19-8

 先程、目が合った。スコープ越しにだ。相手がこちらの位置を捉えている。いささか遊びが過ぎたか。

 できればもう少し距離を取りたい。この距離では、あと少しで相手の射程距離に入ってしまう。何のための狙撃銃であるか、それは距離的優位を保つためのものであろう。距離的優位が保てなけれは安全性が崩れる。それに、これ以上長引かせる訳にも行かないだろう。もう少しで良いのだ、離れたい。離れなければならない。

 だが、それがどうにも上手く行かない。撒き切れない。実に鬱陶しくまとわりついてくる。一度引き離したほうが良いのではなかろうか。

 そう考えているうちにも、あの金色の髪が視界に入ってくる。こちらに向かって真っ直ぐ、氷色の瞳が見据えてくる。こちらの顔を見ているわけではないことは分かっている。が、あまり良い気分にはなれない。スコープ越しに目が合うのが何より嫌だ。光の反射が無いようにしているはずなのに。

 舌打ちが漏れた。余計な音は極力出したくないのに。もう少し楽な仕事だったはずだ。日本の奴らが標的を仕留め切れないのは、気が緩んでいるからではないかと常々思っていたのだが、案外そうでもないのだろうか。

 相手が悪い。そんな嫌な言葉が頭をよぎる。解体屋などという奴らはあまり相手にしたくない。今はもういないが、高帆という男は得体が知れず気味が悪かった。地雷を仕掛けられると分かっていて、己の精神を相手に委ねるのは気持ちの良いものではなかったが、あの男は尚更に嫌悪感が湧いた。

 その時に抱いた嫌悪感と同じだ。うまく説明のできない、靄がかかったような感触がいつまでも晴れない。


 賞金稼ぎがついに銃を手にした。消音器サプレッサーを噛ませてもいない。目立つことを恐れないのか。それとも、他に意図があるのだろうか。

 いっそ、解体屋の方を直に狙った方が良いのではないだろうか。賞金稼ぎは後から始末しても構わないだろう。そうだ、それがいい。とにかくそちらから狙ってしまおう。

 そうしてスナイパーライフルを構えた、瞬間。見なくても良いはずの、解体屋の口元。見てしまった。その口の動き。


「見ぃつけた」


 耳元で囁かれた。いや、そんなはずはない。十分な距離は開いているはずだ。相手の声が聞こえる位置ではない。それなのに、いやにはっきりと声が分かった。認識してしまった。こちらに向かって囁いたのだと、分かってしまった。

 思わず銃口を引っ込めてしまう。酷く心臓が鼓動を打っていて、こんな状態ではとてもではないが狙撃などできない。

 直に心臓を鷲掴みにされたような、とても、とても嫌な感触。逃げた方がいい。一度撤退して、体勢を立て直した方が良い。武器をケースにしまうと急いで立ち上がった。場所が悪い。少し離れた所にある、あちらの建物までとにかく移動するべきだ。さらに向こうの駐車場には自分の車もある。いっそ、そこまで戻ってしまうのも手だ。今は、逃げなければ。逃げなければならない。

 急いで屋上から離れ、階段を駆け下りる。一度下に降りるということは、相手との距離が接近するということだ。袋小路になってしまう箇所に陣取るのは得策ではない。次は退路を確保できる箇所にしなければ。どこだ、どこにする。

 いっそ近接戦闘を仕掛けるか。いや、駄目だ。近接戦闘など相手の思う壺である。それがどれほどの下策であるか、部下を何人も失って学んだではないか。狼どもは近接戦闘に長けている。あのシグルドという男が比較的、距離を取る戦い方をするというだけの話だ。その部分の情報に覆われて、近接格闘に関する詳細が見えなくなっていただけだ。とにかく、接近するのは駄目だ。

 走る。全速力とまでは行かないが、駆け抜ける。心臓が早鐘を打たない範囲を保ちつつ、それでも走る。位置を確保し、態勢を整えて鼓動と呼吸を整えるまでに費やす時間を考慮しつつ、走る。軽く振り向くと、見えた。金色の尾が見えた。視界の端にだが、はっきりと。接近している、先程よりもさらに。

 撒かなければ。人がいる場所、その中に紛れてしまえば……いや、それでは相手も同じ有利性を持ってしまう。危険過ぎる。早く、早く優位性を回復しなければ。

 本校舎と、横にある建物の間。敷地内の中で最も樹木が密集している箇所。そこだ。いざとなれば建物内に入ることもできよう。


 ああ、せめて『キャンディ』を口にすることができれば。そうすれば、この焦燥感から開放されるだろうに。この感情が嫌いだ。追い立てられる、追い詰められる、逃げ場がなくなるようなこの気持ちが本当に嫌いだ。放っておいてくれ。そっとしておいてくれ。暴かないでくれ。見ないでくれ。

 あのクスリは、そんな嫌な気持ちを全て帳消しにしてくれる。これで良いのだと、何も恐れることはないのだと囁いてくれる。あの安寧の中に浸っていたい。救いが欲しい。

 だが、今ここには無い。手に入れるためには、あの二人を屠らなければならない。生け捕りにする必要はないのだ、死体を確保するだけでいい。殺してしまえば、この迫り来る恐怖から逃れることもできよう。

 そうだ、早く始末してしまおう。早く、早く。


 物陰に引っ込み、ケースからスナイパーライフルを取り出す。手袋の中が汗ばんでいる。少しだけ手が震えているような気がしたが、敢えて無視する。今は急がなかればならないのだ。早く、早く、早く、早く!


 こんな時に限って、どうして奴の顔を思い出す。いつも冷徹な顔で任務をこなす、あの姿。早く、と急かす声が聞こえる。

 あいつも、あいつもそうだ。どいつもこいつも、早く早くと急かすばかり。できるはずだと、もっと速度を上げることができるはずだと、そんな怖ろしいことができるものか。じっと待つことしかできない、この俺が!

 できないんだ。失敗したらどうする? それが致命的な失敗であったら? 責任を取るだとか、そんなことで済むのならまだいい。それで済まなかったら? それが最後だったら?

 怖ろしいのだ。後が無いという環境が。確実に成功させなければならないという状況が。保険が欲しい。逃げ道を確保したい。それの何が悪い。俺は何も悪く無い。正しいはずだ。誰もが同じことを思うはずだ。


 だから逃げた。別の道を選んだ。今まで歩んできた道は闇に閉ざして、消してしまった。そうすれば、恐ろしさを思い出さずに済む。皆殺しにしてしまえば、思い出すものはいなくなる。殺せなければ離れれば良い。

 殺した。全員殺した。同じチームの仲間も、世話になったマフィアの連中も、残らず殺した。始末できなかったギルベルト・ハンニバルもクラウディア・ハクスリーも現役から引退してしまったから、問題はない。もう接点はない。死んだも同然だ。


 殺さなければならない。早く。早く。一人残らず。全て。


 スコープを覗き込む。相手の位置は把握している。標的がかけている眼鏡が日光を反射して光る。こちらからは丸見えだ。

 ほら、簡単な話ではないか。相手は素人だ。無防備だ。風は無い、考慮から外して良いだろう。セイフティを解除して……


 嗤った。標的が、嗤った。木陰から体を出し、明確にこちらを指差して、嗤っていた。

 同時に、後頭部に何か硬いものが突き付けられるのを認識する。


「かくれんぼはこれで終わりだ。クリストファー・ボーグナイン」


 終わりを告げる、シグルド・エルヴァルソン。彼の声と同時に、もうひとつの声も聞こえていた。スコープ越しに聞こえる、シズキ・シオノの囁き。


「つかまえた」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る