


 娘にも、エルフの王は言葉を残す。


「ラウアリュナ、良い子を産めよ」

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