クレヨン
うにまる
20年前
正直にいうと、僕はいじめられていたと思う。
子供のころから大人しい性格だと言われていたし、その性格がやんちゃな子たちにとっては格好の的となっていたことも気づいていた。
当時小学生だった僕は絵を描くことが好きだった。休み時間になるとクラスの子はボール片手にグラウンドへひた走ったり、机と椅子を移動して友達とおしゃべりを始めたりしていたが、僕は一人、机の中から画用紙とクレヨンの箱を取り出し、いろんな色のクレヨンでただただ絵を描いた。
別に友達と何かを一緒にすることが疎ましいと感じていたわけではないと思う。しかし、光を浴びながら進む登校のとき、心地よい風が肌を触る授業のとき、黒板とチョークが無機質な音を立てて、それが眠りを誘うとき、僕は頭の中に特別な何かをみた。その光景を忘れてしまうのがもったいなくて、ただ言葉で表すにはあまりに知識が足りなかったから、僕はクレヨンを走らせていたと思う。
ある日のことだ。いつものように休み時間がきて、僕はいつものように画用紙とクレヨンの箱を取りだす。箱のふたを開けるまではいつもの日だった。中を覗くとクレヨンが入っている。しかし、すべてのクレヨンがこなごなに崩れていた。
一瞬自分がクレヨンの箱を高いところから落としたのではないかと疑ったが、そんな記憶はなく、教室の隅でせせら笑いが聞こえたときには大体の察しはついていた。
僕はふたを片手に持ちながら灰色の砂を呆然と眺めていた。クラスの子の何人かは、僕の近くを横切ったと思う。でも、誰も声をかけてはくれなかったはずだ。
ク ラスの子たちは小学生ながら、ある程度の処世術を知っていた。やんちゃな子に逆らってはいけないこと、ひいては、やんちゃな子にやられた子に手を差し伸べてはいけないこと。
僕は自分を避けるクラスの子たちをとがめるつもりはなかった。むしろ、当たり前の行動をとっていることに安堵すら感じていたと思う。
机に乗っかった画用紙とこなごなになったクレヨン。僕の頭の中がまた、ある光景を映していく。最初はぼんやりとしていて、次第にくっきりと明確に。
「これ、使って」
突然声をかけられたので驚き、机の脚を盛大に蹴ってしまい、その音にまた驚いた。
教室内が一瞬静まり返った。
声の元を目で追うと、髪の長い見覚えのある女の子が立っていた。右の手のひらにはクレヨンが二本乗っていて、僕に差し伸べているようだった。
「高木さん、どうしたの急に」
彼女からの返事はない。右手だけがピクリとも動かずに広がっている。紅葉が白い雪を纏っているように美しい手だった。気づけば教室内がざわつき始めている。
「まずいよ高木さん、僕は大丈夫だから早く戻っ・・・」
僕が言い終える前に彼女の右手がそっと机の近くに寄り、二本のクレヨンを置いた。
「私、この色嫌いなの」
僕は思わず彼女の顔を見た。小学生なのに端正な顔つきで、はっきりとした目が特徴的だった。その目が僕をめがけて鋭く向けられていた。
彼女はそれ以上何も言わず、僕の傍から消えた。一瞬の出来事がすごく長いように感じられた。
彼女は悲しい顔をしていた。いや、あの表情は怒っていたのかもしれない。うじうじしている僕を助けなければよかった、と後悔している顔だったのかもしれない。
ただ、僕は悲しい顔に見えた。
机に乗っかったクレヨンを見る。
僕はそっと目を閉じて頭の中に集中した。彼女に話しかけられる前の光景とは少し違っていた。いや、光景は同じだが、色が違った。
僕はゆっくりと目を開けて、クレヨンを左手でつかむ。濃淡をつければ二色でもなんとかなるだろう。
僕は黒のクレヨンで世界をかたどり、白のクレヨンで空を描いた。
放課後、僕は、道具をカバンにしまっている彼女の元へ向かった。
「これ、返すね。あと、これもあげる」
椅子に座っていた彼女は、道具をしまう動作を止め、僕の顔をそっと見上げて、それから僕の左手に握られた二本のクレヨンと一枚の画用紙をみた。
彼女は黙ったまま画用紙だけを受け取ってじっくりと眺めた。僕は彼女の目が全てを映し出すような気がしてビクビクしながら様子を窺った。
しばらく経っても彼女は眺めたままでいた。
他のクラスの子はとうにいなくなっていて、広い教室に僕と彼女だけが取り残されていた。
僕はとうとうしびれを切らした。
「あと、この色嫌いなんて言わないほうがいい。好きになったほうがいい・・・と思う」
僕は思ったことを伝えた。
次の瞬間、彼女はケタケタと大声で笑い始めた。僕はそのときなぜ彼女が笑っているのか見当もつかなかった。一通り笑い終えた彼女はやっと絵から目線をはずし、僕の顔をゆっくりと見上げた。
「私ね、黒と白が嫌いなんじゃなくて、嫉妬していたんだと思う」
僕は聞き返すことすらできず、ただ彼女の小さく動く口もとを見つめていた。
「私がいくら追いかけてもすぐに離れてしまう。それならいっそのこと、白と黒なんか放って、ほかの色に心を預けようと思ってた」
「それもいいと思う」
ぼくはいつの間にか声を発していた。
「赤には赤のいいところが、緑には緑のいいところがあるように、世の中には素晴らしい色で溢れてるんだ。ただね、僕は思う。白と黒だけでも世界が素晴らしいと伝えることができるんだってことを」
つい語調が強くなってしまった。彼女は目を丸くしてこちらを見ている。彼女の右手は、僕があげた絵を握ったままだった。
そして、彼女はばっと椅子から立ち上がり、カバンを左手にかけ、教室の扉まで足早に歩いた。
そこで僕は教室の景色ががらりと変わっていることに気が付いた。
教室の外はもう日暮れで、オレンジとも黄色ともつかない太陽のあかりが教室を斜めに切り取っていた。照らされなかった半分はほの暗く、彼女はまさにその境目まで歩いたところで止まった。
彼女がこちらを振り向く。そしてはっきりとこう言ったはずだ。
「素敵な絵をありがとう。瀬良君が伝えられたんだから、私もできるよね」
彼女はゆっくりとほほ笑んだ。真っ白い肌が夕焼けの温かさを吸収し、笑顔が輝いていた。ぼくはつい見とれてしまった。
「あと、瀬良君は好きって言葉、言ったことないんでしょ。すっごい上擦ってたよ」
彼女はまたケタケタと笑い始めた。そしてちょこんとおじぎをして、教室を出ていってしまった。
僕はしばらくその場に立ち尽くした。
左手には白と黒のクレヨンが握られている。僕は彼女の言った言葉を思い出した。
僕は伝えることができているらしい。だとしたら彼女もきっとできるだろう、伝えたいことをありのままに。
クレヨンどうしよう。僕はクレヨンを見つめる。
明日返しに行こう、僕はだれもいない教室の中でひとり呟いた。
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