異邦人、ダンジョンに潜る。Ⅹ ファンタスマゴリア 【10部】
<忘らるる物語>
<忘らるる物語>
彼女の夢を見た。
まだ小さく幼い頃の彼女を。
彼女は毎日パンを焼いていた。それが彼女の仕事だった。
職場は小さい宿と兼業で飯屋をやっていた。彼女は、ここの女将に拾われた孤児だ。
物心がついた時から彼女は働いていた。
朝、パン種の様子を見て、
パン種と小麦と塩とぬるま湯を混ぜ合わせ、
こねてこねて、丸めて発酵を待って、
焼いて、
冷まして、
並べて、
試食がてらパンを食べて、
日が落ちたら眠り、
朝日と共に起きて、またパン種の様子を見る。
そんな毎日を繰り返す。
単純だが、やる事に追われる毎日。
ただ、彼女の成長と共にパン作りは効率化して行き、余った時間で別の仕事をやる事になった。
最初はスープを覚えた。
次は焼き物を覚えた。
店から外に出て、山師と野山に入り、食用の野草や、薬草の種類を覚え、自然の実りを覚えた後は、狩りを覚えた。
彼女は、決して覚えのよい人間ではなかった。独創性のある人間でもない。
ただ、真面目な人だった。
人の倍時間をかけて、人並みの技術を身につけた。
しかし、ある時になって立場は変わった。
同じように山師に学んだ人間の中では、彼女が一番の知恵者になっていた。孤独な老人の言葉を根気強く、最後の最後まで聞いていたのは、彼女だけだった。
それでも、彼女の仕事は変わらない。
朝、パン種を見て、混ぜて、こねて、焼いて、冷まして、並べて、余った時間に野山で暇を潰し、自然から糧をもらって、時にはそれを返す。
そんな毎日の中、老いて、山師のように消えて行くのだと。これが自分の人生なのだと、彼女は思っていた。
その男に出会うまでは。
彼女の住む国には、古からのダンジョンがある。それに挑戦するのは貴族の偉業であり、貴き血と、そうでない者を別ける絶対的な違いでもあった。
そんな貴族の一人に、彼女は見初められた。
男は毎日パンを食べに来た。
彼女がスープを作った日はスープも、焼き物を作った日はそれも口にした。
交わした言葉は少ない。
男と彼女は、年齢的に言えば祖父と孫くらい離れていた。共通の話題といえば天気か、季節の変わり目、料理くらい。男女の仲になるような切っ掛けはなかったはず。
しかし、貴族の申し出を断る平民はいない。
宿の女将は、喜んで彼女を差し出した。
彼女の意思は誰も聞かなかったが、彼女自身も“そういうもの”だと理解していた。
そして驚くべき事に、男の申し出は愛人ではなく正妻の契約だった。
宿の下働きが貴族の妻、灰かぶりがお姫様のようなもの。
周囲からは羨まれたが、彼女を待っていたのは複雑な家庭環境と試練だ。
まず、年上の息子とその妻。
彼女と同じ歳の孫が三人。
加えて男は、王の相談役でもあった。
彼女は男の手伝いをした。
人と人の繋がりの仕事。
政治だ。
仕事の時も、後も、四六時中勉強をした。家に帰っても自由にできる時間はない。無知な町娘が、貴族や政治を学ぶには、身を削り勉強するしかなかった。
寝る暇を惜しむ忙しい中、それでも彼女はパンを焼いていた。
男に命じられたわけではない。むしろ止められた。娘や孫に嫌味をいわれ、メイド達に煙たがられても、毎日パンを焼いていた。
長年培った習性もある。
それ以上に彼女の意地だ。
どんな場所にいても自分は変わらない。立場や環境に屈してなるものかという、町娘風情の小さな意地。
女の意地は男を動かすのに十分であった。
男は、彼女の学習の為なら金に糸目はつけなかった。
彼女は優秀な人間ではない。天才と呼ばれるような人間では決してない。
だが、真面目な生徒だった。
彼女の教師の中には、魔法使いが一人いた。
名を、ガルヴィング・バウ・ミテラ。
後に、法魔ガルヴィングと呼ばれる三大魔術師の一人である。
彼は真面目な人間を好いていた。しかし、路傍にいるような真面目な人間は拾わない。
彼は俗物だ。
金銭の、しかも破格の金額を要求する。
それでいて気に入らない貴族の子供には、下剤になるような薬草の煎じ方しか教えない。
風変りで、気まぐれで、飛び切り優秀な魔法使い。
そんな魔法使いが、彼女に何もかも教えた。捧げたといってもいい。
政治に歴史、薬学に鍛冶、神々の物語。
そして数々の魔道の秘儀。
もしかしたらガルヴィングは、男女としての意味で彼女を好いていたのかもしれない。
彼女の魔性に大魔術師は魅了されたのか。
いいや、人間が人間を好きになる理由など、男が女に何かを捧げるというのは、結局はそんな気まぐれなモノなのか。
ともあれ月日が流れ、優秀な教師達のおかげで彼女は成長した。
成長したといっても、子を産んだわけでも、体が熟れたわけでもない。優秀に、夫の仕事を手伝えるようになったという意味だ。
それでようやく、互いを支え合い、肩を寄せ合う、本物の夫婦になれた。
彼女の夫は、結局の所、寂しかったのだろう。
子供や孫には厳格な人間だった。妻を亡くして以来、弱音を吐く相手すらいなかったのだ。
己の慰めとして、純朴な民草を娶った。
切っ掛けはそんな所でも、愛情は本物だったのか。
男は、遺言で財産を全て彼女に引き継がせた。
息子も孫も散財が過ぎていたので、愛情抜きにしても正しい判断だった。彼女も、息子や孫を追い出してやろうとは一切思っていない。そして彼女は、亡き夫の仕事を引き継ぎ、王の信頼を勝ち取っていた。
身内のやっかみなど微風に過ぎない。
やる事をやり、成す事を成し、人として厳格に、真面目に、彼女は成長していた。愛した男はもういないが、その死すらも彼女を強くした。
だが、一つだけ失念していた事がある。
人の悪意というものだ。
知識を得たつもりでも、彼女の理解は足りなかった。
人間というモノが、理性と損得で動く生き物だと思い込んでいた。それこそ、愛した男の身内なら信じたくもなる。
皮肉な事に、彼らは人間以下のケダモノだった。
彼女の息子と娘は、孫すらも手を合わせ、王を暗殺したのだ。
しかも、その罪を彼女に押し付けた。
覚えのある元相談役の血縁、そして現相談役の身内。信用の置ける人間達である。王すらも腹の内が読めなかったのは、やはり彼らが相当な悪人だった証なのだろう。
彼女は捕縛され、裁判にかけられた。
彼女は嘆かなかった。
怒り狂う女王と貴族の前で、理路整然と身の潔白を訴えた。
そして、何一つも言葉は届かなかった。
理由は一つ、彼女は平民の出だからだ。
今は貴族としての地位を持っていても、所詮は平民だ。貴族として生まれた者とは違う。天と地ほど、虫と人ほど違う。
彼女に対するやっかみも多かった。
自分達よりも優秀な平民などいるはずがない。何か悪行を犯して今の地位にいるのだと、怪しげな力で人を騙していたのだと、そんなプライドを守る為の言葉を貴族達は叫び続けていた。
罪状は二つに割れた。
死刑か、追放だ。
貴族達は、満場一致で死刑だった。
王族達は、これまでの彼女の働きを考え追放に止まる。声は小さいが、王族の中には冷静に彼女の無罪を信じていた者もいた。
だが、声は常に大きい方に揺らぐ。王制でもそれは無視できない。王亡き今、貴族達の反感を買えば内戦に繋がるのだ。
結局、女王に全ての判断が任せられ、
「死刑」
と、刑が下された。
(ああ、なるほど)
彼女は学んだ。
人の底浅さ、愚かさ、怠惰、妬み、薄暗い癖に燃え盛る炎のような感情の数々を。
(人間は、この程度のモノなのか)
そこでようやく、自分が普通ではない人間だと彼女は気付いた。
彼女は死刑当日に王国から逃げおおせた。
堂々とした逃亡だ。
平和な国の衛兵如きに、大魔術師の弟子を止められるはずもなく。
そして、貴族すらも小娘に過ぎない彼女になす術がなかった。
権力や功績を飾るだけの偽物とは違う、ダンジョンに挑戦する本物の貴族が、だ。
唯一対抗できたであろう終の戦士達は、彼女を素通りさせた。
彼らは山師と繋がりがあった。彼女の事も良く知っていた。
故郷を去る時、彼女は一度たりとも振り返らなかった。歴史の暗部を啜り太るだけの虫共に、微塵の興味も湧かなかった。
奴らはいずれ滅びるだろう。
自分達の愚かさで滅びるに違いない。
「その時は、笑ってやるぞ」
彼女は呪いを吐き、ネオミアを後にした。
この国が悪夢と冬に閉ざされるのは、また別の逸話である。
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