19-7

 長きに渡る通話を終え、塩野はスマホをシグルドに返却しようとして彼の顔を見た。だが、その表情は研ぎ澄まされていて、思わず差し出した手を引っ込めた。

 例えるなら水面のようだ。ひどく澄み切っていて、水底まで見えるような透明度の水面。生き物一ついないどこまでも透明な水。触れたら最後、その冷たさに体が凍えきってしまうだろう。

 その張り詰めた水面がわずかに緩んで、シグルドの視線は塩野に向けられる。


「終わりましたか」

「……ほい。ありがとね」


 ようやくスマホを返すことができ、塩野は安堵の息をついた。己が生み出した強烈なイメージに引っ張られるのは良くない癖だ。判断と思考は分けておかねばならない。

 己を戒める塩野の内心など知らず、シグルドはあまり大きくはない声で話しかけた。


「そろそろ、やっこさんも本気を出してくると思うんですけどね」

「やっぱりぃー? 困るなぁ」


 クラウディアとの通話に集中していたので気付かなかったが、シグルドと塩野の二人は既に大学敷地のほぼ中央にまで到達していた。比較的樹木が多い場所でもある。塩野は辺りをきょろきょろと見回し、人がいないか確認する。


「そっか、こっちまで来ちゃったのかぁ。結構歩いたよね」

「ですね」

「あのさ、シグルド君から見るお相手さんはどんな印象?」


 唐突な質問に、シグルドは遠くを見透かしながら視線を合わせずに答える。


「お利口さんと言うか、クソ真面目と言うか、お手本通りと言うか……船の印象と違って、硬いな、と」

「ふむぅ」

「気配を消すのがやけに上手い奴だなというのが第一印象だったんですが、もっとこう、違うような……」


 ここまで言いかけて、シグルドの言葉が止まる。捉える視線はそれほど遠くはない。少し目を細めて、「いた」と呟いた。塩野を伴って木の影に隠れる。そのまましばらく待てば、建物の隙間から覗いていた銃口が引っ込んだ。


「……移動したな」

「どう、今の状況って」

「少しづつですが相手との距離を詰めています。次は当ててくるでしょう。あまりこちらも呑気に歩いてはいられない、かな」

「ああ、そうだよね。向こうはスコープ越しにこっちのこと見てるんだもんね、距離詰めてるのなんて分かってるかぁー」


 塩野の顔付きが僅かに変化した。ごく僅かである。与えられた情報と見て取れる現状と、そこから推測できる心理、それらを全て組み合わせて、少しづつ見えてくる最適解。塩野はその肌触りを掴みつつある。


「シグルド君、次に相手さんが陣取る位置、予測できる?」

「まあ、大体ですが」

「大丈夫、その予測で合ってる。さっきシグルド君が言ってたように、お相手さんは堅物真面目のお利口さんだ。あまり奇天烈なことはできないタチだよ。確実なタイミングで確実に出来ない限り、彼は動けない。時が訪れるまでは何も行動できないはずだ。臆病な人みたいだから」


 塩野が話すボーグナインの人物像に、シグルドは突如「そうか!」と小さく叫んだ。口に手を当て、何度か「そういうことか」と呟く。塩野は黙って、シグルドが導き出した答えを待った。


「おかしいなと思ってたんだ。船の上ではあんなに上手く気配を消していたのに、今は微妙に違う。状況が違うからなのか、それとも遊びのつもりだからなのか、そう思ってたが……違う。気配を消すのが上手いんじゃない、こっちの隙を突くのが異様に上手いってことなんだ」


 今度は塩野の顔を見る。そう、答え合わせだ。互いが持つ答えの欠片をかき集め、つなぎ合わせることで見えてくる絵を当てる答え合わせ。

 実は、これは塩野の賭けであった。今はとにかく時間がない。速さを信条とする塩野であるが、この状況下では『塩野の速さ』と『戦闘状況の速さ』は並走できない。それは徒競走とカーレースの差だ。

 ならばどうするか。この狼の背に乗せてもらえば良いのだ。塩野の分析した結果を、シグルドの状況判断と組み合わせて情報を倍加する。互いの認識を共通化することによって、判断を並列処理するのだ。

 戦闘状況下における情報処理は、具体的な戦闘経験が無い塩野では難しい。だから、その部分はシグルドに丸投げだ。また逆に、シグルドはボーグナインに関する心理的分析は塩野に丸投げしている。そこには互いの絶対的信頼がある。この相手なら任せて問題ない、全て委ねてしまう程の信用。その信用を勝ち取るために塩野は出来得る限りの努力をした。それに引きずられるように、シグルドも同様の努力をしているはずだ。


 この技術の名前は高速転移ワンナイトラブと言うのだが、目の前にいる金色の尻尾の狼には口が裂けても言えないな、と塩野は内心で呟く。

 だが、この高速転移は予想以上の効果をはじき出した。塩野に引っ張られるように、シグルドは分析をし始める。まるで解体屋のように。


「糞真面目だから突飛なことはしない。確実なタイミングでしか動かない。その確実性を強固にするために、相手の隙を窺う。隙ができた時にしか動かない。それ以外は息を潜めて待っている……結果として、隙を突くのが上手くなるんだ。だがそんなのは向こう側の主観であって、やられる側から見れば気配を消すのが上手いとか、やたら強いとか、そんな印象になるはずだ」

「そうだね。だから、自分の実力以上の人間を極端に嫌う。その化けの皮が剥がれてしまうから。そりゃ実際に、それなりには強いんだろうし、隙を突くのだって立派な実力の一環なんだけど、彼の中では納得してないんだ。己の弱さだと思ってる。だから必死になって隠そうとする、見られまいとする」


 双方の分析が互いを押し上げて、ボーグナインの裾を掴む。走れ。走れ。背中に牙を突き立てるまで、もう少し。


「そこまで分かればこっちのもんです。あと三十分以内に、あのいけ好かない野郎を生け捕りにしてみせますよ」

「おっ、強気発言〜。美形に言われるとなんかさ、チキショウって思うよね。変な説得力があるだけに尚更だよね。ということで、積極的に向こうを見つめてあげてくれる?」


 さすがにこの発言の意図はすぐに分からず、シグルドは塩野の顔を見返す。視線を受けた塩野はにっこりと笑ってみせた。


「ちょっと、遠隔解体テレ・デプログラムをやってみようかと思ってね。こちらの声が届かないうちは、シグルド君の視線と存在が解体の道具だ」


 解体屋が牙を剥く。浮かべる笑顔は、朗らかなものではない。


「僕達を狙撃しようってんなら、その状況を最大限に利用させてもらおう。だって、こっちを必ず見てなけりゃならないんだものねぇ? 狙撃って手段を選んだこと、泣くほど後悔させてあげようよ」

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