かにかまぼこ事件

午後野 有明

『かにかまぼこ事件』


「ねぇ、かにかまぼこって知ってる?」


「……は?」



 この日のことは、後に『かにかまぼこ事件』と呼ばれることとなる。






 春、それは出会いの季節……とでも言うのなら、私にとって春は来たことがないし、これからも当分来る予定はないだろう。そもそも春に春らしくきちんと出会えるものたちは、きっと他の季節でもそれなりに出会っているに違いない。故にこれはたまたま出会った季節が春だった社会適合者たちの浮ついた戯言に過ぎない。仮にそれが世の是とするならば、私は異端者裁判でもなんでも受けて立つ所存である。

 そんな現代のガリレオガリレイは、この春で晴れて大学4年生となった。といっても、ただの冴えない男子学生が、また1つ年を重ねただけのことである。

 本来この時期は就職だなんだという社会の荒波にどう揉まれるかについて脳みそをこねまわすべきなのだが、私は「何が出会いの季節だ……」と心中でぼやきながら昼休みに校舎間をゾロゾロと行き交う学生たちをガラス壁越しに眺めていたのだった。とんだ阿呆である。自覚はある。


 ここは、私が通うK大学の中のとある食堂、いわゆる学食というやつだ。カフェ風の雰囲気や内装の心地よさから、うちのいくつかある学食の中でもここは特に私のお気に入りである。

 しかし、その良さは他の学生たちにも伝わってしまうのか、昼休みはいつも暇な学生達が我先にと席を取り合っている。彼らはいつも食堂内に入るや否や、キョロキョロとあたりを見渡すと、知り合い以上友達未満と思われる同類達と群れをなす。時には下品な大声をあげ、時には醜く手を叩き、お互いの友情を確かめ合うのだ。おそらく彼らの友情など、温めた牛乳に浮かぶ、あの膜くらい薄っぺらいであろう。彼らはきっと、家を作るなら藁の家、船に乗るなら泥の船、ゴール前では油断の昼寝、冬を待つならキリギリス。そういうやつらに違いない。狼に食べられ、海に沈み、亀に越され、飢えに苦しむ直前まで、あんな風にゲラゲラと笑っていることだろう。なんて下らない生き方であろうか。


 そんな下らない学生達を背に、比較的静かな壁際のカウンター席で、私は今日も一人黙々と昼食を楽しんでいた。ここの食堂は雰囲気だけではなく、味も案外よいのだ。

 特に、このカルボナーラは格別である。程よい固さの麺、濃厚だがしつこすぎない絶妙なソース、トロトロの半熟卵、緑鮮やかなくたくたのほうれん草にそれと対をなすカリっと焼かれたベーコン、そして湯気に乗って運ばれてくるブラックペッパーの香り。これら全てがこれでもかというくらい私の食欲を刺激し続けてくる。とても学食のクオリティとは思えないほどだ。今日もフォークを口に運ぶごとに空腹感と幸福感の反比例が加速していく。


 私がそんな格別のカルボナーラに夢中になっているその時だった。


「かにかまぼこって知ってる?」


 いきなり、隣から女性の声がした。

 爽やかで、透明感のある、聞きやすい声。しかし、聞いたことはない声だ。

 突然の出来事に少し驚いたが、私は視点を手元のフォークに残したまま、落ち着いて思考を巡らせる。


 なぜこんなお一人様専用のようなカウンター席で女性の声が?いつのまに隣に座っていたんだ?もしかして私に話しかけたのか?いやいやまさか。それはない。じゃあ友人と食べているのか?でもなぜかにかまぼこなんだ?そもそも誰だ?どんなやつだ?声色からして美人か?それとも?


 ぐるぐると巡る思考を遮るように、もう一度その女性の声がする。


「ねぇ、かにかまぼこって知ってる?」


 その二度目の問いかけに、私は脳みそごと引っ張られるようにその女性の方をバッと振り向いた。

 白くて透明感のある肌、黒くて艶のあるロングヘアー、吸い込まれそうなほど大きな瞳。おそらくとびきり整っている顔というわけではないが、何か独特な魅力が彼女にはあった。

 そして、間違いなくその黒く大きな瞳は私に対して向けられていた。

 ありとあらゆる疑問が脳内を走り回っているが、ひとまず私は改めて彼女が発した謎の言葉に意識を戻し、それをよく頭の中で反芻した上でおそらくこの上ないほど適切であろう返答をする。


「……は?」


 その返答が予想外とでもいうように、彼女の眉間に少ししわが寄る。


「知らない?かにかまぼこ」


 知らないわけがなかった。

 かにかまぼことは、味や見た目や食感までも完全にカニの身に似せたかまぼこのことである。

 しかし、私の頭の中は「それ以前に」でいっぱいであった。


「あの……誰ですか?」


 すると、彼女がただでさえ大きい瞳をさらに大きく見開いたかと思うと、急にパハッと元気よく笑い出した。

 何がおかしいというのか。私は景気良くあははと笑う謎の女のことを、本人にバレない程度にうっすらと睨みつけていた。

 一通り笑い終えると再び彼女はその瞳をこちらに向けた。その一瞬手前、私は睨みつけるのをやめた。


「かにかまぼこって、人の名前じゃないよ」


「それはわかってますよ!」


 思わず、大きめの声が出た。久しぶりに聞いた自分の大声に少し驚き、私はあたりをキョロキョロと見渡す。

 そんな動揺してる私を気にも止めず、彼女はまた喋り出した。


「それじゃあ質問を変えるけど、あなたは幸せって何だと思う?」


 いや、かにかまぼこはどうなったんだ?それに私の質問への答えは?いったいこの女は何者なんだ?

 数々の疑問や不満を一旦飲み込み、私はとりあえずその質問の答えを考えてみる。


「それは……そこそこのお金と、時間と、健康な身体があること……じゃないでしょうか」


 我ながらこの上なくつまらない回答だなと思った。その回答を聞いた彼女は唇を軽くギュッと閉め、納得したのかしてないのかよくわからないなんとも微妙な表情をしていた。まぁ、おそらくしてないのであろう。

 その証拠に、彼女は私への尋問を続けた。


「じゃあ、あなたは今、幸せ?」


 ドキリとした。

 そりゃあ、不幸かと聞かれればそんなことはないと答えられそうではあるが、幸せかと聞かれると、難しい。

 大学にこれといった友人もおらず、もちろん恋人もいない。趣味もあるにはあるが、幸せと呼べるほど没頭しているわけでもない。

 もちろん、美味しいものを食べている時など一時的に幸福感を味わうことはある。しかし、幸福感と幸せは違うような気もする。この場合の幸せというのはもっとこう、継続性の高いものを指すのではないか。となると、私は果たして今幸せなのだろうか?幸せって一体なんだ?そもそもこの女は誰なんだ?

 ぐるぐると巡る思考を遮るように、彼女はゆっくりと話し出した。


「私、幸せってね、かにかまぼこだと思うの」


 今度は、私が眉間にしわを寄せた。


「……どういう意味?」


 理解が追いつかなさすぎて、思わずさっきまでの丁寧語も忘れてしまう。

 この状況や一連の流れから察するに、おそらく彼女は『かにかまぼこ教』の熱心な信者に違いない。きっとこれから私にその『かにかまぼこ幸福論』について熱く論じるつもりなのだろう。そして最後にこういうのだ。「不幸なあなたを救ってあげます。だから今すぐ入信しなさい」と。それなら全て納得がいく。もちろんそんな宗教があるのかどうかは、私の知るところではない。


「私ね、かにかまぼこが好きなの」


 ほらきた。


「ただレタスやキャベツを切って並べたサラダでも、かにかまぼこが入ってればそれだけで嬉しかったし、私の好物になった。そしてその度に思った。あぁ、もっとかにかまぼこでいっぱいのサラダが食べたいって。だからね、ある日自分でかにかまぼこだけ買ってきて食べてみたの」


「ふーん。それで?」


 私は決して入信などしないぞという固い意志を持ちつつ、少し反抗的な相槌をうってみる。


「それがね、全然おいしくなかったの」


「え?」


 思わず、食いついてしまった。

 彼女はどこか一点を見つめるかのように少し目線を落とし、そのまま語を続けた。


「もちろん、そのまま食べたりマヨネーズやドレッシングをかけたりいろいろ試してみたわ。でもね、なんだかただのかまぼこを食べてるみたいで、全然美味しくも嬉しくもないの。そして、その時に気がついたの」


「……何に?」


「あぁ、かにかまぼこって、幸せだったんだなって」


 ここで再び理解が追いつかなくなった私は、眉間に寄せたしわで彼女に解説の要求をしてみせる。それを察したかのように、彼女は一呼吸おいてからまた話し出した。


「幸せってね、きっと相対的なものなの。幸せじゃないこれまでがないと、私たちは今の幸せを感じられない。その逆も一緒。幸せじゃない今がきてはじめて、これまでの幸せを感じることもあるの。現にあなたはこうして学校に通うお金も時間も健康な身体もあるのに、今の幸せを感じることができていない。違う?」


 違う、とは言えなかった。

 今さっき自分で述べたこの上なくつまらない幸せさえ、私は感じられていない。

 3匹の子豚だってレンガの家に住み続けていると、平和な日常が当たり前になってしまう。そしてその結果、油断して狼を家に招き入れてしまうのだ。いや、これは7匹の子ヤギだったか。


「……だからね、幸せってかにかまぼこなのよ」


 彼女が半分独り言のようにそう呟くと、それと同時に昼休みの終わりを告げるチャイムの音がどこからか聞こえてきた。

「それじゃ」とあまりにもあっけなくその場を立ち去ろうとする彼女に、気付けば私は声をかけていた。


「あの」


 振り向いた彼女の両目に吸い込まれそうになりながら、私は言葉を続けた。


「明日もまた、会えますか」


 自分でも、何故そんな台詞が口を出たのかわからない。

 今日初めて会ったどこの誰ともわからない女性に何を聞いているというのか。好奇心からか、信仰心からか、もしくはそれ以外の何かか。ただ、その問いかけは、お世辞や社交辞令といった類のものとは完全に似て非なるものであることは確かだった。

 そんな私の暴挙に彼女はまた少し目を大きく見開いて驚いたような表情を浮かべたかと思うと、そのあとゆっくりと微笑んだ。


「かにかまぼこは、たまに食べるから美味しいのよ」






 この日のことは、後に『かにかまぼこ事件』と呼ばれることとなる。



 主に私と、彼女から。


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