第40話 「砦攻防戦」編(4)
振り返ったマリアの表情は、驚いた、というより、何を言われたのか分からなかった、という感じだった。艶やかな唇をポカンと開けて、大きな瞳をさらに見開いている。
スズネは一瞬だけ驚きはしたが、タケルの邪気のない横顔に目を細め、肩の力を抜いた。
「殿下と勝負、だと?」
マリアは、楽しそうに木刀を振り回しているタケルではなく、スズネの方を見やった。
「帝国と王国の王位継承者同士が剣を合わせる機会なんて、なかなかないし。せっかくだからさ~。いいでしょ~」
なかなか、どころか、両国が並び立って以来、大陸史上一度もない。
マリアの『本当に大丈夫なのか』と問い掛ける眼差しを見詰め返し、スズネが頷いた。
「容赦はせぬぞ」
「望むところさ」
「…そういうことでしたら、私が審判を務めます。タケル殿下も姫殿下も、万一ケガなどされるようなことがあってはいけませんから、どちらかが優位な体勢になった時点で勝負ありと判断し、私が止めに入ります。いいですね」
「うん、スズ姉にまかせるよ」
「私もそれで構わん」
滞在許可証なるものを手にしてから相応の待遇が与えられているとはいえ、しょせん虜囚の身であることには変わらない。
敵国の皇子に一泡吹かせる、一矢報いる絶好の機会だ。
男より、女の方が優れた存在だと、上位の存在だと知らしめてみせる。
マリアは意気込み、木刀を握る手に力を込めた。
「始め!」
マリアは、スズネの合図と同時に一太刀浴びせるつもりだった。
何度か剣を交わせば相手の技量はすぐに分かる。自分より背が低く、身体の線も細い。力で押し負けることはないはず。まずは得意とする素早い剣さばきで軽くあしらって様子を見ようと思っていた。
だが、動けなかった。
両手で木刀を握り、正対に構えて真っ直ぐ、タケルの視線がマリアを捉えていた。威圧感がある訳ではない。敵意、殺意、気迫も感じない。
だが、隙もまったくなかった。
あどけない顔つきで、穏やかな表情で、ただ剣を構えているだけ。見下す言葉で、嘲る表情で、ふざけた態度で、挑発する訳でもない。
あるのは、静寂。
僅かに開いた唇から、タケルの静かな息づかいが聞こえるよう。魔法で固まったかのように、視線すら微塵も動かない。瞬きすらしない。
吹き抜ける風が、タケルの黒髪を揺らす。
切っ先が触れそうな距離で剣を向け合う、皇子と王女。女尊男卑の王国で生まれ育ったマリアにとって、男という存在とこれほど長く、しっかりと視線を重ねたのは初めてだった。
タケルの剣構えは、どこまでも自然体。腕にも、足にも、身体に無駄な力が一切入っていないのが、一目瞭然だった。
向けられた眼差しは、どこまでも透き通った静謐な泉のよう。下等で下劣で下品な男とは目を合わせることさえ不浄だと思っていたマリアだったが、いまは不快とは感じていなかった。
焦れた訳でも、しびれを切らした訳でもなかった。
剣の長さが同じなら、腕の長さ、体格で上回る方が有利。タケルに動くつもりがないなら、自分から仕掛けてしまえばいい。隙がないなら、無理やりこじ開けてしまえばいい。そう判断したまで。
ずいぶん長く向かい合っていたと思える、わずかの時間。いつの間にか手が汗ばんでいた。木刀を握り直す。
タケルの瞳から、タケルの持つ木刀の切っ先へ、マリアは微かに視線をずらした。
勝負は一瞬だった。
「そこまで!」
正対に構えた姿勢のままピタリと、するりと間合いを詰めたタケルの木刀の切っ先が、マリアの額に突きつけられていた。
いったい何が起きたのか、分からなかった。
訓練場の端にある木製のベンチでマリアは、背もたれにぐったり寄り掛かっていた。
タケルの踏み込みが、まるで見切れなかった。
「疲れた身体には甘い飲み物がいいですよ」
ミーナが木のコップを差し出す。
「うちの殿下も、なかなかのものでしょう」
スズネの言葉を無視し、蜂蜜入りのよく冷えた柑橘果汁を喉に流し込んだ。爽やかな酸味とほどよい甘さが緊張から解放された身体に染み渡る。
「なにしろ私に『参った』と、『降参だ』と言わせたのは、タケル殿下ただ一人だけですから」
「…それは本当か」
まさか帝国の皇子がそれほどの腕前だったとは思いもしなかった。肩を落としたマリアに向けて「ベッドの上で、ですが」。敵国の王女相手に砕けた口調で付け加えると声を上げて笑った。
負けた悔しさ、スズネのからかいと意味する行為への羞恥、反発、自身の不甲斐なさ、あらゆる感情が複雑に絡み合って、いまは怒っているのか落ち込んでいるのか、自身の心の内さえ掴めない。
顔を真っ赤にして唇を噛み、うつむくマリアの隣に漆黒の大剣を置くと、スズネも腰を下ろした。
「ご安心を。剣の腕前なら姫殿下の方がずっとお強い。私が保証します」
「…情けなど無用だ」
「本当です。姫殿下は二度とタケル殿下に負けることはありません」
「しかし、私は踏み込みを予期できなかった。動作が見切れなかった。なぜだ、何なのだ、あの足技は」
魔法を使ったのではないかと疑いたくなるほどに、理解不能だった。
「剣術ではなく『けんどー』の技だそうです」
「なんだ、その『けんどー』とは?」
マリアがいぶかしげな視線を、アマゾネスにしては小顔のスズネへ向けた。
「剣を使った精神修養の一種だとか。タケル殿下は幼少の頃よりずっと、皇帝陛下直々に厳しく『けんどー』の鍛錬をさせられていたそうです。実際のところ…」
蜂蜜入り果汁に口をつけ、スズネは「『けんどー』は戦場で使える剣技ではありません」と言った。
「もし再戦の機会がありましたら、タケル殿下の目を見ず合図と同時に剣を振るってみてください。それだけで姫殿下は勝てるはずです」
スズネの指摘するとおり、実戦には合図などない、目を合わせて剣を構えてくれるはずがない。足元だって平らとは限らない。逆に気付かれぬよう背後から斬りかかろうとするだろう。
「タケル殿下も、ご自身の腕では『魔剣でも持っていなければ実戦では通用しない』と仰っていました」
マリアは顔を上げ、淡々と語る横顔を見やった。
「そうか…」
スズネもまた、マリアの方へ顔を向けた。まるでエルフのような切れ長の瞳に、同情や世辞の色は浮かんでいない。
「あぁ、そういえば」
ふと思い出した、とばかりにスズネが付け加えた。
「私もタケル殿下と初めて剣を合わせたときは、今日の姫殿下と同じ結果でした」
そう言って、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
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