一瞬の今を君と。

あきる

太陽と月と恋


 視界一杯の空は、オレンジ色に染まっていた。



 風には潮のかおりが混じっている。

 風に向かって走れば、波の音が聞こえてきた。


 堤防の階段をあがると視界を遮るモノは何もない。

 一面が海と空だ。


「くそっ。カメラ忘れるとか、プロ失格」


 堤防の手摺を握りながら、荒い呼吸を繰り返した。

 水平線を燃やしながら、太陽が沈んでいく。空はオレンジ色に染まっているのに、海の色は曖昧だ。

 

 赤、オレンジ、薄い青と透明。

 幾つかの色が広い空の片隅でせめぎ合っていた。


 海と空の境がなんとなく悲しい。

 その狭間に向かっていく太陽のなんと壮大で、美しく、儚げな事か。

 必死に走ったかいがあった。けれど、仕事道具を忘れるとは……俺の阿呆。


 せめて携帯でこの時間を切り取ろうとスマホを取り出したが、小さな箱の中に写し出された風景があまりに寂しく見えて、結局撮影ボタンを押すことなく再びポケットにしまった。


 手すりに腕を置いて、沈みゆく太陽を見つめた。

 遠くの空に、うっすらと月が見えた。

 ああ、アイツにこの景色を見せてやりたかったなぁ、と恋人の顔を思い描いた。


 俺を太陽のようだと言ったアイツは、見上げる空の先にある月のように綺麗で静かな男だ。


 太陽は、ずっと月と一緒に居たかったのだけれど、月が行きなさいと笑うので、いつもひとりで走っていく。

 月は太陽が月を想うくらい、太陽を想ってはいないのかもな。


「電話もメールも、会いたいってゆーのも、全部オレからですものねー」

 

 そりゃあ「行くな」なんて言われたら、困る場合もあるでしょーよお仕事だから。

 でもさ……。


「一回も、聞いたコトないよなぁ」


 寂しいとか、会いたいとか。

 早く帰ってこいよ、とか。


 トレンチコートの裾が風にはためいた。

 めったに感情を面に出さない恋人を思って、溜め息をついた。

 ちょっと仕事が忙しくて連絡をおこたったら、三週間が過ぎていた。

 その間、着信どころかメール一通ないのだ。


 そうして、分かってはいたけど、直視したくなかった現実にぶち当たった。


 手を繋ぐのも、肩を抱き寄せるのも、唇を塞ぐのも、すべて俺が止めてしまえばゼロになる。

 メールも電話も、俺たちの関係も。

 俺が手放したらそれで終わりだ。



 三週間の着信無しに気づいた後は、意図的にメールも電話もしなかった。


 なぁ、お月さま、気づいてますか?

 今日で2ヶ月と11日です。

 さすがに泣ける。



『イヤになったら、いつでも手を離してくれ』



 恋人同士になった日の、はじめての約束。

 マックス後ろ向き思考のお月さまは、許されがたき罪人が許しを請うように、青ざめ震えていた。


 いつでも捨てて良いと懇願するアイツを抱きしめた。


 それが始まりの日。



 クールで冷血で無表情を装っていたアイツが、心の奥底に押し込めていた様々な感情。


 箱を開けると、苦しみの涙があって、ドアを蹴破ると喜びの涙があった。

 それから、最高の笑顔だ。


 それは今まで見たことのない、幸せそうな顔だった。


 それを守りたいと、もっと見たいと願いながら、一歩、一歩、距離を縮めていった。


 ずっと昔から、手放す覚悟を決めていたというアイツは、同性を好きになったことや、想いを伝えたこと、俺の手をとって付き合い始めたこと、そのすべてを心のどこかで後悔しているようだった。


 苦労して縮めた距離は、俺が近づくのを止めた途端に、10歩も20歩も離れてしまう。

 イヤになったら何時でも、やめることが出来るように、アイツは俺に逃げ道を与える。


 俺が一言『もぅやめる』と言えば、なんの執着も見せずにアイツは関係を断ち切るだろう。

 顔も見たくないと言えば、海外に移住するか、山奥に引きこもってしまいそうだ。


 いつまでも臆病で、優しい、残酷な恋人。


 太陽や海はもう目に入らない。

 ぽつりと輝く月の光だけしか見えなかった。

 冷たい光を放つ月は、臆病な恋人に似ている。


 なぁ、お前は寂しくないか?

 そんなところでひとりきりで、悲しくはないか?

 太陽は、悲しいよ。

 お前が引き留めてはくれないから、ヒトりきりな気がして寂しいな。


 欲しがってるのも離れがたいのも太陽だけなのかと、時々不安になるよ。

 やめたくなったらと……お前は俺に言いますけど、じゃぁお前はどーなのさ。


 月は、太陽がいらないか?




 ホントは、手を取るべきでは無かったのだろうかと、今でも時々悩む。

 アイツが何年も努力して手放そうと、忘れようとしていた恋を、抱きしめた事が間違いだったか?


 俺の選択は、お前を苦しめるだけだったのだろうか。


 いや……そんなこと、ないよな?


 不安になる度に、俺はアイツの最高の笑顔を思い浮かべる。幸せだと笑うアイツを思い浮かべる。


 目を閉じた。

 瞼の裏にアイツの笑顔を思い描く。

 あの笑顔が苦しみだけで出来ているなんて、そんなわけがない。

 だから俺は、いつでも何度でも、あいつが笑えるように努力しよう。

 何度だって『ただいま』を言おう。

 どれくらい離れても、近づいていこう。


 海に視線を戻すと、もう半分くらい太陽が沈んでいた。


 月にサヨナラをしよう。

 大丈夫。明日の朝には、また逢える。

 何度でも、太陽は月に恋をするんだ。

 月がサヨナラを告げる日まで。




___

 

 沈み逝く夕日を眺めていると、スマホが鳴った。

 海を見ながら、横目で着信を確認する。

 仕事関係だろうと思っていた俺は、表示されている名前を見て一瞬固まった。

 夢かと思った。


 着音は随分と長く鳴り続け、はっとする。

 慌てて通話を押してスマホを耳に押し当てた。


「も、もしもし!」


 声が上擦っていた気がする。

 いや、気のせいではないだろう。

 心臓は自分のモノではないかのように、バクバクと激しく脈打った。


『近江?』


 電話の向こうから、いつも通りの冷静な声音が聞こえてきた。

 2ヶ月と11日ぶりに聞いた、恋人の声だった。



「おうっ!久しぶりっ、どーしたよ突然」


『ああ、すまない。仕事の邪魔だったか?』


 迷惑なら改めると、さっさと通話を終わらそうとする相手を慌てて引き止める。


「邪魔じゃない!全然ちっともまったく邪魔じゃない!」


 少しは落ち着こうか俺。

 余裕を持とう。

 まるで浮かれたガキみたいじゃないか。


 そうか。と返される声に、微笑が含まれていた気がする。


 お前、笑ったな。

 仕方ないだろう。

 俺がさ、いまどれくらい幸せか分かるか?


 ごめん。ちょっと意地悪だよなって、自分でも思ってた。

 自覚はあるよ。

 わざと連絡しなかったからな。


 一歩じゃなくていい。

 半歩で良いから、お前から距離をつめてくれたらと、そんな欲があった。


 俺が必要だと、言って欲しかった。


「今さ、海を見てる。空との境目が赤く燃えてて、沢山の色が溢れてる。目の前はまだ昼の時間なのに、遠くの空は夜の色に染まってる」


『そうか』


「カメラをさ、ホテルに忘れて……この一瞬のいまを持って帰ってやれないや。お前に見せてやりたかったのにな」



 綺麗なモノのすべてを、お前にあげたい。

 俺の目に映る、俺の手が写す全てをお前にやるよ。



「月が……」


『ん?』


 空を見上げた。

 ぽつりと輝く月は、やはり寂しそうだ。


「月に、会いたいよ」


『月に?』


「そ。会って、抱きしめて、側に居るって伝えたい。ひとりで泣いていないか、確かめたい。太陽は月を思って毎日頑張ってますよ。だから月も、太陽を思ってくれてるのか、知りたい」


 アイツは何も言わない。

 電話の向こうからは、風の音や人や車が通る音が聞こえてくるだけだ。


 なぁ。俺のお月サマ?

 俺はお前の側にいてもいいんだよな?

 抱きしめたことも、手をとったことも、間違いじゃないよな。

 ちゃんと、幸せな時をお前に与えられてるか?


 電話の向こう側に意識を集中させる。

 何も言わない相手に、不安が襲ってきた。


 月は、太陽が月を想うくらいには……。


『空が……夕焼け色に染まると、いつも子どもの頃を思い出す』


 静かな。とても静かな声音が、耳朶じだを撫でるように響いた。


『まるで世界にひとりきり残されたような、そんな寂しさを抱えていたある日、友人が出来た。その子は少し意地っ張りで、負けず嫌いで、勇気があって、優しくて……僕が持たないモノばかり持っていた。

惹かれたよ。

二人でいる時間が楽しくて、でも悲しいほどに短くて、それが恋だと気づく間もなかった。気づいたときには、どうすることも出来なかった』


 普段は口数が少ない恋人が、ゆっくりと幸せそうに話す声に、耳を傾ける。


『あの子は、沢山の宝物をくれた。僕は、何一つ返すことが出来なかったのに、本当にたくさんのモノを惜しみなくくれた。セミの抜け殻。ビー玉。ガラスの欠片。外国のコイン。不思議な形の石。それから"怪獣の目"』



 胸が熱くなった。

 遠い日の記憶の断片が浮かんでくる。


 河川敷。

 橋の下。

 小さな手に握りしめた不思議な模様の石。


 月のように柔らかく微笑むその子がとても好きだった。

 宝物を全てあげても惜しくないくらい、その子の笑顔が好きだった。


『太陽のような笑顔が、とても好きだった。いまでも、空が夕焼け色に染まると、思い出すよ。月は、太陽に恋をした。今も、変わらず想っている』


 ああ、俺は馬鹿だな

 目に見えないからって、声に出さないからって、そこに思いが無いわけではない。

 気持ちを抑えることに慣れてしまっている恋人。

 幼い頃からの恋を、俺が望めば手放してしまえるという臆病な月。


 スマホを握る手に自然と力がこもる。

 風が頬をなで、鳶が緩やかな弧を描きながら、旋回していた。


 カラスが寝床に向かい、飼い犬と散歩をする人たちが視界の端を通り過ぎていく。


 帰ろう。そう何かが囁きかける。

 帰ろう。大切な人が待つ場所に。

 家へ帰ろう。


『ところで、話は変わるのだが、少し金を貸してくれないか?』


「……お前は、昔からムードをぶち壊す天才だよな」


 何でここで金の話。

 もうちょっと甘い余韻に浸るとか……おぃ、もしかして電話してきたのってソレが目的か。


 空気の読めない恋人の発言にがっくりと脱力する。

 手すりに体重を預けながら、ため息を吐き出した。


「お前、金の貸し借りは嫌いだろー。突然どーしたよ」


『……緊急事態だ、許せ』


「なんだよ緊急事態って。まさか、うっかりアヤシイ壺とかバカ高い教材を買わされたりとか、株に失敗したとかじゃねぇーだろうな」


『悪徳商法に引っかかるほど愚かじゃないさ。あと、株式投資に興味はない』


「……前半はともかく、後半はちょっと自信あったのに。まぁいいや、でいくらいるんだ?」


 頭の中で貯金額を計算してみる。

 取りあえず、緊急事態だってゆーなら出来る限りの事はしてやらなきゃ。

 つか、緊急事態の内容が気になるわけですが?


『二万ほどあれば』


「二百万?一体何に使うんだよ」


『いや、二万』


「……えーと、二千万?いったいどーしたの?」


『なぜ間に桁を増やす』


 いや、だって俺の耳が腐ってるとしか思えない。

 仕事で遠くにいる俺にわざわざ電話してくるぐらいだ。しかも緊急事態なんだろ。

 二万で解決する緊急事態ってどんな?

 つか、それくらいだったら、一緒に住んでる弟に頼めよ。


「なぁ、何があったんだ?緊急事態ってなんだよ」


 尋ねたけど返されるのは沈黙だ。余程のコトがあったのだろうかと、心音が自然と早くなり緊張する。


『空が……綺麗で』


「は?」


『……お前も、同じように空を見上げているのだろうかと、毎日考えていたら、会いたくなった。声が聞きたくなった。抱きしめたくなった。お前に会いに行こうとする衝動を止めるのに、いつも必死だ』


「お前……………俺を喜ばせて、どうする気だ」


 空気の読めない恋人は、ムードをぶち壊す天才だが、何の前触れもなく甘いセリフを平然と言い連ねたりもする。


 さっきまでは、月と太陽にお互いを例えたけれど、今度ははっきりお前だと言われた。

 そんな小さな事でも、心は嬉しいと繰り返す。


『特にどうする気もないが、そうだな……』


「なんだよ?」


「……抱きしめて、口づけることにする」


 返された言葉が、すぐ側で聞こえた。

 驚いて振り返る。

 階段の下には、見慣れた顔があった。


 うっすらと微笑んだそいつが「すまない」と呟くように言った。


「どうしても、お前に会いたかった」


 そして俺は、階段の上から飛び降りた。

 衝動の赴くままに、大切な人を抱きしめる。

 滑らかな髪を指に絡め、互いの頬と頬をすり寄せた。

 甘く淡い香りが鼻腔をくすぐった。


「苦しいぞ」


 微笑を含む苦情と、背中に感じる掌のぬくもり。

 都合のいい夢ではないことを願いながら、よりいっそう強く抱きしめた。


「お前、突然過ぎ」


「すまない。どうしても会いたくて気づいたら新幹線に乗っていた……反省する」


「別にしなくても良いけどさ……ああ、もう。お前、俺のことどうする気だよ、ホント」


「別に、どうする気もないと言った」


 形の良い耳に唇を寄せて、そっと尋ねた。


「ちゅーしてくれるんじゃなかったか?」


「……人目がないところでな」


 まるで小さな子どもをあやすように、ポンポンと背中を叩かれた。

 調子に乗ってもう一つだけ確認する。


―それ以上のことは?


「家に帰ってからな」


 クスクス笑いと一緒に返された答えに、寂しさは消えて、あたたかなモノで溢れかえった。


 幸せはいつだって、ちっぽけな二人が生み出してる。

 短い会話の中にも、あたたかな掌の上にも、瞬きの一つにだって、掛け替えのない幸福が宿っている。


 大切なヒトの手を握って、俺は駆け出した。

 太陽が沈んだ後も空はまだ赤く、コンクリートの地面に二つの影を踊らせた。




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