第31話 「王女来訪」編(29)

タケルが重傷を負った、という知らせを受けた野営地は、騒然としていた。

行き交う兵士たちの表情は一様に強ばり、誰一人として無駄口を叩く者はいない。作戦終了直後の浮ついた雰囲気など欠片も残っていない。

転移魔法で野営地へ戻り、自分のテントに向かって歩いていたマリアは、張られた天幕の下、湯気をあげている大きな囲いに目を止めた。

「風呂? こんな場所で?」

救出されたばかりの女性が汚れを洗い流し、湯に浸かっていた。

「被害者の入浴が先です」

全身血まみれになったミーナの代わりに、マリアの護衛役を務める警護隊員が固い声で答えた。

湯を沸かすには大量の薪が必要なので、王国で熱い湯に入れるのは裕福な1等市民に限られる。マリアにしてみれば、山奥の野営地に風呂があることに驚いて独り言を漏らしただけだったのだが、警護の兵士は違う受け止めをしたようだった。

「姫殿下、お進みください」

湯船の脇のテントでは、真新しい清潔な服に着替えた女性たちに温かい食事が振る舞われている。彼女たちの表情にはようやく、助け出された安心感から、わずかだが、笑みが浮かんでいた。


殺風景なテントに戻ったマリアは、簡易ベッドに腰を下ろした。

『民は王を守るためにいるんじゃない。王こそが民を守るために存在しているんだ…』

脳裏に、タケルが放った言葉がこびついて離れない。

まるで民に奉仕するのが王族の義務であるかの如きタケルの言葉は、理解するとか、受け入れるとかいう以前に、そもそも、そうした発想自体をマリアは持ち合わせていなかった。

マリアにしてみれば、タケルの命を投げうつような行動は国を滅ぼしかねない無謀な愚行でしかなく、皇子としての自覚もない、王族失格の思想でしかない。

もしマリアが王国で同様の行動をしたら、王位継承者としての資質を疑われ、臣下の求心力を失い、貴族たちの離反さえ招きかねない。

帝国の皇子は、なんと愚かなのか。

それがマリアの率直な思いだった。


しかし―


マリアの胸の内は、そうした『常識』をあくまで正しいと考える一方で、奇妙な苛立ちと戸惑いに覆われていた。

罪のない少女が斬り殺されようとした瞬間、王国の王女である自分は顔を背けた。だが、下賤な国だと蔑んでいた帝国の皇子は助けようとした。

あのとき、どうすればよかったのか…。

いくら悩んでも答えの出ない思索が、テントの入り口から聞こえてきた騒々しい話し声に遮られた。


「姫殿下、よろしいでしょうか」

護衛として立ち番をしていた警護隊員へ、「何事だ」。マリアは気を取り直し、落ち着いた声で答えた。

「作戦支援隊長が姫殿下との面会を求めておいでです」

作戦支援隊長といえば、奇妙な髪型としゃべり方をしていた、黒鷲隊の幹部を務める精霊種のエルフ。大規模転移魔法の使い手でもある。

「あの…、お通しして、よろしいでしょうか」

警護隊員の問い掛けが心なし戸惑い交じりに聞こえたが、特に拒む理由もない。有益な情報を得られるかもしれない。

「構わぬ。通せ」

背筋を伸ばし堂々と、王国王女にふさわしい態度をとった。が、「姫殿下にぶどう酒をお持ちしました~」。テントの入り口からひょいと顔を出したエルフは、すっかり出来上がった赤ら顔をしていた。

コップを二つ右手に持ち、栓の開いた酒瓶を左手で掲げ上げた。


リリカはコップにぶどう酒を注ぐと、マリアに差し出した。

「姫殿下、どうぞ」

ダークエルフの魔法のおかげで身体的な疲労はさほど感じていない。とはいえ、帝国に拉致されてまだ数日、気が付けばどことも知れぬ敵地の山奥まで連れてこられ、しかも徹夜明けの身だ。さすがに眠気は感じている。

そんな時に何事かと思えば、王女であるマリアに酒の相手をさせるような不遜な訪問に、不機嫌さを隠しきれない。

「姫殿下、まさか酒を嗜まれないのですか」

テーブルに肘をつき、無造作にゴクリとぶどう酒を流し込むと、リリカが尋ねた。マリアはコップを手に取った。

「飲まぬ訳ではない。時と場所をわきまえているだけだ」

皮肉を込めて答え、ぶどう酒に口を付けた。

「んっ!? この酒は?」

口に含んで広がるよく知った芳醇な味わいに、マリアが驚いてテーブルの反対側に座るリリカの赤ら顔を見た。

「お気づきになりましたか。ぶどう酒の味だけは、王国にかなわないと思います。特に王国北部産のぶどう酒は最高ですね」

リリカはそう言って、ラベルの貼られていないぶどう酒の瓶に触れる。

「なぜ、王国の酒がここにある。どうやって入手したのだ?」


マリアが疑問に思うのも当然。王国北部のブドウ産地、中でも一級のぶどう酒を生産する畑は、王家の直轄領になっている。王族や貴族でなければ入手できない。マリアにとっては飲み慣れた味だが、よもや帝国の地で味わうことになるとは思わなかった。


すっかり赤らんだ顔をマリアに向け、「帝国は、北部同盟諸国と交易がありますから。細々と、ですけどね」と、リリカが打ち明けた。

「なるほど、そういうことか」


北部同盟諸国は、帝国と王国の国境となっている大河の源流よりもさらに北方、険しい山岳地帯にある小国家の集合体だ。王国と同じ女性上位の友好国ではあるが、直接統治している訳ではない。一年中、雪に覆われた北部同盟諸国は、帝国と地続きで国境を接している。王国の知らぬところで帝国と交易があっても、確かにおかしくはない。


リリカは飲み干したコップにぶどう酒を注ぐと、酒瓶を持ち、注ぎ口をマリアに向けた。

マリアも負けじと飲み干し、コップを差し出す。

「よい飲みっぷりです」

リリカは切れ長の目元を緩めてぶどう酒を注いだ。懐から煎った豆や干し肉の入った布包みを取り出し、テーブルに広げる。

二口、三口と、互いに黙ってぶどう酒を飲み、つまみを味わう。干し肉は噛むほどに濃厚な旨味が感じられ、ぶどう酒によく合った。


調子よく酒を煽っている精霊種のエルフだが、髪型はともかく、整った横顔は上機嫌とは程遠い。眉間を寄せ、ため息交じり。いかにもヤケ酒といった様相だ。

目の前で皇子が重傷を負ったのだ。それも当然か…。指揮官が部下の前でヤケ酒とはいくまい。マリアは渋々ではあるが、寝酒代わりにしばしの間、付き合ってやろうか、という気分にはなっていた。

酒に酔って重要な情報を漏らすかもしれない、という算段もあった。


「…そういえば」

ふと思い出して、マリアが口を開いた。

「エルフらしくない髪型はそのままだが、あの奇妙なしゃべり方は、しないのか」

「え~、マジマジぃ、やっぱぁ、こっちの方が似合ってるぽい~」

リリカはわざとらしく軽薄で甲高い口調で答えると、ぶどう酒を一口飲んで大きくため息を吐いた。

「この口調をするのは、殿下の前だけです」

そう言って、リリカが髪を束ねていた紐を解いた。長いブロンドがさらりと背中に流れていく。金粉を纏ったかのように、艶やかな髪は魔石灯の光を浴びて輝きを増した。

片眼が金色のエルフは、王国でも極めて珍しい。体内に秘めた膨大な魔力量と特殊な固有魔法スキルを持ち、王宮ではみな要職に就いている。帝国のように、部隊指揮官の一人ということはありえない。

髪を下ろしたリリカは、まさに高貴な精霊種エルフそのものだ。酒のせいで赤ら顔こそしているが。

「安心した。あのしゃべり方は、どうにもかんに障る」

「殿下が言うには『ぎゃる』のしゃべり方や髪型なんだそうです」

「ぎゃる?」

またまた聞いたことのない、意味不明の単語だった。

「遠い異国の女性の間で流行っているそうです。殿下が、私に似合いそうだと言ってくださったので、以来、そうしています。殿下が、喜んでくださるので」

ミーナも、スズネも、そしてリリカも、タケルの周囲にいる女たちは口を開けば「殿下、殿下」とそればかり。慕うばかりか、ハーレムなどという集団までつくって不埒な関係を結んでいるという。

「下等な男の歓心を買うために、髪型やしゃべり方まで変えるなど、誇り高きエルフとは思えぬ行いだな」

エルフに対する冒涜にも等しい言葉だったが、リリカは意に介さず、ぶどう酒に口を付けた。

「好きな男が歓んでくれたら、嬉しいじゃない」

炒り豆をつまんで口に放り込み、またぶどう酒を流し込む。

「あのような男の、どこがそんなに良いというのだ?」

マリアにとっては、そもそも男に好意を寄せるということ自体が理解不能だったが、それは別としても、顔つきこそ確かに整っているものの、華奢な体格でひ弱そうな幼い少年に、心惹かれる理由などあるように思えなかった。

「やはり、次期皇帝だからか。皇帝のお気に入りともなれば、さぞよい暮らしができるのだろうな」


王国でも、女王の寵愛を受け囲われた女は、なんの役付きでなくとも王女の威光を背に王宮の下級役人などより権力を持つ。たとえ下賤な男の奴隷であっても、女王付きの玩具ともなれば、二等市民の女よりも恵まれた暮らしができる。マリアは、そういった贔屓の女や奴隷は持っていない(持つこと自体を毛嫌いしていた)が、どうせ同じようなことなのだろうと考えていた。


「次期皇帝陛下だから、と言われれば、それも一つかもしれないけれど、でも、私たちにとってはとても些末なことです。それだけで好きになったりはしません。スズネも、ミーナも、ほかの者たちも、私も、姉様も」

「そなた、姉がいるのか」

「さっき、自己紹介したときに言わなかったでしょうか」

リリカは、自身の姉のことを聞かれ、かすかに表情を曇らせた。

「私の姉様は…」

ぶどう酒の瓶を手に取り、空になったコップに注ぐ。対面に座るマリアの方へ瓶を向けるが、首を振って断った。まだコップの中には半分以上残っていた。

「私と同じ精霊種のエルフで、かつて帝国史上最も優れた魔法使いと呼ばれていました。魔法の才能に恵まれ、幼い頃から天才と言われ、ゆくゆくは帝国の魔法研究を大きく発展させると期待されていました。実際…」

「かつて、と言ったか? 今は違うのか」

話を遮り、マリアが尋ねた。

「違います。世界は広いですね、今はとんでもない天才がいます」

「そうか。話の腰を折ってすまなかった。続けてくれ」

とんでもない魔法の天才という輩の話はまた機会をあらためて聞こうとマリアは心に留める。

「はい。姉様は実際、16歳から入学できる帝都の帝国大学に13歳で入学し、3年後に一番の成績で卒業しました。当時、帝国内ではかなり話題になったんですよ。そして、帝国で最も権威のある魔法の研究機関に勤めていました。そんな姉様があるとき、皇子殿下が新しい部隊を創設するからって、その部隊、黒鷲隊への配属希望を出したんです」

リリカはテーブルにコップを置き、マリアの方へ身を乗り出した。さらりとこぼれた金髪をかきあげ、エルフ独特の形をした耳に掛ける。

「魔法の研究を投げ出し、軍隊に入るなんて信じられませんでした。どうしてなのか、問い詰めた私に姉様はこう答えました」

マリアの瞳を真っ直ぐ見据えた。

「タケル殿下のお側にいたい、お役に立ちたい、だから、と…」

リリカの細くて綺麗な指がツーッとコップの縁を撫でる。

「私にとって姉様の存在はずっと、誇りであり、憧れであり、目標でした。なのに、夢だった魔法研究者を辞めてまで『側にいたい』『役に立ちたい』と、私がずっと背中を追い掛けてきた姉様にそこまで言わせた殿下はどんなお方なのか、それが知りたくて私も黒鷲隊に入ったんです」

「そうしたら…」。途端にリリカは破顔し、「私も姉様と同じように、殿下のことが好きになってしまいました」。リリカが浮かべた屈託のない満面の笑みに、酒のせいだけとは思えない赤面した表情に、マリアは苦笑して返すしかなかった。

「興味深い話だったが、あの殿下のどこにそれほどの魅力があるのか、失礼を承知で言わせてもらうが、さらに謎が深まったよ」

いずれ姫殿下にも分かります、という言葉を、リリカは声に出さなかった。

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