たぶん、できない

三谷一葉

たぶん、できない

 三十歳までに過労死しよう。


 成人して、初めて目標として掲げたのがそれだった。自殺でないのはそれを実行する勇気が私にないからだ。包丁を首筋に押し当てたところから先に進まないし、輪にしたロープを首に掛けたところで石化したし、掌一杯に睡眠薬を載せて、結局一粒も呑み込まずに瓶に戻した。自分が根性無しであることは自覚していたが、ここまでだともうどうしようもない。


 三十歳までと期限を設けたのには、一応の理由がある。幼い頃に聞いた、「女の価値はクリスマスケーキ」という言葉だ。二十三、二十四、二十五あたりまでなら大丈夫だが、二十六を過ぎたあたりで一気に価値が下がり、三十にもなれば最早生ゴミというものだ。


 「女性の輝く社会に」なんて言葉が謳われる現代、何を時代錯誤なと言われそうだが、世間一般がいくら男女平等を叫んだところで、私の周りではまだまだこちらが現役だ。


 私の女としての賞味期限は、もう切れてしまっている。私のような人間を好いてくれるような奇特な男がいるとは思えなかった。仕事に人生を捧げられるならまだ救われたのだろうが、残念ながらそんな情熱はゼロだ。


 仕事をして仕事をして仕事をしまくった結果、三十になる前に燃え尽きて過労死をするのなら、孫を熱望している両親も仕方がないと諦めるだろうから。過労死をするほど頑張っていれば、たとえ結果を出せなくても「頑張ったね」と認めてもらえそうな気がしたから。


 せめて、生ゴミになる前に消えたいと思った。


★☆★


「ねえ、なんか目標とかないの?」

「目標、ですか…………」


 正直に過労死ですと言ったらどうなるのだろうと一瞬だけ考えてみる。死ぬなんて考えるな、前を向かなきゃ。君程度の働き方で過労死なんて無理だよ。あれ、そんなにやる気あったっけ?………………想像だけで止めることにする。とりあえず非常に面倒なことになりそうということはわかった。


(さて、なんて答えれば 『正解』かな)


 駅前の喫茶店。二人掛けの小さなテーブルの向こうで、五十代半ばぐらいの男性が頬杖をついている。私の所属している派遣会社の営業さん、つまりはエラい人だ。唇の両端が吊り上がり、目元が下に垂れ下がっているのに、ちっとも笑っているように見えないのは何故だろう。目がやたらとぎらぎらしていて、獲物を狙う肉食動物のような凄みがある。


 適当に資格取得とでも答えようかと思ったが、「何を取るの」と言われたら答えられない。適度な運動、規則正しい生活などそれらしいものを思い浮かべてみたが、目の前の男性に納得してもらえそうな説明が思いつかない。唯一達成できそうなのは、「本を読むこと」なのだが、以前趣味は読書だと言った時に「駄目だよたまには外にも出なきゃ」とばっさり切り捨てられている。


 結局、良い案は思いつかずに、素直に特にありませんと答えた。男性がにんまりと笑う。


「駄目だよそんなんじゃ。何かあるでしょ、何か。資格取るとか運動するとか規則正しい生活するとか」

「…………はあ」

「確か君、読書が趣味って言ってたよね。じゃあ月に何冊読むとかでも良いんじゃないの」


 ーーーー通勤時間が長いので、大体二日に一冊は読んでますね。


 喉元までせり上がった言葉を飲み込んで、神妙に拝聴している姿勢を取る。活き活きと話す男性の声が少しずつ遠くなっていった。


「もっとこうねえ、向上心持たなきゃ駄目なんだよ。いつまでもこのまんまってわけにはいかないでしょ」


 有難いお言葉を右から左に聞き流し、素直に言った場合にどんな反応が返ってくるのかシミュレーションしてみる。へえ、二日に一冊か、結構読んでるんだね。ちなみに何読んでるの? 小説? 駄目だよそれじゃ、何の勉強にもならないじゃん。もっとタメになる本を読まないと。


「君にはさあ、後一歩踏み出す勇気が必要なんだと思うよ。一歩。一歩だけ。足踏みしてる間はその一歩が本当に大変なんだろうけど、やっちゃえば大したこと全然ないって」


 ビジネス書、あるでしょ。ほら、本屋さんとかで並んでるヤツ。あれをさ、買ってごらんよ。小説読むよりもそっちのが全然良いと思うよ。


「飛び込んじゃえば大したことないんだから。えいやってやっちゃいなよ。そうじゃないといつまでもこのまんまだよ」


 目の前の男性と、私の中の男性。どちらも活き活きと、私がいかに向上心がなくやる気のない駄目な奴であるのかを語ってくる。全くもってその通りなので私は大人しく拝聴する。早く終われば良いのにと頭の片隅でちらりと思う。いくら言葉を尽くしても、私は私のままなのだから、そんなに一生懸命熱弁しなくても良いのに。


☆★☆


 有難いお言葉を頂戴してから三十分後。私はようやく解放された。次に会う時までには何でも良いから目標を決めておくように、という宿題が出た。喫茶店を出てから五秒で決める。月に十冊本を読む。現在二日に一冊ペースだから余裕でクリアできる。読むのが小説ばかりと知られたら「駄目だよそれじゃあ」と貴重なお言葉を頂く羽目になりそうなので、いわゆるビジネス書と呼ばれるものを月に十冊というのはどうだろう。脳内でにんまり笑った男性が「ビジネス書に手を出して勉強した気になってるんだろうけどさあ、」と演説を始めたので、慌ててその先を考えるのを中止した。


 家から勤務先までは電車で一時間半。最寄り駅から家まではバスで二十分。仕事は昼から夜までだから、帰るのはいつも日付が変わるか変わらないかあたりになる。今日は終業後に駅前での面談があったから、終電ぎりぎりになってしまった。


 帰宅ラッシュが過ぎた駅のホームには、人が少ない。駅員の姿も見えず、私の周りだけぽっかりと無人の空間が生まれている。


「間もなく、二番ホームに電車が参ります。危ないですので、黄色い線の内側までお下がりください」


 棒読みのアナウンスが、人のいないホームに流れる。その指示に従って、大人しく黄色の線で待っている時に、ついさっき聞いた男性の言葉が耳の奥で響いた。


 ーーーー君にはさあ、後一歩踏み出す勇気が必要なんだと思うよ。


 言葉に従って、一歩踏み出してみる。拍子抜けするほどあっさりと、黄色の線を踏み越えていた。


 なんだ、私にだってできるじゃないか。皆よってたかって君には向上心がないだの駄目だよそんなんじゃとか言うけど、私にだってできたじゃないか。


「間もなく、二番線に電車が参ります。危ないですので、黄色い線の内側までお下がりください」


 アナウンスが響く。にんまりと笑った男性の声も響く。


 ーーーー飛び込んじゃえば大したことないんだから。えいやってやっちゃいなよ。そうじゃないといつまでもこのまんまだよ。


 そうだ、三十歳まで待つ必要なんてない。過労死をするのを待つ必要なんてないのだ。生ゴミになる前に、自分で決着をつける。


 そのためには、一歩じゃ足りない。電車がホームに入って来た時、ブレーキを掛ける間もないくらいの時に、飛び込まないと。大したことはない。飛び込んでしまえば。きっと一瞬だ。後一歩。後、ほんの少しだけーーーー









 ………………鼻先を掠めるようにして、電車がホームに入ってきた。呆然としている私の目の前で、ドアが開く。飲み会帰りらしいサラリーマンとぶつかった。バランスを崩して尻もちをついた私に忌々しそうな視線を向けて、盛大に舌打ちを残して去っていく。彼の後にも数人降りたが、歩行の邪魔になる私に迷惑そうな顔を向ける人はいても、助け起こそうとしたり手を貸そうとする人はいなかった。


 身動きが取れないでいる私の目の前でドアが閉まり、私を置き去りにしたまま走り去っていく。


「…………」


 できなかった。後一歩踏み出すことが、飛び込むことができなかった。止めてくれる人も、助け起こそうとしてくれる人もいなかった。


 当然だ、と思う。私の女としての賞味期限はもう切れてしまっているのだ。後もう少しで生ゴミになってしまう。生ゴミを助けようだなんて、誰が思うだろう?


 のろのろと電光掲示板を見上げる。次の電車は十五分後。これに乗っても、もう自宅まではたどり着けない。


 ホームの端に座りこんだまま、ぼんやりと思った。


 次。次の電車。それが駄目でも、この駅にはまだいくつか電車が来る。もう家には帰れないけど、次か、その次か、ここに来る電車のどれかのうちのひとつに、飛び込むことができるだろうか。価値がなくなる前に。生ゴミになる前に。


「間もなく、二番線に電車が参ります。危ないですので、黄色い線の内側までお下がりください」


 アナウンスが響く。私はようやく、よろよろと立ち上がった。

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