21-10

 網屋が棚から引っ張り出した柔らかいタオルを相田の顔に押し付ける。両手で受け取って、押し付けられた状態のままでタオルに涙を吸わせる。ついでに口も覆い隠して無理矢理に声を抑えた。泣くという行為に呑まれ始めている、それに気が付いたからだ。まずは自分の泣き声から遮断する。自分にとってこれが一番効果的だと、相田は知っていた。

 そんな相田を椅子に座らせて、網屋自身も再び腰掛ける。無意識的に煙草を一本取り出し、口元に持っていくが動きが止まる。指で挟んだ煙草をしばらく鉛筆のように弄んで、結局は中に戻してしまった。


 しばらくして相田の嗚咽がおさまってきたのを確認すると、網屋はぽつりぽつりと、言葉を紡ぎ始める。


「なあ、相田。俺、お前が直に人を殺すのは駄目だ、って言ったな」


 タオルで顔を覆ったまま、言葉は出さずに頷く相田。ちらりと見て、網屋は俯いた。


「あれな……そんな御大層な理由があるわけじゃないんだ。ごく個人的な、俺の小さな欲望なんだ」


 言わずに済むならその方が良いだろう。だが、網屋は己の恥を曝け出す覚悟を決めた。理由を話さなければならない。今、ここで。


「先生方から仕事の依頼を受けて、ここに帰るってことが決まった時、さ。……本当は、お前に言わずに帰ってくるべきだったんだ。誰にも分からないようにするべきだったんだ。それは頭では分かってた。仕事で帰ってきたんだ、近くにいりゃいつかはバレる。バレなくても、巻き込む可能性がある。いくらなんでも危険すぎる。それなのに、わざわざお前に帰ることを教えた。よもや、お前んちの隣に住むことを決めた。お前を積極的に巻き込んで、危ない橋を渡らせた」


 相田はタオルを離し、網屋を見る。俯く網屋はひどく小さく、小さくなって、萎れていた。


「なんでだと思う? びっくりするほどクソみてぇな理由だよ。ホントに、クソみてえな理由。実にクソだ……」


 長めの前髪を邪魔そうにかきあげて、そのまま頭を抱えて、網屋は少し黙り、それから、胸の奥でつかえる塊みたいな言葉を、強引に吐き出す。


「……俺の正体を知っても……俺が何をやっているのかバレちまっても……お前に、昔と変わってないって……言って、ほしかったんだ」


 テーブルの上に置いた銃、その銃口は網屋に向いたまま。吐き出す心情は血の味がする。全力疾走したあとの、あの特有の味。


「バカみてぇだろ。もう、元通りになんてならねぇのによ」


 掌を広げ、じっと見つめて、隠すように握る。


「殺した、何人も殺した。家族の仇なんて、どうしようもないくらい残酷なやり方で殺した。いや、ありゃ殺したって言うんじゃない、拷問の挙句に死んだんだ。そんな人間が今更、昔と変わってないなんて……そんなわけ、ないだろ」


 しかし隠せない。汚れているのは掌だけではない。


「もうお天道様に顔向けて歩けねぇんだ。それなのに……この期に及んでまだ、俺はしがみついてる。こうなる前に、昔に……。だから、俺はお前に縋った。昔と同じように接してくれるんじゃないかっていう、お前の優しさにつけこんだ」


 相田は思い出す。網屋がここに帰ってきた日に浮かべていた、少しだけ悲しそうな顔。相田を運転手として医師達に推薦した時の、硬い表情。


「だからこそ、相田にはこっち側に来てほしくない。お前までこっち側に来てしまったら、もう俺は誰を頼っていいのか分からない。……お前さんを引きずり込まないために、そりゃ必死になって色々やったさ。目の前で殺さないように、肉眼で死体を確認できないように……死に、直に触れないように……。馬鹿だよな、ブッ殺してるのに変わりはないのに。無駄なことを……」


 祈りのように、手を組んで身をかがめる。背を丸め、隠すように頭を下げて。

 懺悔か。懇願か。謝罪か。断罪か。そこに、いつもの網屋の姿はない。笑って困難を解決する、頼りがいのある兄貴分としての網屋は居ない。ただ小さくなって、己の愚行に震える男が居るだけ。


「だから、だから、頼む、相田……お前だけは、こっちに来るな。お前だけは……」

「先輩」


 掛けられた声に、網屋は身を竦めた。相田の声にはまだ、涙が混ざっていた。


「……先輩は、変わってないと思います。昔と、ちっとも変わってない」


 盛大に鼻をすすって、タオルで強引に涙を拭き、相田は網屋を真っ向から見つめる。


「先輩の言葉を聞いたから都合のいいこと言ってる、ってんじゃないっスからね。俺、そこまでお人好しじゃない。特に今は、無理。でも……やっぱり、変わってない。俺の願望も入ってると思うけど。先輩は、先輩です。俺の知ってる、網屋希って人です」


 もう一度鼻をすする。まだ流れようとする涙をタオルと袖で何度も拭い、目の周りが真っ赤になる。


「言いたいことは、それだけです」


 ここまで一気に喋りきってしまうと、今度こそ相田はボックスティッシュを探し出し盛大に鼻をかんだ。風邪や花粉症と違って、泣いた時の鼻水は粘度が低い。何度すすっても勝手に流れ出してしまうのだ。

 網屋は驚いたまま何も言い返すことができなかった。しばらく鼻をかむ相田を呆然と見つめ、小さく「すまん」と呟くことしかできなかった。

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