第32話 「王女来訪」編(30)

「初めてお目にかかったときは、私も…正直、そう思いました」

再びコップに手を伸ばし、口を付けた。ぶどう酒をつぎ足すと、「殿下の魅力を言葉で伝えるのはともて難しいのですが…。そうですね…」。リリカは思案顔で喉を鳴らした。

「さっきの、あの場所で斬られそうになったのが、もし私だったら、やはり殿下はその身を挺して助けてくださったでしょう」

ぶどう酒で濡れた唇を無意識のうちに舌で舐め、言葉をつなぐ。

「殿下はいずれ、帝国100万市民の未来を担っていくことになる、そういう立場のお方です。帝国にとってかけがえのない、何者にも代え難い存在である殿下が、私のためだけに命を懸けてくださるとしたら…。そういう人に惹かれない女はいないと思います」

『おまえの命は100万の民に匹敵するぐらい大切だ』と言っているのと同義だ。


マリアにしてみれば王族にあるまじき愚行だが、心惹かれるというリリカの言葉は分からなくもない。一介の兵士がもし戦地で王女であるマリアに助けられたとすれば、その兵士は生涯、マリアに忠義を尽くすだろう。恋愛感情は理解できなくとも、ある程度は納得のいく例えだった。


「なるほどな…」

短く相づちを打ち、王国産のぶどう酒を飲み干した。

「タケル様は」

酒に酔ったせいか、普段のリリカなら人前では使わない親しみを込めた呼称を口にしていた。

「この国の最高権力者の一人です。いまの帝政の制度では横暴な権力は振るえないにしても、もっと享楽的に日々遊んで暮らすことだってできるはずなんです。なのに、タケル様はこの世界に生きる人々の未来のことしか考えていない。私利私欲なく、ひたすら理想の世界を目指して働いてばかり。姉様が『お役に立ちたい』と言ったのも、今ならよく分かります」

「私利私欲なく? ハーレムなどという不埒な集団をつくって女を周囲に侍らせているではないか」

言葉の些事を取り上げて反駁したマリアに対し、やはり特段気を悪くすることもなく、「ハーレムはタケル様がつくったのではありません。私や姉様、ミーナやスズネたちのように、タケル様をお慕いする人がだんだん増えてきて収拾がつかなくなったので、仕方なく、私たちが話し合って自主的にルールを決めてつくったんです。みんな平等にタケル様に愛していただけるように、と」。そう語るリリアの表情は、心からタケルに心酔しているようだった。


ますます分からない。タケルの人となりはつかみどころがなく、思考や行動が理解の範疇を超えている。マリアとて王族の一人として王国の未来は考えてきたが、それは決して王国の民の未来を考える、という意味とは一致しない。民は王国発展の礎。いわば道具にすぎない。帝国に勝る強国として大陸に君臨し、ステルヴ神の加護のもと、永遠に続いていくことが王国のあるべき未来像だ。そうすれば民の暮らしもよくなる。目指すのではなく、結果に過ぎない。


「私ばかり話してしまって申し訳ありません」

リリアは瓶に残っていたぶどう酒をすべて、マリアの前に置かれた空のコップに注いだ。

「タケル様のことで、ほかに何かお聞きになりたいことはありませんか」

聞きたいことは山ほどあった。だが、その前に気になることがある。

「帝国の市民は100万人いると言ったが、いささか大げさではないか」

「そんなことはありません」

マリアは軍服の胸元から、首に懸けていた鎖に繋がれた小さな鉄片を取り出すと、掌に載せてマリアに見せた。

「子供が生まれると、名前や性別、生まれた日、両親の名前などを必ず役場に届け出て戸籍名簿に登録するよう帝国法で定められています。これが私の戸籍登録証です。そうやって帝国市民の人口を数えているんです。2年前、100万人を超えました」


王国にも似たような登録制度はある。ただ、それは貴族や大商人ら一等市民が自らの血筋の正統性を記録に残しておくのが主な目的だ。二等市民でも登録はできるが、ほとんどの者が登録などしていないだろう。奴隷の男など、そもそも人としての数に入っていない。

王国の正確な人口は不明だが、奴隷も含めおよそ30万人と言われていた。リリカの言うことが正しいとすれば、帝国の三分の一にも満たない。女尊男卑という体制が原因で王国の人口は増えにくい。兵士の数が戦力と考えている王国育ちのマリアにとって、看過できない差だった。


「帝国市民は全員、戸籍登録証を常に身に付ける決まりです。これがなければ学校に通うことも、商売をすることもできません。家を買うことも借りることも、何もできません。帝国市民として認められないんです」

リリカは自分の戸籍証をしまうと、「うっかり忘れるところでした。これを姫殿下に届けるために来たんです」。ポケットからもう一つ、真新しい鎖付きの鉄片を取り出した。

「…なんのつもりだ」

マリアが眉をしかめて、問い返す。

「戸籍登録証ではありません。臨時の帝国在留許可証です。姫殿下がこれを受け取られましたら、その瞬間から、タケル様が招いた賓客という立場になります。相応の待遇、帝国市民と同等の身分が保障されます。行動の自由を除いて、ですけれど」

リリカはテーブルの上に、在留許可証を静かに置いた。

「つまり」

指先でテーブルの上を滑らせ、マリアの前に差し出す。

「いつか王国に戻られるその時まで、姫殿下の御身は我々がお守りすることになります」

居住まいを正し、「殿下からです。どうぞ、お受け取りください」。深々と頭を下げた。


「殿下の容体がもう少し落ち着かれるまで、ここを動くことができません。姫殿下、それまでの間、ゆっくりお休みください。食事は係の者がお持ちします。ご用の際は、テントの外に待機している兵にお声掛けください」

空になったぶどう酒の瓶とコップを手にしたまま、リリカはテントの幕をめくり上げた。

「リリカと言ったな」

名前を呼ばれ、振り向いたリリカは少しだけ驚き、同じぐらい嬉しそうな表情を浮かべていた。

「はい、なんでしょうか」

「殿下が目指しているという、理想の世界とは、どんな世界なのだ」

「それは殿下に直接お尋ねください」

リリカは空になった酒瓶を軽く振って「こんどはぜひ、王国の話をお聞かせください。それでは」。一礼し、テントから出て行った。

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