瞳に泳ぐ、魚はキミの

五条ダン

瞳に泳ぐ、魚はキミの

「ほら、もっと顔をよく見せてごらん」


 タカシが優しく、しかし真剣味を帯びた声でささやく。タカシとの身長差は二十センチ以上あり、ユキは顔を上げて背伸びをしなければならなかった。ユキは十六年生きてきて、まだキスをしたことがない。夢だったのに。この瞬間が、自分の初めてになることを自覚していた。


 海に沈んでゆく夕陽が、見つめ合う二人を茜色に染める。砂浜を踏みしめる。ユキの腕が、タカシの胸元へと伸びる。二人はしばらくの間、時が止まったかのように動かなかった。

 やがてタカシは荒く息を吐いて、身体をもたれかけるようにして大きな手でユキの肩を掴んだ。


「もっとよく顔を! 顔を!」


 タカシが目を見開いて、顔を覗き込む。まるで宝探しに命を懸けてきた冒険家が、土の奥深くに隠された遺跡を発見したかのような、あまりにも情熱的な視線だった。

 ユキは耐えられずまぶたを閉じた。


「違う! 目を開けるんだ。瞳を見たい……」


 驚いてまぶたを開く。もう鼻と鼻とがくっつきそうな距離だった。食い入るように、彼は爛々とした目を近づける。タカシはうっとりした声で言った。


「きれいだよ」


 その一言を最後に、タカシは息絶えた。崩れ落ちた砂浜に、血の海が広がる。

 ユキは初めて人間を殺し、自分が人とキスをする日は永遠に訪れないのだと悟った。


 陽が海に呑み込まれ夜が空を覆うまで、ずっとユキは泣き続けた。美しい声で。

 暗い波が、悲劇的な結末を待ち焦がれていたかのように、タカシの亡骸を海の底へとさらっていった。



 ◇ ◆



 その日、タカシはお見合いの帰りで、うんざりしていた。いつものことだが、親がはやく結婚をしろとうるさい。勝手に見合いの予定を入れて、相手の女性の顔写真とプロフィールが載ったカタログを押し付けてくる。彼女を彩るのは『学歴』『出身』『財閥』といった無機質的な記号に過ぎず、それは彼女だけでなくタカシ自身にも同じことが言えた。


 誰かを心から愛して、愛される生活を夢見ていた。同時に、親の影響がある限り、自分にふつうの恋愛が不可能であることも知っていた。


 疲れきった顔で家に帰った。タカシを待ち受けていたのはしかし、一糸まとわぬ姿の少女だった。知らない美少女が、自分の家のリビングになぜか横たわっている。疑問よりも先に、タカシは直感的な運命を感じた。


 タカシは高層マンションの一室に暮らしている。部屋にはオートロックの電子錠がかかっており、静脈による生体認証がなければ入ることができない。窓は二重窓であり、そもそも三十二階ではベランダからよじ登って侵入することは不可能だ。


 完全なる密室を乗り越え、全裸の少女が今ここに現れた。これを運命と呼べないのならば、呼ぶべきは名探偵であろう。タカシはじつのところ警察に連絡しようかどうか迷った。だが、状況的にどう考えても自分が不利になる。だからあきらめた、いや、少女を自分のものにしたかった。


 タカシは外套をソファに脱ぎ捨てて、仰向けに寝ている少女の身体を観察する。肌は白く、生まれてから陽にあたったことが一度もないように透き通っている。最近流行りの全身脱毛だろうか、産毛のひとつも生えていない。興奮を押し殺して肌に触れてみると、シルクの布を撫でたときのように指が滑った。


 どういうわけか、長い髪だけが濡れている。勝手にシャワーを浴びたのだろうか。まぶたは安らかに閉じており、夢を見ているようだ、流線型を描く控えめな胸が静かに上下に揺れていた。


 タカシは我慢がならなくなって、少女のすらりと伸びた脚に、手を触れた。


 刹那――。


 少女の体がびくんと飛び跳ねて、起き上がる。少女は苦痛に満ちた目を見開いて、三角座りをするように脚を抱えてうずくまる。口を開けて何か話そうとしているようだったが、声は一言も発せられなかった。


「キミは、誰なんだい」


 タカシは行き場所を失った自分の右腕を気まずそうに背中に隠して、少女に訊いた。

 海のような青い瞳と、目が合った。


 少女の瞳のなかで、魚が泳いでいた。魚は視線の橋を渡ってタカシの深層意識へ潜り込み、魔法のように彼の眠っていた感情を呼び覚ました。魚に魅了される。


「美しい、瞳だ」


 タカシは、恋に落ちた。

 二人はともに暮らし始めた。

 少女には名前がなく、声がなく、さらに足が不自由だった。

 タカシは彼女に名前を授けた。《ユキ》雪のように白く美しい――けれど、いつか溶けて消えていってしまいそうな儚い少女に。


 衣服と、宝石と、食べ物と、本と、それから車いすを。外に出なくても満たされて過ごせるよう、ありったけのものを。(しかしユキは本が読めなかった。文字を読むことも書くこともできないのだった)


「ユキ、綺麗だね。キミの瞳には、魚が泳いでいるんだよ」


 言われて、ユキは嬉しそうに微笑んで、頷くだけである。彼女が側にいるだけで満足だった。

 否、性的なことを期待していなかったといえば嘘になる。だがユキは下半身に触れられるとひどく痛がるのだった。激痛が走るようだ。タカシは彼女の苦しむ顔を見るくらいであれば自分が死んでしまう方がマシだと思った。性的な欲求を封じ込めることを誓った。


 ユキは部屋から一歩も出なかった。部屋のなかのセカイだけで満たされていた。タカシも守るべき恋人のために、仕事にも精を出すようになった。というのも、親が愛想を尽かしかけている。結婚をなかなか決めようとしないタカシに。社長の座は、弟に譲り渡すつもりらしい、という噂も社内で流れている。内心焦っていた。


 同居から一月程経ったある休日、二人で一五〇インチのプラズマテレビで番組を見ていると、海外の水族館の特集が始まった。大水槽を魚の群れが泳いでいる。ふと隣を見ると、ユキが泣いていた。少女は何かを呟いた。タカシにはそれが「お母さん」と言ったように感じられた。どこから来たのかわからない少女は、故郷に帰りたがっていた。


 タカシがアクアテラリウムを買ってきて熱帯魚を泳がせてやると、気に入ったようだ。ユキは一日中、水槽に見入っていた。それから水槽を眺めるのが彼女の日課になった。


 ユキとの穏やかで幸せな日々が続き、また数ヶ月が経った。タカシの高齢の父親が、持病を悪化させ、急遽跡継ぎが選ばれることとなる。タカシは社長を継ぐ交換条件として、父親の薦める縁談を決めた。苦渋の決断だったが、どうしても必要なイニシエーションだった。


 さすがに戸籍もない出生不明のユキとは籍を入れられない。親の決めた相手で頷くしかなかった。形式だけの婚姻で構わない。向こうも財産目当てなのだ。

 跡継ぎ争いのごたごたが落ち着けば、ユキとふたりきりで安らかに暮らそう。誰にも文句は言わせまい。すべてがうまく行くように感じられた。

 タカシは家に帰ると、ユキにこのことを話した。


「誤解しないでほしい。不倫だとか内縁の妻だとか、そういう話じゃあない。一番愛しているのはキミだ。これからも一緒にいてほしい」


 しかしユキは、予想外にショックを受けたようだった。布団を頭からかぶって塞ぎこみ、部屋に閉じこもる。


「ユキ、ユキ」


 呼んでも部屋の戸は開かず、タカシも頭を冷やさなければとその日はひとりで眠りについた。


 翌朝、マンションから忽然とユキの姿が消えた。タカシは部屋中を探しまわり、玄関のドアに取り付けられている防犯カメラもチェックしたが、失踪したユキの痕跡は見つからなかった。

 タカシが絶望にむさび泣き、挙句の果てには自殺用ロープを買う寸前だった。


 ユキは唐突に、何事も無かったかのように(生体認証付きオートロックをすり抜けて)部屋に戻っていた。彼女の右手には固く婚姻届が握られていた。どこで手に入れたのか。ユキはそれをタカシに突き出す。

 タカシは嬉しくて今すぐにでも彼女に抱きつきたかったが、必死にこらえてかぶりを振った。


「いや、気持ちは嬉しいさ。でも結婚はムリなんだ。いいじゃないか形式的な結婚なんて。俺達には愛があるんだから」


 しかしユキは頭を強く横に振って、婚姻届を押し付けようとする。どれだけ説得をしようとしても、彼女は頑として言うことを聞かなかった。あれほどに無垢で素直なユキが、こんなことは初めてだった。

 何時間と押し問答が続いただろうか。


「いい加減にしろ。なんだキミもあれか、俺の財産が目当てで近づいてきたのか? そんなに金が欲しいならいくらでもくれてやるから今すぐこの家を出て行け」


 カッとなって怒鳴ってしまった。すぐに後悔した。ユキは目に涙を浮かべていた。

 彼女が言葉でコミュニケーションが取れないことが、今となってはもどかしかった。ユキは声が出ないだけでなく、文字も書けないのだ。


「すまない、俺がどうかしていた」


 そっと抱きしめる。ユキの肩が震えているのがわかった。


「……わかってくれ」


 タカシは祈るように言った。

 縁談の方はトントン拍子に進み、やがて式をあげる前日になった。

 ユキはもう何も言ってこなくなったが、時折水槽の魚たちを眺めて、悲しそうな顔を見せるのだった。タカシにはそれが堪らなく辛い。


「心配ないさ。時がすべてを解決してくれる。これからだって一緒に暮らせるさ」


 タカシは自分に言い聞かせるように言った。

 ぽん、と優しくユキが肩を叩く。ユキは静かに微笑んで、手に持っていた雑誌の一ページを指差した。

 美しい海と、砂浜の写真が写っていた。旅行会社の広告だ。

 そうだな、うっとおしい結婚式の前に、恋人との思い出作りも悪くないか、と思う。


 タクシーを手配する。ユキは足が不自由だが、ゆっくりとなら歩くことができる。タカシが肩を貸してやり、ユキはマンションの外へ出た。タクシーは目の前に来ており、二人で乗り込んだ。タカシは一番近い、海が見える砂浜の名前を告げる。


「ユキ、もっと早くにこうして来ていれば良かったね」


 目の前には海が広がっていた。季節外れなので、海水浴客はいない。

 ユキはずっと海を眺めていた。海を隔てた遠い場所に、彼女の故郷はあるらしかった。もしもユキが本当に望むのならば、タカシは自分のすべてを捨ててでも、彼女の行きたい場所についてゆくつもりだった。


 やがて空が夕焼けに染まるまで、二人は寄り添ってずっと海を見ていた。このまま時間が止まって、セカイに永遠に閉じ込められたなら、どれほど良かっただろう。明日には結婚式があり、ユキを悲しませてしまうことが彼にはよく分かっていた。


「ユキ」


 タカシは恋人の名前を呼ぶ。

 彼女は振り向いて、手に隠し持っていたものをタカシに差し出す。

 それは銀色の装飾が施された、この世のものとは思えない綺麗な、綺麗な――。



 綺麗な短剣であった。



 ユキは短剣の刃の切っ先を、タカシの方へと向ける。

 彼女の青い瞳には、今も魚が泳いでいて、涙が溢れだしていた。


 タカシは一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに理解した。自分が何を愛して、何に愛されていたのかを。


 導き出された真実はしかし、タカシを心の底から満足させるものだった。自分が生きている理由に、初めて気付くことができたのだから。


 夕陽が海に真っ赤な幕を降ろす。波が打ち寄せ、足元の砂をさらってゆく。



「そうか、キミは人魚だったんだね」



 タカシは、そのまま笑みをたたえて、泣いている恋人の肩を抱く。

 魔女の鏡の輝きを放つ、短剣の刃が、夕焼けの赤を反射させていた。

 タカシはこのセカイでもっとも愛する少女の瞳に、囁いた。


「ほら、もっと顔をよく見せてごらん」



(了)

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