2. 幸せな国

その国で過ごした数ヶ月は、私にとってはまるで悪夢のようだった。

いや、悪夢といっても別にひどい苦痛や恐怖にまみれた体験をしたわけではない。

それはもっとなんというか…体の末端から少しずつ少しずつ毒に冒されていくような、じわじわと真綿で首を絞められるような、そんな体験だった。


中央大陸のB国。

その国の名前と、私の「悪夢」という感想との間に、大きな違和感を感じる人もいるだろう。

B国といえば、世界的にも有名な「幸せな国」だ。

他の国の誰もが憧れるような、国としての理想を体現したような国。数多の国のリーダーが視察に訪れては、感銘を受けて帰っていく国。


私だって、その国を訪れた当初は、確かにこれはよい国だと感じた。

そこに暮らす人々は、誰もが本当に幸せそうに、満ち足りた表情で、誇りを持って皆勤勉に働き、足りない時は分け合い、困ったときは助け合い暮らしている。

犯罪の発生率は驚くほど低く、政府の支持率は常に恐ろしく高く、聞けば誰もが心底幸せそうな笑顔で「この国に生まれてよかった」と言う。

まさに国家というものの理想を体現したような国。そう思った。


だが、何かがおかしいのだ。

これほどの優れた国ならば、優秀な人材も集まり、経済も大きな発展を遂げていてもおかしくない……はずなのだが、この国の経済は決して豊かではない。食生活も豊かとは言い難い。

資源も枯渇気味だし、一歩間違えば飢饉に陥ってしまいそうな、そんなギリギリな暮らしぶり。

政治にしたって、実際に行われている政治や行政サービスを見てみると、他国より随分劣る内容なのだ。

普通に考えたら暴動などが起きてもおかしくない水準。

それでも、この国で暮らす人は誰も、自分たちのことを不幸だとはまるで思っていない。満足そうな笑顔で「この国に生まれてよかった」と言う。


そんな皆の様子を見ていると、自分のほうが何かに毒され、大事なものを見失ってしまっているのではないかと不安になる。

私は経済成長だとか、豊かな暮らしだとか、そういうものの悪い思想に冒されて、幸せを得るために必要な何か大切なものを何か忘れてしまったのだろうか。私は本来感じられるはずの幸福を見過ごし、あるいは投げ捨てて行きているのではないか。彼らを見ているとどうしてもそういう気持ちになる。

実際、この国を旅行で訪れて、人生観を大きく変えられたという人はとても多い。


しかし、数多くの国を歴訪し、多くの人に話を聞いてきた経験から言える。

これは、たくみな政策とか、優れた思想とか、文化とか、そういったもので出来上がっているものではない。

この国の人々と接していて感じるものは――こう言ったら失礼なのかもしれないが――狂信者を相手にしているような感覚に限りなく近いのだ。

宗教か、それに類するような、何かの大きな力が働いていなければ、こうはならない。


この不気味さは一体何なのか。どこからくるのか。

好奇心に駆られた私はその国のライブラリに籠り、ありとあらゆるデータを漁った。

丁寧に歴史を紐解き、私はようやく答えらしきものにたどり着いた。

それはとてつもなく丁寧に隠蔽されていて、普通の人間であれば絶対に気づくことのできないであろう事実――


この国の政治の中枢には、ある教団が深く関わっている。私の祖国にもある教団だ。

人工知能が大きな発展を見せた頃に生まれたそれは、人が人を支配し不平等が生まれる構造を逃れるため、機械的知能に全てを委ねる事を標榜していた。

人より賢い人工知能こそが、人をコントロールするべき。それが彼らの主張だった。

それを「教団」と呼んで宗教のように扱っていいものかどうかは正直よくわからない。イデオロギー的なものといえばそうだろう。

何にしても、その教団が、この国の政治にある時期から深く根を下ろしていた事実が、この国の歴史に微かに刻まれていたのだ。


現在の政府は、どうやらその教団の影響下にある者を中心に構成されている。

とすれば、この国の政治も同じように「機会知能に全てを委ねる」というコンセプトの元に行われているはずだ。

つまり、この国の政治は、おそらく人工知能がすべてを動かしている。


もちろん、人工知能が政治に活用される例は、他の国でもいくらでもある。

人工知能によって優れた政策提案がなされ、大きな問題が解決された例は枚挙に暇がない。

しかしそれは飽くまで人間が政治を運営する事を助ける、補助ツールとしての話だ。

基本的にはどの国も、人が中心となって政治を行い、それを補助するものとして人工知能が活用されている。

しかし、この国の人工知能は全く違う。政策を提案したり補助したりしているのではない。

人工知能が実際に人の上に立ち、国家というものを動かしているのだ。


無論、これは推測でしかない。

だが、そう考えたほうが色々な事に納得がいく。

たとえば、あまりよいとは言えない暮らしぶりや行政サービスも、人工知能による資源などのコスト最小化戦略と考えれば腑に落ちる。

人が政治を行うと、全てを「自分事」として考えてしまうあまり、過剰な幸福やサービスを作ろうとしてしまいやすい。

だが、人々が幸福を感じてさえいれば、それらは最低限でいい。

人々が幸福を感じていれば、犯罪は起こらない。暴動も起こらない。経済が発展する必要もない。食べるものが少なかろうが、飢えていようが、豊かな財などいらないのだ。

政府が作るべきものは幸福のみであり、それ以外のことは余計なコストを産むだけなので必要ない。この国の政治は、明らかにそういうコンセプトで運用されている。

そして、そんな容赦ない取捨選択をできるのは、やはりどう考えたって人間ではない。


もちろんそれには、人が「幸福だ」と感じている事が、前提として必要だ。

じゃあ、その「幸福」をどのように作るのか。

それは、恐らく人工知能の最も得意とするところ、情報操作によるものだろう。

新聞やテレビ、ネットやSNS、出版物。ありとあらゆるものに対して、とてつもなく精密で巧妙な情報操作がなされている。

たとえば「占い」という形で人々の行動を一定の方向に向きやすいようにするとか、

コップの半分の量の水を「半分もある」「半分しかない」のどちらで表現するか、みたいな本当に些細な表現の違い、何気なく触れやすい位置に置く情報の内容の操作など。

それらを恐ろしい数積み重ねることで、人の考えを一定の方向――「私たちは幸せであり、満足している」という感情を産む方向へと誘導している。


それは限りなく洗脳に近い。だが、その誘導があまりに巧妙すぎるため、誘導されていることに誰一人気づかない。

誰も気づかなければ、誰も糾弾できない。

この国の人はみな「私は自らの意思で考えて生きている」と心の底から思っている。

誰かから強制されたわけではない、嘘偽りのない自分自身の感情として、「幸せだ」と感じている。

それが人工知能による巧みな誘導によるものだなんて、誰一人考えもしないし、信じもしないだろう。

もし私が今、この国の人々に「あなた達は洗脳されている」と言ったところで、私の頭がおかしいのだと思われるだけだ。


人より圧倒的に賢い人工知能が、人に「洗脳されているかもしれない」だなんて、そんなことを悟らせるようなミスをするはずがないのだ。

実際、人工知能が誘導しているであろうことを知っている私でさえ、人工知能がどこでどのように情報を操作しているのか、ほとんど見当がつかない。

人工知能は、最終的にテキサスで竜巻を引き起こすために、ブラジルで蝶の羽ばたきをずっと作り続けているのだ。

そんな蝶の小さな羽ばたきが、竜巻を起こすためのものかどうかなんて、一体どうやって解析したらいいだろう?


それよりなにより、それを指摘したところで意味はないのだ。

この国の人は誰一人として不幸にはなっていないのだから。

だれもが心の底から満足して、心の底から幸せを感じて暮らしている。

それを「あなた達は洗脳されている、その幸せはニセモノだ」なんて指摘する意味が一体どこにあるだろうか。


人工知能の手で人には最大限の幸福を与え、一方で食料やエネルギーなどの資源のコストを最小にする、そんな国家運営。

たまたま全てを知ることになった私にとって、それはとても恐ろしい悪夢のような体験ではあった。

だが、それを知らない人間にとって、これはやはり史上最高の国家運営なのだ。

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