17 ざるうどんと二人

17-1

 加納みさきは、悩みに悩んでいた。スーパーマーケットの野菜コーナー前でカートのハンドルを力一杯握りしめたまま、端正な顔立ちを苦悩に歪め、微動だにせぬまま悩み続けていた。

 非常に由々しき問題である。根本からのだ。せっかくの決断も、足元から崩れてしまえばどうしようもない。これでは身動きが取れぬ。まるで、底無し沼に沈み込んでゆくようだ……


「あれ、加納さん」


 名を呼ばれ、ようやくみさきは我に返る。


「やっぱり加納さんだ。ちわっす」


 朗らかに笑いながら挨拶してきたのは、網屋希であった。みさきと同じくカートに買い物かごを載せて、中には既に本日の目玉商品であるナスが三袋入っている。


 大学のサークルのメンバー相田雅之が「先輩」と呼んで慕うこの青年は、みさきのバイト先である「グリズリーコーヒー」の常連客でもある。

 普段は奥の厨房から出ないみさきであるが、手が空くとたまにカウンターに出て、網屋と料理談義に花を咲かせることもあった。目澤に作る弁当のアイデアをもらったりもする。筋金入りの料理男子である彼は、料理のことなら確実に返事が帰ってくるのだ。


「今日は買い出し?」

「え、あ、ええっと……そうです」


 奥歯に物が挟まったような物言いだが仕方ない。自分でもよく分からなくなっているのだから。


「網屋さんもですか?」

「うん。今日は最終土曜日、『超お買い得・お米の日』だからね。白米はとても良い食料です」


 カートの下の荷台部分に、十キロの米袋が二つ。これまた本日のお買い得商品である。やはり男性は沢山食べるのかなあ、などとぼんやり考えながら米袋を見つめていると、網屋が恐る恐る尋ねてきた。


「何かあった?」

「え」

「いや、すげー怖い顔してたから。何かあったのかなと思って」

「そんなにすごい顔、してましたか」

「うん。声を掛けるのをためらうくらい」


 それでも声を掛けてくれたのだから、彼には感謝せねばなるまい。

 みさきは心に決めていた。どんな手段でも使うべし、と。故に、目に前にいるこの男も利用すると決めたのだ。


「あの、網屋さん。お時間ありますか」

「はいよ。ありますよ」

「ちょっとご相談したいことがありまして」

「俺で良ければいくらでもどうぞ」

「では、遠慮無く。……今日のお夕飯、何にしますか?」


 相談内容の割には、みさきの顔は真剣、と言うより鬼気迫るものがある。であるので、網屋は真面目に答えた。


「肉の状況による」


 手に取った水菜の葉先と根本を確かめて、三袋ほどかごに叩き込んでから網屋は精肉コーナーへと移動を始める。追随するみさきに歩調を合わせながら、解説を加えた。


「今日はさ、ナスが安いでしょ。だからナスをベースに考えて、麻婆茄子か、ナスと鶏肉の酢醤油漬けか。……あれ、相田の分のメシも用意してるって話、前にしたっけ俺」

「いえ、初耳です」

「まあ、ちょっと事情があってね。で、アレが相手だから、出来る限りかさ増しするか、噛みごたえのあるものにしないとイカンのよ」

「ですよね。相田さんの分も、となると……」


 エンゲル係数を抑えるためにいつもは加減気味、とのたまう相田の日常食事量でさえあの有様なのだ。抑えなかったらどうなるか、みさきは想像して青くなる。


「だから、安い方の肉を選ぶことになるわな。お、豚こま安い」


 迷いなく網屋は豚こま切れ大パックを二つかごに入れた。


「あれ、麻婆茄子なら挽肉じゃないんですか?」

「うん。かさ増し目的なんだけどさ、結構いいよこれ。冷蔵庫の中にある残り野菜も入れて、ほとんど野菜炒め状態になる」

「なるほど、いいかも……中華系かぁ……」


 みさきが迷っている間に、網屋は鶏肉もチェック。少し悩んでから、胸肉の三枚入りもかごの中に入れてしまった。


「酢醤油漬けの方が手間かかんないからなぁ。どうすっか」

「そうなんですか?」

「ボウルに酢と醤油と砂糖入れてさ、鶏肉とナスを揚げたそばから直に叩き込めば完了。肉の下味付けるのも、ビニール袋に入れてやっちゃう。洗い物も減って楽だよ」


 話す内容はほとんど主婦。カッコイイ系料理男子とは言いがたい、圧倒的主夫力を見せつける網屋である。必要に駆られて毎日炊事をこなしていればこうもなるのか。


 一方、みさきはますます眉根を寄せ、頭を抱えてしまった。


「あああどうしよう、決まらない、何作ろう」

「今日は食事当番か何か?」

「いえ、ちょっと違うんです。そのう、実は……私、意中の男性がいまして」

「うおっ、マジで」

「その人のお家へ、お夕飯を作りに行こうかと!」

「うおお、マジで!」


 網屋の人生には縁遠い、少女漫画的なキラキラとした、みさきのはにかむ顔。あまりの眩しさに直視できないほどだ。まばゆい。甘酸っぱい。死にそう。いや死にたい。いっそ殺してくれ。

 モテナイ村の住人はただ、その光に灼かれるしかないのだ。

 絞り出した言葉はほぼ呻きと化して、ボロボロとこぼれ落ちる。


「いいなあ、うらやましいなあ、その人。女の子にメシ作ってもらえるって……すげえ……」

「えっ、網屋さん、お料理上手じゃないですか。ご自分で作れるから大丈夫なのでは」

「いーや、それとこれとは別件です。全く違います。作ってもらうってことが大事なんです」


 拳を握って力説する網屋。表情は真剣そのものである。彼が心の底から言っているのはよく分かる。


「……伝えておきますね」

「え、何?」

「いえ、何でもないです」


 小さな呟きに引っ掛かったが、みさきが何でもないと言うなら何でもないのだろう。網屋は相手の意図に従うこととした。

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