現在
「コーヒー淹れたよ」
僕は楓の声で、自分が今、絵を描いていたことに気付いた。
ゆっくりと立ち上がる。ふと時計を見ると、描いてから四時間経っていた。体の節々が悲鳴をあげている。
のそのそと作業室から出て、楓がいる部屋へ向かう。部屋に入ると楓がクッキーを片手に、ソファでくつろいでいた。テーブルの上にはコーヒーカップが二つ置いてある。
僕はソファに腰かけ、置いてあったコーヒーカップに口をあてる。柔らかな香りが顔全体に広がる。
「ありがとう」
いつの間にか口走っていた。
「あら、珍しい。いつものことじゃない、コーヒー淹れるのなんて」
「まぁ、そうなんだけど。いや、僕は楓に助けてもらったんだなって」
楓は少しの間、きょとんとした顔になったが、すぐにニヤニヤし始めた。そして考えるポーズまでしていた。どうやら、今日が結婚記念日かどうかとか、誰かの誕生日かしらだとか、そういった類を思い出してるらしかった。
僕は自分の言葉に少し後悔をし、なんとか話を切り替えられないかと考えた。
「ちょっと来て、聞きたいことがある」
僕はおもむろに立ち上がり、作業室へと向かった。楓も僕の後ろについてきている。
作業室には大きな机が一つあり、主にその机の上で絵を描く。
僕は机の上に置いてある絵の一部分を指さして尋ねた。
「これは何だと思う」
絵に色は付いていない。いや、二色付いている。一色は形と影をつくり、もう一色は想像と光をつくる役割をもっている。
「パプリカじゃない?」
「いや、これはピーマンだ」
「どうみてもパプリカでしょ」
「これはピーマンなんだ」
押し問答は続く。終始楓はニヤニヤしていた。ただ単にからかっているのだろう。
やがて楓は別の野菜にも指さした。
「これはカリフラワーでしょ?」
「いや、ブロッコリーだから」
楓は次第に大きな笑顔になる。僕の思惑通りだった。この笑顔は昔から変わらない。
「好きなものを描けばいいじゃない。ピーマンならピーマン、ブロッコリーならブロッコリー。ちゃんと伝えられるならそれで」
「まず楓に伝わってないじゃないか」
僕が指摘すると、部屋の中が楓の笑い声で溢れた。風が吹いたところから花が開くように明るく、美しく。
やがて楓は飽きたように大きなあくびをし、左手をひらひらと振って作業室を出ようとした。
部屋の扉を開けたとき、楓は僕に背中を向けながら言った。
「助けられたのは私の方だよ。ちゃんと伝わっているよ」
一瞬の間だった。でも僕はちゃんと見ることができた。背中越しからでもわかる、あのときの楓の笑顔。
やがてゆっくりと扉は閉められた。僕は机の端に寄り掛かった。そして考える。僕はいつ楓を助けたのだろうか。どうやって助けたのだろうか。
結局わからなかった。いっそのこと教えてくれればいいのに、と楓に少し怒った。
ふと耳を澄ますとピアノの鍵盤がケタケタと鳴っているのが聞こえる。とても愉快そうで、しかし勇ましい音色だ。確か大きな演奏会が来週に控えているのだったか。
楓は小学生のころからピアノの演奏をしていたらしい。ピアノを演奏している間だけ思い描くことができる自分だけの世界が好きで毎日のように弾いていたとか。
しかし、演奏がうまくなればなるほど周囲の期待や世間体が高まり、いつしか楽しく弾くことができなくなって、しまいには弾かなくなったという。
「そこでヒーローの登場か・・・」
楓が言うには、ピアノの世界に押しつぶされそうになっていたときに、ある不器用で馬鹿な男が楓を救ってくれたんだとか。
僕は、ある不器用で馬鹿な男に嫉妬していた。
だから、なんとかして男の名前を聞き出したかったが、当の楓は、
「そんな昔の男の名前なんて覚えてないわ」
とニヤニヤしながら一蹴するだけだった。
僕は、はたと閃いた。小学生のころにあったものを見せれば何か思い出すかもしれない。
大きな机には引き出しが一つだけ付いている。めったに動かすことはなく、特別なものだけを仕舞っていた。
僕はそっと引き出しを引いた。
これを見せたら怒るかな。確かあのときは、なくしたことにしたんだっけ。
僕は作業室の扉を開ける。ピアノの音が一段と大きく聴こえた。
二本のクレヨンがピアノの音色に合わせて小さく揺れた気がした。
クレヨン うにまる @ryu_no_ko47
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