第34話 エピローグ(2)

表彰台の一番高い場所に立ったミーナは、ガチガチに緊張していた。

スタート直前、位置に着いたときは、「絶対に一着になる。一着になって、皇子様にお礼を言うんだ」と強く願っていたので、ほかのことは何も考えられなかった。だから、緊張なんて少しも感じなかった。

しかし、いざ間近に立つと、身体が石のように固まって動かない。

皇帝位を継承する正統な血筋、すなわち神の御子であるという証の、神秘的な黒髪をしたタケルが、命の恩人がすぐそこにいる。

少しだけ年上だろうか、まだ幼さの残る顔立ちをしているが、立ち振る舞いは実に堂々と、凜と背筋を伸ばし、大人たちに取り囲まれた中で誰よりも圧倒的な存在感を放っていた。

奴隷商人の子供に生まれ、孤児院で育った自分とは住む世界が、身分が違いすぎる。皇族に声を掛けるなど、余りに無礼で恐れ多い。頭の中で、もう一人の自分がそう告げていた。


名前が呼ばれ、大きな歓声が耳に飛び込んできた。史上最年少で優勝したミーナを讃える観衆の声が競技場に響き渡る。

観客席の方へ視線を向けると、孤児院の仲間や選抜大会を目指すよう助言してくれた修道女が笑顔で手を振っているのが見えた。

目の前に立ったタケルが、何かを言って、ゆっくりと優勝メダルを首に掛けてくれた。

「おめでとう。よく頑張ったね」

そう言って褒めてくれたように聞こえた。


お礼を、お礼を言わなきゃ。

助けてくれて、ありがとうございました。

皇子様に伝えなきゃ。

ずっとずっと、この日のために、今この瞬間のために、毎日練習に明け暮れ、懸命に頑張ってきた。

この機会を逃したら、二度と胸のうちにある気持ちを伝えることはできないだろう。


声を、声を。

声に、声に、して。

声よ、声よ、出て。

伝えたい。


乾ききった唇は震えるばかり。

ヒューと息が漏れるだけで、言葉にならない。

メダルを掛け終えたタケルが、半歩下がった。

皇子様が、離れて行ってしまう。

「あ…」

かすれた声を振り絞った、

瞬間。

タケルの姿が視界から消えた。

何が起こったのか、分からなかった。


タケルが、ミーナに向かって深く腰を折り、思い切り頭を下げていた。


突然の出来事に周囲の大人たちは呆然。次期皇帝が突如、少女に頭を下げるという前代未聞の光景を前にして戸惑い、どう対応していいのか、声を掛けるべきなのかも分からず、静まりかえった競技場はまるで時間が止まったかのようだった。

ただ一人、タケルの護衛役として傍らに付き従っていた、編み上げ帽子を被った大柄なアマゾネスの剣士だけは、特に驚いた様子もなく、諫めることもなく、平然と見詰めていた。


「すまなかった」

僅かに顔をもたげ、タケルが言った。

「あのとき、僕がもう少し早く部隊に突入を命じていたら、君のお母さんは死なずに済んだはずだ。いくら悔やんでも取り返しのつかない、大変な失敗をした。許してもらえるとは思っていない。でも、君のお母さんを助けられなかったことを、ずっと謝りたかった。僕のことを恨んでいるだろう。気が済むまで罵ってくれていい」

タケルがもう一度、さらに深く頭を下げた。

「帝国市民を守る義務を持つ者として、衷心から謝罪する。本当に、申し訳ないことをした。このとおりだ」

大きく見開かれたミーナの瞳からみるみる涙が溢れ、タケルの姿が霞んで見えなくなった。

「あっ、頭を上げてください!」

叫び、無意識のうちにタケルの胸へ飛び込んでいた。

慌てて二人を引きはがそうとした大会役員たちを、アマゾネスの剣士が制止する。

「皇子様が謝ることなんて、何もありません!」

胸の内に秘めていた思いが、言葉になって次々とあふれ出す。


「私、ずっとずっと、皇子様にお礼が言いたかったんです。助けてくれてありがとうって、皇子様に伝えたかったんです。優勝すれば皇子様に会えるって聞いて、それで頑張って、今日やっと会うことができました。皇子様は、私の命の恩人です。皇子様がいてくれたから、あのとき、助けに来てくれたから、私は今こうして生きていられるんです。皇子様がいてくれたから、いつかこの気持ちを伝えたいってずっと思っていたから、私は頑張ってこられたんです。全部、全部、皇子様のおかげなんです。皇子様に助けていただいて、温かいご飯が食べられるようになりました。柔らかい毛布にくるまって眠れるようになりました。友達もできました。孤児院の仲間と一緒に、初めて外で自由に遊んだときは嬉しくて泣いちゃいました。シスターもみんなすごく優しくて、学校にも通わせてもらって、勉強して読み書きもできるようになりました。叩かれたり蹴られたりしない、明日が来ることに怯えなくていい、今は毎日がすごく楽しいんです。生きているってことが、こんなにも幸せなことだったなんて知りませんでした。全部、そういうの全部、皇子様が助けてくれたからなんです。皇子様が教えてくれたんです。皇子様、私を助けてくれて、本当にありがとうございました。だから!」

ポロポロと大粒の涙を流しながら、思いの丈を伝えていく。

「皇子様が謝ることなんてないんです。恨んでなんかいません。一度だって恨んだことはありません。私やお母さんのこと覚えていてくれて、恨むどころか嬉しくてたまらないぐらいです。お母さんだってきっと皇子様が後悔する必要はないって言うと思います。悪いのは皇子様じゃなくて、奴隷商人なんです。だからもう謝らないでください!」


やがて言葉に詰まり、タケルの胸に顔を埋め大声で泣き始めた。

泣きやむまでずっと、タケルは優しく背中をさすっていた。

「どう、少し落ち着いたかな」

「はい…、皇子様…、取り乱してしまい…、申し訳ありません…」

「いいんだよ。僕も君の元気な姿を見られて嬉しかった」

ミーナのか細い肩に手を添え、そっと身体を離す。タケルはすぐ側にいる剣士の顔を見やった。アマゾネスが小さく頷いて応える。

「君に一つお願いしたいことがあるんだけど、聞いてもらえるかな」

「…私にお願い、ですか?」

ミーナは目尻の涙を拭うと、小首を傾げてタケルの顔を見上げた。


奴隷商人の子で孤児院育ち。そんな自分へ、この国で最も高貴な立場の皇子から直々のお願いなど、どんな内容か皆目見当もつかない。でも、聞くまでもなく、返事は決まっていた。命の恩人であるタケルのためなら、どんなことでもするつもりだった。

タケルにお礼を言うという願いを叶えて、ようやく緊張がほぐれたミーナは、普段の明るく元気な表情を取り戻していた。

あらためて間近に見たタケルは、神秘的な黒髪に整った顔立ちをした美少年だった。揺るぎのない意思を宿した澄んだ瞳でじっと見詰められ、ミーナの胸が高鳴る。尻尾を忙しなく揺らし、頬を赤らめながら、「どんなことでしょうか」と尋ねた。


「君のその素晴らしい身体能力と、努力しやり抜く強い心を、僕が目指す世界を実現するために使わせてほしい。君の力を借りたい。君と同じような悲しい思いをする子供が、この世界からいなくなるように」


「…それが、私がここにいる理由です」

ミーナが語り終えた途端、助手席の部下が「隊長にそんな過去があったなんて、知りませんでした~」。とうとう堪えきれず嗚咽を漏らし始めた。運転席でハンドルを握るエルフも、「本当に、私たちの殿下らしい…」。切れ長の瞳が涙で濡れている。

「姫殿下…」

ゆっくりと振り向き、しかし俯いたまま、ミーナは言葉を継いだ。


「奴隷にだって、心はあるんです」


こうしてマリアの、帝国での波乱に満ちた日々が幕を開けた。


(次章「砦攻防戦」編に続く)

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