<第三章:我ら、黒き旗に集う>【02】


【02】


 少し前、アシュタリアには獣が現れた。

 炎を纏った巨大な獣だ。

 かの炎は街を焼き、民や、家を燃やし尽くし、小さい王国の城下を灰塵と化す。

 命を賭し、アシュタリアの将兵は獣を倒した。

 陛下の部下達だ。並みではない。聞けば、一兵でも上級冒険者クラスの実力があるとか。

 それでもその命は、灰になった。


 今日また、再び獣が現れる。

 次は、アシュタリアを守る為。

 獣に荒らされた国が、獣に守られるのだ。最早それに言葉はない。


 四万の軍勢の前に、獣が現れた。

 闇に栄える白亜の獣。雪から生まれた様な美しい長毛で、10メートル大の二足歩行。鋭く太い爪。獣頭は狼そのもの。長い尻尾は揺れる度に風を生む。

 夜のしじまに獣の遠吠えが響いた。

 人が本能的に恐怖する叫び。

 かつて見た醜い獣と同じで、丸い三つ月に吠える。夜の輝きに特別な憎しみでも抱いているのか、獣の習性なのか、僕には分からない。

 獣は人の軍勢を蹴散らし進む。

 爪は、兵を紙切れのように裂く。大きな口は、一口で兵の十人を噛み砕く。最初に死ねた者達は何が起こったのか理解できなかった。

 混乱に乗じて僕は火を点けて回った。軍を囲むように、獣を囲むように、敵が獣を見るように。

 夜襲を警戒していた兵達が、鐘を鳴らして総員に警戒を促す。

 鐘の音、兵の悲鳴、炎に、獣の叫びが合わさり、地獄に拍車がかかる。

 でも、思ったよりは砕けない。修正と統制の動きが早い。

 命を捨て足止めする者がいる。

 その時間を活かし、統率して軍列を作る将がいる。

 たかが一兵すら、上の判断を待たず独自に動いている。

 こいつら戦い慣れている。流石、四強の軍だ。

 もしや、獣との戦闘経験があるのか? 黒エルフ最大の敵はエリュシオンだ。あり得る。

 放火以外の破壊工作は無駄だろう。下手に見つかってアシュタリアの名を穢しては事だ。僕は、明日の朝、陛下が出陣するまでは臣下である。せめてもらしく誇りを持って立派に務めないと。ザモングラスのように。

 立派な最後だった。

 潔く。

 言葉もなく。

 ヴァルナーのような泣き言を漏らすわけもなく。

 命など、所詮このような物だといわんばかりに、さっぱりと自刃した。

 僕は、師弟の死に立ち会った事になる。

 それに何か意味はあったのだろうか? ………いや、意味を持たせるのは僕か。

 そう、意味はあるのだ。アーヴィンの死から続く、この狩りの夜には。

 軍の素早い抵抗を物ともせず、獣は進む。

 これだけ勇猛な軍なのに全然相手になっていない。殺戮だ。

 想像すると恐ろしい。

 こんな人間を、エリュシオンは何人抱えているのだ? たった一匹でこれだ。何かの拍子で無数の獣が世界に放たれたら、文明は滅ぶぞ。

「鎧を持て!」

「いけません、デュガン王! ここはお引きを!」

「ならんわ! 余が先陣を切らず誰が!」

「夜分、失礼する」

 腹心と揉めているデュガンの前に、僕は現れた。

 急な参上と、今の一瞬まで、一切の姿形を見せなかった故に、王と部下達は武器を構えるより前に、ただ驚いていた。

 しっかりした陣だ。王を守護する為に、寝所を守る女兵が10人。屈強な近衛が50人、警備兵が300はいた。あのような敵を前にしても、何の混乱もなく不動の守りである。

 それを容易くすり抜けて来たのだ。

 驚くだろう。

 実際、虫一匹も通さない守りである。しかしここに、500年の間、冒険者を欺き続けた化け物がいる。その外皮で作り出した外套がある。

 ロラの外套。

 組合長が先導して加工した装備。魔力を通せば、ロラの如く完全に姿を消せる代物だ。ただ、普段の僕では姿を消せて五秒が良い所。

 で、忌血の獣が近くに居れば、ほぼ永久に姿を消せる。今の僕には、ミスラニカ様の加護により、無限の魔力が溢れている。

「お前さん、見間違えたがダインスレイフの臣下だな。余にリンゴを渡した」

「はい」

「あの化け物は、エリュシオンの獣だ。よもや………ダインスレイフが放ったのか?」

「まさか」

 人を食ったように笑ってやる。

 続けて僕はいう。

「あれは、アシュタリアを焼いた獣の片割れ。戦場の血で蘇ったのでしょう。我が国の四将でも殺し尽くせなかった巨大な獣だ。あなた方は、さてどう戦いますか?」

「無論、祖先達がそうしたように、同胞の屍を乗り越え首と落とし、心臓を抉る。それだけだ」

「アハハハハハハハッ! いけませんな。愚かな戦い方だ。ロブスも所詮、その程度か」

 僕は大きく笑い声を上げ、横から振り下ろされた斧を素手で掴む。

 五指で鋼の刃を砕いた。

 斧を落としたのは、王の息子だった。

「なっ、その目! 貴様もエリュシオンの獣か?!」

 デュランダルに見当違いな誤解を受ける。

「俺は、アシュタリアの狼だ。愚鈍な貴様達に代わり、本物の狩りを見せてやろう。今すぐ軍を退け、退かねば貴様らは、戦うより前に死の呪いで沈む。警告は一度きりだ」

「その狩りとやら、貴様の首と獣の首を並べ、我らが見せてくれよう!」

 若いロブスが、刃の砕けた斧を振りかぶり襲いかかって来る。

 誰も止めないので、有無をいわさず顎を殴って気絶させた。他の人間達が一斉に武器を構える。炎に照らされた350の武器が鈍い輝きを見せた。


「「やめいッッッッ!」」


 デュガンのあまりの声の大きさに、武器や人が震えた。僕も耳がキーンと鳴る。

「考えなしに刃向かいおって馬鹿息子が。それも一度で実力の差が分からぬとは、修行が足りん」

「で、どうするか」

 僕はどっちでも良い。

 警告したのは、名乗りのついで。

 ここにいる何人かが生き残って、アシュタリアの名を広めればそれで良い。警告を無視した愚かな王の話も、添えてくれれば万々歳。

 目的はもう果たした。

「退けぬ。これは余が用意した友の花道だ。余の軍を裂き、果てに倒れ、そしてダインスレイフは伝説となる。前夜に現れた獣の一匹など叩き潰してやろう」

「左様で」

 なら、死の呪いで血を吐いて死ぬが良い。

 外套のフードを被れは、僕の姿は消える。強者であるこいつらに見つかる事はない。

 消えようとして、

「待たぬか」

 女の声に止められる。

 僕は姿を消していただけだが、女は本当に神出鬼没で現れた。

 二人目の侵入者で、ロブスの軍勢に動揺が走る。

「まだ早い! 早いぞ!」

 女は、王の声を涼しく受け止める。

「だが止めねば、お主らは無為に死ぬ。妾はそれを望まない」

 フードを降ろしたのは褐色のエルフだ。

 はっきり見るとラナより小さく華奢だ。闇に塗れるような黒い長髪を持っていた。マントの下は、サイズの大きい野戦服やブーツを補修して着けている。

「嘘だろ」

 つい、声が出た。

 僕が驚いたのは彼女の顔だ。

 怖気を誘う美形であり瞳には魔性が宿る。傾国の美女であり我が神、

「ミスラニカ、様?」

 に、瓜二つ。双子と思うほど似ている。

「誰が、忘らるる者だ。それ皮肉か?」

「いえ、イヤ」

 張っていた気が一瞬解けてしまった。

 この人は、いや、こいつは何だ? ここに来て、偶然にしては出来過ぎているぞ。

「陛下、この者達は?」

「ぬ、ぬう」

 腹心に問い詰められ、デュガンが額に汗を浮かべる。

 迫る獣より、この女の存在は厄介なのか?

「ロブス、一時退け。この者に任せて見よ。遠目なら、きっと面白いものが見られるぞ。アシュタリアを滅ぼすのは、その後でも良い」

 デュガンが苦い表情を浮かべる。

「………仕方あるまい。全軍に通達。獣から離れろ。視認できるギリギリの距離まで退くぞ。手に余る物資は捨て置け。死者を回収する事は禁じる。生きる気力のある者には肩を貸せ。そうでない者は、楽にしてやれ」

『はっ、陛下』

 忠実に、腹心達が動く。

「さて、これで良いのだな?」

「うむ、十全であるぞ。ロブス」

「やれやれ、先が思いやられる」

 女と軽く話し、デュガンが僕を見やる。

「アシュタリアの狼とやら。手腕を見せてもらおう。ダインスレイフの名を落とすような戦いなら、余が乱入して獣共々そっ首落としてくれる」

「ご安心を」

 それだけはない。

 女は薄い笑いを浮かべて僕を見る。

「さあ、行け」

「ああ、行くさ。しかと目に入れよ、栄えあるアシュタリアの戦いを」

 外套のフードを被り、王の前から姿を消す。

 急いて去る軍と逆の流れで進む。

 白い獣は、暴れに暴れていた。

 矢と槍を体に受けて、白い身体に赤い斑点を生んでいる。だがどれも致命傷にはほど遠い。

 こいつらを殺すには、首を狩り、心臓を潰すしかない。

 それは儀式めいた作法だが、確実な手段として獣狩りの冒険者達が行ってきた処理方法だ。

 人の波をすり抜け、開けた場所に出る。燃えたテントが大きな篝火となっている。人間の残骸が散っている。数は100か200か、勇猛に戦った人間から、逃げて背中から殺された者。潰れてよく分からない者。

 色々だ。

 僕は、姿を現して獣の前に立つ。

 獣は、僕を見ると動きを止めた。

 ザモングラスの剣を構える。

 普通のロングソードより幅が厚く頑丈に作られた剣。銀でコーティングされ、それは獣人だけでなく忌血の獣にも効果が高い。

 剣には、老騎士の戦いの歴史が刻まれていた。十年や二十年の痕ではない。半世紀の刻みだ。

 この世界の人間の、一生に近い年齢。

 それに耐え、砕けず、切れ味を保って来た剣は、銘はなくとも名剣である。

 刃に金の瞳が映る。狼の瞳。魔を喰らう者の瞳。

 彼の、最後の言葉が思い浮かぶ。


『俺が陛下に仕えていたのは、憧れや罪悪感ではない。打算だ。この人なら、俺を殺してくれると思ったからだ。

 我が身に宿った積年の怨讐。最後は、他の騎士と同じく全てが血塗られる。………ま、それを有効に利用できるのだ。俺は、運が良い』


『貴様は、アーヴィンが“立派な最後を迎えた”といったな。正直な事をいえば、俺にはそれが羨ましく。そして、嬉しかった。礼をいう。馬鹿弟子が世話をかけたな。その駄賃として、我が獣の首を、貴様にはくれてやろう。名誉を狩り取り、我が物としろ。アシュタリアの名声として陛下に捧げろ。しかし、だが、これは生易しい獣ではないぞ』


「覚悟の上だ」


 イゾラ、使うよ。

「我が神、暗火のミスラニカよ。我は人の呪いを食み、糧とし力とする者。汝、唯一の信徒なり。

 ラ・ヴァルズ・ドゥイン・ガルガンチュア。我ら、旧き血の始原を永劫に憎まん。

 怨嗟の響きと呪いの声を以って、我はケダモノを呼ぶ。

 凶月の女神よ、

 ラウカンよ、

 金瞳の黒猫よ、

 この身に、忘らるる者達の力を。

 …我が神よ、魔を清め罪を許したまえ!

 我は人の身のまま獣を宿す!

 人のまま獣を狩る!

 明けぬ夜はなく! 覚めぬ夢もなし! 災いの忌血を今ここで断つッ! ならば、再び、狩人の夜よ来たれッ!」

 知ってか知らずか、そも運命の導きか。僕は彼女の欠片を集めていた。

 ミスラニカ、忘れ去られた者。

 この力のせいか、彼女の真実が理解できつつある。

 暗き火。

 繁栄の影。

 捨てられた者達。

 それを今この身に集める。

 禁忌を飲んだ王者の末裔達よ。

 栄えある聖リリディアスの騎士達よ。

 己が心臓に流れる血は、悪行の神が死を以って許す。


「イゾラ・ロメア・ワイルドハント!」


 死の呪いが黒い霧となり雪の上に這う。

 だが呪いは力に。ミスラニカの加護により情念は浄化され、蛍に似た淡い光に、純粋な力の塊に変わる。これは不滅の力。人の世がある限り永遠に続く影。

 さあ、我が獣よ。

 これを喰らえ。

 再生点の容器に亀裂が走る。赤と青の蒸気が溢れた。

 雪原に緑光が満ちる。幻想的な光景だ。対する敵も、幻想の世界に相応しい。

 僕は、白い獣と同時に吠える。

 雄叫びが重なる。

 見よ。

 我が身を見よ。

 アシュタリアの狼を見よ。

「行くぞ」

 牙を剥き出し歩き出す。ゆっくりと、雄々しく、陛下の臣下らしく勇猛に。

 白い獣が巨大な腕を振るう。

 厚く風を纏った一撃。人間がくらえば足首を残して消し飛ぶ。

 彼が人であった証を、ザモングラスの剣を振るい。それを大きく弾く。金属が高く鳴く。

 進み、ためらわず、斬り合う。

 爪と剣のカチ合い。人外同士の剣戟。鉄を打つような音の奏で。一薙ぎ事に血風が散り、雪を赤く染める。

 僕は一歩も退かない。

 獣は、退く。

 一撃ごとに体が壊れる。

 一撃ごとに死を迎えて。

 一撃ごとに生まれ変わる。

 死を乗り越え、死を踏み倒す。

 生死を繰り返し、英雄を超える力で、獣を弾き飛ばす。

 その隙に、神技の如き一撃を振るう。

 獣の腕を斬り飛ばした。巨大な幹のような腕が背後に落ちる。

 また一歩前に、前に。

 獣は貫き手で爪を繰り出す。指一つの大きさは僕の顔と同じ。重さも威力も質量も、人の域ではない。

 その爪を、素手で受け止めた。

 衝撃が体を貫き、骨が砕け内臓が破裂する。体の一部が液体に変わった。口や目からそれが溢れる。

 だが、退かない。

 退いてはならない。

 巨大な獣を押し返す。

 無限の再生点が損傷を一瞬で回復した。更に、力を。何者にも負けない力を。僕の中の何かが燃え熱量と変わり、激しい力となる。

 雪原の冷気に体が蒸気を上げる。

 握りしめた爪を砕く。剣の一撃で、獣の腕を縦に裂く。

 獣が高く悲鳴を上げた。

 魔剣を左手に、二刀で獣の両足を斬り裂く。肉を厚く切り、骨を断つ感触。

「アガチオン」

 ワイルドハントの力と魔剣の力を合わせ超近距離からの投擲を行う。魔剣は獣の心臓を抉り取った。

 獣が跪く。罪人が首を差し出すように。

 僕は、剣を肩に背負い両手で構える。

 楽に首を落とせるよう横に回った。

「さらば」

 獣は、人のような優しい瞳をしていた。知性のある瞳だ。もしかしたら、彼は彼のまま獣になったのかもしれない。僕は手心を加えられたのかもしれない。だから、容易く勝てたのかも。

 だが、

 構わず、ためらわず、斬り落とす。

 見真似に過ぎないが陛下の剣技を模倣した。痛みはなかったはず。

 血が雪原に溢れ赤い川になる。

 ズボンのポケットから小袋を取り出し種を撒く。死赤花の種。呪いを吸い薊に似た花を咲かせる。この寒さの中、花が咲くかどうか心配だったが、杞憂に終わる。

 種は獣の身に付くとすぐさま根を張り、芽を出し成長した。まだ小さいが、赤い花を覗かせる。僕の吐き出した呪いと、この獣の体を栄養にして。

 半日もかからず、ここは赤い花に溢れるだろう。

 心配事は一つ消化できた。アシュタリアの大地を汚さずに済んだ。

 後は、

 飛んだ首を拾い上げて掲げた。

 僕の体より大きい首。

 普通の状態なら担ぐ事も難しいが、今なら片手で楽に持てる。

「ロブスの血盟よ! 見よ! しかと見よ! これぞ貴様らの大敵、エリュシオンの獣なり! 愚鈍な貴様らに代わり、このアシュタリアの狼が見事狩り取った! 我が名声を倒し己のものにしたくば! 今すぐにッッ! 武器を手にかかって来いッ!」

 結構な距離だが、ロブスの軍勢には聞こえたようだ。

 答えるように雄叫びが返って来る。

 松明を手に、兵の波が怒涛のように迫って来た。

 獣を倒した事により、ミスラニカ様の加護は消えた。漂う死の呪いは、もう花に浄化されつつある。つまりは、ワイルドハントの効果も後少し。

 もうすぐ僕は、ただの異邦人に戻る。

 もう一度、ワイルドハントを唱えるか?

 問題があるなら、これが連続使用できる魔法なのか不明な所だ。

 下手をすれば死の呪いを吐いて死ぬだけになる。そも、忌血の獣がいない時に使用できる魔法なのか? 確かめるには命を賭けるしかない。いつも通りの出たとこ勝負。

 白い獣の首を地面に置き、片手で合掌の祈りを行った。

「アガチオン」

 短い祈りを終えて、血を纏った魔剣を手にする。

 さあ、本番と行こう。

 獣に蹂躙されたとはいえ、まだまだ兵は残っている。二万か? 三万か?

 白い闇の向こうから大軍勢が迫って来ていた。迎えるのは、ただ一人。

「く、クッ、ハハハ」

 そうだ。これだ!

 俺は、これがやりたかったのだ。

 ただ一人、誰も妨げることなく立ち向かい。戦いの果てに戦って死ぬ。戦って戦って、戦場に踏み抜かれてゴミのように死ぬ。男子の本懐じゃないか。現代世界の乾いた音で人が死ぬような所では味わえない。血潮が滾る戦いの場。英雄が駆けて、英雄が死ぬ戦場。

 俺は今、ここにいる。

 何という、

 何という体が震える矜持か。

「さあ、来い!」

 屈強な戦士達が斧と盾を構え迫る。

 誰一人も弱兵ではない。一騎当千の強者達。ゴミの最後を彩るにしては、贅沢過ぎるラインナップ。俺もただでは死なない。精一杯の抵抗で受けて立ってやる。

 ああでも、陛下に二万は残さないとな。

「我が神ミスラニカよ!」


 獣が再び鳴く。


 一つ、二つ、三つ、四つ、十、二十、無数、数百の遠吠え。

 悲しさすら感じる狼の遠吠え。

 人が動きを止めたのは、その声だけが原因ではない。

 僕と、ロブスの軍勢の間には、大きく、それこそ白い獣より大きい黒い狼が現れた。

 小山と間違えるようなサイズ。

 頭から尻尾の先まで20メートルはある。

 人の軍勢など軽く平らげてしまうだろう。人間の力がどうこうなる相手ではない。まるで、神話の魔獣のようだ。

 それに併せ、狼の群れ。

 千に近い黒の群れ。その群れの狼もまた大きい。人より遥かに大きい。魔獣の軍勢である。


『穢れた血は我らが喰らう。炎の子達よ、今宵はもう死者が安らかに眠る時。夜を乱すでない』


 底冷えする声に、僕を含め、ロブスの軍勢も、戦いの狂気に当てられた者が醒めた。

 冷めすぎて血が凍る。

 この魔獣を前に、人に生殺与奪の権利はない。

 本物の神の前では、人など皆等しく無為な存在なのだ。


『去るがよい。人よ。去れ。去らぬのなら、我が眷属達が―――――――』


 狼が一斉に牙を剝く。

 金の瞳が人を射抜く。


『貴様らを喰らうぞッッッ!』


 威嚇と咆声。

 空気が震え、魂が凍る。

 屈強な戦士達が、我先に逃げ出す。ロブスの軍勢は散る。そこに戦いの意思はない。

 戦いは終わったのだ。

 僕の背後では、狼達が白い獣の肉に喰らい付いていた。

 黒い魔獣が、僕に近づき、白い獣の首を喰らおうと大口を開ける。

 死を覚悟して、剣で遮った。切っ先が震えていた。

「これは、僕が弔う。僕の、友の師である。友は弔えなかった。…せめて師は弔いたい」

『そう。で、あるか』

 魔獣は踵を返す。

 あの巨体が風もなく跡形もなく姿を消した。

 残るのは、踏み荒らされた雪原と闇。

「う、く」

 どっと汗が吹き出た。

 息が乱れる。

 同時に、笑えてきた。あんなものがいるのか、この世界には。

「小さい。小さいな。所詮人間の力など、この程度である」

「はい」

「しかし、人の技はいつかアレにすら届く。いや、かつては届いていたのだ。それ故に神の怒りに触れ、今のような弱兵となった。武を志す者なら、その高みを取り戻したいものだ」

「………陛下、いつから?」

「ずっとだ」

 するりと陛下が横にいた。気配を殺すのが上手い。やればなんでもできそうな人である。

「こんな乱痴気騒ぎ、山一つ挟んでも気付くぞ」

「侮っていました。申し訳ないです」

「詫びる必要がどこにあるのだ?」

「いえ、何となく」

「何となくで謝罪をするでない」

「はい」

「来い」

 城に帰る陛下の後に続く。重たい獣の首を肩に担ぐ。全身の関節が痛みを訴えたが無視した。

 早足の陛下に、ふらふらの足取りで追う。

 狼は、僕らを一切気にせず食事に集中していた。見る見ると白い獣の残骸が消えて行く。

 雪原を、戦場を一つ振り返り、

 これとして何も感慨が浮かばず、そこを去った。

 今の僕に熱さはない。

 魔獣に喰われたかのように、狂気も幻のように消えた。

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