10 二輪と四輪
10-1
網屋のスマートフォンが鳴ったのは、午後六時頃であった。
夕飯の支度を始めようと台所に立ったタイミングである。テーブルで待機していた相田が、網屋に鳴り止まないそれを手渡した。
「はい、網屋です。先生、どうされました?」
掛けてきたのは中川路であった。
『いやね、ちょっと来てもらいたい場所があるんだけど。相田君も一緒に』
「相田も、ですか。場所はどこですか」
『藤巴っていう小料理屋、知ってるかな。網屋君ちから近いはず』
「あー……看板を見たような覚えが……ちょっとお待ち下さい」
マイク部分を手で塞いで、相田に顔を向ける。
「相田さ、藤巴っていう小料理屋知ってる?」
「場所は分かります。行ったこと無いけど」
その旨を中川路に伝えると、向こうから安堵の声が漏れた。
『おお良かった。今から来れる?』
「あ、はい。大丈夫です。緊急ですか?」
『急ぎって訳じゃないんだけど、まあ、早いに越したことはないかな』
「了解です。すぐに向かいます」
『よろしくー』
ここで通話は切れた。
念のため、少し多めに弾倉を用意して二人は指定された小料理屋へと向かう。
確かに、近かった。彼等のアパート前を走る通称「旧道」を真っ直ぐ西へ行くだけだ。しばらく行くとすぐ隣の深谷市になるのだが、その深谷市と彼等の住む熊谷市のほぼ境目に当の小料理屋はあった。安全運転でも五分とかからないだろう。
進行方向右側にある「割烹・小料理 藤巴」の看板に従い右折。少し細い道を進むと、すぐに店舗は見えてきた。
更に奥へ進んで店の駐車場、とは名ばかりの空き地に車を停める。例の真っ赤な中川路の車も停めてあった。
いかにもな外観の玄関。のれんをくぐって扉を開けると、右側に座敷席。左側奥にカウンター席。「いらっしゃいませ」と複数の声。
「あのー、すみません」
と網屋が声を出した瞬間、左真隣の引き戸が猛烈な勢いで開いた。
「来たッ!」
「いよっしゃあ! 代行車確保!」
隠し部屋のような小さめの座敷。中にはまず、ハイタッチしている中川路と塩野。あと、升酒片手にすっかりくつろいでいる目澤。
「まぁまぁまぁ、上がって」
言われるがままに座敷に上がり、とりあえず座る。中川路が、背後の壁に付いている小窓を開けた。
「大将、刺身盛り合わせ二皿と、あと何か焼いてもらって……アジがあるの?」
「アジだったらフライがいい!」
「良い事言った塩野。えっと、アジの焼きが二のフライが三ね。あとどうしようか」
「ゲソ揚げてもらったらどうか」
「そうだそうだ、ゲソ揚げだ。忘れちゃいけない。ついでにタコも天ぷらにしちゃって下さい。で、ビール二本と吟醸一本追加でよろしく!」
小窓はカウンター奥と直結しているのだ。座敷から一歩も出ず、さらに店員を呼ぶ必要もなく直に注文できる便利な小窓である。
上機嫌な三人に、網屋は恐る恐る問うた。
「あの、さっき、代行車っておっしゃいましたよ、ね?」
「うん!」
満面の笑顔で返答する中川路。
「いやあ、つい調子に乗って全員飲んじゃったもんだから」
「でね、よく考えたらココ、二人の家に近いじゃーんってなって、そしたら二人に迎えに来てもらえばいいじゃーんって! ねー?」
「まあ、ご馳走するから。ここの魚介は旨いんだよ」
三人全てが酒臭い。相田と網屋は、なんとも言えない表情で顔を見合わせた。
「仕事では、ないんですね?」
「いやいや、仕事の一環だよ網屋君。我々の医者生命に関わることだから!」
「そーだよー飲酒運転なんてしたらヤバいもん! ねー?」
「警護といえば警護だなあ」
いつもなら突っ込むはずの目澤がツッコまない。嫌な予感がして彼の後方を覗き込むと、空の一升瓶が二本転がっていた。
「……先輩、かなりダメな感じですね」
「全体的にダメだな。よし、諦めよう」
全てを通り越して既に笑顔の二名。悟りすら開きかねない穏やかな笑み。金で雇われているのだから仕方無い、とか、その程度の問題ではない。
もう呼ばれちゃったんだからどうしようもないよねー? 飲んじゃってるしねー?
そう、頭の中で呟く。
その呟きの直後、真っ先に来たのは酒であった。調理する必要のないものであるから当然と言えば当然である。
中川路と塩野がビール、目澤は吟醸をなみなみ注いで、盃を高々と掲げた。
「乾杯!」
「天国のユリウス・クレーモラに乾杯!」
そのまま一気に呷る。三人ともきっちり飲み干すと、盃を机に叩きつける。
網屋の表情が、少し変化した。
「先生方、もしかして、また被害者が出たんですか」
「…………まあね」
空になったグラスにビールを注ぎながら、中川路は半ばヤケクソ気味の笑顔で答える。
「今現在の標的は俺達だけだと思って油断した。それに、やはり国外へのフォローは難しいね」
「国は?」
「フィンランド。警戒しろとは言っておいたんだが、各自で出来る範囲はばらつきがあるからなぁ。もうここまで来ると、何人目か数えるより、残り何人か数える方が早いかもな」
酔いたくても酔えないヤケ酒。三人の妙なテンションの正体はこれだ。分かっているのに手を付けた、それでもやはり、どうしようもない現実。
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