1章
01 魔法を捨てた男の話
クリス・ルシフエル神父の朝は早い。
まだ陽が昇る前に起床し、身支度を整える。
重いだけで威厳も情緒もない教会の門を開ける。
朝鳴きの鳥が謳い始め、南方の山頂からは日光が漏れ出している。そうなると、毎日このちょうど決まった時間に『老師』は来る。
「おはようございます、老師」
「……
ブツブツと何か呟く老師は、このマルタ村一番の変わり者だ。
日焼けがシミになった褐色の肌。焦点の定まらない黒い瞳。そしてボサボサの白髪。
彼を世話するような身寄りはなく、そもそもこの村の生まれですらない。ここよりずっと東方から訪れ、いつの頃からか村に居付いていた。しかし家は持たず、昼も夜も一箇所に留まらない。その日暮らしな生活をしている。
ボロボロの布着れにも等しい服を身にまとい、逆さに持った竹ボウキを杖にして、一晩中村を徘徊している。立ち止まると、寒さで凍え死ぬからだ。
そして夜明けと共に教会に来る。それを毎日、嫌な顔ひとつせず出迎え、共に朝の『体操』に勤しんできた。
「それでは、よろしくお願いします」
手を合わせ、老師に向かって頭を下げる。
しかし老師は神父に目もくれず、杖代わりの竹ボウキを地面に放り投げる。
そして太陽に向かって一礼すると、老師は拳を軽く握り、腰を落とし、左足を引いて構えた。神父もそれと同じ姿勢を取る。
――凛、と空気が冴え渡る。
早朝の空気のせいもあるだろう。吐き出す息が白むほど、まだこの辺りの朝は寒い。
だがそれだけでない何かが、この老人からは発せられているのだと、神父は常々思っていた。
「……風を詠み……地に根を、這うべし……。さすれば何人にもこれを打ち倒すこと叶わず……」
独り言を続ける老師。
もにゃもにゃと口の中で言葉を転がしながら、時おり腕や足をゆっくりと前に突き出す。まるでそこに、見えない敵でもいるかのように。
実際、老師には何か見えているのかもしれない。健常な村人とは会話も成り立たず、毎日摺り足のような速度で村を歩き回り、「むしろあれでよく生き残っているものだ」と、煽り半分に感心されている変人だ。
しかし。神父は知っている。毎朝この時間。この教会の前で独特の『型』を披露する時だけは。彼は眼光鋭く、一部の隙も無くなることを。
この緩慢な動きも、簡単そうに見えてその実、完璧に再現するには相当な時間と修練を要する難易度だという事も。
身をもって知っている。何故なら毎朝この老人の動きを真似し、そして毎朝――。
「こりゃぁッ!」
「痛っ!?」
竹ボウキが、肉の少ない尻に叩き付けられる。
細い枝を束ねた部分ではなく、反対側の、手に持つ柄の部分で叩かれた。
神父に反応させないスピードでホウキを拾い、鞭のような威力でひっぱたく。そうするだけの正当な理由が、老師の中には確かに存在した。
「何べん同じ事を言わせるつもりじゃあウェイフォン! 『弐十一の型』はもっと手首を柔軟に使えと!」
「いや、あの、朝は寒くて手首の関節がですね……」
「言い訳無用! 貴様のは手首ではなく、腕で相手の打撃を喰らうようなもんじゃ! そんなんじゃ、赤子の拳すら回避できんぞウェイフォン!」
「スイマセ……い、いえ……というより……。何回も言いますが私は『ウェイフォン』ではなく、クリス・ルシフエルで……」
「もっかい同じ所からじゃあ! それと貴様は師に口答えした罰として、寺の廊下の拭き掃除を命ずる! 全部の廊下じゃぞ!! 終わるまで朝飯抜きじゃ!」
これである。老師は神父を自分の弟子か何かと勘違いしているようで、少しでも動きを間違うと厳しい叱責が飛んでくる。
別に「教えてくれ」と頼んだ事もなく、明確な師弟関係を結んだわけでもない。
だが、そもそも痴呆の気のある老人に、マトモな反論を試みる方がどうかしているのだろう。
ため息を吐きつつ尻をさすり、また老師の動きに続いて『型』を舞う。
そうでもしないと早朝の教会にやってきて、「稽古の時間じゃぞ! いつまで寝とるんじゃウェイフォン!」と、神父が起きて来るまでドアを叩きまくるのだから仕方ない。
老師に付き合って弟子の真似事でもしていないと、他の村人に被害が及ぶかもしれない。
故に毎朝早起きをし、こうして修行に付き合っているのだ。
「本当は早起き苦手なんですけどねぇ……」
「稽古の最中に欠伸をするとは、何事じゃーっ!」
「痛ぁ!?」
***
それから約1時間後。ようやく全ての修練を終えた神父と老師は、教会の中へと戻る。
痛む尻をさする神父になど、一切気を使うこともなく。老師はさっさと礼拝堂の長椅子に寝そべり、いくらもしない内に寝息を立て始めた。
「……自由な人ですねぇ、ホント……」
呆れを通り越して尊敬すらするが、それでも静かになってくれるのならありがたい。
今からの時間は、教会にとって一番とも言えるほど重要な業務時間なのだから。
「……あ! 神父様、おはようございます!」
礼拝堂の奥から声がする。若き少女の、可憐な声だ。
東向きに建てられたこの教会は、朝日が差し込むとステンドグラスを透過し、虹色のような光で堂内を彩る。
カラフルな色彩がその少女の白いガウンに映し出され、金の髪もキラキラと輝いているように見えた。
まるで
「おはようございますイザベラ。今日は早いですね」
「老師様の大きな声が聞こえたから……」
「あぁ……。なるほど。起こしてしまいましたか。申し訳ありません」
「神父様が謝ることじゃないですよ! 早起きして、
「バッチリです。用意してくれてありがとうございます、イザベラ」
優しく少女の頭を撫でに行くと、不安そうだった少女――イザベラの顔に満面の笑顔が咲く。
はにかむ顔に嬉しさを湛えながら、イザベラは身廊の長椅子に腰かける。
そのうちに、開かれた門から続々と教会に村人達が入ってきて、思い思いの場所に座る。
クリス・ルシフエル神父は彼らの正面に立ち、教壇の上に置かれた聖書を開く。そうして、聖職者としての業務が開始される。
「……女神アルテミナは地に恵みをもたらし、あらゆる困難と共に人間にたくましさと大いなる悦びを与え……」
聖堂に響く神父の説法を聞く村人達の姿勢も、実に様々なものだ。
二日酔いで家に帰りづらく、気分悪そうにしながら腰かける者。
早朝の野良仕事の前に説法を聞こうと、ボロボロに汚れ傷付いた聖書を持っている者。
そして老師のように、長椅子に寝そべってイビキをかく者……。
熱心に聖書を読むのはイザベラくらいなものだが、それでも聖書を雑に読み流したりなどしない。できないのだ。
グラリア王国の都にある大聖堂なら、この時間からでも座る場所が無いほど信者が押しかけ、最後には街中に響くほどの大合唱で賛美歌を謳い上げるのだろう。
だが同じ国内でも片田舎の『おんぼろ』教会であるここでは、空席の方が多い。
僅か数人の、それもほとんどが信者でない者達のために。聖なる言葉を、淀むことなく朗々と語り聞かせる。
この10年で、暗唱ができるほど言い慣れた聖句だ。
「……アルテミナ神の御加護が永遠であらんことを。『
「マルサータ」
締めの言葉を復唱してくれるのも、イザベラだけだ。
形式だけの礼拝が終わると、昨晩のうちに用意していたパンを村人達に配る。
寝ていたはずの老師も、パンの匂いを嗅ぎ取るのか、礼拝が終わるタイミングきっかりに起床する。無頼な生活を送っているくせに、こういう所ではやけに時間に正確なのだ。
そうして村人達がそれぞれの家や業務に帰ると、神父達も一息付ける。
「さて……それでは朝食にしましょうか。イザベラ、今日もリールさんの牧場から、牛乳と卵を貰ってきてください」
「はい! すぐに戻ってきますね!」
「急がなくて良いですよ~」
朝食のメニューに加わる食材を求めて、イザベラもまた教会から出て行く。
元気で素直で、本当に助けになる子だ。13歳とは思えないほど、しっかりしている。
この教会で孤独に暮らすはずだったクリス神父にとっては、彼女の存在はとても心救われるものだった。
ただ。一つだけ難点があるとすれば。
「………………」
毎朝こうして、彼女に対して『口実』を作らなくてはいけないのだけが、厄介だった。
「……ッ」
イザベラが出て行くまでは、穏やかな笑みを浮かべ続ける事ができた。
しかし彼女が外出するのを見届けてから、聖書と花瓶を床に落としてしまう。
崩れ落ちるように教壇に倒れこみ、何とか背を預け、ゆっくりと腰を下ろす。
「……あぁ、もう……! そろそろ、慣れてくれません、かね……っ!」
大量の冷や汗が流れる。呼吸を荒くし、黒い神父服の上から胸を押さえる。
全身を襲う激痛。聖書を読み上げている間ずっと、平静を装って我慢していた。
彼にとって聖なる言葉は、『毒』以外の何物でもないのだから。
「魔物の身体には、キツすぎますって……! あの性悪女神……! 今度、会ったら……ッ!」
悪態と共に、胸の奥からこみ上げてくる熱。口元を押さえる。しかし我慢できず吐き出す。赤黒い吐瀉物。
純白の手袋を染める血の色は、遠い昔に手にかけた『彼女』のそれと似ていた。
クリス・ルシフエル神父――かつて膨大なる知識と技術で魔導を練り上げ、世界の全てを絶望に叩き落した『魔王』――は、己の苦しみや境遇を嘆く前に。
イザベラが帰ってくるより先に掃除をして、朝食の準備をしなければならないな、と。情けないほど律儀な焦りの方が先に来ていた。
フラフラと立ち上がり、古着を縫って作った雑巾を取りに行く。
決して拭えない、吐き出すこともできない、深い後悔を腹の底に抱えたまま。
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