ココロのあしあと

雪夏 ミエル

第1話

 電車のドアが開くと、そこは一面の銀世界だった。


「えっ、ちょっと。ホームくらい雪かきしてよ」


 文句を言いながらも、車掌の笛の音に急き立てられるように足を下ろす。

 履いているショートブーツは、あっという間に雪の中に埋まった。


「ううう……、冷たい!」


 しくじった……。

 一両目に乗ったのが敗因だった。ホームの屋根から外れた降車口には、こんもりと新雪が積もっている。

 ブーツに容赦なく入り込む雪に凍えながら、改札口に繋がる階段を目指す。

 最終電車から下りたのは私ひとりだけ。しかも改札も無人ときている。夜の静寂に包まれ、若干の薄気味悪さも感じる駅舎を足早に出ると、そこに見知った顔があった。


「遅えな。こんな夜中に迎えに来てやってんだから、早くしろよ」


 憮然とした表情で出迎えたのは、従兄だった。

 見知った顔ではあるが、そこには会っていなかった五年分の年輪が刻まれている。それはきっと、私もだろう。従兄は「老けたな」と遠慮なく言い捨てた。


「ひどっ! 会っていきなりそれはないでしょ」

「うるせえ。この年の瀬にいきなり帰ってくるとか、そんな我儘に振り回される身にもなれ。ほら、早く行くぞ」


 ぶっきらぼうに言い捨て、手を差し出す従兄に、紙袋を手渡す。中身を確認した従兄は「新幹線で買った感満載」と、またもや言い捨てた。

 ムッとしたが、図星のため何も言い返せない。

 勢いで切符を買い、新幹線に飛び乗ったものの、さすがに手ぶらでは……と思ったのだ。新幹線の移動販売はそれを見越した土産物が、いくつか用意されている。勿論、実家のものだけではなく、迎えに来てくれた従兄の分も用意した。


「おい、吹雪いてきた。早く来い」


 気づけば、声は随分と先から聞こえる。

 点々とある街灯の灯りでも、田舎の闇を照らすほどではない。そこに浮かび上がる横殴りの雪が不気味に際立つ。軽く巻いていたマフラーを、二重にきっちり巻き直すと従兄を追った。が、なかなかその距離は縮まない。

 夜になり、だいぶ積もった雪は除雪が間に合わず、そのまま残っている。つまり、一歩ずつズブズブとブーツが埋まるのだ。

 強制腿上げのような歩みでは、あっという間に息が上がった。


「ちょ……、ちょっと……! 待ってよ!」

「なんだその歩き方。雪を忘れたのか」

「そんなワケ、ない……じゃない!」


 従兄はしっかりと長靴を履いている。しかも、分厚い上に上部をヒモで縛るタイプのものだ。雪など入る余地もない。

 大股でザックザックと歩く従兄の姿は、あっという間に小さくなる。


(ああ、もう……なんでこんなことになってんの……?)


 こんなはずではなかった。

 滲んだ視界に、次から次へと雪が降る。



 いつもと同じ朝だった。

 いつも通りパンを四枚焼き、ベーコンを二枚焼いた後、油を拭かずにそのままスクランブルエッグと目玉焼きを作る。

 ミルクたっぷりの紅茶と、ブラックコーヒーを淹れ、カウンターに置いたところで、髭を剃り終えた彼がキッチンにやって来た。

 目玉焼きに醤油をひと回し。崩さず丸く焼いた目玉焼きの黄身に、なんの躊躇もなくフォークを刺すと、とろりと流れだした黄身を周りの白身にまんべんなく塗り付ける。彼はそれを三等分して、同じく三等分したベーコンと一緒に食パンで挟んで食べるのが好きだった。

 初めは、目玉焼きに醤油ならご飯だろう、と思ったし、醤油にベーコンもどうなんだろう、と思ったけれど、それも慣れた。なにせ同じことを三年もされれば、慣れるというものだ。

 眼鏡の奥で眠たそうに瞬きを繰す目は、私に向くことはなく、テレビに向けられている。

 いつもと同じ朝だった。

 けれど、この時ふと、「初めはこういうのも幸せを感じていたのにな」と思ってしまったのだ。

 私は今年、二十九歳になった。

 女の二十九歳といえば、繊細な年頃だ。仕事が面白くなりつつある中、結婚も意識しだす。愛する人がいて、同棲という疑似結婚生活をしていれば、尚更だろう。そのような環境から、結婚を意識するのは普通の流れだと思えた。

 起きて来てからここまで、彼は一言も発していない。けれど、それが幸せなのだと思っていたのだ。

 彼は年齢というものを、どう考えているのだろうか。これまで共に過ごした時間は、彼の人生にとってどんな意味があっただろう。

 普段と変わらない彼を見て、突然「これでいいのかな」という、漠然とした不安が押し寄せた。

 大股で急ぎ足に、部屋を出ようとする彼を、洗い物をしながら見送る。私の方が仕事納めが一日早かったのだ。いつもなら早く帰宅した方がやっていたのだが、今日は早く綺麗にしておきたくて、率先してやっていた。すると、いつもなら「じゃあ」としか言わない彼が、キッチンを出ようとして振り返る。


「今日、飲み会だから遅くなる」

「は?」


 え。ちょっと待って。今日は婚約記念日だよ?

 三年前の今日、結婚を前提にということを条件に、うちの母が同棲を許した日だ。お正月休みを使って、彼の車に荷物を詰め込み、何往復もして彼の家の住人になった日。記念日に疎い彼でも、この日は揃ってちょっと贅沢なお家ごはんをするのが恒例になっていた。


「だって今日は――」

「仕事納めの後、飲み会なんだって」


 そんなことは知ってる。でも、これまでそういう日でも早く帰って来たじゃない。言いかけた言葉は、彼が閉めたドアに跳ね返された。


 幸せってなんだろうな。

 結婚ってなんだろう。どうして年を重ねるにつれて、その問題が大きくのしかかるのだろう。

 一緒にいたいから、好きだから。そんな単純な気持ちだけでは、もう同じ時間を共有できないのだろうか。一緒の空間にいても、同じ時を過ごしていても、考えてることや望む未来は違うのかもしれない。

 そのことに気づいてしまったら、もうマンションにはいられなかった。ここは、これまで過ごしてきた二人の痕跡が、濃く残る空間だ。すれ違っているかもしれないとか、違う感情を抱えているかもしれないとか、そんなことも全て抱えた空間だ。このまま一人でこの場所に残るには、重すぎた。一刻も早く、ここから出たかった。

 私は、荷物を適当に詰め込み、マンションを飛び出した。



「お餅、いくつ食べる?」

「ん~、なにがある?」

「あんこと、きな粉」

「ん~、ふたつずつ」

「よく食べるわねぇ」

「美味しいんだもん」


 ――楽だ。

 座ればごはんが出てくる。時間を気にせず眠れる。洗い物をしなくても、気づけば綺麗になっている。それに、余計なことは聞いてこない。きっと、気になることはあるんだろう。こんな風に、年末突然帰って来た私に、色々思うことはあるはずだ。ましてや、母は私が婚約記念日を大切にしていることを、知っているのだから。

 それにしても、実家って、なんて素敵なんだろう。

 そんなことを思いながら、炬燵に入ってスマホゲームを続ける。ここ数日で、随分とレベルアップしてしまった。


(調子いいな……。これは、記録更新するかも)


 そんなタイミングでメッセージアプリのポップアップが現れ、ゲームが止まってしまった。


「ああっ! もう……誰よ、まったく……」

『ちょっと出てこい』


 有無を言わせないその文章は、従兄からだった。


「お母さん、ちょっとお隣行って来る」

「こんな遅いのに?」

「ん~、なんか話があるって」

「じゃあ、これ持ってって」


 渡された小さな鍋には、煮しめがたっぷりと入っていた。一体どれだけの量を作ったのだろう。

 隣は伯父さんの家だ。母の煮物は絶品との評判で、伯父さんの好物なものだから、おすそ分けなのだろう。

 伯父さんは若い頃、弟である私の父と一緒に工務店を始めた。祖父が遺した広い土地に、事務所とそれぞれの家を建てたものだから、父が亡くなった今も母はそこに住んでいる。私が進学で家を出てからも、傍でなにかと母の世話を焼いてくれているので、有難い存在だ。

 だからと言って、こんな横柄な態度で呼び出されるのは、面白くない。

 一言文句を言ってやろうと外に出れば、そこにいたのは、彼だった。


「……なんで」

「迎えに来た」

「……だから、なんで」

「ちょっと、話そう」


 私の返事を待たず、歩きだす。


「え。ちょっと、この煮しめ……」

「それは俺がもらう」


 鍋は従兄に横から奪い取られた。

 いつの間に……と驚いたが、きっと最初からいたのだろう。なにしろ、私を呼びだしたのは従兄だ。私の目に、彼しか入らなかったということか。


(なんか、悔しい)


 私ばかりが、まだ彼を好きで。

 私ばかりが、彼のペースで生きているようで、なんだかとても悔しかった。

 朝食を用意するのも、彼が一言も発せず出かけるのも、全部私が彼の行動や好みを見越して、先回りしてやっているからだ。それは、私の片思いのようなものだったのに、私はそんなことに気づかず、幸せを感じていたのだ。それが悔しかった。


 彼は振り返りもせず、雪深い中を歩いて行く。

 慣れない雪道に慎重に歩く姿は、なんだか滑稽だ。

 ゆっくりと、狭い歩幅で歩く彼に、私は簡単に追いついた。

 話をしよう、と言ったのにも関わらず、彼はなにも言わずに黙々と歩く。

 私はそのすぐ後ろを、つかず離れずの距離で、続いた。

 彼はどうしてここに来たのだろう。


(期待しちゃうじゃない)


 後ろ姿をジトリと見るが、やはり少し胸がときめく。まさか、ここまでやって来るとは思わなかったのだ。女は意外性に弱いと言うが、私も例外ではなかったということだ。

 やっぱり悔しい。

 文句のひとつも言ってやろうと口を開いた時、彼の息が上がっていることに気がついた。

 それもそのはずだ。雪は私が帰省した日以降も、こんこんと降り積もった。

 地元では、この年末年始で十年に一度という豪雪に襲われていた。除雪は追いつかず、私の実家がある山間部は、公道以外は除雪車が入らなかった。そこで、自宅周辺を住民たちの手でおこなっているのだが、それも勿論追いつくはずもなく、膝まで埋もれる有様だ。雪に慣れた地元の人間でもこれには困っているのだ。雪に縁のない都会育ちの彼には、相当厳しいだろう。


(あれ?)


 そういえば、帰省した日よりも歩くのが楽だ。

 足元を見ると、私が楽に歩ける歩幅で、雪が踏み固められていることに気づいた。

 彼の、ゆっくりと小さな歩幅で歩く理由は、決して雪道に慣れていないからではなかったのだ。

 後ろから歩きやすいように、狭められた歩幅。

 乗せやすいように、踏み固められた雪。

 風が当たらないように、ゆっくりと歩く速度。

 そのどれもが、あの日迎えに来てくれた従兄とは違った。

 その足跡から、想いが零れているようだった。


「なんで、そんな歩き方してるの」


 思わず服を掴み、問いかける。

 いきなり引き留められ、驚いたように彼が振り返る。その顔は鼻が赤くなり、眼鏡も息で曇っていた。


「なんでって、なにがだ?」

「いつも、もっと歩幅広いでしょ」

「――そうだったか?」

「そう、でしょ?」


 そうだったはずだ。

 いつも、大股で急いで部屋を出て行くではないか。少し遅れ、後を追うように私がマンションを出ても、もうそこに彼の姿はない。


 けれど、本当にそうだったか?


 いや、違う。

 彼は、私と一緒の時はゆっくりと歩いてくれた。よく余所見して立ち止まる私に、すぐに気づいて付き合ってくれた。

 彼にとっては、それは無意識のことで、それが普通になっていたのだ。


「ねえ、なんであの日、飲み会に行ったのよ」


 突然質問の矛先を変えた私にも、彼は少し間をおいて口を開いた。


「――プロジェクトを、任されることになった」

「え。すごいじゃない」

「飲み会の場で、そのプロジェクトに一緒に就くメンバーと交流しておいた方がいいだろうと思った」

「なんでそう言わなかったの?」

「……プロジェクトは、まだ始動していないから」


 ああ、そうだった。

 彼はバカがつく程真面目で、バカがつく程言葉が足りないのだった。

 何も話さなくて済むように振る舞っていた私も悪いけれど、彼の元々の性格を考えれば、話さなくて済むようにするんじゃなくて、話がしたくなるように振る舞えば良かったんだ。


「ねえ」

「……なに」


 私の口調から、また話題が変わることが分かったようで、彼は神妙な顔つきになった。

 私が別れ話をするとでも思っているのだろうか。

 それは、彼もまた、思ったより私を知らないということだ。


「なんで、ここに来たのよ」

「……俺は、気持ちを伝えるのが上手くないから。まずは、会わなきゃいけないと、そう思って……」

「で? こんな夜遅くにこんな雪の中、どこに行くつもりよ」

「それは……。どう話していいものか……とりあえず二人きりになろうと……」

「もう、いいよ。一緒に帰ろう」

「え」

「母さんの煮しめ、美味しいよ」


 言わんとしたことがわかったのか、彼がやっと少し笑顔を見せた。


「さっき、美味そうな匂いがした」

「お餅もある。さ、帰ろう」

「うん」


 私は彼の手を取り、来た道を戻った。

 重なった二人の足跡に、また私たちの足跡が乗る。

 それはまるで、すれ違った心が再び重なるように。

 

 


 




 


 

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