第30話 「王女来訪」編(28)

一瞬の出来事だった。

その影がなんだったのか、リリカの「殿下っ!」。悲鳴が告げていた。

少女に覆い被さったタケルの背中が真一文字に大きく斬り裂かれ、傷口から噴き出た鮮血が飛び散って石壁を真っ赤に染めていく。

「こっ、のっ、おおおおおおおおおっ」

狂乱の雄叫びとともに床に四肢をついて踏ん張り、ネコ耳を、尻尾を逆立てたミーナが、マリアの眼前から、消えた。

まるで瞬間移動の魔法のごとく、目にもとまらぬ俊敏さで奴隷商人へ飛び掛かり、腰に下げた剣を抜き放って男の両腕を一刀両断、そのままの勢いで突き倒した。

「誰か! 救護兵を早く! ユキナっ、ユキナを呼べ!」

リリカは傷口から溢れ出てくる血飛沫を押しとどめようとタケルの背中へしがみついた。

「殿下っ、すぐにユキナが来ます!」

タケルは激痛に表情を歪めながらも、腕の中にいる少女に、命がけで守り抜いた少女に、「大丈夫?」。無理矢理笑みをつくって問い掛けた。少女がコクリと頷くと、「よかった…」。無事を確認してホッと息を吐いた。

ぐったりと脱力し、床に崩れ落ちそうになったタケルの身体をリリカが抱き支えた。

「どいて…」

駆け付けたユキナが手をかざす。治癒の上級魔法の魔方陣が幾重にも広がり、背中の傷を塞ぎ始めた。

「スズネは隠し部屋の掃討を!」

タケルの身を案じ側にいたいという思いを押し殺して、「続けっ」。スズネは部下に命じると真っ先に隠し扉の奥へ飛び込んでいった。


信じられなかった。

帝国に奴隷制度が存在しないと知ったときより、どんな高度な魔法技術を見たときより、比べものにならないほど、マリアは驚いていた。

ありえない。

王族とは、国そのもの。王家の歴史が国の歴史。王がいるからこそ国家として存立できる。

ありえるはずがない。

王家の血筋が途絶えるということは、国が滅びるということと同義。だからこそ、王族の血統は最も尊く、どんな宝物にも代え難い。

どうかしている。

民が命をかけて王を護ることはあっても、王が命をかけて民を守るなど、あるはずがない。

否、あってはいけない。

自身の価値観と真っ向から対立する、自身の存在意義を否定する、タケルの行動を理解することが、認めることが、受け入れることが、絶対君主制の王国で生まれ育ったマリアに、できるはずがない。

あまりの衝撃に呆然と立ち尽くすマリアの足元まで、タケルの流した大量の血の海が広がっていた。


「なぜだ?」

問わずには、いられなかった。

「なぜ皇子であるそなたが、たかが民一人のために、命を投げ出すような、こんな馬鹿な真似をしたのだ?」

抑えきれない衝動に突き動かされ、疑問が口をついていた。

歯を食いしばって痛みに耐え、顔を上げたタケルの瞳には、非難も、憤りも、侮蔑も浮かんでいない。民の命を『たかが』と言ったマリアに向けられた瞳にあるのは、ただ、悲しみだけ。

「…民一人守れずして、何が王か」

タケルが、言う。

「民は王を守るためにいるんじゃない。王こそが民を守るために存在しているんだ…」

「王が民を!?」

絶句したマリアに向けて、「マリア、君は…、何のために…、王族として、王女として、民に…、何を…」と苦しげに言葉を継いだ。

「殿下、もうしゃべらないでくださいっ。傷に障りますっ」

2人の間にリリカが割って入った。

「傷は塞いだ…。でも、失血がひどい…。早く輸血を…」

治癒魔法を展開しながら大量の生気を一気に流し込んだユキナの顔色は土気色。リリカは頷くとすぐさまタケルとユキナを野営地へ転移させた。


ザクッ、ザクッ…。

「ミーナ」

ザクッ、ザクッ…。

奴隷商の男の身体に馬乗りになって、切り刻む勢いで何度も何度も、怒りにまかせて剣を突き立てていたミーナの肩に手を置くと、「ミーナっ」。名前を呼んで揺さぶった。

「…もう、とっくに死んでいる」

リリカに話し掛けられ、我に返ったミーナがようやく剣を鞘に収めた。

「ミーナは姫殿下の護衛に戻って。すぐに野営地へ転移するから」

振り向いたミーナは全身に返り血を浴び、激しい怒りに駆られた名残で息を荒げ、大きな瞳は虚ろ。ヨロヨロとおぼつかない足取りで立ち上がった。


マリアとミーナを転移魔法で野営地に戻すと、リリカは呻くように息を吐いた。

「私のせいで殿下を…」

唇を噛み締めた。きつく握った拳が震えている。

「せめてあのときコートを…、そうすれば、こんなことには…」

タケルのトレードマークでもある漆黒の外套には、至近で雷撃魔法や炎撃魔法を放たれても、その威力をそのまま術者に弾き返す特殊な魔法が掛けてあった。無論、剣で斬られようが突き刺されようが、傷一つつけることはできない。しかし、その護身用の外套は、タケル自身が脱いで少女の肩に掛けていた。

本来なら作戦区域内で外套を脱いだタケルを咎めなければならない立場だったにもかかわらず、奴隷商人の館を完全に制圧、鎮圧したという思い込みから容認してしまった。

タケルが傷を負ったのは自身の油断が招いた失態だ。

いまのリリカにできるのは、自分を責め立てることだけだった。

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