<第四章:炎の子> 【11】
【11】
踠。
藻掻く。
もがく。
圧倒的な水の流れに押し流され、それでもともがく。無意味な抵抗と分かっていても、これが俺だと、もがき続ける。
けれども肺から酸素が抜け出て、息は限界に。体が痙攣して動かなくなった。
ああ、そうか。終わったのか俺は。
こんなものか。
うん、こんなものだな。
最後くらいは潔く認める。ネズミの死因が溺死とは、らしいのか、らしくないのか、馬鹿馬鹿しいのは確か。
自嘲気味に笑って俺は意識を失った。大きな流れに身を任せて、されるがまま流される。
目を閉じる瞬間、近付いて来る巨大な何かを見た。
何だ。
これが死か。
案外、心地よい感触だ。
囁き、
祈り、
吹雪の音。
白亜の原初風景。
狼の遠吠えが聞こえた。
白い狼の群れが俺を見る。
どいつもこいつも同じ顔なのに、どいつもこいつも別の意思を持って俺を見つめる。
(これで終わりか?)
(旅は終わりなのか?)
(まだ何も果たさず)
(約束を果たさず)
(遥かなる異邦からの旅路の意味も)
(旅路の果ても知らずに)
(良いのか? それで)
(許せるのか? それで)
うるさい。
俺はもう眠い。ここで朽ちてサヨウナラだ。後の事など知るか。
「うるさいとは何じゃ。馬鹿者め」
は?
何だ。この声は。狼と違う女の声だ。
「勝手に死ぬな。そなたは“まだ”死んではおらん。精神力だけで死んでも生き返る癖に、諦めると水遊びだけでコロリと逝くとは、やれやれ情けない信徒じゃ」
知っている。
俺の知っている声だ。何度も夢に聞き、何度も朝に忘れた声。
「一つ聞こう。成すべきを成したか?」
いや。
「二つ聞こう。ここで終わってもよいのか?」
いや。
「三つ目の愚問じゃ。まだ戦うつもりか?」
もちろん。
「ならば行け。そなたには、ここは似合わぬ」
吹雪が止み、晴天が見えた。
光に照らされた雪原の眩い輝き。走り出した狼の群れは、遠く山々の隙間にそびえる城を目指して走る。
一人残った黒髪の少女は、俺の手を取った。
「妾はここで待つ。人の世が終わり、また神の時代になる時まで、永遠の時の狭間でそなた達を見守り、待とう。故に、今はさらばじゃ」
光が見えた。
闇を称える神の光が。暗き火の中にもある人の温かな光が。
この人の名前を、俺は知っている。何度も忘れても知っている。
「行け、我が最後の信徒よ」
そしてまた、俺は闇に落ちた。
「ぅッ」
喉から大量の水を吐き出し咽た。
「うわっ汚っ」
目の前にいた女のコートにかけてしまう。
「あ、すまん」
「最悪。助けんじゃなかった」
女はエルフだった。
エルフらしいエルフで、少し冷たい瞳と、長い金髪が特徴のスレンダーな美人。寒空なのにミニスカートで、それでは寒さが堪えるのか、長い足は黒いタイツに包まれている。
温かそうな毛皮のコートを身に付け、見た事のないゴテゴテしい弓を担いでいた。
「弁償する」
「いらないわよ。物乞いに金集るほど、アタシ貧乏じゃないっての」
物乞いって、いやまあ、いつもより酷い格好だった。
濡れネズミである。溺れた時、本能的に鎧は脱いだようだ。血が染み付いたボロシャツとボロズボン。刀だけはしっかり持っていたが、路上生活者と間違えられてもおかしくはない。
「物乞い、だと」
そして、俺より言葉にショックを受けているラウアリュナ。彼女も、ボロマントで裸を隠しているだけの恰好。
「ふ、ふふ、こなたが物乞いか。生を受けて幾星霜。高みから人の世を見つめていたが、落ちる時はここまで落ちるのか。ふ、ふふふ、うぐううっ」
何か泣いている。
お姫様も大変だな。
「はい、これあげる。連れに服くらい買ってあげなさい。情けない男ね」
金貨を二枚差し出された。
投げて寄こさない辺りに、このエルフの言葉と裏腹な優しさを感じる。
「施しはいらん。これでも帰る家はある」
そういえば、ここはどこだと辺りを見回す。
街中だった。
エルフの背後には、廃墟と化した三つの建物。俺の後ろには凍りかけた川。
見覚えがある風景。ここは、テュテュの店の前だ。
何をどう溺れたら、城の地下からここに流れ着くのやら。さっぱり分からん。
「おい、男。こなたは腹が減った。このまま人間の体でいると餓死するぞ」
ラウアリュナは震えていた。餓死より前に凍死しそうである。
「飯ねぇ、知り合いの店がそこにあったのだけど。ちょっと街を離れたら潰れているし。もうわけわかめよ」
「知り合いだと?」
まさかこいつ、
「テュテュの知り合いか?」
「そうよ。え、何? あんた知り合い?」
メルムというエルフの王と関わりのある店だ。他のエルフと関係があってもおかしくはない。
「今、一緒に暮らしている」
「ハァァ? それじゃシグレは?!」
「一緒だ」
「あ、よかった。追い出していたら射殺す所だった」
物騒な。しかもこいつ、強いぞ。足運びや佇まいが並みじゃない。距離を取られたら戦いようがないかもしれん。
「じゃ、案内して。ほれほれ」
爪先で軽く蹴られた。優しい発言は撤回したい。
「分かった。案内する。だが――――――」
このエルフは何故か信用できる。あのメルムの面影があるせいと、後はただの勘。
「場所を言うから運んでくれ」
というか俺も、このまま体を温めなかったら死ぬ。手足の感覚がない。全く動かせない。血が凍りそうだ。最早、震える事すらできないレベル。
生還したばかりに、また死にかけるとは。
反復横跳びのように命のボーダーラインを越えている。
「………………ハア、情けない男」
俺はエルフに襟首を掴まれ、引きずられて長い夜から帰宅した。
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