18-6
翌日は平日の月曜日だ。
加納みさきは、講義終了後にバイト先のグリズリーコーヒーへ向かった。土産用に販売しているクッキー類の在庫状況を確認するためである。売れ筋を分析し、対策を練る。場合によっては新作であるとか過去に出したものであるとかの作成を検討する。
裏手から入り、荷物を置いたらエプロンを身に着け手を洗う。状況によっては一時間か二時間位は働いてゆくこともある。そのための準備は怠らない。
カウンターに入ると、椿がいた。真澄の姿はない。
「在庫確認に来ました。マスターは?」
「お客様と一緒にガレージ。もしかしたら、そのまま修理に持っていくかもしれないって」
「じゃあ、こっち手伝うね」
「あんがと、助かる」
客との会話はやはりバイク関連のことが多くなる。愛機の調子が悪い、となれば即確認するのが真澄の性格だ。性格というより、すでに癖と化している。だが行うのは確認まで。その後は修理店を紹介し、すぐに向かえるようなら連絡を入れるのが一連の流れだ。
車種や不調子の内容によって紹介する修理店を変える。真澄の紹介先は的確だと評判であり、寧ろそれを目的に来店する客もいるほどだ。
「椿さ、昨日はどうだった?」
洗ってあった食器を拭き始めたみさきが問う。レースの結果ではない。それならみさきも中継を見ていたから知っている。問うたのは、もっと別の事項であった。
「……来てくれた」
答える椿は満面の笑み。少しだけ頬は紅潮している。
みさきは思うのだ。皆は椿が男らしいだとかいうけれど、それは彼女をよく見ていないだけ。それが全てではない。その証拠にほら、こんなに可愛らしく微笑むではないか。
「やったね!」
「いやあー張り切っちゃった」
「すごかったもんね。あんまり速くてびっくりした」
「ちょっと調子こいたかもしれない。いいとこ見せなきゃって思ってさ」
調子こいた結果が一着ゴールなのだから、常に調子こいていた方が良いのではなかろうか。
実際、椿は周囲の期待や責任が重荷になるタイプではなかった。寧ろそれらを推進剤にしてどこまでも走って行ける。そこに、恋愛という起爆剤が加わるとどうなるか。結果はご覧の通りだ。
「あと、目が合った。と思う、多分」
「おお」
「観客席にいるの見つけてさ。こっち見てるかなって思って手を振ったら、振り返してくれた」
「おおお」
嬉しそうに話す椿を見ていると、みさきも嬉しくなる。男なんぞに興味はない、バイクのことだけで手一杯、なんてうそぶいていた彼女がどうだ。ふわふわと笑っている。
無理にでも男を作れという訳ではない。だが、なんとなく嬉しい。彼女が自発的にそんな感情を抱いたことが嬉しいのだろう。
「いっそのこと、告白しちゃったらどうかな」
「無理無理無理、無理、まだ無理、だって、その、どうしたらいいのかよく分かんなくて……うう、みさきはいいなあ……勝者の余裕か……」
「しょ、勝者って」
「だってさあ、向こうからでしょ。なにそれー羨ましいーなにそれェー柔らかい笑み浮かべてんじゃないよーなにそれェェー」
みさきの両頬を軽くつまんで引っ張る椿。引っ張られながらも「ふへへ」と間の抜けた笑いを発するみさき。発するというより、漏れたと表現する方が正しい。
「に、してもさ」
みさきの頬を気の済むまで伸ばした椿は、手を離すと少しうつむく。
「私ってチョロいよねぇ」
「ちょろい?」
「だってさ、だってだよ、ちょっと歳の近い男性とくっちゃべってただけで惚れるとか、どんだけチョロいんだって思わない?」
「うーん、年齢の近い男性って観点で考えれば、周辺にいっぱいいると思うんだけど。学校にも、チームにも」
「…………そういや、いたな。忘れてた」
近いどころか同世代が山程だ。しかも椿の通う学部は男性が大半を占める。本当に椿が「ちょろい」のであれば、四年になるまで何もないはずがない。
「あああああ、でもさあ、大丈夫かなあ。私が恋愛とか、自分で信じられないんだけど」
「大丈夫だよ、ちょっと前まで私もそんな感じだった」
「なに言ってんだいこの娘は。そんなめんこいツラと驚きのナイスボディひっさげといて、なァにを言ってんだいエエこら。私なんてね、腹筋が製氷皿だよ? 腹筋が……製氷……皿……」
自分で言って悲しくなってきたらしく、椿は片手で顔を覆ってうなだれる。
「どうなの……腹筋バッキバキの女ってどうなの……ドン引きされるんじゃないか……?」
「関係ないから。腹筋関係ないから。恋愛に腹筋は関わってこないから。落ち着いて椿」
「落ち着くなんてできませんーでーきーまーせーんー」
「直に会って話してる時は大丈夫なのに」
「そん時はそれでイッパイイッパイなの。他に何か考える余裕すらないの」
そんな風にわたわたしている椿も可愛いじゃないか、と思うのだが。みさきは口をつぐむ。
椿の方はみさきのそんな考えに気付くはずもなく、一人でのたうちまわっていた。つい最近までみさきを眺めて「恋愛って大変だなぁ」と呑気な感想を抱いていたのが嘘のようだ。こんなにも心を持っていかれるのか。こんなにも、苦しいのか。
溜息がコーヒーの香りに紛れて消えてゆく。
「……網屋さん、今週も来てくれるかな」
口の中だけで小さく呟いて、椿は視線を落とす。他愛もないささやかな時間に、そっと思いを馳せた。
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