<第六章:メモリー> 【04】
【04】
周辺空間が割れ、無数の青白い触手が現れた。
「何?」
触手は王子の手足に絡み付き拘束する。異常な力で抵抗を見せるが、わずかに触手の力の方が上のようだ。
「ハハハッ! グリズナスといったな?! 異邦人貴様ッ、海魔の使徒か! お前も父王と同じでアバズレに縁があるようだな!」
王子の声が遠い。
僕は死に体だ。グリズナスを呼び出して本当に限界に達した。もう指一つ動かせない。まぶたが重く閉じる
寒い。
氷の中にいるような寒さだ。
血が凍てつき、吹雪の音が聞こえた。その中に微かに混じる狼の遠吠え。
『おい』
誰だ?
吹雪と遠吠えに混じり誰かの声が――――――
『おい、馬鹿野郎』
あ?
何だかムカつく野郎の声で、軽く息を吹き返した。
『さっさと使え。そいで決めてしまえ。海洋の邪神なんぞに地上の英雄を殺させるな。信仰のバランスが崩れるぞ。お前が決めて、終わらせろ』
うるせぇ。僕の所よりテュテュの所に行きやがれ。
握り絞めた拳には硬い感触。
悪夢の世界で手に入れ、いつの間にか消えていた大きな牙が手の中にあった。
立ち上がれ。
立ち上がれ。
立ち上がれ!
どんな奇跡でもいい。僕に力を貸せ!
血を吐いた。
心臓が高く脈打ち光が見える。細胞が生まれ変わり、血が再生される。何の奇跡が僕に力を貸したのか、そんな事は今はどうでもいい。
一撫でで人間を破裂させる触手を、王子は引き千切り拘束から抜け出ようとしていた。
まだ隙はある。まだ僅かに隙はある。
幽鬼のように立ち上がり、駆けた。
身を低く獣のように、振り上げた拳の間には悪夢の切れ端。
僕に気付いた王子が顔をしかめた。その瞳に、白髪で左目の上に角を生やした男が映る。
王子は、右腕を自由にして銀の剣を手に取る。
避けるつもりはない。
そんな余裕はない。
相打ち覚悟で食らい付いてやる。
銀の刃が脳天に迫り―――――――何故か僕は、絶大な安心感でそれを無視した。
刃は届かなかった。王子の右腕ごと剣は空に舞う。
視界の隅に陛下がいた。
まだ、陛下と分かる人がいた。
全身から血を流し僕より酷い状態だが、両足で大地を踏み締め、愛用の大剣を振り切っていた。
完全な隙に、王子の心臓に牙を打ち込む。
「これが、何だ?」
王子は再生した右腕で陛下を吹き飛ばし、僕の首を掴み持ち上げた。肉が潰れ骨が砕ける音、もう少し力が増せば僕の首はもげるだろう。
「海魔の先触れを呼び出し、大そうな角を付けて、最後がこの一刺しか? 実に―――――」
アホ王子が異常に気付く。
「そいつは、お前が追放した騎士からの贈り物だ。招待してやるぞ、悪夢の世界に」
肌に冷気を感じた。突き刺さった牙から凍てついた空気が流れる。
白く小さな雪が舞う。グリズナスの触手が、何かを察知して一斉に引っ込んだ。
粉雪は急激な吹雪となり、僕と王子を飲み込む。
景色が一変した。
平原は雪原に変わり、夜も朝もない天地全てが白いだけの空間となる。
「何だこれは、貴様ッ! 何をした?!」
慌てた王子の顔に心底ざまぁと感じる。
王子の右腕がまた落とされた。腕を咥えるのは、白い狼。同じものが雪原のあちこちから姿を現し、王子に襲いかかる。
「ようこそ妄執のネオミアへ。といっても、ここは辺境だ。招待されていない客同士。我慢して凍えようか」
「な、舐めるなァァァァァ!」
王子が獣のように暴れ狂い、狼を蹴散らす。
永遠に湧き続ける狼を殺し続ける。
とても愚かで無為な姿だ。獣狩りの王子の最後の姿に相応しい。
「お前はここで、永遠に殺し続け、永遠に戦い続けるがいい。魂が凍り付き雪の一つになるまで、覚めぬ悪夢に囚われてな………………」
「炎が出ぬ! 獣が、呪いの力が出ぬ! 馬鹿な! 俺は数多の奇跡を有した英雄だッ! こんな雪や、ましてや駄犬如きにッッ!」
王子の馬鹿騒ぎが心地よいBGMである。
僕は一足先に凍える。
吐く息は白さすらない。僅かな力も尽きかけだ。本当に、本当の終わり。重ねた奇跡も品切れである。
眠たい。
もう意識が保てない。
「僕は、先に眠るぞ。お前は勝手にやってろ」
悪夢に眠る。
達成感だけで良く眠れそうだ。それこそ永遠に。
両膝がついた。
が、倒れた体は雪に落ちる前に誰かに抱き止められた。いつもは冷たい体が、今日はとても暖かく更に眠気を誘う。
「………ミスラニカ様、どうしてこんな所に?」
「契約した信徒の傍くらい。本気を出せば飛べるわ、馬鹿者」
雪原の中にいて黒い姿が際立つ。
「早く逃げてください。ここはもう」
感覚的に理解できた。もうすぐここは、外から完全に閉じる。
「逃げるのはお主じゃ」
「駄目です。あいつをここに引き留めないと」
「それは妾がやる」
何、だと。
「義兄の不始末くらい妾が面倒を見てやる。それにな。神が人の夢というなら、妾は少し長い夢を見過ぎた。もう覚める時が来たのだろう。いいや、故郷に帰る時が」
「ミスラニカ様、何を」
抵抗しようにも体がいう事を聞かない。
「お主はよくやった。褒めて遣わす。我が信徒の誰しもがなしえなかった事だ。しかし、犠牲はあまりにも大きい。ソーヤ、妾の言葉を思い出せ。例え全てを忘れたとしても、これだけは思い出すのじゃ」
王子がミスラニカ様に気付く。
「現れたな売女! 俺から母を奪い! 弟を奪い! 今度はこの力を奪うのか!」
狼に喰らい付かれながらも、王子は僕らの方に進む。
執念と怨念の混じった表情、まるで悪霊の姿だ。
「よいか―――――――――る。これを忘れるな。魂に刻め。そして行け、進むのじゃ。お主にはまだ果たさねばならない事がある」
「待ってくれ! ミスラニカ様!」
「さらば、我が愛しき最後の信徒。最後に愛した男よ。………達者でな」
短い抱擁から、軽く肩を押された。
倒れ込んだ雪が黒く染まり、僕は落ちた。最後に見たのは笑う神の姿。背後に迫る王子の姿。世界は暗転して、白と黒が混ざり合い消える。
赤い空を見て僕は草原に倒れていた。
悪夢の世界ではない。見慣れた草原の光景。紅に染まった朝焼け。
涙が流れた。
唐突な別れだった気がする。何よりも悲しいのは、僕が“誰と”別れたのか思い出せない事だ。大事な人だった気がする。長い間、ここで共にいた気がする。多くの苦難を共にして、多くの悲しみを見知ったはず。
けれども、欠片すら思い出せない。
僕は忘れてしまった。
大事な人を忘れてしまった。
その痛みだけは、確かなのだ。
「ソーヤ、無事か?」
「陛下、無事ですか?」
互いに呼びかけあうが、互いに無事とはいえない姿。
軽く笑い。気を抜いた。
「奴はどうした?」
「倒しました。恐らくは二度と、この世界に戻って来る事はないでしょう」
「我らの勝ちか」
「勝ちです」
陛下は疲弊した顔で、大剣に体重を預けた。
僕の足元には剣があった。剣の名は、エリュシオンという。ただの剣に見えるが、唯一無二の支配者が持っていた剣。
「陛下、首級はないですが、これを証に」
震える手で剣を陛下に差し出す。
陛下は受け取らなかった。
「………………ソーヤ、奥方から伝言を預かっている。『事が終わるまで、二度目に出会った場所で待つ。遅れても必ず来てくれ』だ、そうな。女は待たせるな。すぐ行け。愚生からの最後の………………」
「………………陛下?」
答えず、陛下は眠っていた。
眠るように亡くなっていた。
何をいうべきか、何をするべきか、頭が真っ白になり何も分からなくなる。
ただ出来たのは、エリュシオンという剣を陛下の傍に突き刺し、彼の功績の証をした。こんな事が、僕のできた最後の仕事だ。
一礼して歩き出す。
できるなら走り出したい。陛下の約束を果たす為に、一分一秒でも早く彼女の元に帰りたい。だが、片足がまともに動かない。バランスを保つのが精一杯で、下手に走れば倒れて時間のロスになる。
体を引きずり、返り血のような赤い世界を進む。
振り返れば心が折れる気がした。決して振り返らないと決意した。
だから、
背後に迫る攻撃を全く意識できなかった。
バランスを崩して倒れる。
左肩を水晶の槍が貫通していた。
「ぐっ」
遠いはずの痛みがクリアに迫る。ここに来て、一体誰が、何を。
敵は空にいた。
紅を背景に、杖に腰かけ僕を見下す老人が一人。
年老いた魔法使い。古びた冒険者の装備に、長い白ヒゲ、トンガリ帽子、椅子替わりにしている歪で長い杖。細く長い体格で、丈の長い貧相なローブ姿。
シンプルで、質素な、魔法使いらしい魔法使いの姿。僕はこいつを知っている。偽物から姿を見せられて知っている。
「獣の王よ。よくやった。第一王子を倒し、しかも我が弟子すらも世界から消すとは。これで始原の呪いを持つ者は、お前一人となる」
ヴィンドオブニクル、裏切りの魔法使い。
大魔術師ガルヴィング。
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