<終章>


<終章>


 街に近づくにつれ、正門前に群衆がたむろしているのが見えた。

 皆、草原の方を向き、あれやこれやと好き勝手な噂に花を咲かせている。

 そこから来たというのに、僕を気に掛ける者はいない。

 兵隊の群れとすれ違った。

 獣人とエルフの姿が見えた。

 押し合う人とぶつかり転びそうになる。今倒れたら二度と起き上がれない気がして、必死に体勢を整える。

 歩く。

 進む。

 すれ違う人の群れ。

 その中で、赤毛の剣士とすれ違った。

 隻眼の冒険者とすれ違った。

 美しいエルフとすれ違った。

 彼らを知っている気がした。既視感は一瞬、後ろ姿はもう誰彼のもの。

 この街を、この国を、僕は知っている。霧で隠れつつある記憶の中、これだけは確かだと思い。数瞬過ぎる頃には不確かと不安になる。

 見覚えのある知らない街を歩く。

 左肩が痛い。

 触れると、何故か水晶に似た鉱石が突き刺さっていた。抜こうとすると激痛が走り、片腕が使えないせいか歩行のバランスも危うい。

 下手な動きのせいで左足を痛めた。片足を引きずり、ゆっくりでも少しでも進む。

 僕には、行かなくてはならない場所がある。

 小さな橋の下。

 彼女と二度目に出会った場所。

 これだけが絶対に忘れてはならない。何度も、何度も、繰り返し脳に刻む。

 街中で様々な人の群れとすれ違い。僕はのろのろと歩いた。

 知っている店の前を通る。

 知らない店員が僕を汚らしい目で見る。

 知らない通りを進む。

 知らないはずなのに体の一部が道を覚えていた。

 誘われるように薄暗い路地裏に入る。

 転びそうになり、近くの壁に体を預け擦るような足取りで移動する。

 進む。

 知っている気がする道を………………いや、全く知らない街を歩く。

 路地裏では、子供達が遊んでいた。

 僕を見て『きゃー』と悲鳴を上げて子供達は散る。

 寂しくなった路地裏を進む。

 廃墟のガラスに自分の姿が映る。

 酷い姿、子供が逃げるはずだ。

 ボロボロの衣服に白髪頭、不気味な金色の瞳、顔には角、全身に傷と血。死にかけの浮浪者より酷い。

「う」

 咽て吐く。喉から込み上げたのは、血の塊と体液。意識を失いかける。

 石壁を叩いて、気合で意識を保つ。

 足が動かない。

 壁に体重を預け回復を待つ。路地裏からは、明るい通りの一片が見えた。遠い世界のように見えた。小柄な黒髪の少女が通りかかる。彼女と楽し気に話す仲間の姿も見えた。

 新米冒険者のパーティなのだろう。

 何故か。知らない娘なのに安心感と、もの悲しさを覚えた。だが、わずかに気力が湧く。

 暗闇を進む。僕の目的地は明かりの方ではない。

 他人の夢のように、記憶がこぼれ落ちる。

 様々な人の絆と幻影。万華鏡の如く、振り返ろうとしても二度と同じ景色は見えない。

 まるで、死に至る前の走馬灯<ファンタスマゴリア>。

 思い浮かぶと同時に消えて行く。

 消えて、消えて、最後には何も残らない。

 残ったのは無為な闇。空っぽの空洞。どん帳が落ち、客のいなくなった寂しい劇場。

 僕は折れた。

『立ち上がれ』と奥底の何かがいうが、立ち上がる理由がない。

 だがしかし、理由がないからと進まない理由にはならない。欠片のように残った自我がそういう。そういった気がした。

 這いながら進む。

 足が動かないのなら腕で、唯一まともに動く右腕一本で体を引きずる。

 暗い通りを、

 獣のように、

 虫のように、

 痛く

 辛く。

 眠い。

 どうせなら全てを忘れ去りたい。楽になれば、

「ッ」

 舌を噛む。

 絶対に駄目だと痛みを与える。

 這う。1メートルでも1センチでも進む。

 僕には行かなくてはならない。

 行かなくて――――――――あれ、どこに?

 停滞は数瞬、壊れたメガネがずり落ちる。

 メガネのレンズには『橋に向かい。彼女に会え』と、刻まれていた。吐き気と脳の揺れで、泡のような絆と記憶を取り戻す。

 小さな火が灯る。

 あまりにも小さく、十分に体を動かす程ではないが、それでも無明の闇の中では太陽と同じ。僕は進める。行かなくてはいけない場所を知っている。

 もう少し。

 もう少しで、辿り着く。

 どんな無様な姿でも構わない。彼女はそんな事は気にしない。

 最後の幻が通り過ぎる。

 ぬばたまの闇から矢を放つ夢を見た。

 狂階層で命を賭し、絆を確かにした。

 一人諸王の大地へ飛ばされ、そして再開を果たす。

 蜂蜜と甘い夢。

 竜への挑戦、祭りの終わり。

 忘却された都へ。

 妄執に囚われた世界へ。

 どんな所であろうとも、僕は彼女の元に帰って来た。

 穏やかな幕間。

 冒険の暇。

 神々の暇。

 亡霊都市にて世界の脅威に出会い。それでも、進み戦うと仲間達と誓う。

 狼と犬の集まり。

 功遂げ、身を退かぬ者達。

 誰かが僕を獣の王と呼ぶ。

 その名の通り。剣と麦を賭け、英雄を葬った。

 忘らるる者の物語を見た。

 国を追われた少女。

 呪いに満ちた国の最奥の王妃。

 最悪の大魔術師との再会。

 友との約束。

 愛した男との出会い。

 だが、彼女の選択と冒険に待っていたのは、陰惨な最後。

 敵が来た。

 僕の前に敵が来た。

 英雄という敵が来た。

 気に食わなかった。僕が戦う理由は、結局の所そんな底浅いもの。

 真の英雄と共に、戦いに戦い。奴を妄執の辺境に閉じ込め、彼女もそこに消えた。

 ああ最後に、

 この記憶もこぼれ落ちて行く。

 思い浮かべると同時に無為な飛沫となって散って行く。もう二度と思い出せない。振り返る事ができない。

 這う為の右腕が止まる。

 もうこれを、動かす理由が思い出せない。

 でも………………進もうとした。

 進む理由が思い出せない。

 本能なのか“それでも”と、わずかに手を伸ばし。

 それも、すぐ終わった。

 何もかもなくなり、空っぽの男が一人。途方もない何かを失った気がするが、悲しみも絶望も一緒に忘れてしまった。

 何もない男。

 誰でもない無貌の人間。

 死に体は最早、生きる事を止めようとしている。血は流し尽くし、肉は冷たく固まり止まる。死はすぐそこに伴侶のように傍に。

 薄暗い路地裏で、誰にも看取られる事のない終わり。感傷などないはずなのに、男は笑った。

 どんな状況であれ、笑って最後を向かえるのが皮肉な運命への抵抗のように。薄く笑い、目を閉じた。

 空の明かりは遠く。広がるのは真の闇。

 力を抜き眠る。

 恐ろしく寒く傷は痛むが、睡魔が全てを包み込んだ。

 泥のように眠れる。眠り何もかも忘れ消える。お終いだ。

 が、

 眠りを妨げる気配が一つ。短い悲鳴の声。

 女がいた。知らない女が一人。

「驚かせて、すまない」

 霞む視界で顔はよく見えない。

「できれば―――――」

 言葉は続かない。何もない男には、何も語れない。

「あ、あなたひどい怪我」

 不思議な事に、女は肩を貸して体を起こしてくれた。傷だらけでボロ雑巾より酷い有り様の男を、何の気まぐれなのか白い衣装を汚しながら。


 そして、暗がりから明かりに向かう。


 眩く何も見えない。

 傷は痛み、体はもう満足に動かない。このまま自分は死ぬかもしれない。隣に女がいて暗い夢を見ないのは、唯一の救いか。

 いや、記憶も絆も何もなく。けれども、一つの言葉が男の中に残った。

 誰かが残した暗い闇の中でも消えない火。

 

『失った絆は戻らないが、新しく作る事はできる』


 ただ、それだけの言葉が、いつまでも燃え続ける。

                                                                    <終>

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