終わりの果てにて

最終話 ある境界線における休息への収束

 自分がベンチに座っている、その状況には気付かなかった。何故ならば、あまりにもその状況が当たり前だったからだ。

 ぼんやりと、空を見上げているような感覚である。

 目の前に四車線の広い道路があり、けれど人の気配があまりにもない。見覚えはあるような、ないような――古い記憶を遡るのは、いつしか得意になっていたので思い返せば、ああと、気付く。

野雨のざめか……?」

 やや掠れたような声色に気付き、右手を見れば皺だらけ。それもそうだ、自分は。


 朝霧芽衣は、老衰で亡くなったのだから。


「さて……」

 待つのは性に合わない、昔からそうだ。傍にあるはずの杖を手元に寄せ、ゆっくりと立ち上がる。膝、腰、肘の三ヶ所が特に力の伝達が悪く、杖を補助にしてもなかなかの重労働だ。

 ここから、歩くにも一苦労だが、痛みを感じれば口元が僅かに緩む。

 若い頃に無茶をしたぶんだけ、必ずその無茶は年老いてから返ってくる。そんなことは承知の上だったが、やはり、若い頃を思い出さずにはいられない。

 動けたのは、いつ頃だろうか。

 少なくともこの光景、野雨市が存在していた頃は、動けていた。

「――ほう」

 だったら最盛期は、二十六歳くらいだろうなと当たりをつけた途端、次に踏み出した一歩から激痛が遠のいた。

 見れば、手の皺さえ消えている。

「ふむ、死後の世界というのは、なかなか凝っているではないか――いや」

 違うかと、曲がっていた腰を伸ばして、吐息を一つ。

「死後ではあるが、断定すべきではないな」

 そもそも、芽衣は野雨と呼ばれる区域をここまで明瞭に覚えてはいない。何故なら、過ごした時間が短いからだ。一年? いや、もっと短かったように思う。

 一ヶ所に長くとどまるような生き方は、してこなかった。それでもと問われれば、思い出すのも難しいほどの初期、師と過ごした場所か、あるいは鷺城鷺花さぎしろさぎかと最後の戦闘を行ったあと、過ごしたあの家か。

 ――そもそも。

 世界を構成する要素には、認識と呼ばれるものがある。特に死後は、経験した者がいない以上、空想のものであるし、ここが何かしらの境界の中、あるいは境界の上であったとしても、芽衣の認識だけでは成立しない。

 であれば、誰かがこの器を用意したと考えるのが自然だ――が。

 芽衣は、その人物を知らない。

 だったらこれは、余談だ。あるいは、語られるはずのなかった、最後の欠片。


 ――喫茶店のテラス席に座る男を、発見したのならば。


 何かしらの縁があれば、ここへたどり着くのだろうと、結論も出る。


「よう」


 視線をこちらに向けながら、煙草に火を点ける仕草。

 その顔を、その姿を。

 朝霧芽衣は、間違わない。


「はて……」

 声は、震えていないだろうか。歳をとってからは、涙腺が緩くなったのを自覚した時もあったが、泣いてはいないはず。

 ここが、芽衣の空想ではないことを断定したのならば、そこに座る彼が、夢や幻ではなく本人である確証が高まって。

 芽衣は。

「地獄の門番は近くに見当たらないが貴様、いつから案内人の役職に鞍替えをしたんだ?」

 そうやって、皮肉交じりに言いながら、早足になる自分を抑えて、ゆっくりと近づいた。

「――師匠」

「俺がそんな下っ端みてえな役職になるわけはねえだろ。それとも老眼になって見えなくなっちまったか」

 どこまで知ってか、知らずか。

 ジニーもまた、そんな返答をした。

「座れよ芽衣、ここには時間もねえ。いろいろと探ってはみたが、どうやらまだには至ってないからな」

「――なんだ、珈琲か」

「おう、俺が落とした」

 新しいカップに注がれた黒色の液体からは湯気が立ち、杖を立てかけて腰を下ろした芽衣は、小さく吐息を落としてから、それを受け取った。

 一口。

 顔が歪む。

「おい、もっと嬉しそうな顔をしろよ」

「いやなに、どうしてもこの味が出せずに苦労した覚えがあるのを思い出して、よし貴様そこに直れ、殴ってやる」

「お前が? 俺を? よせよせ、足を絡ませて転ぶ未来が見えそうだ」

「ふん」

 煙草の香りも、懐かしい。

 ああ、そうだ。

 この男は必ず、躰がほとんど動かなくなっても、一日に一度は外に出て、煙草を吸っていた。

「でかくなったな」

「当然だ」

「しかも老衰ってこたあ、長く生きたのか」

「そうだな、七十くらいまでは。……言いたくはないが、私は、鷺城に殺されるつもりだった」

「へえ? そりゃまたどうして」

「あの女は、私以外に殺せないと思ったからだ。――いや、それでも殺せることはないだろうし、鷺城がここにいない以上、まだ続いているのか、それとも違う終わり方をしたんだろう」

 おそらく。

 長すぎる時間が彼女を化け物にしたか――あるいは、で、どうにか死ぬことができたか。

 いずれにせよ、とんでもなく低い可能性であることは、芽衣もわかっている。

「だがお前は生きた」

「憎たらしい弟子の顔が邪魔をしてな。戦闘中には出て来るなと、文句を言いに帰った」

「ははは! 弟子? お前が? そりゃいい! お前にも継げるものがあったのかよ」

「厄介で面倒な刃物と――師匠から継いだ技術をな」

「……なるほどね」

「ところで、酒は飲まないのか」

 こういう状況では、好むと思っていたのだが、しかし。

「お前と酒を飲んだことはねえだろ」

「そういえば……そうかもしれん。なんだ、気遣いか?」

「かつては、飲める相手じゃなかったからな。実はさっきまで、あきらじゅくがいて、一緒に中で飲んでた」

「飲み終えた後か……」

「喜べよ、だいたいはお前の話題だぜ? 一通り聞いたよ」

 少し笑おうとしたジニーは、しかし、顔を歪ませて頬杖をついて。

「――俺がそこにいれば、一足飛びに成長なんてさせなかったと、悔やんでたところだ」

「はは……当時のアキラは、気をもんだことだろう。いつ死ぬかもわからん女が、部下を引き連れて、育成をしつつ戦場を歩き回っていれば、危うく見えたはずだ。当時の私は、死なないだけの技量を有してはいたが、な」

「へえ? 自覚的だったとでも?」

「まさか、今だからわかる話だ。で、死ぬような育て方はしなかったが、それでも行動を見ていれば、こいつはすぐ死にそうだと、頭を叩きたくもなる。――私の弟子が、そうだった」

「そうか」

「そうとも、だから悔やむな師匠。貴様の教えたことは間違いではなかったし――私は貴様を恨んだことなど、ない。……時折、思い出しては土の中に顔だけ出して埋めてやろう、と考えていたくらいでな?」

「はは、そいつはお前にゃ無理だ。今のお前が全盛期であるように、今の俺も全盛期だ。弟子ごときに負けるわけにはいかねえな」

「やれやれ……その気持ちがわかるから、どうしようもないな。しかし、

「おう」

 ならばこの場所は、

 戦闘を前提にしている。

「いつ来た」

「さっきだ」

 時間の経過がリンクしていない――なら、やはり。

「まさに、余談か」

「死との境界線だ、一個世界を作るとなると」

「条件付けか。そしておそらく、鷺城鷺花はいない。呼び戻せる可能性があることを祈ろう」

「鷺花とは、長かったのか」

「逢う時間こそ短かったが、私の友人は鷺花とえつだけだ」

「なるほどね」

 次の煙草に火を点けて、鷺花もカップの中身を飲み干して――話題を探している自分に気付いた。

 ジニーはどうなのか、それはわからないが。

 話したいことが山ほどあったはずなのに、思いのほか、こういう状況では出てこない。

「――中尉殿?」

 芽衣が歩いてきた方向とは逆、道路の向こう側から小走りにやってきたのは、グレッグ・エレガットだ。

「中尉殿!」

「グレッグか。ふむ、丁度良い。こいつが私の師匠だ」

「よう」

「グレッグ・エレガットであります、ジニー殿。噂だけは聞いております」

 踵を揃え、背筋を伸ばした挨拶だが、にやにやと笑っていた。

「どうだ、この可愛げのないのが私の部下だ」

「例の、犬ってやつか」

「うむ、そうとも。で、どうしたグレッグ。貴様は最後まで、私を中尉と呼んだな?」

「何のことかわかりませんが、状況把握のために周囲を散策中です。あとえっちゃんがいないなあと」

「ふむ、悦ならば屋内にいるはずだ。誰よりも落ち着いているだろう」

「へえ、何故です?」

「間抜け。貴様が見つけると疑っていないからだ」

 言えば、グレッグは後頭部に手を当てて、軽く掻いた。

「参るなあ……」

「グレッグ」

「ああはい、なんですか」

「貴様の〝目的〟は、私との戦闘か?」

「――ええまあ、それが可能ならば」

「今はまだできないが、おそらく可能になるだろう。だがなグレッグ、勝てると思っているのならば、よくよく考え直すことだ。――なあ?」

 笑って言えば、グレッグの顔が僅かに引きつった。

「あー……ジニーさん、これ、苦手意識ですかね」

「いや、戦闘になりゃ関係ねえだろ。ただ――……ま、いいか」

「へーい。じゃ、俺は行くんで」

「うむ、次は戦場だな」

「諒解です、中尉殿」

 部下の中でも、グレッグが最初というのは、また一つのヒント。何しろ医者である悦は主治医のよう、よく顔を合わせていたし、旦那であるグレッグもまた、部下の中では芽衣との縁が深い。

 巡り合わせだ。

「芽衣、どう育てた」

「育てた、というのは結果論だ。私は、ただ当たり前のことを、当たり前にやれと言った。できないことをできるようにして、私を楽にさせろと」

「で、狩人ハンターじみた軍人のできあがりか」

「一人でやれと、指定したのが発端だろうな。今なら言えるが、結局のところ全員を揃えてまとめあげる方法を知らなかっただけだ」

「それでも――あいつは、お前に見捨てられるのだけは嫌がった」

「それも結果論だろう。ほかの部下にしても、ただ、

 怖いから、裏切れない。

 怖いから、挑めない。

 怖いから、捨てられたくはない――。

「恐怖か。だったら、目標よりも先に、死線デッドラインを背後に描いたはずだ」

「お陰で苦労もしたが、であればこそ私に追いつかせるわけにはいかん」

「弟子とは扱いが違ってくるな。背中の押し方に苦労しただろ」

「それが一番の難題だった。はやく来いと急かせば、どうしたって転びそうになる。だが背中を押すのは、これ以上退かないと決めた連中にとっての屈辱にもなる。せいぜい、私が目標を作って、進行方向を決めてやるくらいなものか」

「はは……俺も随分と、お前に対しては苦労したけどな?」

「ガキの相手が大変だと気付いたのは、弟子を作ってからだがな」

「何故作った?」

「拾ったんだ、同じ魔術特性センスのガキを。半分は暴走していたから、ついでにな。三番目の刃物も、望まなければ渡さなかった……」

「――同化したろ」

「ああ、無茶をしたからな。いずれ分離するとは考えていたが、刃物と同化した時点で長く生きることになったろう……

 そう。

 最盛期、三十手前ならば。

 今の芽衣は、刃物と同化している状況そのものだ。

「それが誰かのための無茶なら、悪いことじゃねえよ」

「良かった、とも思わなかったがな。――来たか」

 芽衣は、その騒がしい気配を、よく知っている。

 自分では気付いていないのだが、空気を裂くのではなく、押しのけながら移動する癖があって、周囲の空気が混ざって踊るような感じの気配。

 彼女は。

 朝霧美海みうは。

「――師匠?」

 今の芽衣よりも若い、二十歳そこそこの姿で、やってきた。

「師匠!」

「騒がしいぞ美海、お前は変わらんな、まったく……そんだから獲物には逃げられると、そう教えたではないか」

「だ、だから逃げられても追いつけるよう訓練した」

「当たり前のことだ」

「師匠……」

「隣に座って構わんぞ」

 腰を下ろしたのを横目で見て、新しい珈琲を注ぐジニーに一瞥を投げてから、芽衣は美海の頭を撫でた。

「貴様は長生きしたようだな。――よくやった」

「――」

 たった一言、短い誉め言葉。

 美海は俯いて、しばらく無言のままだった。その様子を、ジニーは微笑みながら見ている。

 ――思えば。

 きっと、子供の頃に芽衣が勉強や訓練をしていた時、そんな顔でジニーは見ていたに違いない。

「芽衣」

「なんだ」

「お前は、俺の言うことを素直に聞き過ぎだ」

「私にはそれだけで充分だった」

「喜んでいいのかねえ、そいつは」

「……悪い、もう大丈夫だ。それで、ええと……」

「この性格の悪いクソ野郎は、私の師匠だ」

「え? じゃあ、あんたがあのジニー?」

「芽衣はなんて言ってた?」

「少なくとも師匠より性格が悪い」

「あ? 芽衣は素直だろ」

「そうとも。だが、そう言っても誰も信じないのだ。まったくどうかしてる」

 芽衣が腕を組めば、美海は嫌そうな顔をした。

「――で、ここなんだ?」

「へえ……」

「うむ、こいつは私と同じくらい素直でな。鼻は利くんだが、思考面が素直過ぎる」

「ま、時代が違えばそんなもんか。さて芽衣」

「遊び場だな」

「だろうが、それだけじゃ遊べない」

「ならば総括か?」

「そいつは結果論だ、――報酬だろ」

「なら一体誰が出す? ……ふん、なるほどな。用意したのは、最初の誰かか」

「ハジマリだ」

「だろうな――おい、どうした美海」

「いや……ごめん、なんか、話にはまったくついて行けないけど、懐かしくて、つい。くそう、涙腺緩くなったなあ、歳取ってからは余計に……」

 いつだって、順序立てて物事を教えながらも、端的な物言いでこちらの思考を促すような話術をしていた。

 まだ美海が子供だった頃は、特にその傾向も強くて、ちゃんと説明してくれと文句を言っていた気もするけれど。

 この人から教わっていたんだと、そんな実感を得たのは、教えられなくなってからで。

 次から次へと、涙が落ちてくる。

「しょうがないやつだ……」

「終わりかと思えば、ここから始まりだ。お前の役割ロールが何にせよ、楽しめよ芽衣」

「どういうわけか、グレッグのように、私に挑みたい間抜けが多くてな。であれば、応えてやらねばならん」

、か」

「それもある。なあに、美海は気にせず、やりたいことをただやれ」

「いや、やりたいとかその前に、ジニーに勝たないといけないんだけどな……?」

「ほう! それはまた強く出たな!」

「あんたが最後に出した命令だけどな!?」

「責任転嫁はいかんぞ」

「さては覚えてねえなこの女!」

 やはり、こいつは相変わらず騒がしい。だがそれを、好ましいと思っていて、なくなれば寂しく思っていたのだから――懐かしいと、そう思うべきだ。

 ジニーは笑っていて。

 芽衣は納得を一つ。

「――師匠」

「ん? なんだ?」

 確かに面倒なこともあって、責任も負わなくてはならなくて。

 育成なんて言ったところで、他人事ではいられず、見守るだけではどうしようもなく、手がかかって――成長を認めれば、内心は嬉しく思っても、弟子には伝えられず。

 一人前だと認めた瞬間、その重荷が消えてしまい、全てをやり切ったような感覚もあって、だがまだまだ未熟だと、そう付け加えれば繋がりが保てそうな気もして。

 そう、芽衣が美海に対して感じていたのならば、それは。

「私がいて、貴様も救われただろう?」

「お陰で悔いが残ったけどな」

「それは私のせいではない」

 言って、芽衣もまた、笑みを返した。

 終わりの果てにあるハジマリにて、再会を果たしたのならば。

「師匠、貴様の憎らしいツラをまた拝むとは、とんだ地獄だ」

「小賢しい弟子が口で勝とうとするのを微笑ましく見るくらいには、地獄ってのは余裕があるらしい」

 まったく。

 この師匠たちにはついて行けないと、目元を拭った美海はため息を落とした。

「さてと」

「うむ、始めるとしよう。なあに、まだ話す時間はあるとも――同時進行で構わん。どうした美海、まだ動けんのか」

「二人揃って、そこに私が含まれることに納得がいかない」

「泣き言は聞けんな。第一の目標は、あのクソ女であるところの鷺城鷺花を、こちらに呼び寄せなくてはならん。手を貸せ」

「へーい」

 まったくと、立ち上がった芽衣は腰に手を当てて、吐息を一つ。

「まったく、あの女はいつも手がかかるな!」

「お前よりもか?」

「そんなものは知らん」

「私よりも?」

「お前ほど手のかかった弟子はおらんぞ……?」

 ジニーは笑う。美海は頭を抱える。

 そんな様子を見て、一体何事だと言わんばかりの態度で、芽衣は首を傾げるのだった。



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起伏なき、今にある日常 雨天紅雨 @utenkoh_601

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