<忘らるる物語> 【05】


【05】


 夢から醒めた夢を見た。

 目を開いても何も見えない夢。

 暗闇と石の寒さ。

 かび臭いしけった空気。

 長い長い拷問の後、闇に溶けるほど長い時間、“僕”はそこにいた。

 時折聞こえるのはネズミの足音。死に体の僕の体を餌と思い近づいて来る。弱った体とはいえ、ネズミを叩き殺すくらいは出来た。

 最初は迷った。

 いや違うか、迷えたのは最初だけだ。

 死に近づく飢えは、人の尊厳を軽く捨てさせる。

 生の血肉を口にして、何度も嘔吐して、それすらも食らうようになり、生き汚く生き延びた。生きてさえいれば、運命は巡る。必ず復讐の機会が訪れる。

 だから待った。

 ただ、ひたすらに待った。


 一年が過ぎた時、第一王子が目の前に現れた。

 奴は、アールディの死に様を伝えた。どうやって殺したかも事細かく丁重に伝えた。

 脳髄から怒りが吹き出し、怒り狂い鉄格子から手を伸ばした。

 奴は表情を動かさずそれを眺め、つまらなそうに牢を後にした。


 二年が過ぎた後、再び第一王子が現れた。

 奴は、リリディアスと、その弟を殺した事を伝えた。一族伝統の身内殺しだといった。 

 僕は憎しみで顔を歪ませ奴を睨みつけた。

 奴は、哀れみの顔でそれを眺めていた。


 五年が過ぎた後、また第一王子が現れた。

 ルミルとロブスを殺したと伝えた。奴は『お前の仲間は後二人だな』と笑った。

 血を吐きながら僕は奴を呪う。


 十年が過ぎた。

 ようやく奴が来た。

 笑いながら、スルスオーブをとうとう殺せなかったと伝えた。

 だがスルスオーブは、いや小人族は、中央大陸を追われ右大陸に移民したエルフに、一族郎党皆殺しにされたという。

 奴の奸計なのは明瞭である。

 こいつは遊んだのだ。殺し方で遊んだのだ。

 再燃した憎悪を奴にぶつける。

 薄笑いの中、奴は消えた。それが奴を見た最後の瞬間だった。

 

 十年が過ぎた。

 二十年。

 五十年と、奴は現れなかった。

 もしかしたら百年が過ぎただろうか。

 途方もない時間を、復讐の炎を明かりに生き延びた。

 だが、大炎術師もいうように消えない炎は無い。

 ネズミを喰らい。魔道を駆使し。憎しみで体を燃やそうとも限界はある。どれだけ命を繋ぎ止めようとも、人である以上必ず終わりはあるのだ。

 この摂理を破る者がいるのなら、それはもう人ではない。

 僕は力尽きた。

 王子を呪い続け力尽きた。

 命は消え、肉は溶け、骨すら塵になろうとも、

 されど憎しみの炎は灰にならず、

 ならば怨嗟の響きは風に消えず、

 全てに忘らるるとも、我が憎しみを我は忘れぬ。

 捨てられた牢獄の奥には、闇を凝縮したタールのような汚泥が残った。

 そこから産まれ出でたモノは、神にあれど神にあらず。

 悪行と悪計と、

 渇望と憎悪と、

 静寂と暗火の、

 金色の瞳を持つ、獣殺しの神。

 世界にまつろわぬ、呪われし新たな神。


“彼女”の名は誰も知らぬ。故に、ミスラニカと名乗る。

 古き言葉で、死滅した言葉を彼女は名乗る。


 我は“忘らるる者”と。



 僕は、悪夢から目覚めた。

 仕える神の過去を、悪夢と呼ぶのは不敬極まりないか。

「あなた?」

 寝返りの拍子で起こしてしまったのか、ラナに顔を覗き込まれる。

 忘らるる者と同じ金色の瞳。

 僕と同じ瞳。

 彼女が、この目に付いて聞いてきた事はない。僕がいわない事は聞く必要のない事だという。重たい程に、全幅の信頼を寄せてくれる。

 これは、そういう女性なのだ。

「少し、夢に当てられた」

「そういう時は、夜風に当たるのが良いわ。冷めた体は私が温めてあげるから」

「そうする」

 美味しい提案だ。甘えよう。

 ぐっすりと眠ったランシールの体を引き離して、温もりのある布団から抜け出る。

 外套を肩にかけて部屋から抜け出た。

 静かな廊下を歩き階段を上がると、屋上には思わぬ先客が。

 夜のような長い髪が風に舞う。影のようなドレスを肌に貼り付かせた素足の少女。

 その実は、

「どうしたのじゃ? 酷い夢でも見たのか?」

「酷い夢を見ましたね」

 とても憎悪から生まれた神には見えない。彼女の視線は草原を向いたまま、手だけが『こっちに来い』と動く。

 隣に立つと我が神の小ささを実感した。

「話してみよ」

「幼気な少女が貴族の道楽に付き合わされ、罠にハメられ、国を追われ、また別の国でも悪計に巻き込まれ、最後は一人何もかも失う夢です」

「そう見えたのか」

「違うのですか?」

 僕にはそう見えた。

 それ以外には見えなかった。

「最初の夫は、あれはあれで妾を愛していた。妻である妾がそういうのだ。他の誰にも否定はさせぬ。ネオミアを追われた理由は、まさしくガルヴィングの奸計であろう。後の裏切りも何もかも、あやつの思惑の中」

「では、ガルヴィングを」

 あの大魔術師は、まだこの世界にいる。僕の勘に過ぎないが間違いない。

 なら必ず僕の手で。

「止めておくのじゃ。もし生きているのなら、師はもう人ではない。ましてや神でもない。竜や嵐のような天災に等しい存在だろう。そんなモノを人が相手するな。過ぎ去るのを耐えるのじゃ」

「………………」

 人の知恵が、そんなモノに負けるとは思わない。

 いつか必ず、奴を倒せる術が見つかるはず。

 ガルヴィングの事は、アバドンと同じく後世に記録を残してやる。それが致命傷となるやもしれない。僕が駄目でも必ずや誰かが。

 ふとした拍子に何かが繋がる。

「ミスラニカ様、第一の英雄とは―――――」

 これは勘ではない。

 これまで体験した夢から得た確信だ。

「エリュシオンの獣狩りの王。古来より生きる第一王子ですか?」

「そうじゃ。長き時を経た今も、エリュシオンを影から操っておる。あれもまた、人の身でありながら、その実は呪いの権化であるな」

 人の身か、ならば殺せるはずだ。

「奴は何故、異邦人を?」

「分からぬ。異邦人を恐れてか、誰やらの助言か。いや、もしや最初からそうなのか」

 ミスラニカ様にも分からない奴の動機か。

「ソーヤ、考えは変わらぬか? 逃げぬのか?」

「逃げません」

「戦うのか」

「はい、戦います」

 これは、あなたの意思に触発されたからではない。

 あいつが気に食わないから戦うのだ。

 僕を、異邦人を、邪魔と迫って来るから戦うのだ。

 僕の大事な者を――――――

「妾はこれまで、様々な者と契約して、エリュシオンと、獣と、第一王子と戦って来た。少ないが勝利もあった。しかし………………第一王子と直接戦って勝てた者はいない」

「“これまでは”でしょう。何事も終わりと始まりがあります。消えない炎はないように、終わらない悪夢はありません」

「お主は、恐れぬのか」

「僕の数少ない特技です」

 いいや、根っから恐怖という部品が壊れているのは不良品の証か。

「………お主を止めるのは諦めた。そうじゃな、いう通り終わらない悪夢はないのだ。いつしか夜は明け、新しい夜明けが来るじゃろう。神も呪いもない世界が」

 月明かりに照らされた我が神は、月の女神に見えた。

 同時に透き通るような存在感は、今にでも砕けて消えそうな儚い不安を覚えさせる。

「この戦いが終わっても、僕の神でいてくれますか?」

「無理じゃな。如何に異邦の技を使おうとも、次の戦いで契約は燃え尽きる。それだけではない。お主の――――――」

「なら、あなたの信徒らしく戦いに戦って見せます。僕が忘れようとも、あなたが覚えているのならそれで良い」

 神が覚えているとか、死にたがりの最後としては上等すぎる。

「勝とうが負けようが、お主は全てを失うのだぞ? 益のない戦いじゃ」

「失っても取り戻します。燃え尽きても灰を拾い集めて作り直します。ミスラニカ様もいったじゃないですか、新しく作り直せると」

 それに、今あるこの絆が全て灰になるとは思えない。

 必ず何かが残る。人が呪い何かに負けるとは思えない。僕には、そう思えないのだ。

「愚問か………………お主は強くなったな。いや、妾が弱くなったのか」

「出会った時は、お腹減り過ぎて死にかけてたじゃないですか」

 あの弱々しい猫が、この美しい少女とは。

 そういう所は、僕は幸運だ。

「妾は神じゃぞ。本当に空腹で死にかけていたのではない。人の関わりという意味で空腹だったのじゃ」

「では今は?」

「食べ過ぎかの。太ってしまうわ」

「うーん」

 もっと食べないとな。

「どこを見ておる馬鹿者」

 つつましい部分を見ていました。

「申し訳ない」

「良い。今宵最後の不敬を許そう」

 最後か。

 いや、最後ではないさ。

 我が神にも、色々と大きくなってもらわないとな。

「ソーヤ、跪くのだ」

 従い片膝をつく。

 あの日、あの牢で交わした契約を繰り返す。

「暗火から産まれし、忘らるる者が問う。汝、我が剣となり渇望を満たすか? その剣に栄誉無く、その血に栄え無く、その魂に安らぎ無し。それでも尚、否無きものなら沈黙で答えよ」

「………」

 答える。

「悪計より産まれし、忘らるる者が問う。汝、汚泥を啜る屈辱すら己が力とし、成す事を成し、得る物を得、奪うものを奪う。そして王者を謀り、英雄を屠る事すら厭わないか? 否無きものなら沈黙で答えよ」

「………」

「悪行より産まれし、忘らるる者はその沈黙に応えよう。竜躯に仕えし狼騎士よ。信念を貫く異邦の戦士よ。悪名を恐れず、死を恐れず、今際の強き者よ。妾はそなたの罪咎を赦す、そなたの偽計を赦す、例えその身が災禍の暗き種火になろうとも、妾だけは全てを赦す。故に――――」

 覆い被さって来る冷たい体。不思議と夜風が止んだ。

 次の言葉を僕は待つ。

 待つが、静寂が響くのみ。

 この沈黙も、また答えなのだろう。

 腰に手を回し彼女の体を抱き締める。顔を見ると、驚いたような泣き笑い顔だった。


「僕は、あなたと出会えて良かった」


 どうか、これだけは忘れないで欲しい。

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