2「どの組の組長さんですか?」
飲み屋街の細い裏路地を抜けると空き地になっていて、そこにプレハブ小屋が二棟建っている。向かって右側の入口らしき扉にはきれいな毛筆で、そう書いてあった。
「アサガオ……さん? 確かに僕は現在無職とは言いました。そしてキミは僕に仕事を紹介してくれると言いましたが、ここは、ええと、大丈夫なんですかね?」
あの後完全に開き直った僕は、ダメ元当たって砕けろ精神で彼女に着いていくことにした。いい条件なら儲けもの、ヤバい仕事なら隙を見て脱出するつもりで。
という訳で隙を探している。
「呼び捨てで構いませんよハジメさん。それと、そこはかとなく後ずさっていますけれど、大丈夫です。基本はわたしと二人で調査活動して報告。あとは室長がなんとかしますので、難しくないですよ」
調査活動とはなんだろうか。悪い方で考えて、借金を踏み倒して逃げた債務者を探し出して追い込みかけたり、組の金を持って飛んだ組員を見つけ次第カニ風呂に浸けるとかかな?
良い方で考えても精々探偵かな。浮気調査とか。迷い犬の捜索とか。
「最初のうちは『うわあ!』とか『ひいい!』とかなったり、どどーん、ぐちゃーってなる事もあるかもですけど」
あ、悪い方だ。
「ちょっと靴紐を縛りなおすね。全力で走った時に脱げるといけないから」
「ハジメさん、くくるのは腹だけで十分ですよ。さ、入りましょう」
アサガオが僕の左腕に抱きついてプレハブ小屋へと引きずっていく。僕が逃げられないように、かなりの密着具合である。おっぱいが柔らかいのである。
歩くたび二の腕に、柔らかく、それでいて張りのあるあの独特の感触がむにむにと。ぷにゅぷにゅと……。
「初めまして、雨宮一くん。感触を楽しんでいるところ悪いんだけれど、ちょっとそこにすわってくれないかな」
二の腕に集中しすぎて気付かなかったが、いつの間にかプレハブ小屋の中に入っていた。
今だ押し付けられているアサガオのおっぱいの魔力に、必死で逆らっている僕に、やたらダンディな声で話しかけてきた人物を見てつい口に出てしまった。
「どの組の組長さんですか?」
髪は黒髪オールバック、常人の半分ほどの幅の眉、切れ長、と言えば聞こえはいいが、これはただ単に目つきが悪いだけ。
パリッとした白のワイシャツにネクタイは閉めず、黒のスリムスーツを着た、年の頃三十代前半だろうか? そんな男が事務一般で使われている簡素なデスクに座っていた。
「いいね、アサガオの調査通りだ。『恐怖』という危険に対する防衛本能もある。その恐怖の中でも次に自分が何をしようか思考している。パニックに陥ってもすぐに復活させる精神力。そして俺を見た第一声がそれだ。度胸もある。あとは……」
男はそこで一度言葉を止めて立ち上がり、近づいてくる。逃げようにも左腕に絡みつくおっぱいのせいで逃げられない。
アサガオの身長目測百六十センチ弱。体重五十台後半。思い切り暴れればなんとか振り切れるかなあ。
女の子を吹っ飛ばすのは気が引けるけれど、仕方がないと思うんだ。ハニートラップに引っかかった僕も悪いけども、人を騙す方がもっと悪い。
手を伸ばせば届く位置で止まった男が、スッと右手を上げるのを見て僕は後ろに思い切り飛びのこうとしたが、ビクともしないアサガオのおかげで左肩を痛めるだけに終わった。
「行動力もあるね。上等上等。安心しなよ、なにも取って喰おうって訳じゃないよ。それに俺は完全無欠のカタギだよ。見た目が悪いのは自覚してるし、そういう反応も初めてじゃないから慣れてはいるけど、まあ、多少は傷つくよ」
シニカルに苦笑を浮かべながらそう話す男の右手は差し伸べているかのように、ずっと僕に向けられている。
金を寄越せって事かな。にしては手のひらは上ではなく、横を向いている。これじゃまるで握手を求めている様じゃないか。
恐る恐る男の右手を握ってみる。そのまま床に引き倒されたり、握りつぶされたりする事もなく、いたって普通に握り返してくる。
左腕に可愛い女の子。右手に
「うん、オーケー。合格。俺ぁ
「はーい。じゃあ行きましょう」
「いやいやいや! 何ですか何なんですか! どういう事か全くわからない!」
業務内容について一切の説明がないまま、絡みついたままのアサガオによって、妖家氏曰く『住み込み部屋』のプレハブへと連れてこられた。
外見はどこぞの工事現場に設置してある極普通のプレハブ小屋だが、内装はきっちりと整頓されていて、所々に小洒落た小物や調度品がセンス良く配置してある。
ベッドが一つと、本がぎっしり詰まった本棚。パソコンが設置してあるデスクの上には資料らしきものが山積みになっている。
「オフィスレディの部屋みたいだなあ」
OLの定義は知らないけども。
「世のオフィスレディさん達はプレハブ小屋で生活はしませんよー。ほらそんなことよりハジメさん、ちょっと手伝ってくださいよ」
部屋に入ってすぐに腕から離れてしまったアサガオは、ベッドの下から何かを取り出そうと四苦八苦していた。
ベッドに引っかかっているので僕が少し持ち上げ、その間にアサガオに引っ張り出してもらった。
寝具一式だ。
「はい、じゃあハジメさんはこれで寝てくださいねー。パジャマは明日買いに行きましょう。今日の所は我慢してください。せめてスーツの上着とワイシャツネクタイくらいは外した方がいいですね。しわが目立っちゃいますし」
男なら、寝るときはパンツ一枚あればいい。そう、僕はパンイチ派だ。
「わかった、ありがとう。正直不安しかないんだけど、今から帰るのも面倒だし、今日のところはここで寝かせてもらうね。明日、妖家さんから諸々説明してもらって、そこからまた考えるよ」
住み込みと言っていたが、アパートからここまで通えない距離じゃない。職場の隣で生活とか、拷問ですか。
昔の医者は、緊急時の為に病院のすぐ近くに住んでいて、二十四時間三百六十五日気の休まる時がない。みたいな都市伝説も聞いたことがあるし、住み込みの件だけでもなんとか通勤に変えてもらえないだろうか。
「ハジメさん」
いやいや、それだけじゃない。雇用形態だとか、福利厚生だとか、何より給料ですよ奥さん。業務内容ももちろんだけども、その辺りもきっちり聞いておかねば。
「はーじーめーさーん」
「ん? あ、ごめん。考え事してた。どしたの?」
名前を呼ばれて慌てて振り返ると、いつの間にかパジャマに着替えたアサガオがどこか意地悪そうな表情でベッドに座っていた。
「んーと、色々と考えることがあるのはわかりますけど、まさか下着は脱がないですよね?」
「あ、うん、大丈夫。寝る時はパンイチ派なんだよ。裸族じゃないから安心しアサガオさんまだ居たの!? 帰らないの!? って言うかゴメン!」
子供の頃から運動だけは得意で、学生の頃はずっと運動系に所属していた。社会人になってからも時間の許す限りでトレーニングはしていたから、他人に見せられないような体ではないつもりだ。
とは言え、ついさっき会ったような子に見せては駄目だろう。これでアサガオが悲鳴の一つでもあげようものなら、隣のプレハブに居る自称カタギの妖家さんがすっ飛んできて、
急いで布団に包まる。
「まだ居たの? ってヒドイなあ。わたしもココに住んでるんですからあたりまえじゃないですか」
…………。今日眠れる気がしない。
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