それでは夢で逢いましょう

まっちゃ大福

それでは夢で逢いましょう 

 暗い廊下に等間隔で響く靴音は、裁決へのタイムリミットである。

男はこけた頬に生えた髭をなぞるように触ると、一つ息を吐いた。

窓が無い地下空間では、時間の感覚が麻痺していく。

窓の代わりに男を囲むように左右に付いた鉄格子が、この場所の名前を教える。

中に収容された人物は、皆それぞれ落ち着かない眠りを味わっていた。

呻き声、笑い声、叫び声、それらが籠る叫喚地獄きょうかんじごく闊歩かっぽする。

スポットライトを浴びるように、男の歩く道の上部にのみ蛍光灯が点けられている。

牢獄の中は薄暗くて視認し辛いものの、大小様々な機械が葬列を為している。

ここに来るのは初めてではないものの、男は一気に居心地が悪くなる。

この仕事を始めてからというもの、体重は十キロも減り、情緒も不安定になった。

外を歩くだけ、食事をするだけで意味も無く涙が溢れる。

何故泣いているのか、何故悲しいのかも分からぬままに落涙し、くずおれる。

理由がわからないのだからその涙を止める術が分かるわけもなく、息も絶え絶えになる。

そんな経験を外出時に数回経験し、衆目に晒される羞恥を味わったため、家を出ることもまばらになってしまい、それが更にストレスを醸成することとなってしまった。

しかし行わなければ生活を行うことも出来ないというジレンマが、更に男を追い詰める。

男は廊下の果てまで歩き終えると、右側の鉄格子の横に据えられた電子画面スクリーンに触れる。

牢獄の設計自体は前時代的だが、こういったところは最先端の科学技術が応用されている。

水色を基調としたデスクトップにあるアイコンは一つだけ。

【開錠認証】と下部に書かれたアイコンを枝のような指でタップする。

執行者番号とIDを入力するページが現れ、画面内に現れたキーボードで入力する。

七桁の番号は空で覚えているが、指が躊躇と緊張で震える。

雨風に晒された老樹の木の枝のように、か細く痙攣けいれんする。

入力を終えると、次に現れたのは指紋認証の項目である。

男は右の手の平を機器の画面に重ね、十秒待つ。

指紋認証というよりか掌底認証と言った方が言葉の意味としては正しい。

画面は電気によって仄暖ほのあたたかく、その暖かさが更に気分を不快にさせる。

指紋認証を終えると、最後に現れた開錠認証は、虹彩認証である。

科学に疎い男には仕組みは分からないものの、要は眼球を用いた生体認証である。

男は機器の位置に目元を合わせるため少し屈み、機器内を睨むように見つめる。

薄い赤外線が網膜内に注がれるものの、痛みや飛蚊症ひぶんしょうのようなことにはならない。

【You are approved】

画面に赤い太字で大きく点滅表示される。

つまりは正しい執行者として認められたという意味合いの語句である。

その文字が現れるのと同時に、鉄格子が舞台の幕のように上に上がる。

鉄が擦れるような音に、周囲の囚人達は起きる様子も無く夢を見ている。

男は幕が上がったことを確認すると、獄中に一歩、足を踏み入れた。

舞う埃が臭いを伴って、男の鼻腔に忍び込む。

本当に、いやな日だ。



 男はまるで水中から這い出たかのように、息も絶え絶えに目を覚ました。

緊迫と狂気を含んだ顔の相とはミスマッチな、小鳥のさえずりが外から聞こえる。

オレンジ色の掛布団が、目に色彩的な暖かみをもたらす。

フルマラソンを走り終えたような疲労感と動悸がする。

背後に置かれた愉快な顔が描かれた目覚まし時計は、朝の七時を示している。

朝が弱い自分のために、母が就職祝いで送ってくれた品の一つだ。

本来は七時十五分に鳴り出すようにセットしてあるため、今日は静かに微笑んでいる。

凄く、心地の悪い夢を見た気がする。

しかし内容は霧がかかったように思い出せず、不快感だけが周囲を散開していた。

何にしても仕事に行く準備をしなければいけない。

男はとりあえず気分をリセットするために、洗面所へと向かった。

鏡で見た自分の寝起きの顔は、まるで世界の終わりを告げられたかのようだった。

月並みな表現をすると、顔面蒼白である。

生え始めた髭を安い使い切りの髭剃りで簡単に剃ると、目を覚ますために冷水を顔に浴びる。

少しずつ季節は夏に向かい始めているものの、それでも冷たいものは冷たい。

広瀬修平ひろせしゅうへいは引き締めるように頬を両手で三回ほど叩くと、歯を磨いて寝室へ戻った。

 寝室と言っても、修平が借りている部屋はワンルームであるため、この部屋が寝室であり、リビングでもある。

最低限の服が入った小さなクローゼットを開いて、スーツを着込む。

二か月ほど前まで首元を締め付けるようで慣れなかったネクタイにも慣れたものだ。

部屋の隅に立て掛けるようにして置かれた黒い縁取ふちどりの姿見で自分の様相を確認する。

これは確か、社会人は身嗜みだしなみに気を付けろと父が買ったものだったか。

人生の半分以上をサラリーマンに捧げてきた父らしいプレゼントだと思う。

ネクタイが曲がっているかを確認するためには少し大き過ぎると思うのだが、それでもあの我が家では寡黙で有名な父から贈られた代物なのだから、使わなければばちが当たるというものだ。

「財布に携帯に、メモに書類にファイルに……」

鞄の中身をまさぐりながら、忘れ物の確認をする。

いつもはわざわざしないのだが、少し早めに起きたので時間稼ぎのためにも行う。

修平は一連の確認作業を終えると、起きたままになっていたベッドを戻して家を出た。

最初は靴擦れが酷かった革靴も、最近は身体にフィットしつつある。

一つしかないエレベーターが四階に上がってくるのを待つ。

その間、不意に先程見た夢のことを思い返していた。

やはり内容は思い出せないものの、なんとなく臭いだけは思い浮かぶ。

湿気を帯びた、澱んだ空気……。

自分が小人になってパソコン内部に入り込んだような、周囲で回る機械音。

陽光がエレベーターホールに差し込み、顔を直撃するものの、夢のことで頭がいっぱいな修平にはそれを気に掛ける余裕などなかった。

「邪魔なんだよ」

唐突に響いた野太い声に、修平は一気に現実世界へと立ち戻る。

目の前に視線を合わせるとエレベーターは四階へと辿り着き、中に入っていた男が修平を睨み付けるようにして悪態をいていた。

「あ、すいません」

意図こそしていなかったものの、エレベーターの出口を塞いでいた修平は反射的に男に謝罪をし、身を左にずらして道を譲る。

男はふん、と鼻を鳴らすと勝手気儘かってきままに伸びた黒い髪を掻きながら歩いていく。

灰色のスウェットを着込み、眼鏡をかけた男は裸の王様のように闊歩する。

自分が塞いでいたせいとはいえ、男の不遜ふそんな態度に修平は少し口元を歪める。

男は修平の隣人で、言葉を交わしたことは無いものの顔は見知っていた。

引っ越して来た際に挨拶に行った時も酷く不愛想に返されたことを思い出す。

その思い出したくも無い思い出を思い出して、一層修平は顔を歪ませた。

振り落とす様に首を振り、待ちかねているエレベーターに乗り込む。

ごうん、という何かが詰まったような音を立てながら下へ向かう。

その揺籃ゆりかごにも似た朧気おぼろげな振動で、少しずつ気分を変えていく。

変えて行こう、と何とか自分に言い聞かせた。

少しだけ孤独を感じて、目覚まし時計や姿見を送ってくれた両親の元へ帰りたくなった。



 都会にそびえ立つビル群を見て、映画やドラマの中のようだと驚いたのはいつだったか。

決して遠い記憶では無いはずだが、数年前の思い出のようにその時の自分を遠くに感じる。

今はまるで空を覆い隠すために存在する天蓋のようだ、としか思えない。

空や星は見えず、道はコンビニの俗な光で染め上げられ、常に喧騒が隣にいる。

どこを見渡しても山やら畑やらが広がっていた修平の故郷とは何もかも違う。

最初こそまるで新しいおもちゃを与えられた子供のようにその違いに驚き、喜んでいた純な自分がいたものの、数か月が経ると喜びより疲れの方が勝ってきた。

恐らく、今故郷に帰れば同じことを思うのだろう。

実際故郷の田舎臭さが嫌で上京してきたのだから、結局はないものねだりなのだ。

少し人間の真理に触れてしまったような気がして、酷く自分が汚れたように感じた。

日本国民全員でおしくらまんじゅうをするような満員電車をくぐり抜け、会社の最寄り駅に至る頃には頭に張り付いていた夢のことも傲岸不遜ごうがんふそんな隣人のこともすっかり忘れていた。

既に修平の脳内は、オフィスのあるビルへと邁進することに侵されている。

したことはないが、まだまだ新入社員である修平にとって遅刻は死刑宣告である。

ただでさえ他の先達と比べれば遅れているのだから、せめて守れるものは守らなくては。

そんな焦燥が、この頃の修平の悩みの種である。

慣れない仕事、慣れない都会、慣れない一人の生活。

現代病とも呼べるそんな凡庸ふつうの心苦しさが、凡庸の自分という人間をむしばんでいる。

「朝から景気悪い顔してんぞー」

オフィスのある三階に向かうエレベーターを待っていると、後ろから紅葉を付けるように大仰に背中を叩かれる。

「痛い」

修平が後ろを振り返ると、そこには同僚の風間がにやにやしながらこちらを見据えていた。

元々修平が小柄なこともあるが、学生時代にアメフトをしていた風間は数段大きく見える。

「そんな顔してると、また部長にどやされるぞ」

その発言で、先日営業でミスをして部長に怒声を浴びせられたことを思い出して更に顔は大不況に陥る。

「なんか嫌なことでもあったか?」

「いや……」

お前の発言のせいだ、とは言えずに口籠くちごもる。

「なんでもないよ」

「彼女にフラれた、とか?」

「そもそも彼女いないし」

「今度合コンセッティングしてやろっか?」

「……あぁ」

相変わらず的外れで空気も読めないが、なんだか憎めないのがこの男の長所だと感じる。

風間が太陽なら、自分は月のようなものだろうか。

自分から光を発して周りを明るくする風間と、自分では光ることのできない自分。

なんだかそんな想像をすると、輪をかけて自分が卑屈に思えた。

風間は自分と同い年の同僚で、社内では唯一敬語を抜きで話せる人物である。

明朗快活、その上仕事の要領が良いということもあって上司からも気に入られている。

自分の仕事で手一杯な修平にとって、風間はある意味憧憬あこがれの念を抱くような存在でもある。

そんな理想の塊のような男に励まされても、嬉しくはあるが少し自己憐憫にもなるものだ。

「ま、あんまり気にし過ぎるなよ。お前結構気にしがちだからさ」

「ん、ありがとう」

でも、そんな風間の陽に中てられて元気が少し体に戻ってくる。

感謝の気持ちを伝えるために、軽めに風間の広い背中を叩き返してやった。

「痛ぇよー」

そうやって口角を上げる風間を見て、修平は吊られてニヤニヤした。




 今日の仕事のパフォーマンスは、自分でも思いの外上手くいったと思う。

部長にも少しはマシになったと言われてコーヒーを奢ってもらった。

なんだかそれが嬉しくて、結局プルトップを開けないまま今も鞄の中に潜んでいる。

夕方の電車は相も変わらず混み合っているものの、朝の時ほど不愉快では無い。

今日は少し高めのご飯でも買って帰ろうか。

思わず鼻歌を歌いたくなってしまう自分の情緒の乱高下に少し当惑する。

案外簡単な事で、人間は嬉しくなるものだ。

これは新しい発見かもしれない。

小さな最寄りの駅に着くと、地に足が付かないような足取りで家路へ着く。

コンビニに寄ろうとしたその瞬間、スラックスのポケットで携帯が震えた。

「はい、もしもし……」

着信相手の名前を確認せずに受けたため、おずおずと口を開く。

「私よ、私」

新手の詐欺かと一瞬思ったが、すぐに違うと頭が反応した。

「あぁ……。母さん」

一気に肩に張った力が抜ける。

「何よ、その残念そうな感じは」

「いや……仕事の人かと思って少し緊張したから、力が」

「そう。で、その仕事は上手くいってる?」

母の電話は、いつも良いタイミングでやって来る。

「今日、部長に褒められちゃったよ。だから今日は何か良いもの食べようかなって……」

本当は褒められたわけではないものの、好意的にそう受け取っておこう。

「ちゃんと食べてる?」

「そりゃあもう。ほら、この前いっぱいお米送ってくれたし……」

そういえば以前送ってきてくれた生米がまだ残っている。

ご飯のおかずだけを買うのも良いかもしれない。

「そう、なら良いわ……」

「父さんは?」

「相変わらずよ。今は近所の人と釣りに行っていていないけれど」

父の唯一の趣味はフィッシングだったことを、その一言で思い出す。

今度帰郷した時に、教えてもらうのも良いかもしれない。

澄み渡る川水に遮るものの無い陽光が降り注いでテラテラと光る。

そんな郷里ふるさとの情景が頭の中にフラッシュバックする。

「ホームシック気味なのかしら?」

「え」

「まぁ、長い休みが出来たらいつでも帰ってきなさいな。あの人も、何も言わないけれど……結構、心配しているみたいだから」

本当は詮索したかったのかもしれないが、敢えて訊こうとはしない。

そんな簡単な心遣いに、少し胸が軽くなる。

「あぁ……うん」

「それじゃあ、今日はここらへんで切るわね。また電話かけるわ」

「うん」

そう言うと、母は唐突に電話を切ってしまった。

突然やって来た台風は、修平の心の中の澱みを吹き飛ばしていった。


結局今日のところはご飯のおかずだけを買って行くことにした。

節制と贅沢の程よい妥協点を見つけることが、独り暮らしには肝要だ。

今日は部長や風間に褒められ、果てには母にも励まされた。

頼りないからかもしれないが、今日くらいはポジティブに受け取っても罰は当たるまい。

夢のことといい、厄日だと思っていたが思わぬ幸運を引き寄せたようだ。

少しスキップをしたい心持ちではあるが、流石に人の目を気にしてそれは出来ない。

そろそろマンションに着く。

明日は風間にも少し、優しくしてやろうかな。

そんなことを考えていた矢先、不穏が深層で鎌首をもたげはじめた。

 男が、入り口の横に立っていた。

隣の部屋に住んでいる、エレベーターの男。

朝に家を出た時と変わらずに上下の灰色のスウェットを着込んで、立っている。

まるでマンションの守衛を行っているかのように、目を光らせて。

マンションの入り口は一つしかないため、あの場所を通るしかない。

意を決して息を肺に多く入れると、月面に踏み出すように入口へ向かう。

男は何も言わなかった。

男は、ただ修平を見つめていた。

濁ったその瞳を向けて。





 一月が経ち、更に季節は夏へと向かう。

学生時代は長期休暇が近付いて心がウキウキとしたものだが、今はただ暑いだけだ。

「暑いね……まぁ、もう初夏だものね」

修平の横で炭酸水を煽る女性は、渇いた笑いを二、三あげた。

「もうそろそろ夏休みだね」

「修平くんのところは、夏休みあるの?」

「どうだろう……でもまぁ、お盆くらいは帰りたいかな」

なんだかんだ言って、もう半年ほど故郷の空を見ていない。

たまには濁った都会の空気では無く、澄んだ空気を肺に含みたいものだ。

「綾香さんの実家は……どんなところ?」

四条綾香しじょうあやかはペットボトルを口から離して、逡巡しゅんじゅんした。

「私はね、父も母も東京の生まれで。だから実家はあるんだけど帰郷って感じじゃあないね。故郷とか郷愁って言葉が似合うのは……こう、田舎の畦道あぜみちみたいなさ」

そう言ったあと、は、と目を見開いて少しうつむく綾香。

「ごめん、田舎とか言って……別に他意はないんだけれど」

「全然構わないよ、実際田舎だしね」

この一月で修平の周辺で大きく変わったことは、恐らくこの隣にいる女性だろう。

風間に無理矢理連れていかれた合コンの席で向かい合わせになった同い年の女性。

互いに初めてのコンパでどうしようもなく緊張していたところが、逆に惹かれた。

付き合う、という具体的な言葉は出していないものの、既に何度かこうして二人きりで他愛も無い会話を繰り広げるだけの時間を送っている。

世間一般ではデートというのかもしれないが、修平にその実感はない。

しかし一緒にいて決して嫌では無いし、むしろ一人よりリラックス出来る。

彼女に好かれる自分になりたいと思って、少し内面も明るく整備された。

彼女に出会ってからというもの、何かと良い方向へと向上しつつある。

月並みに言えば、幸せだ。

「今日、夕飯どうする?」

首をかしげてこちらを覗き込むと、露出したデコルテが光を照り返す。

「ん、うちで食べる?」

既に何度かあのワンルームマンションに綾香をあげているため、おかしな提案では無い。

無論、下心が無いかと問われれば純粋に否定することは不可能だ。

「良いねぇ、レストランとかだとお金かかっちゃうからね」

修平が綾香のことを気に入っている理由は、この飾らないところだった。

高いバッグや服にも特に興味はなく、ただ一緒に居ることを重視している。

今時都会では絶滅危惧種に指定されそうなそんな価値観が、修平の心を癒している。

「何がいいかな」

「ハンバーグとかどう?そこのスーパーで挽き肉買って、焼こうよ」

「じゃあ、そうしようか…」

気温が高いと人間の動きは緩慢ゆっくりになるようで、立ち上がるのに不要な時間を用いた。

「和風ハンバーグが良いな、大根おろしてポン酢かけて…」

「消化にも良いしね」

そうそう、と手を叩いて笑う綾香の笑顔が、頭上にそびえる太陽より眩しく映る。


 都会にはこれといった大樹が無いというのに、どこでも蝉時雨が降っている。

それがどこか不思議で、電柱の影に見えない蝉の姿を探している。

いつもはたいしたことない駅からの道も、陽炎かげろうで揺らいで遠くに思える。

夏の魔術が世界の距離を歪めて、逆向きのエスカレーターのように遠ざかる足元。

「ねぇねぇ、修平くん、あれ……」

小さな顔を修平の耳元に寄せると、内緒話をするようにこそこそと声を紡ぐ。

「あぁ……。あんま目を合わせないで」

出来るだけ表情を変えないようにして、綾香に告げる。

今日もこんな暑いというのに、入り口の前に守衛が待ち構えている。

もちろん正式な警備員では無く、そう修平が比喩しているだけの存在だ。

男は警備員が着るような制服とは対照的な、部屋着のようなラフな格好で前を見据える。

何を待っているのか、何を訴えているのかは謎極まりないが、何にせよ不気味は不気味だ。

やけに修平との遭遇率が高いことも、不気味の度合いをより高めている。

エレベーターの中に身を隠す様に二人で入ると、綾香が恐る恐る口を開いた。

「……いても、良い?」

「あのおっさんのこと?」

「うん……。なんか、前に私が来た時もああして居たよね?」

そういえばそうだったかもしれない。

最早遭遇率が高すぎて忘れてしまっていた。

毎度毎度、ご苦労なことにああして頼まれてもいない見張りを買って出ているのだ。

「確か、修平くんの隣の部屋の人だって、前に言ってたけど……」

「どうかした?」

「いや……でも、なんか気味が悪いと思って。なんだか……修平くんのこと、見てたし」

見ていたのは自分ではなく、綾香のことではないだろうか。

なんだかそう思うと、一気に腹の中に嫌悪感が増長した。

「まぁ、でも特に危害を加えられたわけでもないから、なんとも出来ないしね……」

「名前、知ってるの?」

「確か桂木かつらぎ…とか言ったような。もちろん話したことはないけど」

そんな話をしていると、エレベーターはごうん、と音を立てて四階へ至った。

「最初は気になってたけど、最近は気にしたら負けだって思えてきたよ。だからあんまり気にしないことにした。あれ以外は駅からのアクセスもあるし、良い物件だからね」

でも、少しだけ気がかりではある。

修平だけが嫌な思いをするならともかく、綾香にまで何かが起こっては困る。

起こる前に、いっそどこかへ越してしまうべきだろうか。

しかしまだまだ新米社員である修平にとって引っ越しは躊躇に値するイベントだ。

貯金もあまり無いため、出来ることならばもう少し貯まってからにしたい。

「まぁ、もし嫌なら今度からは綾香さんのところでご飯食べようか」

「ううん、なんかちょっと気になっちゃってね。修平くんが構わないなら別に良いの」

修平と綾香は、少し背後を気にして部屋に入ると内側から鍵とチェーンを掛けた。



 テレビから流れる下らないバラエティ番組からは、出演者の下品な笑いが響く。

それに便乗するようにして笑う綾香の姿を認めて、修平も釣られて笑う。

「ハンバーグ、美味しかったね」

結局ほぼ綾香の手に任せきりとなってしまったハンバーグは、現在二人の胃の中で消火作業にかけられている。

二人の目の前の皿に残る肉汁の浮いたポン酢の水溜りがそれを物語っている。

人が手作りするハンバーグを食べたのはもしかすると今年初めてかもしれない。

一人で自炊をするときは野菜炒めなどすぐに作れる一品に終始してしまうのが常なのだ。

「ねぇ、修平くん」

テレビの方に顔を向けながら、綾香が口籠るように呟く。

「なに?」

暫しの沈黙。

テレビの音があるため完全な沈黙では無いが、二人の間では静寂が守られている。

「……いや、今度言う」

「なんだよ」

「今度言うったら今度言う。約束」

「どんな約束だよ」

綾香が人差し指を立てて、指切りのジェスチャーをする。

「まぁ、いいや。綾香さんが言いたくなった時に、言えば」

満腹も相まって、どこかいつもより投げやりな思考が頭に浮かぶ。

ベッド脇にある目覚まし時計の針は、午後十時を指している。

相変わらず愉快と不気味が渾然一体こんぜんいったいとなったような形相をしている時計だ。

母親の趣味が悪いことはもはや言わずとも明白である。

「今日はそろそろおいとまするね。明日も仕事あるし」

「あ、そうだね。じゃあ駅まで送るよ」

少し泊まりの展開を期待していた修平は、己の下心を抑えて紳士に努める。

綾香はありがとう、と言いながら小さな肩掛けのバッグを袈裟掛けさがけする。

「また一緒に夕飯食べよう」

その後の展開に期待する自意識を抑えながら、修平は真摯に紳士を心掛ける。

「そうね」

修平は先程かけた鍵とチェーンを開錠すると、少し重い扉を開いた。

冷房で冷やされた室内に熱風が入り込んで、少し変な心地がする。

駅まで送るだけなので、財布や携帯は部屋に置いておくことにした。

「あ……」

先に出た綾香がまるで幽霊でも見たかのように気まずそうにエレベーターの方を見る。

「どうかした?」

まだ靴置き場にいた修平は何を見ているのかが分からず、単純に問いただす。

「いや…」

なんだか言い澱む綾香。

言葉にできない、というより言葉に敢えてしない、といった方が適切な表情。

綾香の瞳孔が少しだけ、揺蕩たゆたっている。

修平は後を追うようにして立ち止まる綾香の後ろに立ってエレベーターホールを見る。

男がいた。

あの男が、いた。

修平の隣の部屋に住んでいるため、決して不自然ではないが、どうにも不自然に映った。

こちらへ向かってくる男。

ズボンの上に乗っただらしない腹が踏み出すのと同時に揺れる。

まるで巨人がこちらに迫ってくるのを見ている民衆のように固まる綾香。

肩を叩いて先に進むように促すと、こちらを振り返って小さく頷く。

男の住む部屋は修平の部屋より奥にあるため、男は修平たちと必ずすれ違う。

決しておかしなことではない、と言い聞かせて。

「ほら、行こう」

と言ったその時、男が綾香の前に立って止まる。

瞬間、男は綾香の両肩をその太い腕で掴むと横に押し退ける。

突然のことに順応できずに、廊下に尻餅しりもちを付く綾香。

「ちょ、何するん……」

そう男の行動をとがめようとした瞬間、男は同じように修平を後ろへと押しやった。

無様にも部屋に押し戻され、靴置き場で綾香と同じように尻餅を付くこととなる。

頭が付いていかないものの、とにかく自分に危険が迫っていることだけは理解できた。

男は修平を追うようにして部屋の中に入ると、鍵をかけて外部からの侵入を拒む。

つまり、現在部屋の中で男と修平は意図的に閉じ込められたということになる。

綾香は廊下にいるため、遅刻をした小学生のように外で蚊帳かやの外となっている。

「痛ぇ……。なに、すんだよ」

本来であれば、目の前にいる男を押しのけて鍵を開け、扉から逃げるべきだが正常な思考が回らない修平は思わず距離を取ろうと部屋の奥へと逃げ込む。

警察を呼ばなければいけない、と思って男に背を向けて机の上に置かれた携帯へ手を伸ばすと男が後ろから覆いかぶさってきて、うつ伏せの状態のまま男の体重を正面から受ける。

内臓が潰されるような心地がして、上手く息が出来なくなる。

蛙が踏まれた時のような、臓器から空気が排出される息音。

気付けば携帯は修平の手から剥がされ、男によって遠くへ投げられてしまった。

「なん、だよ……ぉ、くそ……っ」

途端、上に堆積していた男が離れ、隙をついて修平が仰向けになる。

床しか見えなかった視界が、仰向けになったことで男の姿をとらえる。

先程見た時と同じ、ダボダボのスウェット。

そんな体型を隠すような服装でも、男が大柄で太っていることは見て取れる。

伸び放題の今にも雲脂ふけが落ちてきそうな髪と、手入れされていない無精髭。

男は少しずつ修平ににじり寄る。

逃げ場はない。

大柄な男を押しのけて扉まで行くことは体格の差により難しい。

背後にある窓から飛び降りるという方法もあるがここは四階。

九死に一生を得るか、それともそのままお陀仏だぶつだろう。

心拍が高まって、血液が大量に身体を循環する。

怖い。

あらゆる恐怖は未知から生まれるという。

実際、目の前にいる男の思想を図り知ることは出来なかった。

知らないことが、怖い。

なぜ、こうなったのだろうか。

自分は殺されるのだろうか。

「や……め、やめ……」

声帯が震えて、上手く言葉は出ない。

男はまるで酩酊めいていしているかのように、目をとろんとさせてこちらを見る。

まるで魔物だ。

腰が引けて上手く立ち上がることも出来ない。

情けない自分の姿が壁に立て掛けられた姿見に映る。

信じがたいほどに非現実で非日常な光景。

男は修平の上に馬乗りになるようにしてしゃがみ込むと、徐に大きな拳を上げた。

骨が欠けるような、擦れるような音が痛みと共に顔面に現れる。

殴られている。

酷く一方的に、何度も頬を、男の拳で殴られている。

目から、鼻から、口から、無造作に液体が飛んでいく。

それは唾液であり、体液であり、血液であり、涙である。

今まで味わったことのないような痛みが、何度も何度も、何度も訪れる。

声を上げることも出来ない痛覚の奔流に、ただただ血を流している。

先程まで綾香と他愛も無いことを話していた場所が、飛び散る血で汚れる。

まだまだ真新しい白色の壁に、飛沫が飛ぶ。

「がっ、ああっ、ぶぇ、げぇっ」

人間ではなく、動物にも似た、間接音のような無様な声。

それは声というより音に近い。

何本も歯が床に飛び散り、殴られた衝撃で口の内膜や舌に歯が当たって血がこぼれる。

未だに生きていることが不思議に思えるくらい、痛い。

既に焦点の合わない視線を部屋のどこかに飛ばす。

携帯を探したり、叫び声を上げたりする余裕はどこにもない。

そもそも、そんなことを考える余裕すらない。

ただただ痛い。

ただただ怖い。

死んでしまうのだろうか。

いや、そもそも自分は生きているのだろうか?

男は一心不乱に、サンドバッグでスパークリングをするように何度も殴る。

顔を、首を、胸を、全てを破壊するために何度も殴る。

身体から力が抜けて、不意に膀胱から尿が漏れる。

そんなことを恥ずかしいと、そう思う思考すら痛みに支配される。

男はひとしきり殴り終えると、今度はポケットからバタフライナイフを取り出した。

口や鼻からは血液が漏れているものの、胸や首は内出血で青くあざが出来ている。

「お前が、悪いんだ」

男が初めて声を出した。

その意味を考察する余裕はない。

ナイフが光に照らされて鈍く光る。

その光を目にした瞬間、今まで痛覚で支配されていた脳が回転し始める。

今度こそ、殺されてしまう。

なんとかして逃げ出さなければ。

しかし、尿で濡れた足元を必死に動かしても男との体格差は埋まらない。

びちゃびちゃと濡れた音が下半身から鳴り渡る。

ただ、殺されるのを待つ憐れな豚のように、ナイフが皮膚を突き刺すのを待っている。

「んあぁあああぁああぁあぁあぁ――――」

歯が何本も折れた口で、まともな発音が望める訳もなく、ただ幼子のように喚くのみ。

その祈りも虚しく、ナイフが胸元を貫く。

「ぎゃえええぁああぁあっ!!!!!」

男は深くナイフを差し込むと、すぐさま抜いて、また同じ穴の開いた箇所に刺して、という挿入行為を何度も繰り返す。

刺されるたびに飴色の噴水が男の服や顔を汚し、修平の開いたままの口にも流れ込む。

廃工場のような鉄錆てつさびの香りが一気に部屋を支配する。

男はその飛沫に怯む様子も無く、何度も修平の肢体をナイフで傷付け弄ぶ。

その度に修平は動物的な情けない叫び声をあげ、飛散した自分の体液を眺める。

先程食べた消化不良のハンバーグが、胃の中から飛び出してしまいそうで、怖い。

不意に、顔を横に向けると、姿見が自分の惨状を無感情に映していた。

隣人の男に馬乗りにされ、何度も何度も何度も身体を刺されて血や尿を垂れ流す自分。

父が、身嗜みに気を付けるようにと、唯一送ってくれた姿見。

その姿見の鏡面にほとばしる鮮血が飛び散り、それでもなお無慈悲に現実を映す。

暖色のオレンジ色をした掛布団も、今やそれ以上に濃い赤色が染み込んでいる。

点けっぱなしの冷房のせいか、酷く寒い。

痛みと共に流れる血液が、体温を奪って空に放散される。

「げ……ぐぇぁ……」

最初は強かった叫びも、少しずつ力を無くして、命をり減らす。

「きゃぁあ……あぇ……ぅ」

もう、死にたい。

死にたい。

死にたい。

痛い。

どうして、自分がこんな目に遭わなければいけない。

自分がなにをしたっていうんだ。

ただ、懸命に生きていただけじゃないか。

ただ、まっとうに生きていただけじゃないか。

自分を思う父と母の顔が浮かぶ。

痛い。

助けてほしい。

男は血で滑った手で、再び僕を殴りつける。

ナイフを握りながら殴るため、殴られた瞬間に刃先が深く頬を貫く。

再び漏れる血。

人間の中にはこれほどに血が流れているのかと思うかのような、飴色の渦。

姿見に映る自分の顔は、人間の顔というより踏みつぶされた柘榴ざくろの身のように見える。

そもそも、まるで自分の部屋じゃないかのようにすら思える。

もうここは、あのワンルームマンションではなく、殺害現場だ。

先程まで綾香と過ごした幸福感が、走馬燈となって空で歪む。

男は立ち上がると、今度は臓物なかみが詰まった肉の袋を何度もその大きな足で踏みつけた。

何度も、何度も、何度も、何度も。

胃が、肺が、腸が、心臓が、潰されていく。

潰れた瞬間に、口からは吐瀉を、尻からは排泄をするかのような感覚を覚える。

既に自分の身体は、人間の身体というより、廃棄物ごみに近くなっている。

よく、見えない。

姿見すら、血の飛沫にまみれてよく視認できない。

自分は、どこにいる?

どこにいる。

早く、殺してくれ。

殺して、殺して殺して。

殺して、殺して殺して殺して殺し―――――――。


「あああぁあああああっ!!!!!」

男が目を覚ましたのは、酷く埃臭い場所だった。

頭の処理が追い付かなくて、挙動不審のように辺りを見渡す。

男は堅いベッドの上に横たわっていた。

暗くて良く見えないが、男の背後には巨大な箱のような機械が鎮座している。

その機械のモニターのブルーライトが自分の周囲を照らしている。

よく見ると、男の傍らには痩せこけた男が足を組んでいる。

「あ……あ……」

何かを言おうと上半身を起こそうとすると、自分の四肢からだを縛る鉄の鎖がそれを阻む。

先程見た夢のショックが大きすぎて言葉が出ない。

そもそも、あれは夢なのか?

そんな原初の疑問が脳内で提起される。

「おはよう」

痩せた男は、靴音を鳴らして横たえる自分の真横に立つ。

「良い夢を見れたかな?」

「あ、あぁ……」

「質問を変えよう。お前の名前は?」

「ひ、広瀬……広瀬、修平……」

震える唇から、なんとか拙い声を絞り出す。

「………………………」

痩せた男は何も言わない。

まるで飢えた猟犬のような、鋭さと冷たさをあわせ持つ男だ。

「そうか、じゃあ、これを見ると良い」

暫くの静寂の後、男はどこから出したのか分からない手鏡を自分に向ける。

「あ、あぁ……あ、あ?」

口に拳を突っ込まれたように、ただただあんぐりと口を開けることしかできない。

意味が不明だ。

鏡に映る自分の姿を見て、ただただ顔から血の色が抜けた。

「お前は、広瀬修平じゃあない」

痩せた男が舞台俳優のような口調で、ゆったりと口上を述べる。

「広瀬修平は、君が殺した」

男が、その慧眼を目下に横たえる自分に向ける。

恐ろしく温度の無い瞳がこちらを見下ろしている。

「お前は桂木幸一かつらぎこういち。広瀬修平を殺した犯人だ」

「は、こ、これ、俺……俺?」

手鏡の鏡面に映る男の顔は、先程の夢で自分を殺したスウェットの男だった。

これが、自分の姿?

ならば、先程の夢はなんだったのだろうか。

自分はこの男に殺されたのだ。

何度も、何度も滅多刺めったざしにされて…。

自分は広瀬修平のはずだ。

あれほどに鮮明な記憶を持ちながら、広瀬修平でない筈がない。

ならば、この鏡に映る自分は何だというのだ。

頭の中に反芻はんすうする記憶と、目の前に映る景色が矛盾して摩耗していく。

「ど、どういう……」

「説明をしよう。これも刑罰の内だからね」

「刑罰……?どうして、俺が」

「先程も言っただろう。お前は広瀬修平を殺した殺人犯。だからこうして刑が執行されている」

「……どういう」

「まず何から説明をしようか。そうだな、とりあえずは背景から簡単に説明しよう。

ご存知だとは思うが、日本の法律では人を一人殺したところで死刑にはならない。つまり人殺しでも刑務所で模範囚を気取っていれば前科まえこそ残るが社会へと簡単に復帰することが出来るというわけだ。昨今ではそれを逆手に取り、死刑にならないことを見越して行われる殺人も少なくない。そうやって逮捕された殺人犯というのは、社会に出ると再び殺人に手を染める。再犯というやつだな。殺人の犯行率は更生率より再犯率の方が高く、殺人事件の何割かは再犯者であることもデータで証明されている。近年国会ではその再犯を防ぐための新たな刑罰、及びシステムが議論されてきた……。そして、生み出されたのがこのシステムだ」

後ろにそびえる墓石のような四角の機械群を指さす男。

「一度殺人に手を染めたものが、なぜ再犯を行うか。答えは簡単だ。そこに悔いる気持ち……すなわち罪悪感というのかな、それが欠如しているからだ。しかしそういった手合いにいくら遺族の嘆きや悲しみを語ったところで罪悪感は生まれない。感情欠落者サイコパスと呼ばれる人間にはそもそも死を悼んだり悲しむという価値観が存在しない。それは幼少期の境遇、もしくは経験から引き起こされることが多いとされているが、そういった人間が少なからず現代社会の内には混じっている。そのサイコパスに罪悪感や後悔の念を与えるにはどうすれば良いのか、それに一つの解が生まれた。」

ベッドの周りを囲むように歩きながら、男は楽しげに語っている。

未だに広瀬―桂木―にはその意図が理解できていない。

「【水槽の脳】という思考実験を知っているか?」

「水槽……の脳?」

「私たちが知覚し、生きている世界は全て仮想現実であり、本当は培養液に沈められた脳に送られた電気信号によって、経験や体験を行っていると錯覚している、という哲学の話だ。

私はそんなことは信じていないが、少なくとも人間の記憶を電気信号としてプログラミングする技術は既に世の中に出回っている。そしてこの新たな刑罰はその電気信号化された人間の記憶を用いて行う非常に科学的で最先端な刑罰だ」

男は二周ほどベッドの周りを回ると、元の椅子に再び座り、足を組んだ。

「つまり、殺された被害者の脳に残った記憶データを電気信号化して抽出し、それを加害者の脳内に注入して被害者の殺された時の体験を疑似体験シュミレーションするという刑罰だ。殺される恐怖や緊張をその身に直に味わうことによって、トラウマを半強制的に植え付けて罪悪感を与える、というのがこの刑罰による刑の執行だ。死刑が人の肉体を殺す刑罰だとするならば、これは人の精神を殺す、もしくは蝕むための刑罰といったところだな。お前の場合で言えば、お前が殺した広瀬修平の記憶データをお前に差し込んで、お前が起こした殺人を広瀬修平視点から疑似体験したってことだ。だから今、お前は桂木幸一という自身の記憶と、疑似体験した広瀬修平との記憶が混在して、自分を広瀬修平だと誤認している」

「じゃあ……あれ、は」

「お前が見た広瀬修平の記憶は本物だ。だから夢と違って支離滅裂では無いし、痛みや恐怖と言ったものも酷く現実味を帯びている。トラウマを与えるために恐怖や痛みの度合いを少し誇張してはいるが、全ては本当に起こったこと……というより、お前が引き起こしたことなんだ。お前はあの日、広瀬修平を何度も殴り、滅多刺しにして惨殺した。外にいた広瀬修平の彼女が警察と救急車を同時に呼び、やって来た警察によってお前は取り押さえられ現行犯逮捕、広瀬修平は救急車で運ばれたものの既にその時には失血死していた。何もかもお前が起こした惨劇なんだ、桂木死刑囚」

「そん……な」

横たわる殺人者は、己の起こしたこととあの凄惨な夢を重ねることが出来ない。

未だに己が被害者であり、加害者である桂木は己では無いと意識が拒絶を起こす。

不意に逃げ出したくなって、鎖でつながれた両足をバタバタと振り乱す。

勿論、その程度の抵抗では鉄のかせは少しも壊れる様子を見せない。

「あんまり暴れるな。本当はお前自身も少しずつ本来の自我が戻り始めて、私が言っていることが真実だと思い始めているんだろう?」

桂木は、懇願するようにその瞳を執行者へと向ける。

「どうして……こんな」

なんとかせり上がる胃液を抑え、桂木はおののきながら言葉を漏らす。

「どうして……というのは、何故死刑が確定しているお前が、再犯防止のための刑罰を受けているのか、という意味か?」

「いや……でも……」

桂木のどうして、という言葉の続きはどうしてこんなことを、という嘆きであった。

しかし今の執行者の発言を聞いて、桂木の頭には、一つ疑問符が浮かんだ。

確かに罪悪感を意図的に与えて再犯を防ぐための刑罰は、刑務所の外に出ることなくこの世を去る死刑囚にとっては不必要なものである。

そもそも、自分が死刑囚であるという事実が信じるに値しなかった。

それではこのまま、自分は首を吊って死ぬことになるというのだろうか。

「なに、簡単なことだ。今回の刑罰は正式なものではない、ということだ」

「じゃあ……お前が、勝手に」

「そうじゃない。誰がこんな悪趣味なことをするものか。これは刑罰じゃなく、上から仰せつかった耐久実験なんだ」

「耐久……?」

言葉の意味が分からず、桂木は苦悶する。

少なくとも人間に対して使う言葉では無いことは確かである。

「先程言った新たな刑罰の話、あれは現在国会で議論されている、と言ったのを覚えているか?この刑罰の法案を野党が通さない理由は、他人の記憶を脳内に注入した時に拒絶反応が絶対に起こらない、と言い切れないことにある。つまりは記憶を電気信号化して注入するというシステムの構築式が出来ても、実際に行った際の拒絶反応エラーを予期出来ないということなんだ。もし一般の受刑者にこの記憶の注入を行って拒絶反応で死に至らしめてしまえば人権問題にもなりかねないから、野党も与党もそこは慎重になって動いている」

一つ息を吸って、仕切り直しとばかりに執行者は続ける。

「そこで本題に戻ろう。この刑罰は正式な刑の執行ではない。ましてや私が個人的な趣味で行っている拷問でもない。これは、実際に人間の脳に記憶を注入した場合に人体がどのような反応をするか、というデータを取るための耐久実験だ」

桂木は、歯を軋るようにがたがたと震える。

上手く上の歯と下の歯の噛み合わせが上手くいかない。

「この記憶注入実験には、いくつか課題が存在する。一つ目は先程も言った他者の記憶を脳内に注入したことによって起こる予期せぬ拒絶反応、二つ目は注入した記憶を元に、被験者が他者の経験を疑似体験出来るのか、という点。せっかく注入が成功したのに疑似体験が上手くいかなければ元も子もないからな。そしてもう一つが……」

「もう、勘弁してくれ……」

桂木は歯と歯の間から荒い息を漏らしながら、執行者を見つめる。

「悔い改めるから、もう絶対に人は殺さない。だから、頼む……もう、あんな」

血の海に投げ出された肢体、焦点の合わない空っぽの瞳。

両親に愛され、優しく育てられた身体がただの汚い肉の塊へと変貌する。

口から、鼻から、膀胱から、肛門から、穴という穴から力を失い漏れる体液。

体温が空に飛び散り、意識を失っていく死の感覚。

それを受容する側として知覚する恐怖。

嗚咽おえつを噛み殺しながら、桂木は瞳に涙を浮かべて追想する。

自分が行ってきた非道で愚昧ぐまいな行為を必死に悔いる。

「その様子を見るに、効果は覿面てきめんだったようだな。一つ目の課題と二つ目の課題はクリアしている……お前みたいな死刑囚がそんな見苦しい命乞いをするなんてな」

執行者は口元を手で押さえると瞳を三日月形に歪めた。

笑いを、押し殺している。

「頼む、もう……もう……死にたくない」

「お前が見たのは、夢だ。滅多刺しにされて殺される夢」

「でも、あれは広瀬修平の……」

「そう。広瀬修平の身に起こった悲惨な現実だ。でもそれはお前が受けた痛みではない、お前が殺された訳じゃない。ただその感覚の一端を握っただけ。逆上のぼせ上るなよ。お前は人間性を失った殺人者、被害者ではなく加害者なんだ。許しを乞いたかったのは、助けてほしいと救いを求めていたのは他でもない被害者だ。加害者の分際で被害者の真似事をするんじゃない」

まるで被害者が取り憑いたかのように、憤怒いかりを込めた瞳で桂木を射殺す執行者。

声こそ荒げていないものの、歯を一本ずつ折っていきそうな怒気を含んでいる。

「話の続きだ」

酷く冷淡で明瞭な発音で、執行者は言葉を紡ぐ。

「今回の実験でデータを取りたい課題の話、一つ目は拒絶反応の有無、二つ目は記憶定着による疑似体験の有無、そして最後は、記憶注入の容量を量ることだ」

「容量……?」

「コンピューターと同じように人間の記憶にも容量が存在する。その上本来他者の記憶なんてものは外部から入って来たもので、どれほど人間の脳内の記憶の容量を食い潰すのかが未だに予想できない、ましてや何人分もの記憶をぶち込まれればどうなるのかは今の科学の叡智ちからを駆使してもなお解き明かすことは出来ない。解き明かせない以上実験してみるしかない…今回、お前達死刑囚を使って実験を行ったのはこの謎を解き明かすためにある。相手が死刑囚であれば記憶容量過多オーバーフローによる脳炸裂が起きても問題は無いからな」

「ま、さか……」

「察しが良いようで助かる。そのまさかだ」

桂木は身をよじって必死に逃げだそうと、芋虫のようにもがく。

見苦しく涙と鼻水を流しながら、無意味と分かりながらも必死にあがく。

無慈悲な冷たい鉄枷は、相変わらず桂木の四肢を現実に引き留めている。

「最初に言ったように、日本の現法では人を一人殺した程度では死刑にはならないんだ。つまり、死刑囚であるお前は少なくとも一人以上を殺害しているってことになる」

執行者は顔色を少しも変えることなく、ポケットから深紅あかいUSBメモリのようなものを取り出して、桂木の目前へと見せつけた。

「まだ本来の記憶を完全に取り戻してないようだから教えておく。桂木幸一、三十八歳。四名の殺害を行い、その内最後の殺害である広瀬修平殺害時に通報を受けた警察官により現行犯逮捕、嫌疑がかかっていた他三つの殺害についても認める供述を行う。なお、桂木幸一は同性愛者であり強い思い込み、過剰な自己顕示の性質バイアスを持ち、殺害された四名はいずれも男性であることから、桂木が一方的な行為を被害者達に向け、それでもなお自分に興味を示さなかったことが犯行の動機であると推測され、桂木本人もそれを仄めかす供述を行っている」

「あ……あ……、ああぁ……」

「見えるか、これが」

深紅いUSBメモリが、眼前で揺れる。

数は、三つ。

「これは特注の品で、市販のメモリとは訳が違う。まぁ人間の記憶を凝縮するんだから当たり前と言えば当たり前だが……」

「いや……いや、いやいやいや」

「お前はこれから、夢を見るんだ」

「いやいやいやいやいやいやいやいや」

「言っただろう?これは耐久実験。何人分の記憶を人間の脳内で保蔵セーブ出来るかという耐久実験。手始めにお前はお前が殺した四人の記憶を疑似体験することになる……まぁ、広瀬は先程体験したから残りの三人分の記憶ということになるが……」

深紅のUSBを、後ろで葬列を為す機械群の一つに差し込む。

巨大なモニターが、まるで火が灯ったかのように作動し、画面が明るくなる。

執行者の手によってヘッドギアが桂木にかぶせられる。

必死に叫ぶものの、手足は変わらず動かない。

「お前は、お前が殺した分だけ、お前に殺される夢を見る」

赤を基調とした画面に浮かぶ、作動のボタン。

ボタンには明朝体のフォントで、大きく英文が書かれている。

【Have a nice dream】

酷い皮肉だと、一つ執行者は息を吹く。

誰かに殺される夢は、一般的に違う自分に生まれ変わる節目を表す吉夢だという。

では、目の前で慄く男が自分に四度殺された果てに生まれ変わるものは、なんだろうか。

執行者は、躊躇するのも億劫おっくうに指をその赤字に重ねる。

機械の軍勢が一斉に、大号令を放って作動し始める。

空間が振動するかのような小刻みの揺れを味わう。

既に目の前の犯罪者はもう涙を流すことも叫び声を上げることもしなかった。

手順書マニュアルにある通りに、脈を確認する。

どうやら死んだわけではなく、単純に夢の世界へと入っただけのようだ。

牢の中に残ったのは、機械の内部で回るファンの音だけ。

執行者はその様子を見下ろすと、再び椅子に座って足を組んだ。

一つ、良い夢を見るまじないを唱えながら。

「それでは、また夢で逢いましょう」




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それでは夢で逢いましょう まっちゃ大福 @daifuku9923

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