<第四章:薊が如く>9
【56th day】
日付が変わった。
異世界では、夜が明けてからが翌日という基準だが。僕個人の記録は、現代の間隔と時間で進行している。
黒闇が草原を満たしていた。
風を浴びながら、メガネに表示される情報を追う。
様々な数値が揺れ動く。星の生命活動を見ているようだ。
僕は、奪ったルクスガルの書状に『見ているぞ、臆病者』と書き記し、矢文にしてヴァルナーに送り届けた。
矢文には、合わせて大まかな時間と場所を記した。つまりは果たし状だ。
ノコノコ来るだろうか?
それは杞憂だ。
何の迷いもなく向かっていた。
相手は英雄だ。ちょっと弱みを握った雑魚など、正面から潰す。その実力がある。今までも日常的にそうして来たのだろう。歩みに何の迷いもない。合わせて、こいつは軽い殺人など簡単に揉み消す権力持ちだ。
一つ疑問があるのは、ルクスガルだ。
こいつは、書状以外の行動を何も起こしていない。当初はこいつから倒す予定だったのだが、今も一人でヴァルナーを行かせた。
ただの怠慢か? それとも、及び知らない考えがあるのか。
答えが出ない考えは一旦切る。
ヴァルナー・カルベッゾ。
欲望に忠実で自分に甘くも厳しい。鍛錬を欠かさず、剣の技にもその成果が現れている。親父さんと刃を合わせた瞬間、確かに脅威を感じた。僕一人ではあっさり斬り殺された。
しかし、何だろうか。
こいつの剣にはシュナやアーヴィン、獣と化したサンペリエ、リュテット、それに親父さんが持っているような、誇りがない。自尊がない。この技で全てと戦う、という覚悟が見当たらない。
まるで、他人から借りているような技だ。
リュテットの仲間を暗殺した方法は、これと関係があるのか、否か。
情報不足。
しかし、十全を待って行動はできない。
こいつは、僕の仲間に見えない刃を突き付けている。僕は、こいつの立場を揺るがす証拠を突き付けている。
互いに喉元に刃物の切っ先がある。
それをさっさと終わらせたいのは、僕も敵も同じ。
こいつらが、ネオミアを監視する任を急かされているのは、盗撮した文書から明らかだった。危険な任務の前、後顧の憂いは消し去りたいはず。
予定通り、ヴァルナーが廃棄されたダンジョン付近に立つ。そこは僕らが降り立った場所だ。
隙なく警戒している。
今のこいつは視界に入れば何だろうと斬り殺すだろう。
「イゾラ、頼む」
『了解。ドローンデータ統合、ルートを視覚化します』
展開した六機の高々度観測ドローンから、イゾラがデータを受け取り統合。ルートを視覚化して、僕のメガネに表示する。
矢を番えた。
矢、という表現するには異質過ぎる物だ。
長さ3メートルの機械矢。最早、投げ槍のサイズ。これを八本、僕の周囲に刺してある。一本は今、放つ所。
ラウカンの弓を引き絞り、張力を溜める。
表示されたルートは安定しない。蛇のようにうねっている。
『ルート、鮮鋭化します。カウント、5、4、3、2、1』
矢の行き道が表示された。
そこに、渾身の力を溜めた矢を放つ。
空の闇に機械矢が飲まれ消えた。
「誘導開始」
『了解』
メガネに機械矢のカメラ映像が映る。
高度の風の中を泳ぐ様。二つの月が間近に見えた。
機械矢には仕掛けが施してある。簡単なプロペラとドローンの予備部品で作った誘導装置。それをイゾラが制御して、目的の場所まで導く。
風に乗った空の旅が終わり。
落下が始まる。
カメラにターゲッティングされたヴァルナーが小さく映った。
『トリガーお願いします』
「了解」
銃のトリガーを模した装置に指をかける。人工知能は、直接人に危害は加えられない。補助がその限界である。だから、僕が最後の手段を預かる。
映像がヴァルナーに迫る。
顔の表情までしっかり見れた。
『今』
トリガーを引く。
機械矢が分離して、内部から一回り小さい金属矢を放つ。それは、ヴァルナーの右膝を貫いた。
観測ドローンが悲鳴を拾う。
放った機械矢の方は近くに落下して転がる。
ヴァルナーがでたらめ剣を振るった。幾ら闇を斬っても滑稽なだけだ。
5㎞先からの、弓による超遠距離狙撃。
僕は、こいつと切り結ぶつもりは一切ない。実力など一切出させない。離れた所から延々チクチクと、動きを止めるまで射抜いてやる。
もし卑怯というのなら笑って返してやる。
そうだ、と。
「次」
『了解。ルート鮮鋭化』
無心。矢を放つ。
誘導。
合図。
トリガー。
左膝も貫く。
矢を抜こうとヴァルナーが叫び声を上げる。無駄だ。矢には五重の“返し”が付いている。マキナの丁寧な仕事は肉を刺し、骨に食い込む、抜こうとすれば地獄の苦しみだ。
足を切り落として生やしでもしない限り。もう二度と、自分の足では歩けない。
雑魚と侮り、知恵を甘く見た。その時点でお前は負けていた。
真正面から戦うだけが、人間の戦いではない。
「次」
『ルート鮮鋭化』
次は腕、四肢の自由を奪う。
ヴァルナーにこの術を返す手段はない。
カメラ映像を見つめる。トリガーは指にかけたまま。三度目、矢はヴァルナーに近づき。その表情を映す。
口元が動く。
『アガチオン』
そう聞こえた。
矢のカメラ映像が途絶える。
「なッ」
『迎撃されました』
「観測ドローンの映像を映せッ!」
戦慄が走る。
一瞬で優位が揺らぐ。
ヴァルナーを高度から俯瞰で映した映像は、
『観測ドローン破壊されました』
すぐ打ち切られた。
『接近警報、飛翔体です。速度推定時速720㎞、超高速です』
冗談。
「センサー最大。虫も見逃すな」
『了解。センサー最大』
視界の遠方、極小の火花が見えた。別の観測ドローンが破壊された。
こいつは、何だ?
『捕捉。画像、捉えました』
メガネに映されたのは、剣だった。親父さんが受け止めたヴァルナーの剣だ。
これか、
これが、リュテットの仲間を殺したのか。
飛ぶ剣とか、ファンタジーかよ。
空に火花が浮かぶ。上空のドローンが次々と破壊されて行く。
『ルートの鮮鋭化が不可能になりました。接近、来ます。回避を』
風を裂く鈍い音。
咄嗟に、それこそ無様なカエルのように屈む。
その一瞬で、突き刺した機械矢が全て破壊された。
これで目も、攻撃手段もなくなった。
『飛翔体、ターゲッティングします。迎撃を』
「英雄の力を」
わずかな魔力を燃やし、ルゥミディアの力で矢を放つ。矢は深帝骨。
2メートル間近で剣の軌道を弾く。
深帝骨の矢は、到底拾いに行けない距離に落ちた。
あの質量は通常の矢では弾けない。ルゥミディアの力も燃料切れだ。僕の魔力はカスみたいなもの。それで起こせる奇跡は一矢程度。
そもそも、ルゥミディアの力は、自らの血族を守る時にこそ真価が出る。こんな私闘では力を貸してくれない。
大きく旋回して、剣が迫って来る。
闇の中から、深海のサメのように。
次の手、
次の手が。
ああ、詰みか。
『ソーヤ隊員』
イゾラが僕の腰から勝手に離れた。デタラメにライトを点け派手な効果音を流す。
『ゼノビア様との会話を思い出してください。そこに唯一の手が』
イゾラのミニ・ポットが、剣に半ばを突き刺され砕け散った。
悲壮と絶望に思考が塗りつぶされた。
剣はまた大きく旋回。
もう、僕には防ぐ手段がない。
走馬燈が流れるという状況、
イゾラのアドバイス通り、
ゼノビアとの会話を思い出す。
何故か、それは待ち構えていたかのように、ひどくすんなりと僕の頭に浮かんだ。
「ラ・ヴァルズ・ドゥイン・ガルガンチュア」
それは、獣狩りの王の名。
続いて口にするのは、ケダモノの王。
ラ・グズリ・ドゥイン・オルオスオウル。
「我ら、旧き、血の始原を、永劫に憎まん」
僕が口にした言葉は、バベルにより書き換えられ、そう意味を持って発言された。
トリガーは、偽りの名を並べ続け読む事。
音も色も消えて、感覚が先鋭化し時間が止まる。
それは、本当の獣狩りの王の名前だった。
だが彼の名は、残された子孫達の怨嗟により呪いを持った。
人間世界の英雄として生まれた子供達は、栄えある歴史を教えられ、自らもそうなろうと鍛え戦い、戦い、戦い、そして今際に絶望を知る。
自らの血に最も嫌う愚かしい獣が棲んでいるのだ。旧獣人を滅ぼし、残された獣人を虐げ、それを極当たり前の事として育ち、生きて、繁栄して、終わりに、自分はそれ以下の獣と知る。
呪うだろう。
全ての始まりを。
その願いは魔を生んだ。奇しくも忌血に等しい呪いを。いや、もしかしたら忌血の呪いが名を侵したのかも知れない。
ゼノビアの話は嘘ではなかった。確かに耳を落とすより恐ろしい事が起きた。数百年に及ぶ子々孫々の怨嗟の声が脳に流れ込む。
左の目と耳が潰れた。
触れた者の肉を潰し臓腑を壊す、死の呪い。
だが、
それに釣られ、僕の中のケダモノが目を覚ます。
魔を好物とする獣。濃縮された人の恨みなど、好物中の好物。人の生み出した毒という毒を喰らい消えて行く、凶月の魔物。
時間が流れ始めた。
潰れた目と耳が熱を持って再生する。首元に垂れさがった再生点が煮立っている。
ラウカンの力が満ちる。弓を持って、迫る剣を弾いた。火花と金属音が尾を引く。
風の音がうるさい。全ての感覚が極限まで高まる。
右腕が蠢く。皮膚下に蛇が這うような感触。
旋回して勢いを増した剣が見えた。
顔面に迫るそれを、素手で受け止める。五指にはおぞましい爪が生え揃っていた。刃が皮膚と肉を裂くが、骨に達する前に再生して止めた。
魔剣を弓に番える。
抵抗する動きを湧き出る力で押さえ、弓を引く。痛みが全身を走る。歯をむき出しに噛みしめ耐える。溢れる呪いを吸ったラウカンの弓が形状を変えた。
大きく、大きく、僕の体より長大で太く。しなり、異常な張力を溜める。
見えないはずのヴァルナーを捉えた。呼吸まで聞こえる。
「返すぞ」
剣を放つ。
空気が爆ぜ、音の壁を破壊した。その勢いに体が退く。
ラウカンの弓が折れた。
解けた弦が草原を叩く。
しかし、しかと、剣は持ち主の所へ迫る。僕に迫った時の倍以上の速度で。
感覚の一部が乗り移ったかのように剣の目線になる。
剣はヴァルナーに迫った。獣の如く。別の意思を含んだそれは、英雄の胸を貫き倒す。
「う」
僕は血を吐いた。
一瞬、意識が飛んだ。
呪いの破壊に、再生が追い付かない。今だ容器は煮立っているが、これが長く続くとは限らない。ラウカンの弓は壊れた。もしかしたら、この契約すら壊れるかも知れない。
すぐ、そこだ。走れ。
たった5㎞だ。
「あ」
倒れた。
視界にねっとりとした血の帳が落ちる。地面に爪を立て、這う。少しでも、いや、必ずたどり着く。まだ僕の仕事は終わっていない。これだけでは、まだ何も成し遂げていない。
休むのは全て済んでからだ。
どうせ死んだら、死ぬほど休める。
進め。
死んでも進め。
暗く、淀んだ世界。闇の端、誰かが居た。本能的に女だと気付く。気付いたが気にせず進む。足が動かない。左腕も動かなくなった。まだ、右腕が動く。十分だ。
重く熱い体を片腕で引きずる。
「愚か者」
声がした。
風の音すら聞こえないのに、その声はよく耳に通る。
知らぬ間に彼女は近づいていた。
誰だ?
ラナ?
まさか。
でも、邪魔はしないでくれ。これだけは、愚か者の一分<いちぶん>なのだ。これを通せないなら、僕は豚と同じだ。
「ソーヤ」
「ミス、ラニカ、様?」
ああ、何だ。神様か。
柔らかい障害物に進行を邪魔される。
頭を抱えられる。
死に誘われるような、安心感に包まれる。
「少し遅れたが、悪冠討伐見事であった。そなたへの悪名、恨み、妬み、実に心地よくこの悪行のミスラニカに届いた。汝に、妾の恩寵を与える。その無様な姿、血反吐で藻搔く哀れな様。まごうことなき妾の信徒じゃ」
右腕が動かなくなった。
呼吸もままならなくなる。
ラウカンですら喰らいきれないほど、この呪いは深く底がない。まるで大海の水底のように。ただ、終わりしかない。
「暗火のミスラニカが再び問おう。汝、その剣に栄誉無く、その血に栄え無く、その魂に安らぎ無し。それでも尚、その道を進み。いつか全てを失い、忘れ、忘れられ、何もなく孤独と堕ちる。宗谷、我が愛しき唯一の信徒よ。死すら乗り越え、戦う気概はあるか? 否無きものなら、その名と共に妾に誓え………………誓うのだ」
声が出ない。
体が色々死んでいる。
情けないが、僕はこの程度だ。これで終わりだ。その手しかなかったとはいえ、死の呪いに手を出して終わりとは、馬鹿な事をしたものだ。馬鹿だが。
でも、そうだな。
最後の最後くらい。男らしく。
一言くらい。
その気合いだけで心臓を動かした。
「…………ぎ………………そう、や、が誓う。ミスラニカに、誓うッ」
「妾はそなたを許す。妾だけは全てを許す。故に、その血と骨、怨嗟、呪いの一滴まで妾が受け止めよう」
血反吐で汚れた僕の唇を、女神が吸う。
止まりかけの心臓がゆっくりと脈打ち出す。
弱いが、僕らしい力が戻る。
「さあ、成すべきを成し、得る物を得、奪うものを奪う為、立ち上がれ我が信徒よ。そして、我が名を呼び、我が奇跡、恩寵を糧に力を得るがよい」
拳を握りしめた。
晴れた視界に我が神を見る。
「よかった」
「何がじゃ?」
「めっちゃ美人だった」
泣ける。
長い黒髪の、暗く艶めいた傾国の美女だった。細い肢体に闇にはえる白い肌。和風の吸血鬼のようなイメージ。背中が大きく開いた黒いドレスに、素足だ。
胸は、まあ思ったよりも大きくなかったが、怖気を誘うほどの美形である。大抵の男なら彼女の虜になって全てを差し出すだろう。神性とは真逆の、魔性が彼女の瞳に宿っていた。
薄い唇は、今しがたそれに触れていたのだと想像すると顔が熱くなる。
「不遜な信徒じゃ」
「すみません。駄猫の姿しか見てなかったので」
彼女は、猫の時のように頬を擦り合わせて来る。
血に濡れても神の美しさは変わらない。
「妾を“しとね”として眠るのも良いだろう。しかし、それはまた後じゃ。行け」
「行きます」
神の手を離れ、僕は立ち上がる。
進む。振り返らない。
ミスラニカ様は見守ってくれている。確かめなくてもそれは分かった。
体は、節々が痛むが歩ける。
進める。
今はただ、進む。
右足、左足と交互に動かし。痛みが邪魔で交互に動かせない時は、片足を擦るように。一歩ずつ、少しずつ、だが確かに敵に近づく。
『ソ………………ヤ………………』
雑音混じりの通信が入る。
「イゾラか?」
『………………は、………………送………ます』
通信が切れたが、メールが届く。
メッセージと呪文が一つ、記されていた。
(この世界の情報を統合して、私が組み立てた言葉です。お役立てください。これが、私ができる最後の事でしょう)
最後、という言葉に引っ掛かりを感じた。
イゾラはミニ・ポットを破壊されても、別のポットに人格を移して活動できるはず。
だが今は、疑問を確かめている暇はない。
「イゾラ、使わせてもらう」
この言葉で、どんな力が出るかは分からない。
でもそれが何だ。いつだって出たとこ勝負じゃないか。
片足を引きずり、ゆっくり確実に、這うような速度で、僕は英雄の前にたどり着いた。
「よお」
十年来の悪友に合うような気軽さで、声をかける。
こいつらの呪いに触れたからか、少しだけ親近感が湧いている。
「クソが」
英雄様は、両膝を矢で貫かれ、片肺を自らの剣で貫かれ、それでもまだ、意識はっきりと悪態を吐く。
同じ血がどこかに流れているせいか、ヴァルナーの顔にアーヴィンと似た面影を感じた。
「だが良い。貴様の勝ちだ。この首を取り、聖リリディアスに、エリュシオンに、戦いを挑むが良い。楽には死ねんぞ。まず貴様の仲間、家族、血縁、そいつらから羽虫のように潰されるであろう。貴様は、今際の瞬間まで英雄を手にかけた事を悔い、嘆き、死を願い死ぬのだ」
軽い言葉。
数百年の怨嗟に触れたせいか、むしろ心地良く感じる。
こいつの誤解を解こう。
「僕はお前を殺しはしない」
「なん、だと?」
疑問符を浮かべ、英雄は血を吐いた。
幾らタフでも、もうあまり持たないだろう。
「今宵は、獣を狩りに来た」
長く、
長く、
沈黙が返って来た。
「は………はは」
血の気の失せた死蒼白の顔で英雄は絶望を浮かべる。
英雄は殺さない。
殺すのは、レムリアを襲う恐ろしい獣だ。
「我が神、リリディアスよ」
ヴァルナーが天に手を伸ばす。
「あなたの教義に従い、どんな苦難も乗り越え来ました。誉れある血を守る為と、どんな悪行も飲み込み耐え、赤子すら手にかけたのに………………その英雄の最後がこれですか? これで終わりだと? 認めぬ。認めないぞ! 誰にも知られず、こんな辺境の彼方で。異邦者の雑魚相手に。ヴァルナー・カルベッゾは獣狩りの英雄だ。英雄の最後が、こんな終わり方など誰が認めるかッ!」
激しく咳き込み、吐血する。
情けない事に英雄は涙を流していた。
「神よ、我が神よ。お答えください。何がいけなかったと言うのですか? あなたの教えを守り、国家を栄え、獣を狩り、あるがまま成すように生きました。そこに、どんな罪が。何故………………我らの血に、こんな獣がいるのですか?」
見苦しい。
不愉快極まる。
「我が神よ、お救いください」
馬鹿が。
お前らはリリディアスに今も正に救われているんだ。
神は万能ではない。やれる事に限界がある。死の淵で魂が消え去るまで、必死に獣を抑えている献身を、こいつは何故理解できないのだ?
リリディアスは彼らを治療しようとした。それだけだ、本当にそれだけなのだ。そこに繁栄を望む意識はなかった。最悪、死すら厭わず獣を治療しようとした。しかし、彼女の願いは叶わなかった。
教義は曲げられ、利用され、それでも甲斐甲斐しくリリディアスは獣を抑えた。
治療が叶わないのだ。必死にただ獣を抑えた。
そして、
「………………呪ってやる。まず、お前からだ異邦者。次は貴様の仲間、レムリアの王、民、冒険者、法王、黒エルフ、エリュシオンの愚民、騎士達、ディルバード、世界の全てよ。呪われろ! この身と同じく穢れ朽ち、お前らも最後はッ………………獣になるのだ!」
そこに残るのは呪いだけ。
ただ、助けたかったという純粋な思いが、内臓に毒を抱えた国家を作った。自分達の子孫は今際に腹から毒と獣を吐き出し、様々な者を巻き込み死んで行く。
そんな者を延々と見せられたら、どんな気分になるのだろう? 神の気苦労は僕には計り知れない。
ヴァルナーの意識が途切れる。
壊れた様な笑い顔で最後を向かえた。
しばしの静寂と風の音。
その体に、魔が呼び覚まされる。
呼応して、僕の心臓が早鐘のように脈打つ。再生点が湧き煮立つ。
確信した事がある。僕にはもう、ラウカンの呪いが確<しか>と流れている。逃れようのないものだ。ミスラニカ様ですら解呪できない呪い。呪いを喰らい力と成す呪い。いや、これは呪いなのか? さて、分からない。僕に、神の謀は分からない。
それは、人には些細な事なのだ。
「アーヴィン」
力を貸してくれ。
願い。
彼の剣を抜く。
重い剣だ。通常の筋力では両手で持つ事も辛い。
ヴァルナーの体が弾けて血を撒き散らす。
まず、骨がひしゃげ、肉から突き出て延長する。突き出た骨を補助するように肉が生える。顔面が溶けて、目玉や歯が抜け落ち、新たな器官が作られた。
大きく、デタラメで、そして醜い。
「なあ、アーヴィン。お前の友サンペリエは大した奴だったな。暗いダンジョンで一人、絶望と対峙してそれでも己の魔性を抑え耐えた。称賛に値する。真に立派な騎士だ。見ろよ、これ。こいつの哀れさ。恥も知らぬ情けない獣を」
咆哮すら醜い、豚の断末魔に似た声が月夜に響く。
神との契約を鎖す声は、僕には通用しない。
サンペリエの時も、後で画像を確認したら僕の再生点は空になっていなかった。
ラウカンの力もある。
だが、それよりもミスラニカ様の力だ。
彼女は先ほども、僕の中の死の呪いを吸い上げ無力化した。悪行の神が、人の罪科たる呪いを消し去り、許せるとは、何という皮肉だろうか。
だから獣には、恐ろしさより、哀れという感想が出てしまった。
ヴァルナー・カルベッゾは、恐らく彼らが滅ぼした旧獣人と似て、非なる獣となる。
サイズは全長6メートル。幅は4メートルほどか。腹は肥え太って下半身を包み。腕は短く生前の名残りがある。代わりに獣毛に覆われた足が五本ほど上半身から生えた。
鎧は砕け、魔剣も、矢も、肉の塊に飲まれる。
顔は人の面影を残さず。半分は牛に似て、もう半分は鹿に似ている。
それだけではない。
もしかしたら、こいつが殺した獣人達の姿形を全て合わせて混ぜた姿なのだろうか? 猛禽類の鉤爪に馬の脚、鹿の角に蛇の瞳、六本ばかり尻尾があるが、全部違う生き物の物だ。大きな口も体中の隙間から現れる。全てが鋭くゾッとする歯並び。
翼も生えた。体より大きい翼だ。安心したのは骨組みだけで、到底飛べない事だろう。
一つ特徴的なのは、肩に生えた由来の分からない獣だ。それは、銀貨に描かれた獣にひどく似ている。
ああ、醜く哀れ。
もう憎しみすら湧いてこない。
剣を両手で構える。ナリだけでも彼のように騎士らしく。
イゾラの言葉を奏でる。
「我が神、暗火のミスラニカよ。
我は人の呪いを食み、糧とし力とする者。
汝、唯一の信徒なり。
ラ・ヴァルズ・ドゥイン・ガルガンチュア。我ら、旧き血の始原を永劫に憎まん。
怨嗟の響きと呪いの声を以って、我はケダモノを呼ぶ。
凶月の女神よ、
ラウカンよ、
この身にその力を。我が神よ、魔を清め罪を許したまえ。
我は人の身のまま獣を宿す。
人のまま獣を狩る。
明けぬ夜はなく、覚めぬ夢もなし。災いの忌血とて、いつかは涸れ絶える。されど、今は狩人の夜よ来たれ」
再生点の容器にヒビが走る。沸騰した液体が蒸気を上げて漏れた。僕のむき出しの犬歯は、獣のそれと同じだろう。
魔に呼応する力だけでは足りない。僕の中の獣が本能的にそういっている。それだけでは、こいつは倒しきれない。
ラウカンの力は、呪いという暗いエネルギーを力に変える。
呪いさえあれば無尽蔵に力を振るえる。
しかし、吸収できる量を超えれば、その食いこぼしが僕の身を壊す。さっきと同じように。
だから、ミスラニカ様の恩寵でこぼれた呪いを消し去ってもらい。更に、ラウカンの吸収量も祈りと言葉で底上げする。
これが、
「イゾラ・ロメア・ワイルドハント」
人工知能の生み出した魔法。
人を愛した彼女の知恵。
ラナの魔法、ブライクニルがそうだったように、異世界の力は手順や段階を増やすと効果が格段と上がる事がある。
痛みは無い。
研ぎ澄まされた感覚がどこまでも広がる。剣の一振りが風を巻き起こし、英雄すら楽に屠る力を、僕はひと時に得た。
さあ、アーヴィン。
これを倒そう。
これは君の名声だ。
アーヴィン・フォズ・ガシム、最後の戦いだ。
だって君はいっただろ? 僕らにできない事なんてない。
僕は応えられなかった。
だから今、この剣で応える。
そうだ。
僕らに不可能なんてない。
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