5 私の薬

 研究センターの大会議室は最上階の四階にあり、会議のたびに階段をひたすら登らねばならず社員からはすこぶる評判が悪い。一応資材兼用のエレベーターはあるのだが、上役以外の研究所員は使用禁止という不思議なルールがある。フーフー言いながら階段を登ってきた千尋は、日頃の運動不足を大いに反省することもなくただ文句を垂れていた。

「普通、会議室なんて一階とか二階にあるもんじゃないの?…ハァ…ちゃんと考えてレイアウトしなさいよ…ヒィ…ゲストが来るんだからこんな時くらいエレベーター使わせてくれりゃあいいのに…フゥ…」

「ちひろん、長距離やってたんじゃないの?て言っても、もう十年くらい前の話か。普段から運動してないと鈍っちゃうよねー」

 一緒に登ってきたこの同僚は重そうなウェイトを胸に二つもぶら下げているくせに涼しい顔をしている。私は週末も働き詰めなんだから疲れが溜まってるの…ヘェ…それに走ってたのは十年も前じゃない…ホォ…まだ六年前よ…!

 どうでもいいことに胸の内で必死に反論しつつ、ようやく辿り着いた会議室のドアを開ける。テニスコートほどのがらんと広い室内では社員が何人かバタバタと動き回っていて、長机をコの字型に並べ替えたり、プロジェクターの位置を調整したり、コーヒーやお茶のポットやペットボトルを準備したりしている。

 来月から正式に発足する製剤開発受託プロジェクトに先駆け、提携先であるランドマーク社のメンバーが今日から派遣されて来るのだ。アメリカのランドマーク本社ではチーフディレクター、つまりは部長を長年務めている人で、こちらではプロジェクトマネージャー、つまりは千尋たちの直属の上司ということになる。当然アメリカ人で、外国人スタッフを研究所に迎えることなど初めての関係者たちは揃ってピリピリしている。

「おーい、江角さん。こっち手伝って」

 分析チームリーダーの桝田さんに呼ばれ、こずえはパタパタと走っていく。私も何か手伝わないと…千尋はとりあえず、近くでノートパソコンをプロジェクターに繋いでいるテラスコンビの藤澤に声をかけた。

「藤澤さん、何か手伝いましょうか?」

「ああ、ちょうどよかった大鳳氏。もうすぐゲストが到着するそうだから、玄関まで迎えに行ってきて」

 答えたのは顔を上げた藤澤ではなく、その傍でパイプ椅子に座り短い脚を組んでふんぞり返っているテラスコンビの片割れの山家だった。

「え、私がですか?」

「おいおい、その役目を言われたのはお前だろう、ムネ?」

 藤澤の指摘にも動ぜず、山家はチッチッチと人差し指を振る。

「何回言ったら分かるんだい?僕のこの膝はたとえ短時間でも過度な負荷には耐えられない。ましてや四階まで階段で往復するなど僕にとっては自殺行為だ。ああ、この辛さ不自由さはなったものでないと決して分からないだろうな。想像してみるといい、自らを磔にする十字架を背負い鞭打たれながらゴルゴタの丘に向かうイエスの膝には茨の冠が…」

「頭だよ。だから下で待ってろって言っただろ?大鳳ちゃん、悪いけど行ってやってもらえる?こいつ、外人を一人で案内するのが怖いんだよ」

「はあ…いいですけど…」

 ぎゃいぎゃいと喚いている山家は放っておき、千尋は藤澤に言われた通り、さっき登ってきた階段を下りていく。

 正直自分だって怖いが、どうせ上司になるんだから今逃げたって同じことだ。取って喰われる訳じゃあるまいし…

 ステラへの行ったり来たりで多少は度胸がついたのかもしれない。なんせあっちは異世界だもんね。それに比べればアメリカなんて同じ地球上の国じゃないか。まあ、行くのはステラの方が遥かに簡単なんだけど…

 そう言えばどんな人が来るんだろう?名前くらい聞いておけば良かった。そもそも男?女?勝手なイメージだとスティーブ・ジョブズみたいなフランクでいかにもデキそうな人か、それともカルロス・ゴーンみたいな口数が少なくて気難しそうな人か、まさかジョン・マクレーンみたいな…

「Hello, Are you a member of our project? Today’s meeting is to be held here, right?」

 勝手な妄想をしながら玄関に向かうと、突然頭上から英語が降ってきた。

 え、もう来てたの?

 見上げると、ぴったりとした細身のダークスーツに、幅広のスキッパーカラーのブラウスを着こなした金髪の女性が片手を腰に添え、すらっと立っていた。

「は、ハロー……え~っと…」

「It seems I arrived too early. Wanna go to lab tour soon, but at first have to greet our members…Are you alone? Show me the way, would you?」

 早口で何を言っているのかさっぱり分からない。ゆっくり喋ってもらったって無理だろうけど…千尋は開き直って言うべきことだけ言うことにした。

「あ、アイムソーリー、カンファレンスルームイズセッティングナウ、バットアイガイドユー、プリーズフォローミー」

 文法とか合っているか知らないがニュアンスくらい伝わるだろう。金髪女性はおやっという顔をして千尋と初めて目を合わせる。綺麗な蒼色の瞳をしている。

「Oh, you talk well in English for me. Japanese are always afraid it. She has no small guts. …Right, you should play with me a lil bit」

 やっぱりちっとも聞き取れないが、なんとなく褒められている気がする。何にせよ伝わってくれたようなので案内したいのだが、肝心のボスっぽい人の姿が見えない。

「あれ、お一人だけですか?…えっと、アーユー…シングル?」

 千尋がきょろきょろしていると、金髪女性がいきなりお腹を抱えて笑い始めた。目尻の笑い皺が濃い。

「アハハハ!Yes, of course I am single. ハハ、No problem I understand what you want to say. You are very funny and nice, I really like you. …OK, my, name, is, Nova. Nice to meet you. We will work together from today, thanks」

 金髪女性は笑いながら左手の甲を見せつけてから握手を求めて差し出す。何だか分からないがオッケーって言っていたし、やっぱり一人だけのようだ。てことはこの人がプロジェクトマネージャーなのか…全然イメージと違ったよ。ノヴァ…さん、て言うのかな。そこだけゆっくり言ってくれたので辛うじて聞き取れた。千尋は差し出された細くて長い指をした華奢な手を握り返す。

「な、ナイスチューミーチュー、ミス、ノヴァ。マイネームイズ、チヒロオオトリ」

 思った以上に力強く握り返されびっくりしたが、ノヴァの目は笑っている。良かった、いい人そうだ。若くて綺麗だし、クールな雰囲気がカッコいい。何よりジョン・マクレーンみたいな部長じゃなくて良かった…そうだ。ノヴァはゲストだし、しかもマネージャーなんだからきっとエレベーター使っても許されるよね。やった…!

 千尋は揚々とノヴァを階段脇のホールに案内する。ボタンを押してエレベーターを呼ぼうとすると、袖を引かれた。

「The conference room is on the upper floor, isn’t it ? Let’s take the stairs! I like to exercise. And you should!」

 言いながら既に階段に足を掛けている。露骨に困った顔をしてみるものの、ノヴァは千尋の魂胆を見透かしたようにこっちこっちと急かしてくる。

「えー、また階段…?せっかく楽できると思ったのに…」

 日本語でまたぶつぶつと文句を零し始めた千尋の引けている腰を、ノヴァの華奢で綺麗な手がせっせと押し上げていった。


「はじめまして、ニュージャージーのランドマークヘッドオフィスから派遣されました、ノヴァ=インゲルハイムです。肩書はマネージャーですが、皆さんとはプロジェクトを成功させるまで苦楽を共にする同僚の一人ですので、気軽にノヴァとお呼びください」

 千尋の顎が落ちている。

 日本語喋れるのかよ…しかもペラペラじゃん…残念な英語はともかく情けない日本語まで筒抜けだったのか…完全に遊ばれてた…こんな屈辱の生きっ恥をかくとは…穴があったら…いや掘ってでも入りたい…

 ノヴァは言っていることとは裏腹に淡々とした口調で、頭を抱える千尋を見てもニコリともしない。愛想を尽かされるくらいなら笑ってネタにでもしてくれた方がまだマシだ。全然褒められてなかったよ…所長以下、プロジェクトメンバー全員が自己紹介する間も、ノヴァは不愛想にただメモを取っているだけだった。

「…それでは顔合わせは以上となります。この後、各チームのリーダーはここに残ってもらって、プロマネと今後のスケジュールの確認を行います。他の諸君は通常業務に戻ってください…他に何か質問は?」

「よろしいでしょうか、四宮さん」

 プロジェクトの概要説明が済み、副所長が一旦締めようとしたところでノヴァが手を挙げて発言を求めた。

「はいどうぞ、プロマネ」

 ノヴァは線の細い顎に指を置き少し考えた後、おもむろに長い金色の前髪をかき上げながら立ち上がり、メンバー全員をその蒼い瞳で順番に見渡していく。その仕草は映画のワンシーンのようで、千尋は我知らず見惚れていた。

「…皆さんの自己紹介を聞かせていただき、一先ず各人の職歴、経験、得意とする専門分野については理解しました。この短時間でこれだけの人数のおおよその性質まで把握できたのは、偏に一貫した社内教育の賜物だと思います」

 ノヴァが隣に座る所長をちらりと見降ろし、褒められたと思ったのか所長はだらしなく相好を崩す。

 …違う。この人はそんな簡単に賛辞を与えるような人じゃない。戻した視線の冷たさに、千尋は確信した。

「ですがこのプロジェクトにおいては、それらは全て忘れてください。あなた方のこれまでの職歴や与えられている肩書は必要ありません。この会社で積んだ経験も意味を成しません。固定観念に縛られるくらいなら専門性など邪魔ですし、仕事に個性は不要です。プロジェクトが正式に稼働するまでの一か月、皆さんは立ち上げ準備に集中してください。私は皆さんの適性を見極めます。ふさわしくないと判断したメンバーにはその時点で外れてもらいますので、そのつもりで」

 会議室がざわつく。メンバーはお互いに顔を見合わせ、所長のにやけた面が固まっている。驚いた副所長が聞いていないと首を振る。

「ですがプロマネ、立ち上げに集中と言ってもまだ前期の残務処理も残っておりますし、勝手にメンバーを替えられては我々が選抜した意味が…」

「まずはその『プロマネ』という呼び方をやめてください、四宮さん。肩書は不要だとたった今申し上げたはずですし、そんな言葉は日本以外のどこでも通じません。この国の言語文化を否定するつもりはありませんが、少なくとも公式の場では使用すべきでないことくらい認識されているはずでしょう。それに、今日は顔合わせですので私も日本語で挨拶しましたが、これからは会議資料、計画書報告書、連絡事項、電子メールなどプロジェクトに関する一切を英語でお願いします。ここでの業務内容を本国に報告するのにいちいち翻訳していては二度手間ですので」

 ざわつきに呻き声が交じる。反論もできず唇を噛む副所長に替わり、自身にとって由々しき事態に堪らず所長が口を開く。

「ノバくん、ここは日本なんだ、いきなり全てを英語というのはいくらなんでも無茶だろう。まずは業務を軌道に乗せるのが当社のプライオリティで、本国への報告は君マターじゃないのか?メンバーだってこちらでリソースを精査してアサインしているんだ。いくらアライアンスしているとは言えそんな越権行為は…」

「Shut up」

 低く抑えた一声にざわめきが消える。ノヴァの視線は飽くまで冷酷に、その場にいる一人一人を射抜いていく。

「竹田。あなたはプロジェクトのメンバーではないのでとやかく言いません。ですがもしこの中に肩書を自分の能力だと勘違いしているような人がいれば真っ先に除外の対象になるでしょう。序列は無用、プライドも無用、全員が一メンバーであり、同時にリーダーであるという自覚を持たなければどんなプロジェクトも成功には至りません。私はそのために来たのです。いいですか。我々の目標は会社の利益のためでも個人の保身のためでもない。病気に苦しむ人々のクオリティ・オブ・ライフ、QOLを改善し、医師に、そして患者に喜んで使ってもらえるようなより良い製剤、より良い薬を提供することであり、それがここで働く意義です。同意できない方は即刻メンバーから抜けていただいて結構。この場で名乗り出てください。…いませんか?では、私からは以上です。他になければ四宮さんの提案通りスケジュール確認に移りましょう。ただしこんな広い会議室を使う必要はありません。二、三人ならデスクで十分です。…チヒロさん!」

「えっ?あ、はいっ!」

 ご高説に呆気に取られていた千尋は、急に名前を呼ばれ思わず立ち上がる。

「I don’t know where is my desk. Could you take me? You know I’m still quite strange to this lab」

 な、なんで私には英語…?だがさっきので耳が慣れたのか、言いたいことは分かった。居室まで連れてけってことか…

「イ、イエス、オフコース、プリーズフォローミー…」

 ああ、反射的にまたみっともない英語で答えてしまった…だが千尋の後悔に反し、それを聞いたノヴァはこの会議室に入ってから初めて、その表情を緩めていた。

「Thank you…まずは全員が彼女のような応対ができるようになることを目指しましょうか。もちろん日常的に英語を使えと言っている訳ではありませんよ。分かりますね?」

 言われた当人はさっぱり分からず小首を傾げてきょとんとしているが、千尋の隣のこずえだけはうんうんと頷いている。

「ふっ…まあいいでしょう。それはともかくチヒロさん、あなたの英語は聞けたものじゃないわ。そんなんじゃあメンバーから外さなきゃいけなくなるじゃない。今日から終業後に私のところに来なさい。特訓してあげます」

「え~?なんで私だけ…」

 鬼の笑い皺に、卓からも笑い声が漏れる。やっぱり褒められてはいなかったが、悪い気分じゃない。千尋はこのプロジェクトのメンバーとして、何となくやっていけそうな気がしていた。


 金曜日の夜。千尋はこずえといつもの居酒屋にいた。千尋は生ビールの中ジョッキ、こずえはジンジャーハイボールのグラスを突き合わせてお互いの労をねぎらう。

「おつかれ~。久し振りだねぇ、ちひろんとこうやって飲むのも」

「おつかれさま。そうだねぇ、この前の日曜日も行けなかったもんね、鍋…」

 平日はこっちの会社、土日はステラのパーボという二重生活を、千尋はかれこれ半年近く続けている。当然プライベートを削っている訳で、最近は買い物にも行けていないし、出会いなどあろうはずがない。こずえにはヘンな宗教にはまっていると思われているし、鍋のキャンセル代もきっちり取られた。

 いいことなんて何もないはずなのに、週末が来ると気もそぞろとなりついトイレのレバーを捻ってしまう。一日に何度も往復はできないし、アクアもご飯を作ってくれるので結局面倒臭くなって一泊、次の日も夜までパーボで仕事…というループに陥っていた。

「でもちひろんが誘ってくれるなんて珍しいよねー。もしかして初めてなんじゃない?なになに、何かあった?もしかして恋の相談とか?わくわく」

「あんたいっつも同じリアクションだよね…いや、別に何かあったって訳じゃないんだけど…なんとなく、ね。いいじゃない、たまには…」

 ジョッキに口をつけてごにょごにょと言い淀む。実のところ、千尋はちょっと悩んでいた。こっちの世界の話ではなく、ステラのリリーのことで、だ。

 リリーは気管支拡張薬のテオフィリンと、去痰薬のカルボシステインを半年間投与し続けているが、一向に寛解に向かう様子が見られない。喘息は簡単に治癒する病気ではなく、投薬による症状のコントロールが重要であることは知っているが、リリーの場合大発作はないものの、運動したり興奮したりした時に咳や喘鳴が止まらないような軽い発作がまま見られる。症状が治まらなければ薬の量や種類で調整するしかないのだが、四歳のリリーに対して安易にテオフィリンの量を増やすのは危険だし、そもそも主治医のジョーさんが頑なに処方を変えようとしない。他の患者には既にβ2刺激薬のサルメテロールやツロブテロール、ロイコトリエン受容体拮抗薬のプランルカスト、抗アレルギー薬のクロモグリク酸ナトリウムだって処方しているというのに…

 千尋は医者ではないし、喘息の治療についても弟のを見ていただけで特別詳しい訳ではない。薬剤師である千尋に医者の決めた処方を変える権利はない。だが千尋にとってリリーは初めての患者で、ずっと見てきた年の離れた妹のような存在だ。痰を詰まらせ苦しんでいるのを見るたびに、あまりに無力な自分が嫌になる…

「おーい、ちひろん?どしたぁ?酔うのはまだ早いぞー」

 ―――は。

 こずえが目の前で手を振っている。ビールの泡で口ひげを作ったままぼんやりしていた。いかんいかん。リリーのことを考え出すと止まらなくなってしまう。こんなことを相談してもまた余計な説教されるだけだから、今日はただの憂さ晴らし…

「ごめんごめん、大丈夫大丈夫。あーそうそう、最近ノヴァさんに苛められっぱなしで疲れが溜まっちゃってさ」

「そっかー、オバちゃん、ちひろんのこと大好きだもんねー。なんでまたそんなに気に入られちゃったの?」

 オバちゃんて。まさかノヴァが来ているとは思わないが、どこに耳があるか分からないので念のため周りを見渡す。今日も店内は閑散としていて、カウンターの向こうの店主は唐揚げを揚げながらあくびしている。金曜の夜にこの有様で、大丈夫かこのお店。

「そんなのこっちが聞きたいよ。やたらと仕事は振られるし、メールどころか会話も全部英語だし、本当に毎日居残りで英語の勉強させられてるし…こずえはいいよね、英語ペラペラで。私も学生の時に留学とかしとけば良かった…すいませーん、生中もう一杯」

 実家が海外留学生のホストファミリーをやっていて子供の頃から英語に慣れているそうで、こずえはTOEICが900点を超える。今までそんなことはおくびにも出さなかったこずえに、千尋は劣等感を禁じ得ずビールを呷る。

「あ、わたしも同じのお代わり。…でも分かるなぁ、オバちゃんがちひろんに入れ込む気持ち。なんかこう、ついイジめたくなっちゃうっていうか、ほっとけないんだよね。ほら、飼ってる犬がお手とかお座りとか段々覚えていくと嬉しいでしょ?あんな感じ」

「あたしゃペットか。でも確かにどこに行ってもイジられてる気がするわ…昔からそうなんだよね、弟にも似たようなこと言われたし…」

「リアクションがいいからじゃない?」

「芸人みたいに言わないで。で、こずえはどうなのよ?オバちゃんの印象は」

 こずえはあっという間に二杯目のグラスを空にし、日本酒を二合注文する。底なしのこずえに付き合っていると明日地獄を見ることになるので、千尋はなるべくゆっくりジョッキを傾ける。

「いいんじゃない?わたしは好きだよ、あの人。言い方はアレだけど言ってることは至極真っ当だし、少なくともうちの会社の人たちよりかは信頼できるんじゃないかな。アメリカ人って自分にも他人にも甘い人が多いけど、オバちゃんは真逆って感じ。冷たくて熱い、苦くて甘い、みたいな。色んな国の人見てきたけど、どこにもいないタイプだなぁ…実は宇宙人だったりして。見た目もそんなだし」

「へいへい。妄想が捗るねぇ…」

 相変わらずこの子の人物評は的確だ。今日誘ったのもこれが聞きたかったからかもしれない。宇宙人云々はともかく、いつも辛辣なこずえが評価しているんだから千尋の感覚もそれほど間違ってはいないのだろう。結構きついけど、頑張ってついていくか。

「そう言えばこずえ、最初の挨拶の時も共感してたよね?私みたいな対応を目指すとか何とか言ってたけど、あんなヘタクソな英語のどこがいいんだか…」

「…分かんないの?」

「うん」

 こずえは二合の徳利を一人で飲み切り、ふっと笑うように息を吐く。その仕草はあの時のノヴァと重なって見えた。

「やっぱり素敵だね、ちひろんは。うん、大丈夫。そのままでいいと思うよ」

「何よそれ、はっきりしないなぁ…」

 もやもやしている千尋を他所に、こずえは今度はなみなみと注がれたもっきりを勝手に二杯追加し、まだビールの残っている千尋に一杯差し出す。

「え、私はもういいよ、明日も…」

 パーボに行かないと…うっかり言いかけて口を噤む。そうしてしまう自分に、千尋はちょっと嫌気が差す。悪いことをしている訳じゃないのにな…幸いこずえには気づかれなかったようで、いいからいいからと構わずぐいぐい勧めてくる。

「ちひろんがプライベートを削ってまで頑張ってるのはみんな知ってるよ。休日もちゃんと休めてないんじゃない?だからちょっとだけ心配。誰かが苦しんでたらきっとちひろん、なりふり構わず頑張り過ぎちゃうだろうし、それに他人との境界が曖昧になりすぎると、たぶんすごく辛いと思う…」

 思わずジョッキを持つ手が止まる。こっちの会社でのタスクのことなのだろうが、見透かされているかと思うほどドキッとすることを言う。この子は本当に油断ならない…

「でも大丈夫。ほら、このもっきりみたいに、グラスのキャパをオーバーしても周りの枡が受け止めてくれるから。…あれ?この喩え分かりにくい?」

 こずえはペロッと舌を出し、びしょ濡れのグラスを二本の指で抓み上げ、枡に溢れたお酒をおいしそうに飲み干す。酔いの回ってきた千尋の脳裏にパーボの面々が浮かぶ。

 私一人ではとても無理だった。アクアたちが支えてくれているから、何も見返りがなくても頑張れる。そして、それはこれから先もずっと続いていく。いつかステラでのことを堂々と自慢できる日が来るかもしれないし、来なくたって構わない。

 素直にそう思え、千尋は少し気が楽になった。

「…そだね。やれるところまでやってみるよ。…ありがと、こずえ」

 無理しちゃダメだよ、とにっこり笑ってこずえがグラスを掲げる。千尋は飲みかけのジョッキを枡の中に浸っているグラスに持ち替え、こずえのグラスにカチンと当てる。

「オバちゃんもちひろんに期待してるんだよ、きっと。…でも気を付けてね、アノ手の人って結構本気でLOVEだったりするから」

「やめてよ。そんなとこまで共感しないで」

 噂話をするおばさんのように手の甲を口に添えにやけ顔で近寄るこずえを追い払い、零さないようにグラスに口をつける。その途端、口の中一杯に得も言われぬ芳醇な香りが広がり、同時に僅かな酸味が舌の表面を柔らかく刺激する。微塵の老香もべたつきも許さないその液体はまるで清流の底に自噴する地下水の如く喉へと滑り落ち、往き残る芳香を鼻腔の奥へと誘えばそれはすなわちみずかしの香り…こ、これは…!

「あんたこれ『而今』でしょ!しかも純米大吟醸のNABARI!…なんてもの頼んでんのよ…!」

 一度飲んだらこの味は忘れたくても忘れられない。もちろん値段も格別だ。こずえの顔がにやけからドヤに変わる。

「いいじゃんいいじゃん、遊んでないんだからどうせ余ってんでしょ?お金。こういう時に遣わなきゃ」

「私の財布を当てにすな!…でも…!…止まらない…!…もう一杯、お代わり…!」

「おー、のむぞー」

 そして今夜も哀れなサラリーマンの咆哮を背に、店主は店の看板をしまうのだった。


「…コルシュ、ツロブテロールってどれだけ作ってあったっけ…たたた」

 翌日、チヒロの姿はステラのパーボにあった。ただし、机に突っ伏し片手でボサボサの頭を抱え、もう一方の手で鳩尾辺りを擦るその姿は決して格好の良いものではなかったが。

「チヒロさん、大丈夫?辛いんなら無理して来ることないのに…」

「大丈夫大丈夫…ちょっと調子に乗って飲み過ぎただけだから…うう…それに今日はこっちで大事な用事が…ううう…物は持ってこられないのに何で二日酔いは…うう…」

 強がりながらもこの異世界人は何やらこみ上げるモノを堪えている。責任感があるんだかないんだか…コルシュはやれやれとため息を吐き、作業室の壁際に並ぶ薬品庫からツロブテロールの原薬が入った瓶を探す。

「ツロブテツロブテ…ああ、あった。…あれ、全然入ってないや。最近出てないから補充してなかったんだ。チヒロさん、これが何?新しく処方でもされたの?」

 コルシュが持ってきた褐色瓶の中身は、底に数グラムほど残っているだけでほとんど空だった。チヒロはそれを覗き込んでまた唸る。

「う~ん…コルシュ、悪いんだけどこれ、1キロくらいまで増やしといてくれない?」

 それを聞いて今度はコルシュが唸る。

「ええっ、これ確か抽出原料じゃないから一から作んなきゃいけないんだけど…いつまでに?来週期末テストだから早く帰って勉強したいんだよね…」

 テオフィリンであればカカオに直接『複製コピア』をかければいいし、アスピリンならセイヨウシロヤナギとお酢を用意すれば魔法なしでもすぐに作れるが、複雑な合成工程を踏む必要があるツロブテロールだとそう簡単にはいかない。出発原料もたくさんいるし、自力で合成するにしろ魔法に頼るにしろ時間もマナも相当に必要だ。それにコルシュの腕では粗悪な物ができやすく、収率がかなり悪くなる。それを1キロも作るとなるといったいどれほどかかるか見当がつかない。

「そっか…まあ急ぎじゃないからボチボチでいいよ。ゴメンね、突然変なこと頼んで」

「いいですよ。魔法の練習にもなるし、テスト勉強しながら増やしていくよ。でもそんなに作ってどうするの?これ気管支拡張薬だよね。これが処方されるような患者って…」

 コルシュが推理を働かせようと首を捻っていると、裏口から騒がしい声が入ってきた。

「またタクシーなんか呼んで!先週言ったばっかりでしょ?無駄遣いすんなって!」

「いやだからこれは僕じゃなくて…」

「さすが二頭引きサス付きボックスシートのリムジン。快適でしたぞぉ、はっはっは」

「しかもなんでフェッテは出勤ついでに便乗してんのよ!もうキャンセルも効かないじゃない!こんな高級車でどこのVIPを接待するつもりよ!女か?さては女か!あんたがハイソなコールガールと贅沢三昧の夜を過ごそうなんざ百年…」

「あー…ゴメン、マキナ。それ呼んでもらったの私だわ」

 胸倉を締め上げられぐったりしているアクアを雑巾のように投げ捨て、マキナがようやく溜飲を下げる。その傍でフェッテはウリ坊のように恐怖に震えている。

「なんだ、チヒロだったの。タクシーなんかでどこ行くの?リリーん家はすぐそこだし、朝市はもう終わってるし…」

「ちょっとジョーさんの病院に行こうと思ってね…リリーの薬のことで相談したいことがあってさ。すぐに済むと思うけど、その間店番お願いしてもいい?一応アクアも連れて行きたいから…」

「そりゃ構わないけど…ま、いいわ。リリーにとっていいことなんだよね?それって。難しい薬の話はチヒロに任せるよ。…でもそれなら普通の車で良かったんじゃないの?」

「なんでだろう?私は、今日二日酔いだからなるべく揺れないので、ってお願いしただけなんだけど…」

「…なるほど。さてはあんたらそれにかこつけてあんな高級車を…!」

 床に這いつくばり許しを請うアクアたちをマキナは容赦なく蹂躙していく。コルシュは胸の前で十字を切り、彼らの無事ではなく来週のテストが上手くいくように祈り、そそくさと自分の作業に戻っていった。


 ジョーが主任を務めるクロウ病院特別診療棟は、今日もたくさんの患者でごった返している。半年前に初めて来た時はほとんど人間だけだったが、今ではエルフやドワーフは元より、背中に翼の生えたハーピーや頭に羊の角を生やしたサテュロスまで診察を受けに来ている。上半身が牛のミノタウロスは百歩譲るとしても、下半身が馬のケンタウロスは来る病院を間違えている気がする。

「こりゃあ、まだまだかかりそうだな…」

 長椅子は次々と訪れる患者に全て占領され、アクアとチヒロは待合室の片隅でもう二時間近く待たされていた。週末の今日は特に忙しいらしく、いつもなら愛嬌を振りまいてくれるネコやウサギやクマ耳の看護師たちも患者の隙間を縫って駆け回り、こちらを気に掛ける余裕はなさそうだ。

「どうする?一旦出直そうか?」

 気は長い方のアクアも流石に立ちっぱなしの足が疲れてきた。アポを取っていないのが悪いのだが、チヒロが今朝急に言い出したのだからしょうがない。当のチヒロは壁にもたれてしゃがみこみ、しかめっ面で二日酔いのこめかみを揉み解している。

「…アクア、水」

 苛立ちが募りすぎて口数まで減っている。アクアが差し出した水筒をひったくり、コップにも注がずラッパ飲みして海賊のように乱暴に口元を拭う。いかん、こりゃあ末期症状だ…ジョー先生のためにも早いとこ退散した方が…そう思った矢先、チヒロがすっくと立ち上がった。

「…ジョーさん、いるのよね?」

「えと、今日は一日診察だって受付の子は言ってたけど…でもすごく忙しそうだし、やっぱり来週辺りにしときませんか、チヒロさ…」

「アクア」

 しまった、遅かったか。アクアを睨み上げるチヒロの目が据わっている。許せ同志よ。もう自分には止めること叶わぬかもしれぬ…

「行くわよ」

「あ、はい。こちらですチヒロさん」

 あっさりと同志を売り払い保身に走ったアクアが患者たちを掻き分け、勝手に診療室の扉を開ける。中では白衣を着たジョーがリザードマンの女性に聴診器を当てていた。突然の闖入者に先の割れた長い舌をチロつかせ慌ててはだけた服を直すが、ぬめる鱗肌では正直ラッキー感は全くない。

「こらこら、診察中になんですか…おや、アクア会長でしたか。すみません、お待たせしてまして。今日はちょっと患者が多くて…」

「ジョーさん、お話があります」

 アクアを押し退け、後ろから据えた目のチヒロが入ってくる。

「やあ、チヒロさんもいらしてたんですね。すみません、今日はゆっくり時間を取れそうになくて…あ、もう大丈夫ですよ、いつも通りにお薬出しておきますね、お大事に」

 ジョーはカルテを書きながらリザードマンのお姉さんを送り出す。通り際不審そうに見られてもチヒロは動じず入り口に直立している。

「お時間は取らせません。ほんの十分、いや五分で済みます」

 ジョーは立ち替わり出入りする看護師たちに指示を出しながらカルテから顔を上げようともしない。額に浮かぶ汗が忙しさを如実に表している。

「今日はその五分が惜しいのですが…何のお話です?またキニーネが足りませんか?キナ皮ならクロウ会長の方に…」

「リリーの処方のことです」

 カルテを書くジョーの手が一瞬止まる。またすぐに手を動かし始めるが、その顔からはいつもの笑みが消えていた。

「…それは…五分や十分では済みそうにありませんねえ…。彼女の処方についてはそのうち改めてお話に伺いますので、今日はどうぞお引き取りいただけませんか」

 言葉遣いは変わらず丁寧でも、口調には有無を言わせぬ強い語気が含まれている。まずい。そう言われて、はいそうですかと引っ込むチヒロではない。

「そのうち?そのうちって一体いつですか?リリーの症状についてはもう何度もお話したでしょう。こうしている間にも増悪しているかもしれないんですよ?次また発作が起きたらどうするつもりなの?」

「だからテオフィリンで対応しているんでしょう?ステロイドでもあれば別ですが、彼女に対してこれ以上に適当な処方は今のパーボにはありません。…これでいいですか?」

「そのテオフィリンが問題だって言ってるのよ!本来血中濃度を測定してコントロールしなければいけないような薬剤を四歳の女の子に使い続けるなんておかしいでしょう?ステロイドはまだ無理だけど、もうβ2もロイコトリエンもあるのに、どうしてもっと効き目が強くて使いやすい薬に替えてくれないんですか!」

「チヒロさん、これは疑義照会か何かのつもりですか?だったらお話にならない。主治医はボクです。明らかな間違いならともかく、診断の内容にまで口出しする権利はあなたにはないはずだ。どうぞ、お引き取りを。…何してるの、早く次の人呼んで!」

 普段、温厚なジョーに叱責されることなどないのだろう、可哀そうな看護師はウサギ耳を縮ませて次の患者を呼びに行く。駄目だ。二人とも意固地になって引き下がれないでいる。これ以上は不毛な争いにしかならない。

「チヒロ、患者さんに迷惑だ。ジョー先生の言う通り今日のところは…」

 肩に伸ばしたアクアの手をチヒロは力任せに振り払う。だが意外にも横顔から覗く蒼い瞳は冷静で、静かな闘志を湛えているようにアクアには見えた。

「…ジョー。薬剤師の仕事は必要な薬剤を準備し、処方箋通り間違いなく調剤し、患者が正しく服用できるように指導することだけじゃありません。今おっしゃった疑義照会のように処方箋の間違いを見つけ指摘し、医療事故を防ぐという重要な役割があります。良く似た名前や剤形の薬剤を取り違えて重篤な事故に至った例はいくらでもあります。中には医師が胃薬と抗がん剤を間違えて八か月も投与され続けた事例だってあります。…リリーの処方が間違っているとは言いません。ですがより良い治療法があるのにそれを看過することは、私には怠慢だとしか思えない。次にリリーが少しでも発作を起こしたらツロブテロールを使います。いいですね?」

「ツロブテロール…?β2…?ちょっと、チヒロさん!」

 一息に言い放つと、ジョーの慰留の声も置き去りに踵を返し診察室を出ていく。チヒロがしたのは確認ではなく一方的な宣言だ。アクアは分からなくなる。ジョーもチヒロも、それぞれ医師として、薬剤師として信頼している。だが二人が意見を違えたら、一体どちらを信じれば…?

「アクアさん」

 追うか残るか、逡巡するアクアにジョーが問い質す。

「我々のいた世界では、医師以外の人間が勝手に処方を変えれば薬剤師法違反で罰せられます。このステラにはそれを律する法さえない。こんなことがまかり通るようなら、医薬分業は時期尚早だったと判断せざるを得ない。その責任は取れますか?これだけの患者を見捨てる覚悟はありますか?それならばもう何も言いません。だがボクの診立てが正しければ、ツロブテロールはリリーに処方するべきではない。それだけはお伝えしておきます。…次の方、どうぞ!」

 入ってきた次の患者が立ち竦むアクアを見て驚いている。

 ―――覚悟…覚悟か。

 どちらが正しいかなんてアクアには分からない。それに言っていることは二人ともきっと正しいのだ。ならば僕が取る道は一つ。覚悟なら、とっくにできている。

「…ジョー先生には患者の一人にすぎなくても、チヒロにとってリリーは妹のようなものなんです。感情移入は禁物なのかもしれませんが、それは分かってやってください。…では僕も戻ります。僕らも患者が待っていますので」

 一礼して診察室を後にし、患者で溢れる待合室を真っ直ぐに突っ切る。外ではチヒロがタクシーの中で待っていてくれた。豪奢な車のドアを開き乗り込むと、チヒロは頬杖を突き窓の外をしっかりとした眼差しで眺めている。

「パーボへ」

 アクアが告げると、運転席のランプが鞭を振り車が走り出す。最初から迷いなどない。医師も薬剤師も関係ない。僕が取るべき道はただ一つ。

 パナケーア・パーボのために尽くすだけだ。


 翌週、会社に戻った千尋はがむしゃらに働き始めた。

 ノヴァに振られる仕事はもちろん、本来はチームで分担して進める予定だった面倒な調査業務も千尋が一手に引き受けた。現在日本で市販されているあらゆる薬剤を分析するため、剤形、規格、適応、用法用量、過去五年の売上推移、後発品の有無、物質または用途特許の満了日、医療現場からのクレームなどの基本的な情報をリスト化する作業だ。調査すべき薬剤は剤形違いを含めて千種類以上あったが、他のメンバーと違い今までの業務の引き継ぎがない自分がやった方がいいと、自ら申し出たのだ。

 みんなが出たがらないノヴァが本国と行う電話会議やテレビ会議にも参加していた。プレゼンも会話ももちろん全て英語だが、積極的に質問や発言をするように心掛けた。上達するにはそれが一番の近道だとノヴァに教わったからだ。たどたどしい下手くそな英語でも、こっちが一所懸命に話せば相手もレベルを合わせて辛抱強く聞いてくれるし、言いたいことが伝わった時は何とも言えない嬉しさがあった。

 それらに加え、プロジェクトの正式稼働に向けた企画案や計画書の作成、必要な原料や試薬の発注、テラスコンビに押し付けられる雑用なんかをこなしているととても就業時間内に仕事は片付かず、必然残業時間が嵩み、調整のために先にタイムカードを切ってからまた仕事を続けるようになった。いわゆるサービス残業という奴だが、効率良く時間内に終わらせられない自分が悪い。そう言い聞かせ、千尋は今日も架空のタイムカードを切る。

 自分でも頑張っていると思う。だがそれ以上に驚いたのはノヴァの働きっぷりだった。半日以上時差があるアメリカ東海岸が相手のため、朝は誰よりも早く出社してメールチェックと電話会議、みんなが出社したら日替わりで各チームとの朝一ミーティング、メンバー一人一人への声掛けと進捗確認を終えたら研究所内のリーダー会議に赴き、昼休憩の間もひっきりなしに所内放送で呼び出され、午後になったら試作の立ち合い、本社役員への挨拶回り、他部署との交流、労使懇談会、面談などの僅かな合間に山と溜まった申請書類の承認、会議資料の作成、千尋に仕事の指示をして、夜は夜で本国への再度の報告とメール処理…それだけの業務をこなしながらもデスクの上はいつも小綺麗に整頓されていて、さらさらの金髪には一糸の乱れもない。透き通る蒼い瞳に少しの疲れも浮かばせず、今日も日課の英会話特訓に付き合ってくれる…

「ちひろん、帰りに一緒に買い物行かない?…あ、ゴメン。まだ仕事だった?」

 ノヴァの待つ小会議室に向かおうとした千尋をこずえが呼び止めるが、手に持つノートを見て遠慮する。

「あー…うん、今日もノヴァさんに英語習おうと思って」

「え、今から?」

 こずえが驚くのも無理はない。既に時計は深い時間を示していて、所内は他に人気もなく明かりが点いているのは千尋たちのデスクがある一角だけだ。

「うん。あの人、こんな時間くらいしか空いてないから…あ、でも三十分くらいで終わるからそれまで待っててくれれば…」

「いいよいいよ。急かしちゃ悪いし、さすがにお店も閉まっちゃうから。古塚さんでも呼び出して手伝ってもらうよ」

「そう?ゴメンね…ところで手伝ってもらうって、なに買いに行くの?」

「お米三十キロ」

「…なんで私を誘おうとした?」

 そんな会話が日常になりつつあり、家に帰っても着替えて寝るだけでプライベートはますます少なくなったが、その分充実感は強かった。朝食も夕飯もまともに食べず、わずかな昼休憩に美味しくもない社食をかき込むという食生活をしていたらごっそり体重が落ち、むしろダイエットにちょうど良かった。

「無理してない?」

「どうしてそこまで頑張るの?」

 よくこずえたちに聞かれる。だが千尋からしたら無理しているつもりもなければ、頑張る理由も明確だった。

 負けたくない。

 難しい仕事に負けたくない。挫けそうになる自分に負けたくない。周りからのプレッシャーに負けたくない。それに何より、ノヴァに負けたくなかった。彼女の期待に応えたかった。自分には先輩たちのような知識やスキルもなければ、こずえのように英語が堪能な訳でもない。それなら頑張るしかないじゃないか。良くやったと言わせてやるんだ。ノヴァにも、こずえにも、先輩たちにも、蛍次にも。

 認めさせてやるんだ。

 

 週末は変わらずステラに来ていた。

 ちょっとしたいざこざはあったが、チヒロの気持ちは落ち着いていた。言いたいことは言えたし、むしろ感情に任せて声を荒げてしまったことを少し反省しているくらいだった。そもそもジョーに歯向かう気など元からないのだ。今まで通り処方箋に従って調剤するのは当然で、ジョーの言った通り明らかな間違いでもない限り、処方について疑義照会をするつもりはない。

 パーボのみんなもチヒロの決断を寛大に受け止めてくれた。フェッテは何も言わずに市場を巡り、伝手を辿って原材料をかき集めてくれた。マキナはそのための費用を少ない売り上げから遣り繰りし、タクシーも大目に見てくれた。コルシュはテスト勉強もそこそこに合成を進め、ほどなく瓶を一杯にしてくれた。そして誰よりチヒロを励ましみんなを諭してくれたのは他でもないアクアだった。伊達に三代も続く老舗の薬局の店主を務めているのではないなと、チヒロは柄にもなく感謝したりした。

 立ち上げから半年。

 少し惰性が見え始めていたパーボでの仕事に、また活気が戻ってきた。

「アクア、またお願いしたいんだけど…」

 アクアを使ったももうすっかり常態化していた。

 製造用の器具は揃ってきたが、薬物分析用の機器に関しては一朝一夕にはいかない。例えばテオフィリンの血中濃度を測定するにしても、千尋の世界なら測定キットに血液一滴垂らせば良いが、このステラにはキットはおろか分析装置もない。ならば魔法で、といきたいところだが、代替になりそうな『万物の目オムニスオクルス』でも含有量までは正確には分からないし、他に適当な魔法もない。つまり魔法は、そんな微量成分を測れるようには発達してこなかったのだ。

 ―――現代物理化学の如何に偉大なことよ…

 そんなことを考えているのはこの世界で一人だけだろうが、ともかく作った薬の安全性を確認するには今のところ飲んでみるしかない訳で、チヒロはふわふわした白い粉の入った指先ほどの小瓶をアクアに差し出す。

「お、とうとう完成したのかい?…なんだか雪みたいで飲みにくそうだけど…」

 アクアが抓んだ瓶をひっくり返すと、粉は壁に貼り付いて残っている。

「うん、リリーでも飲みやすくしようと思って。ドライシロップって言ってね、こうして水を注いで…ね、これで小さい子でも飲めるでしょう?」

 チヒロは瓶を机でコンコンと叩いて貼り付いた粉を落とし、蓋を開けて中に水を注ぐ。すると白い粉は振り混ぜるまでもなくあっという間に溶けてなくなった。

「なるほど…ん?でもそしたら最初から溶かしておけばいいんじゃないのか?ポーションみたいに」

「そうね、それができれば楽なんだけど、この薬物って水の中であんまり安定じゃなくて、放っておくと分解しちゃうんだよね。すぐに飲んじゃうのならともかく、これは一日二回飲みつづけなきゃいけないし、毎日取りに来てもらう訳にもいかないから」

 この白い粉はツロブテロールと白糖、つまりは精製した砂糖を溶かした液を高速で回転する小さな穴の開いた容器に流し入れ、穴から飛び出た液滴を熱風の吹き込む釜の中で瞬時に乾燥させる、スプレードライという製法で作ったものだ。ざっくり言うと綿飴だ。微小で中空の粉ができるため、水に素早く溶けるようになる。チヒロはそのお菓子のような薬の詰まった瓶を机に六本並べる。

「あれ?チヒロさん、これって0・1%だよね?粉末は1グラムずつ入れたから、全部でツロブテ6ミリグラムになるけど…大丈夫なの?せめて四瓶くらいにしておいた方がいいんじゃない?」

 傍から見ていたコルシュが心配して口を挟む。確かにツロブテロールは錠剤なら成人でも一日2ミリグラムが通常量で、そもそも局所の吸入剤や持続性のテープ剤として投与されることがほとんどだ。だが、コルシュの諫言にチヒロは首を振る。

「うん、迷ったんだけど…初めての剤形だし、今回は絶対に失敗できないから…」

「ねえ、チヒロ。意地張ってないでさ、いつもみたいにクロウ病院でやってもらった方がいいんじゃないの?頼みにくいのは分かるけど…やっぱりダメ?」

 会計をしていたマキナも首を突っ込んできた。チヒロはその忠告にも首を振る。

 パーボで作った薬の忍容性試験は、始めの頃こそアクアに倍量を飲んでもらったりしていたが、やはり危険なので最近ではクロウ会長の病院で行っている。あそこなら何かあってもすぐに処置できるし、いざとなれば魔術師も呼べる。それに色々な人種で確認ができるので何かと都合が良い。だがその臨床試験を取り仕切っているのはジョーだ。意地とかの話ではなく、チヒロがあれだけ吠えて許可が下りるはずがない。

「…大丈夫、出ても手足の震えくらいだから…」

「いやいや、くらいって。さすがに副作用が出たらまずいでしょ。アクア、コルシュの言う通り四瓶にしときな」

 机の上の瓶を二本取り上げようとしたマキナの手をアクアが押さえる。

「大丈夫だよ、二人とも。リリーに飲んでもらう薬なんだから、念には念を入れないと」

 アクアは気軽に親指を立ててみせる。

「はぁ?…ちょっとチヒロ、あんたが止めないとこのバカ、本当に六瓶全部飲んじゃうわ…よ…?」

 きっとたちの悪い冗談だとでも思っていたのだろう、半笑いで振り返ったマキナはチヒロの真剣な顔を見て言葉を呑む。

「…チヒロ、本気なの?」

 絞り出すように訊くマキナに、チヒロは無言で頷く。

「ほら、チヒロが必要だと言っているんだ。僕は飲むよ」

 アクアはあっけらかんと言い放ち、瓶に水を注いで飲んでいく。

 …いや。アクアにしても内心は不安なのだ。頬を伝う一筋の汗がそれを物語っている。

「チヒロ…」

 眉ひとつ動かさず見守る蒼い瞳に、その汗はどう映っているのだろうか?


 ―――1時間が過ぎた。血中濃度が最大に達する時間だ。

「…アクア、大丈夫…?」

 さすがに心配なのか、チヒロは店で接客をしながら何度も奥の帳場で安静にしているアクアの様子を見に来ていた。

「うん、特に問題はないよ。震えも来てないし、動悸や眩暈も感じない。変わりなさ過ぎて拍子抜けするくらいさ。ひょっとして薬物入れ忘れたんじゃないの?ハハ…」

 アクアの乾いた笑いにマキナもコルシュも胸を撫で下ろす。確かにいつものアクアと顔色も様子も変わりない。

「間違いなく入ってるよ。店長が丈夫すぎなんじゃないの?本当にそうなら全然参考にならないけど」

「確かにねー。ちょっとくらい反応が出た方が大人しくなって良かったかも」

「こらこら。でもよかったよ、これで安心してリリーに飲んでもらえるな。味も甘くて美味しかったし、これなら何杯でも…」

 気を緩め冗談を言い合うアクアの前に、チヒロが瓶を二本差し出している。

「いやいやいや、冗談だからチヒロ、冗談…」

「お願い、アクア。効果がなければそれはそれで命に関わるの。今回は、絶対に失敗できないから…!」

 頬を引き攣らせるアクアにチヒロはなおも瓶を押し付ける。

「チヒロさん、それは副作用が出るまで店長に飲ませ続けるってこと?…さすがにまずいよ、ツロブテロールは過度に摂取すると不整脈とか、ひどいと心停止まで起こる危険もあるって…」

「なによそれ…なんでそれを先に言わないのよ、コルシュ!…駄目よチヒロ、いくらリリーのためだからってこれ以上は…」

 掴んだチヒロの腕には頑なに力が込められ、マキナにはとても引き剥がせない。浮き立つ金色の前髪の下でくすんだ蒼い瞳が揺らいでいる。

「どうしちゃったのよ、チヒロ…あんたちょっとおかしいよ…」

 尋常じゃない。常軌を逸している。そんなことは承知の上だ。ジョーの診断も処方も第一に尊重する。新しい薬剤が必要であれば供給できるよう最大限の努力を尽くす。だが、リリーの処方だけは譲れない。次に発作が起きたら迷わず使う。そのためには完璧な薬を準備しなければいけないのだ。

 負けたくない。

 何かあれば一生かけてでも償う。私だってそれだけの覚悟と矜持くらい持っている。薬剤師は医師の操り人形なんかじゃない。良くやったと言わせてやるんだ。ジョーにも、アクアにも、マキナにも、コルシュにも、フェッテにも、クロウにも、ここに来る全ての患者たちにも。

 認めさせてやるんだ。


 順調だった。

 ノヴァが来てから一か月が経ち、プロジェクトの正式稼働は目前に迫っていた。千種類に及ぶ薬剤調査の甲斐あり、ランドマーク社の主力三品目について付加価値製剤の開発候補として提案できる目途が立った。先日の会議ではランドマーク本社から新薬の製剤設計の委託も視野に入れていることが伝えられた。ノヴァがこの研究所にはそれだけの地力があると判断し、誇張も先入観もなく報告した結果だ。メンバーの業務引き継ぎは製剤開発チームリーダーである古塚の尽力で滞りなく完了し、千尋の英語力も特訓の成果が多少は出ているようで、会議中の会話くらいなら何とか流れを止めずに聞けるようになってきた。準備は万端だ。来週月曜日、夜十時からのランドマーク本社とのテレビ会議を皮切りに、いよいよプロジェクトがスタートする…

「……あれ…?」

 社食の茶碗を片手にスケジュール帳を捲っていた千尋がふと顔を上げる。昼休憩はとっくに過ぎているので食堂には他に誰もいない。それは分かっていたが、何故か首を巡らせて周りを確認してしまった。

 ―――静か…だな…

 ここ最近、こずえと昼食を一緒に食べていない。プロジェクトの準備が始まってからは会社帰りの買い物に付き合うこともできなくなった。そう言えば、最後に喋ったのっていつだっけ…?

「……は。もうこんな時間。いけないいけない、ミーティングに遅れちゃう…」

 時計が目に入り我に返る。一人の食事なんて慣れたものじゃないか。今更寂しいだなんて…じわりと湧いてくる違和感を振り払うように、千尋は急いでご飯をかき込む。


 順調だった。

 0・1%ツロブテロールドライシロップは当面の必要分を揃えることができた。アクアには都合十二本、12ミリグラム相当を一日に飲んでもらい、明らかに薬物に由来する心拍の増加と僅かに手足の震えが認められたが、服薬中断により直ちに軽快した。以降、一日4ミリグラムを継続して十日間服用してもらったが問題はなかった。

 これで一応の忍容性と用量反応性は確認が取れた。マキナたちには散々怒られ呆れられたが、胸を張ってとまではいかないものの安心して投与できる製剤に仕上がったと自負している。あとはリリーが少しでも変調すれば…

「ちひろん…ちょっと時間いい?」

 終業時間間際、パソコンに向かいながらぼんやりとリリーの処方のことを考えていたところに話し掛けられ、千尋は驚いて声が裏返る。

「な、なに?あ、こずえか…ゴメンゴメン。うん、いいよ。何?」

 久し振りに顔を合わせたこともあって、どこかぎこちなくなってしまう。

 何だろう、昨日回覧した計画書のドラフトのことだろうか。試験担当者に勝手にこずえの名前を入れたことか、それとも私の英訳が間違っていたのか…

「今からプロジェクトのみんなで打ち上げに行こうって話になったんだけど、ちひろんも来ない?いつもの居酒屋なんだけど…」

 こずえはチラチラと後ろを気にしている。見るとテラスコンビの太い方、山家のデスクにメンバーが集まってガヤガヤと談笑している。

 …なんだ。仕事の話じゃないのか。

「あー…月曜の発表資料がまだ全然だからそんな暇ないよ。てか、みんなできてるの?余裕だね、飲みに行くとか」

 思わぬシニカルな物言いにこずえの顔色が曇る。だがパソコンに目を戻した千尋はそれにさえ気付かない。

「え…わたしもできてないよ。でもキックオフだから簡単でいいってノヴァも言ってたし、みんな持って帰って家でやるって。ちひろんだってこの一か月ずっと頑張ってたじゃん?揃って飲みに行けるのも今日ぐらいしかないから…ね、行こ?」

 こずえは何気なく言ったのだろうが、今度はそれが千尋の忌諱に触れた。

「…そうよ、頑張ってきたわよ。それを反故になんてしたくない。大体みんなはランドマークとの会議に出ていないから知らないのよ。向こうが要求する『簡単』がどれだけ大変か。その場で青くなったって知らないから。それに私には家でやってる暇はないの。ノヴァさんの特訓だってあるしね」

「……ノヴァも来るよ」

「えっ?」

 聞き取れなかった千尋がパソコンから顔を上げる。目を伏せ表情の窺えないこずえは、千尋の手の届かない距離にまで身を引いていた。

「…変わったね、ちひろん」

 こずえがぼそりと零す。その空気の震えはとてもか細く、千尋の耳まで届かない。

「ノヴァさんがなに?今日も会議のはずだから、少なくとも九時までは…」

「ううん、何でもない。じゃ、わたしは行くから。お仕事、頑張ってね…!」

「あっ……」

 終業のチャイムが鳴る。こずえはくるりと身を翻し、振り向きもせず他のメンバーと揃って居室を出ていった。

 今日はノー残業デーだ。仕事の終わった社員も終わっていない社員も皆ぞろぞろと一斉に帰っていく。かと言って残業してもペナルティがある訳ではない。ただ推奨されているだけで、するかしないかは結局のところ個人の裁量次第だ。その中で進んでサービス残業している自分を誇りに思っていた。効率が悪いから時間内に終わらないんだ。そうかもしれない。何のためにそこまで頑張るの?笑いたければ笑え。向上心もなく周りに流され楽な方に転がるような人たちには負けたくない。仕事が終わってもいないのに喜んで帰るような人たちには負けたくない…!

 そして残された千尋はポツンと一人、座っていた。明かりの消された居室で彼女のデスクだけが照らされ、まるでその心情を表象するかのように暗闇の中に浮かんでいる。

「あら、まだいたの?チヒロ」

 敵の如くキーボードを叩く千尋に声がかけられる。

 ―――…なんだ。聞き間違いじゃなかったのか。

 暗がりから現れたのは、帰り支度をしたノヴァだった。

「……ノヴァさんも行くんですね、打ち上げ」

 沈んだ声に、存外楽しそうにノヴァが答える。

「ええ、もちろん。日本のノミカイには一度行ってみたかったの。イザカヤでオシャクとかサンボンジメとかするんでしょう?変わった風習だけど、楽しそうじゃない?興味深いわ。そう言うあなたは行かないの?」

「……まだ仕事が終わっていないので」

「あら、私だって終わっていないわよ。向こう一年分ぐらいはたっぷり詰まっているもの。でもせっかく誘ってもらえたし、たまには今日できることを明日に延ばしてもいいんじゃないかしら?チヒロは飲むと面白いって江角さんから聞いているわよ。あなたも忙しくてなかなかこんな機会もないでしょう?それに私、お店の場所が良く分からないから案内してもらえると嬉しいんだけど」

「……あなたも同じことを言うんですね」

 千尋のキーボードを打つ手が止まっている。微かに震える指先がその度ディスプレイにあらぬ文字を打ち込み、消されることなく並んでいく。

「…何の話かは知らないけど、少し肩の力を抜いた方がいいわね、チヒロ。あなたは何のためにここで仕事をしているの?一度立ち止まってじっくり考えてみなさい」

「………」

 千尋は黙したままディスプレイを見詰めている。

 何のため?決まっている。私が頑張っているのは自分自身の研鑽を積むためだ。それがゆくゆくは会社のためになり、世の中に還元されていくのだ。そう信じなければ仕事なんてやっていられない。そんなこと改めて考えるまでもない。

「ふっ…まあいいわ。今日はきっと遅くまで飲んでいるでしょうから、気が変わったらおいでなさい。あなたのこと、色々と聞きたいの。…じゃあ、待ってるわね」

 返事のない千尋の肩を軽く叩き、ノヴァは靴を鳴らして暗がりへと溶けていく。

 ―――負けたくない負けたくない負けたくない絶対に負けたくない間違っていたと言わせてやる私が正しかったと認めさせてやる…!

 画面一杯に並んだクエスチョンマークが乾いた灰色の瞳に映り、千尋の中を埋め尽くしていた。


 週が明け、千尋は今日も重い体を引きずって会社に出勤する。

 打ち上げには当然行かなかった。その代わり発表資料は満足いくものができたし、休日もパーボで過ごすことができた。遊びに来たリリーは思いの外元気で、今週は新しい処方を出すには至らなかった。それはそれで良いことなのだが、準備万端で待っている側としては少し拍子抜けだった。

 デスクに座りパソコンを立ち上げメールをチェックする。休みを挟んだにも関わらずメールボックスは真っ赤に染まる。半分はランドマーク本社からのメールで、残りの半分はノヴァからの返信だ。なんだかんだ言いながらノヴァだってきっちり働いている。なによ。明日に延ばしたりしてないじゃん…密かににやつきながら一つ一つ開封していき、やがて全てのメールが黒く塗り替えられた。

「…あれ?」

 千尋はもう一度メールボックスを確認する。

「あれ…?やっぱり来てないな…」

 独り言が口を衝く。月曜の朝は一週間分のスケジュールがノヴァから送られているはずなのだが、今日は来ていない。夜にはメンバー全員参加のランドマークとの会議があるのに、そのアジェンダやスケジュールもない。ノヴァが連絡し忘れているのだろうか?あの人がそんなミスをするとは考えられないが、彼女だって人の子だ、うっかりすることだってあるだろう。まだランドマーク本社との朝の会議が終わらないのか、居室にノヴァの姿はない。

 ―――まあいいか。今そのアジェンダを決めているのかもしれないし、夜までには分かればいいんだから…

 千尋は一旦メールのことは置いておき、発表資料の最終チェックをし始めた。

 が、昼を過ぎ、終業時間が近付いても連絡は来ない。今日に限って間が悪く、待っているとずっと出払っていて、こちらが席を外した時に戻ってくるといった調子でなかなかノヴァに会えないでいた。他のメンバーが気にしている様子はなく、もしかして自分にだけ送られていないのかも…と少し心配になってきたが、みんな資料の作成に忙しそうで声がかけ辛い。こずえに聞けば済む話なのに、打ち上げの誘いを断った手前何となく後ろめたい。仕方なく一番無難そうな藤澤に尋ねてみた。

「あの…藤澤さん、ちょっといいですか?」

「……なに?大鳳

 いつもなら立ち上がって肩まで抱きかねないのに、今日はそんな余裕はなさそうだ。パソコンから目を逸らさず、呼び方まで変わっている。

「えと…今日のランドマークとの会議のアジェンダって来てます?私の方には何も連絡がなくって。たぶんメールの宛先に入れ忘れられたんだと思うんですけど…」

 藤澤はピクリとタイプを止め、横に立つ千尋を足元から舐めるように見上げる。何なのもう、気味悪いなぁ…抗議しようとして千尋の喉が詰まる。下から睨め上げる藤澤の醒めた目が、そうすることを拒絶していた。

「…直接聞けばいいじゃないか、に。仲良いんだろ?羨ましいよ、あんな美人の傍にいられるなんて」

 千尋は目を瞬く。今のは見間違いだったのか?顔を戻した藤澤はいつもと同じように軽い調子で茶化してくる。

「え…と、それが今日はそのノヴァさんに全然会えてなくって…皆さんが資料作ってるってことは、会議はあるんですよね?とりあえず開始時間だけでも…」

「君は出なくていいってさ、大鳳氏」

 隣のデスクから山家が割って入ってきた。言っている意味が分からず、千尋はきょとんとして聞き返す。

「出なくていい?…って、どういうことですか?」

 山家は心底面倒臭いといった感じで首を振り、弛んだ顎を震わせる。

「知らないよ、そんなこと。だから直接に聞けって。どうせ何かしでかしたんだろ?自分の胸に聞いてみろよ。もう君はプロジェクトには必要ないってことさ。まったく残念だよ、せっかく俺らが推薦してやったというのに…」

「おい、ムネ…!」

 藤澤が余計なことを言うなと山家を遮る。

「プロマネは今、副所長たちと説教部屋で打ち合わせしてるはずだよ。そろそろ終わる頃だから…って、大鳳ちゃん!」

 藤澤が止める間もなく千尋は歩き出していた。直情傾向の自分の悪い癖だ。だがそんなことを聞いて黙って待ってなんかいられない。

 どういうことだ?会議に出なくていい?プロジェクトに必要ない?そんなはずがない。私が何かしでかした?自分でも知らないうちに?思い当たる節など全くない。あるとすれば…千尋は居室の端にあるミーティング室の扉を破らんばかりに開ける。

「ど、どうしたのかね、大鳳君。ノックくらいしたまえ…」

 勢いに気圧された所長の語尾が細る。ちょうど終わったところなのか、机に広げた資料を副所長が片付けていて、ノヴァは脚を組み自前のタブレットを弄っている。

「ノヴァさん、今日の会議、私は出なくていいってどういうことですか?」

 千尋は扉を開けたまま仁王立ちして大声で尋ねる。副所長がジェスチャーで閉めなさいと言っているが千尋の目には映らない。ノヴァはタブレットを伏せ、所長と副所長に目配せをして退室を請う。

「私から話すと言っておいたのに…誰かしら。まあいいわ。その通りです、チヒロ。あなたにはプロジェクトのメンバーから外れてもらいます。もちろん、今日の会議にも参加する必要はありません」

 二人きりになった部屋で冷徹に宣告され呆然と立ち尽くした千尋の頭の中でノヴァの言葉が何度も木霊し次第に無機質な文字列に変わっていく。アナタニハぷろじぇくとノめんばーカラハズレテモライマス…カイギニモサンカスルヒツヨウハアリマセン…

 意味が分からない。膨大な調査もランドマークとの連絡も企画書も計画書も原料の発注もどうでもいい雑用も、プロジェクトに関する仕事は自分が中心になって進めてきた。英語だってやる気のない連中なんかとは比較にならないくらい上達した。自分がいなければこのプロジェクトは回らない。それくらいの自負はある。それなのになぜ?頭の中が真っ白になる。ノヴァは私のことを買ってくれていたんじゃないのか?信頼してくれていたんじゃないのか…?

「私もすぐに伝えるべきだったわね、ごめんなさい。本国の方もバタバタしていて時間が取れなくて。あなたの代わりには古塚さんに入ってもらう予定よ。本人からずっと懇願されていて、既存の仕事の割り振りもようやく終わったからちょうど良かったわ。今後の業務については追って沙汰するけど、当面は四宮さんから指示をもらって引継ぎを…」

 ノヴァの白々しい言い訳も耳を素通りしていく。ようやく千尋の口から出てきたのは、ただ一つ思い当たることだった。

「……打ち上げに行かなかったからですか」

 馬鹿馬鹿しい。言っている自分でもそう思う。だがそれ以外に思いつかない。金曜日の夜までは自分は確かにプロジェクトメンバーの一員だったし、ノヴァの態度にも変化はなかったはずだ。ノヴァは細く薄い眉を大仰に持ち上げ驚いた顔をし、見開いた目をゆっくりと戻しながら顎に手を添える。

「…そうね。言われてみれば金曜日の夜、あなたがイザカヤに来なかったのは一つのトリガーになったのかもしれないわね。何れにせよあなたが納得できるなら理由なんて…」

「納得できません!」

 突然の大声にまたノヴァの眉毛が跳び上がる。

「納得なんてできるはずないでしょう!どうしてですか?こんなに頑張ってきたのに!今日の資料だって他の人たちは今作ってるんですよ?大勢でワイワイ騒ぐことがそんなに大事ですか?あなたたちが仕事する時間を捨てて高い代金を払って美味しくもない酒を飲んで美味しくもない料理を食べて上司に気を遣って興味もないくだらない話を聞かされている間に私はとっくに仕上げて何度も見直しして…どうして私がメンバーから外されなくちゃいけないの!こんなに頑張ってるのに!どうして認めてくれないの…!」

 溜まり切った鬱憤が爆発した。溢れそうな悔し涙を唇を噛んで堪える。しかし千尋が熱くたぎるほど、ノヴァは静かに冷たく、非情になっていく。

「…日本のノミカイについては本国でも良く聞かされたわ。飲みながら話せば言いたいことが言える、こういうところで人との繋がりやいいアイディアが生まれる、飲み代なんて社会勉強だと思えば安いもの、これも大事な仕事の一環だ…なんて私だってこれっぽっちも思わないわ。でも今のあなたには休息が必要よ。私はその機会を与えてあげようと思っただけ。言ったでしょう?何のためにここで仕事をしているのか、一度考えてみなさいって。やっぱりその答えにまだ辿り着いていないようね。私の目には、あなたはあなたのためにしか働いていないように見える。だからメンバーから外したの。チヒロ、あなたには立ち止まる時間が必要なのよ」

 これまで千尋の精神を支えていた大きな柱が音を立てて崩れていく。何が駄目だというの?自分のために働いてはいけないの?私はあなたを目指していたのに。あなたの望む私を目指していたのに。私にはもう分からない。これまでの努力をすべて否定された気になり、千尋は奥歯を噛み鳴らす。それなら最初から期待なんてするんじゃねえ…!

「………分かりました、もうここでは仕事をしません、プロジェクトの資料はすべて破棄します、今までありがとうございました…!」

 言い捨て千尋は小部屋を出ていく。

「あ、待ってチヒロ、話はまだ…」

 後ろで何か喚いているが知ったことか。後ろ手で思い切りドアを閉めその音に皆が振り返る。きっと酷い顔をしているだろう。ずかずかと自分のデスクに向かう千尋に誰も声をかけてこない。千尋はパソコンのコンセントを引き抜き、鞄を鷲掴むと何も言わずに終業時間前の居室を後にする。

「ちひろん…!」

 その背中に唯一人、こずえからの声が飛ぶ。

 なに、あんたまだ心配してくれんの?こんな私のこと。こんな惨めな私のこと。余計なお世話だっての。あんたたちもせこせこ働いた挙句切り捨てられればいいのよ。私は私を必要としてくれる世界で生きていくから。

 、こっちから願い下げだ。


 次の日、平日にも関わらずチヒロはステラにいた。パーボのカウンターの裏の椅子の上で膝を抱え、ショーケースに頭を乗せ頬を冷やしている。店番にしては態度が悪い。有体に言えば不貞腐れているのだ。

 これで無断欠勤は三度目だ。もっとももう会社に戻る気はないので欠勤どころか退職することになるだろうが。

 千尋はプロジェクトの仕事が好きだった。タスクは多いし全部英語だし食事の時間も睡眠時間も削られプライベートなど皆無だったが、それでも楽しかった。周りに流され惰性で生きていた自分の人生に初めて意味を持てた気がしていた。だが何もかももう後の祭りだ。あんな捨て台詞を吐いてのこのこ戻れるほど千尋の神経は強靭ではない。なので今もこうして勢いで来てしまったこっちの世界でうじうじと思い悩んでいるのだった。

「チヒロー、本当に戻らなくていいのか?」

 アクアが棚にはたきをかけながら、チヒロのことをいちいち気にかける。平日にこっちに来るのはほとんど初めてだったが、客はほとんど来ない。クロウ病院は年中無休で診療しているが、薬剤師のチヒロがいなければ調剤も相談もできないので、患者も平日にパーボに来る意味はあまりないのだ。月曜に診察を受けても、わざわざ土曜日まで待つ人までいるらしい。必要としてもらえるのはありがたい。だが今ははたきの音以外しない閑散とした店内で、チヒロはごろんと首の向きを変えてアクアの小言を受け流す。

「そりゃあいてくれるのは嬉しいけどさ、突然いなくなられた時の気持ちは僕らにも良く分かるんだ。あっちの人たち心配してるよ、きっと…」

 ―――心配…か。

 こずえや古塚はともかく、あのドライで他人に関心がなさそうな人たちは面倒な奴を厄介払いできたくらいにしか思っていないんじゃないだろうか。特にノヴァなんか…

 ノヴァのことを思い出し、チヒロはまたごろんと首を捻る。すると、奥の作業室から顔を覗かせていたマキナと目が合った。

「チヒロ…あんたいつまでそうしてるつもり?本気でこっちで暮らすつもりならちゃんと働かないと給料出さないわよ。今まではゲストみたいなもんだったから大目に見てたけど、これからはシフトも予算もきっちり守ってもらうから。そのつもりでね」

 マキナは偉そうに胸を反らせ、腕を組んだまま奥に戻っていった。世知辛い。こんなファンタジーな世界でも仕事は仕事。現実はシビアだ。

 ―――はあ…今までは無給のボランティアだったんだから、それこそ大目に見てよ…

 チヒロの口から自然と溜め息が漏れる。ツロブテロールドライシロップの忍容試験の件以来、アクア自身はともかくマキナたちからは少し距離を置かれている気がする。チヒロの頬がショーケースから離れないのはそれも一つの要因だった。今のチヒロにはパーボでさえ決して居心地の良い所ではなくなっていた。全く、世知辛い…また何度目かの寝返りを打つと、店の戸が開く音が聞こえた。

「いらっしゃい…おお、リリーとお母さん。珍しいですね、こんな日に」

「ええ。チヒロ先生がいらっしゃっていると聞いて、娘がどうしてもって」

 優しい声にチヒロは飛び起きる。気の抜けたチヒロの顔を見てリリーがにっこり笑い手を振る。リリーには三日前にいつも通りの薬を渡したばかりなのでパーボに用事はないはずだが、チヒロのためにわざわざ遊びに来てくれたようだ。リリーの可愛い仕草に、チヒロもようやく頬を緩ませ手を振り返す。その時、チヒロの胸に一つの思いが去来した。

 ―――そうか…私、この子のために頑張ってたんだっけ…

 忘れていた訳じゃない。だが忙しさにかまけて心の隅に追いやっていた。ノヴァの言葉が思い出される。あなたは何のために働いているの?立ち止まって考えてみなさい…

 自分のためなんかじゃなかった。私はこの子に元気になってもらいたいだけだった。ノヴァの言う通りだった。自分の体力も顧みず走り続け、意固地になって反発し、見返してやりたくて虚勢を張った挙句にここまでこじらせてしまった。一度立ち止まるべきだった。それなのに私は今、立ち止まるどころかその歩みを止めようとしている…

 母親とアクアが談笑している。母親の手を離し、リリーがこちらに駆けてくる。チヒロの目にその光景が滲んで映る。小さな歩幅で一所懸命に走り、リリーがカウンターに辿り着く。無性にその柔らかな体温に触れたくて、チヒロはカウンター越しに手を伸ばす―――その時、ショーケースに手を突いたリリーが胸を押さえて咳き込みだした。

「リリー!」

 チヒロが抱き寄せて背中を擦る。喘鳴が強い。擦るチヒロの手にまでゴロゴロと気管支に溜まった痰の音が響いてくる。やっぱり弟とは少し症状が違う。ケージの場合は喉が詰まってヒューヒューと苦しそうに息をしていたが、リリーは痰を出したくて苦しんでいるようだ。咳もそこまでは激しくない。

「ほら、はしゃいで走ったりするから…すみません、最近は薬のおかげでそんなに酷くはならないので、すぐに治まると思います。ただ…」

 母親はリリーを座らせハンカチで汗と涎を拭い、額に手を当てた。チヒロはハッとして背中を擦る手を止める。ほんのり暖かい。もしかして…

「熱がある…?」

「はい。朝から顔が赤くて、ちょっと元気がなかったんです。ここに来るのも迷惑だからやめておこうと言ったのですが聞かなくて…ただの風邪みたいですし、熱もそんなに高くはないので大丈夫だと思うのですが…」

 ケージも酷い発作の時は熱っぽくなることもあったが、今は落ち着いてきているし、確かに発作とは関係なさそうだ。ただゴロゴロという喘鳴だけは相変わらず続いている。

 チヒロは迷った。解熱剤を投与することはできない。アスピリンは体内でプロスタグランジンという炎症を引き起こす物質の生成を抑制して症状を緩和するのだが、プロスタグランジンは同時に気管支拡張作用も有する。つまりこれを抑制すると喘息の発作を誘発してしまう恐れがある。いわゆるアスピリン喘息だ。アスピリン以外の解熱鎮痛剤もほぼ同じ機序なので、チヒロの独断で今のリリーに投与することはできない。それは分かっている。

 迷っているのは、テオフィリン錠の投与を止め、ツロブテロールドライシロップに切り替えるかどうかだ。

 発作は起きた。ジョーにあれだけ啖呵を切った以上、切り替えなければ立つ瀬がない。パーボの調剤薬局としての面子にも関わる…でも私は医者じゃない。このリリーの症状を正しく診断することなんてできない…でもどんな結果が待っていようと責任を取る覚悟はできていると…でも…

「……お母さん、ご相談があります…」

 チヒロは口籠りながらぼそりと切り出した。なんなりと、と頷く母親に目を合わせられず、顔を伏せ淡々と唇を動かす。

「…土曜日にお出ししたリリーの薬…テオフィリンと言うのですが、前にもお話しした通り、この薬には強い副作用があります。体の中で濃くなり過ぎないように薬が溶け出る量をコントロールしてはいるのですが、熱を出しているリリーちゃんが服用して大丈夫かどうか、正直自信がありません。その代わりとして最近、もう一種類の薬を用意しました。ツロブテロールと言います。これはテオフィリンに比べれば格段に副作用が出にくいですし、良く効くはずです。それに水に溶かして液にするので、錠剤よりも飲みやすくなっています。ただ、理由は分かりませんが、ジョーさんはこの薬に切り替えることに賛成してくれませんでした。それにやはりこの状態で投与して良いものか…」

 力なくリリーの背に置いていたチヒロの手が、ふと温もりに包まれる。見ると、母親が自身の手を重ねていた。

「チヒロ先生は新しい薬が良いとお考えなのですね?それならなにも迷われることはありません。娘のために用意していただいたんですもの、何が起きようと恨んだりできましょうか。リリーも私も、先生を信じています」

 母親の目はリリーの境遇もチヒロの覚悟も、全ての運命を受け入れているかのように笑っていた。目の前が再び滲む。だがそれは嬉しさからでも感謝の気持ちからでもなかった。

 私は卑怯だ。そう答えてくれると分かっていた。分かっていて選択を委ねた。覚悟はできているなどと言っておきながらこれでは責任を放棄したも同然だ。説明責任アカウンタビリティ服薬遵守コンプライアンス治療参加アドヒアランス?そんな既成の概念など虚しく霞む。どれも責任逃れの自己弁護でしかない。現実に今ここでリリーは苦しんでいるのだ。

 情けない。情けなくて涙が出てくる。ここまで言ってもらわないと決断できないのか、私は…

「私たちだけじゃありません。このお店に来る患者の方たちはみんな、チヒロ先生のことが大好きなんですよ…」

 溢れる涙が頬を伝う。その頬を小さな手が撫でる。リリーが泣いているチヒロに手を差し伸べていた。チヒロは心配そうに覗き込むリリーに、無理に作った笑顔を見せる。

「私も大好きです…!リリーのことが…!この世界のみんなのことが…!」

 何のために働くのか。誰のために頑張るのか。

 きっと今、ここに答えがある。


 二日ぶりにアパートに戻ると、スマホが大変なことになって…いるかと思いきや、着信が二件あるだけだった。

 一件は会社からでこれは予想通りだが、もう一件は弟の蛍次からだった。蛍次は十回もかけ直してきているのに、会社の他のメンバーはともかくこずえから電話もメールも来ていない。いつものことと心配もされなくなったのだろうか?それともさっさと解雇扱いにでもされたのだろうか?人望とか人間性とか、そういうものが浮き彫りにされたようで恥ずかしくなってくる。

 …当然だ。私の方がそうされても仕方のない態度を取っていたのだから。いずれにしろもう会社のことは諦めている。こっちの世界に戻ってきたのは、次にパーボで作る新薬の情報を集めるためだ。

 ツロブテロールドライシロップの効果は上々だった。テオフィリンから切り替えた翌日、リリー母娘は嬉しそうに報告しにきてくれた。朝晩、頻繁に起こしていた軽い咳き込みも昨日今日はなかったそうだ。微熱は続いていて、その所為か少し元気はなかったが、チヒロの顔を見ればちゃんとにっこり笑ってくれた。フェッテは手放しで褒めてくれ、コルシュは自分の手柄のように喜び、マキナも給与の増額を約束してくれた。アクアだけはチヒロが作ったんだから当たり前だと平静を装っていたが、はたきをかける音は心なしかいつもより踊っていた。

 千尋は満たされていた。それこそこちらの現実世界でぽっかり空いた穴がすっかり埋められ、なお余りあるほどに。現金なものだ。こちらが駄目ならあちらの世界と玉虫色に掌を返し、居心地の良い方へと逃げ回っている。だがこれでもう惑うこともないだろう。自分はステラの世界で働く意義、生きる意味を見出したのだ。こちらの世界には情報収集と、たまに家族の顔を見に来るくらいで良い。頻繁に会うような友達もいないし、みんなに見放されてかえってすっきりしたかも…

 ―――ブーッブーッブーッ、

 手の中のスマホが震えだした。蛍次から電話だ。何かあったのだろうか?春にこのアパートに来て以来、ろくに連絡も取っていなかったのだが…

「もしもし、ケージ?」

「姉ちゃん?やっとつながった!何やってんだよ!」

「ゴメンゴメン、ちょっと別のところにいて電話に出られなくて…」

「別のところ?何だよそれ、やっぱり宗教なのか?」

「また宗教とか…」

 あれ?何で蛍次がそんなことを?ステラのことはこずえと古塚さん以外には話していないはずだけど…

「姉ちゃんの会社の人から家に電話がかかってきたんだよ、ステラとかってところに行ってないかって。オカンがそれ聞いて宗教だ宗教だって騒ぎだしてさ。その人はそうじゃないって言ってたけど、オカンは泣き出すし、親父は勘当だとか言い出すし、大変なんだよこっちは。電話かけろかけろってうるさいし…」

 なんだそれ。やっぱりこずえか?でもわざわざ実家に電話なんてしないだろうし、こずえこそ宗教だって思い込んでいたしな…

「だから…その会社の人の言う通りだよ、宗教でもセミナーでもマルチでもないから。泣くとか勘当とか、早とちりにも程があるでしょ…」

「本当か?俺もまさかとは思ったけど、姉ちゃんミーハーで世話焼きだからそういうのにすぐ引っかかりそうだからな…高校の時も占いにすげえはまってただろ?」

「占いとか関係ないでしょうが。勧誘もされてないし、そんなのに引っかかったりなんかしないってば。それに!言っとくけどミーハーじゃないからね、私は」

「本当かよ…一日四回もテレビとか雑誌の占いを見比べてその通りに行動しなきゃ気が済まなかったくせに…」

「よ、よく覚えてるわね…ともかく私は大丈夫だから。お父さんとお母さんにも余計な心配しないでって言っといて」

「…まあ、それならいいけどさ…でも昨日も今日も会社行ってないんだろ?会社の人も知らないってことは、無断欠勤してるのか?」

「えっ…?あ…いや、それは…」

 痛いところを突かれてしどろもどろになる。しまった。会社から電話が入ったってことは休んだこともバレてるのか。蛍次め…こんなに頭の回る奴だったとは…

「ステラとか宗教とかはどうでもいいけど、俺はそっちの方が心配だよ。ノバさんって言ったっけか?電話くれた会社の人、滅茶苦茶いい人だったぞ」

「え…?」

 ノヴァ…?ノヴァがステラのことを…?いや、それよりあのノヴァが実家にまで電話を…?私を切り捨てたのに…?会社からの着信も彼女だったのか…?千尋は怒りでも喜びでもない複雑な感情に混乱し、何も言えなくなる。

「上司なんだろ?勝手に休んでるの姉ちゃんの方なのに、ずっと向こうが謝っててさ。自分が全部責任を負うって、逆にこっちが申し訳なるくらい気を遣って何度も電話してくれて…みんな心配してんだぞ?あんないい人困らせんなよ」

 心配…?謝る…?どうして…?決心した途端にこれだ。もう惑うことはないと思っていたのに。またこちらの世界への未練がむくむくと蘇り始める。もしかして私、とんでもない思い違いをしている…?

「しかし周りの人たちに恵まれてるよな、姉ちゃんは。羨ましいよ。明日会社行ってちゃんと謝れよ?…って聞いてんのかよ?おい、姉ちゃん…!」

 一体何が正しいのか分からなくなり、弟の叱責を受話器越しに聞きながら千尋は音も立てずにぽろぽろと泣いていた。


 翌朝。眠れぬ夜を過ごした千尋は、アパートのトイレの前でスマホを片手に逡巡していた。

 薬剤師として正式採用となり、チヒロを組み込んだシフトをマキナが立てているので、今日パーボに行かない訳にはいかない。土日の負荷を減らすため平日にも患者を分散させたいのだが、コルシュは学生だしフェッテは孫の世話があって人手が足りないのだ。チヒロが行かなければせっかく来てもらった患者に調剤できず、店の評判を落とすことになってしまう。今日はパーボに行くは行くとして、問題は会社にどう連絡するかだ。

 ステラに行ってきます、などと素直に言ったら捜索願いが出されてしまう。実家に連絡されているので体調不良や身内の不幸というありきたりなでまかせも利かない。そもそも既に二日間無断欠勤しているのに下手な言い訳なぞ通じないだろう。一旦ステラに行ったら半日は戻って来られないので、マキナに説明してパーボの方を休みにしてもらうこともできない。

 要するに、詰んでいた。

「こずえにメールしたらここまで来かねないし…ううう、どうしよう…」

 せめて向こうから連絡してくれたら何とかなるかもしれないが、始業時間を過ぎてもスマホは微動だにしない。こんなことならこずえにだけでも分かってもらえるまでちゃんと説明しておくべきだった…今更なことを繰り返しながら電話帳を開けたり閉じたりしているうちに、パーボの開店時間まで迫ってきた。

「どうして私はいっつもこう…ああ…ごめん、ケージ、ノヴァさん…」

 タイムアップだ。千尋はスマホの電源を切りベッドの上に放り投げた。仏の顔も三度もすればさすがに鬼に変わるだろう、クビならクビでしょうがない、明日戻ったら蛍次の言う通り恥を忍んで謝りに行こう、もう決めたんだ、ステラで生きていく、リリーのために働くんだ…迷いを断ち切るように目を瞑ってトイレの水を流す。瞼越しに光が溢れる。いつもの浮遊感。光が消えると同時に鼻を衝く嗅ぎ慣れた酸えた臭い…

「チヒロッ!」

 目も開けぬ間に叫び声が飛び込んできて両肩を掴まれた。

「マ…キナ?い、痛いよ。まだ開店前でしょ?ちょっと遅れたからってそんな…」

「そんなことどうでもいい!それより早く来て!クロウ病院に行くよ!」

 転移したてでまだ頭がぼんやりしているチヒロを、マキナはぐいぐいと引っ張っていく。

「チヒロ!ちょうど良かった!マキナ、こっち!」

 アクアも慌てた様子で店の玄関にタクシーを呼び込みこちらに手招きしている。

「ちょ…マキナ?何かあったの?クロウ病院って?店は…」

 馬車の座席に押し込まれ、ようやく晴れてきたチヒロの視界に映ったのは、アクアの真剣な面持ちと、マキナの震える唇だった。

「リリーちゃんが倒れた」


 クロウ病院本棟は五百を超える病床を抱える大病院だ。多い日は千人以上が来院し、入院ベッドが足らず絶えず空き待ちが発生している。外科、内科、小児科、産婦人科、耳鼻咽喉科、眼科、歯科、泌尿器科、皮膚科、魔法治療科、解呪科といった診療科、それに施療院、リハビリ病棟、ホスピスなどに分かれ、総勢百人以上の医師、看護師、回復系の魔術師、聖職者が従事し治療に当たっているという、クロウ院長兼メディクスギルド会長の夢と野望が築き上げた大都市バーゼルの医療を担う、まさに白い巨塔である。

「―――外来はまだまだ外科と産婦人科が多いが、ジョーのホスピスの評判のおかげで、最近はこっちの内科や他の科にも患者が増えてきている」

 病院に到着したアクアたちをクロウ院長御自らが出迎え、お馴染みの床に擦りそうな真っ黒なロングコートを颯爽と翻し先導してくれている。病院内なのに咥えたパイプを悠然と燻らせ、ツートンカラーの前髪の下から覗く目は眼光鋭くも、繁盛する我が城を自慢できるのが楽しくてしょうがないといった様子だ。

「これからは分業の時代だからね、専門の知識と技量を持った医師や看護師をどんどん育てていくよ。魔法や神の奇跡だって医療にとっては便利なツールの一つだ、ギルド同士でつまらない住み分けなどしていないで一つのところに集めればいい…つまり、この病院にね。そしてもちろん、薬局もだ。化学と製剤技術の融合は素晴らしい。君たちパーボがそれを証明しつつある。ゆくゆくは…」

「クロウさん、ご満悦のところ悪いんだけど、さっさとリリーの部屋に連れてってくれない?こっちは遊びで来てんじゃないの」

「お、おい、マキナ…失礼だろ、会長に向かって…」

 今にも倒れそうなチヒロを支えているマキナが苛立ちを隠そうともせずクロウを急き立てる。パーボの経営の半分はクロウに支えてもらっているというのに、気が気でないアクアは小声で咎めるがマキナは聞いてもいない。

「まあまあ、マキナくん。滅多に来る所でもなかろうから、向かうついでに院内を案内してあげているだけだよ。もし耳障りなら背景音楽のように聞き流してもらって構わないさ。だがどうだろう、パナケーア・パーボの面々にとってはちゃんと聞いておいた方が良いこともあるのだがね…ほら、この部屋は調剤室、こっちは採血室、その奥には現在開発中の分析装置を置く予定だ。近い将来、血液や尿中の薬物濃度をリアルタイムに測定できるようになる。そうなればチヒロくん、君の望んでいたTDMも…うっ!」

 右に左に手をかざし、踊るように説明していたクロウの太腿をマキナの膝が思い切り蹴り上げた。鈍い音が廊下に響きクロウが苦悶の表情でうずくまる。

「いいかげんにしなさいよ、。無駄口叩かずとっとと歩いて」

「ク…!ちょっ、マキナ…それ、逆効果…」

 アクアの指摘などお構いなしに、恐れ知らずのマキナは床でのたうつバーゼルを牛耳る最高権威をさっさと立てと足蹴にしている。

「やれやれ、その呼び方はやめてくれと言っているのに…まったく、敵わないな、には」

 生まれたての小鹿のように脚を震わせ何とか立ち上がったクロウは涼しい顔をして見せるが、額に浮かんだ夥しい汗までは誤魔化せていない。それにしてもこの二人の関係はいったい…?旧知のようだが深追いするともっと酷い仕打ちがアクアにも降りかかってきそうだったので全力で好奇心を抑え、この件はそっとしておくことにした。

「リリー嬢といったかな?彼女の病室は救急処置室の隣、すぐそこだよ。なに、うちのエースが診ているんだ、何も心配することはないさ。それにここには君たちの薬がある。これ以上患者が安心できる場所が、果たしてこの世界で他にあるかな…?」

 ゆっくりと開かれる扉の向こうに、純白のシーツをあしらったベッドが一床。その上に横たわる桃色の髪の少女。枕元には一人の女性と、小太りの背中を丸めた白衣の医師…

「リリー…!」

 マキナの肩を離してチヒロがよたよたと歩み出る。青ざめた顔で力なく両手を突き出し、さながら生きる屍のようにリリーを求めて彷徨い歩く。

「チヒロ先生…」

 来訪に気付いた母親が立ち上がり軽く会釈をするが、それに応える素振りもなくチヒロはリリーの眠るベッドに縋りつく。まだ熱が下がらないのだろう、リリーの頬は赤く上気し、小さく開いた口から浅い呼吸音が忙しなく漏れ聞こえている。

「リリー…!ゴメンね…!リリー…!」

 チヒロは無心でベッドに覆い被さりリリーを抱き寄せようとする。その両肩をジョーがそっと支えて引き戻す。

「大丈夫ですよ、チヒロさん。アスピリンが効いてきましたから、熱はじきに下がるでしょう。今、ベンジルペニシリンも20万単位で注射しました。敗血症になっていたら大変でしたが、この分なら軽い肺炎で治まってくれそうです。寝ているリリーちゃんの様子のわずかな変化に気付いたお母さんと、早朝にもかかわらずここまで車を飛ばしてくれたランプさんのおかげですね」

「ア…アスピリンを…?喘息患者に…?」

 ふわふわと泳いでいる視線を背後のジョーに向け、チヒロの青い顔からさらに血の気が引いている。

「…やはり勘違いされていましたか。はっきりとお伝えしていなかったボクも悪いのですが…」

 ジョーは自分の座っていた椅子にチヒロを座らせると、アクアたちにも聞こえるようにはっきりと言い切った。

「チヒロさん、リリーちゃんは喘息ではありません」

「……!」

 驚きのあまり声も出せずにチヒロの腰が椅子から浮く。口をパクパクさせ、ますますふらつく目でジョーを見上げている。アクアたちにしても衝撃だ。実際に喘息の治療薬を処方していたのは他ならぬジョーのはずなのに。マキナの頭の上にもでっかいハテナが浮かんでいる。母親はそんなアクアたちの様子を見て困った顔になり、クロウはなにやらしたり顔で咥えたパイプを揺らしている。

「彼女の喘息症状は気管支の炎症によるものです。もっと正確に言えば、線毛機能不全症候群から合併した気管支拡張症です。知っての通り、喘息は気管支が閉塞することで呼吸困難に至りますが、この場合は逆です。拡張した気管支に細菌やカビが侵入して炎症を起こし、壁が肥厚したり痰が詰まったりして喘息と良く似た症状を引き起こすんです」

 チヒロが愕然と肩を落とす。起きていることは真逆なのに同じような症状になるのか。もうアクアにはついていけそうにない。チヒロは合わない焦点を床に落とし、戦慄く手でズボンの膝を握り潰している。

「…炎症…?…あの喘鳴と痰の量…だからケージとの違和感が…だとするとβ2では…ああ…私、とんでもないことを…!」

 ジョーはチヒロの肩をポンポンと軽く叩くと、腰の後ろで手を組みゆったりとした足取りでベッドの周りを歩き始める。

「いえいえ。今回の発熱は偶発的なもので、ツロブテロールとは関係ないでしょう。チヒロさんが気に病む必要は全くありません。…ただ長期的に見れば治療方針として間違っていると言わざるを得ない。ボクがテオフィリンに拘っていたのは、気管支拡張作用だけでなく抗炎症作用も持つからです。効果は僅かでしょうが、ないよりはましですから。いずれパーボでステロイドや経口の抗菌薬が整えば切り替えていく予定でした」

「すみません、チヒロ先生。私がちゃんとお伝えしていればこんなことには…」

 ベッドの向こう側で母親が立ち上がり、申し訳なさそうに頭を下げる。そうすることを見越していたかのように、回り込んだジョーが下げた頭を戻させる。

「謝るのはこちらの方です、お母さん。我々の連携が疎かでなければもっと早く対処できていたはずです。医師の矜持だなどとつまらない意地を張ったばっかりに…実はね、チヒロさん、アクアさん。あの後、うちの看護師や常連の患者さんに散々叱られましてね。あんたは小難しいことを言うだけだが、パーボでもらう薬は本当に良く効くし、チヒロ先生は薬の効き目から飲み方まで一人一人分け隔てなく分かりやすく丁寧に教えてくれる、怒ると怖いけど、こっちの相談にも乗ってくれるし、薬が苦いとか飲み難いとか我が侭を言ってもちゃんと聞いてくれる、分かってないのはあんたの方だ、あの人はちゃんとワシ等のことを見てくれている…ってな具合です。…正直、嫉妬しました。ボクだって優しく診ているつもりなんですけどねぇ。でも今回のことで良く分かりました。パーボは、薬剤師と言う職業は、とっくにこの世界に根付いていたんですね。…チヒロさん。ツロブテロールのドライシロップ、お母さんに見せてもらいました。あれを採用しない医師はいないでしょう。早速今日から処方させてもらいますんで、十分準備しておいてください…」

 ジョーはそのふくよかな頬を緩め、寂しそうな、でも嬉しそうな顔をしてみせる。俯いたチヒロの肩が小刻みに震え、目元を隠す金色の前髪が揺れている。

「春より院外処方を始めて半年、今や我が病院はバーゼルのみならずステラでも有数の規模と患者数を誇る大病院へと成長することができた」

 ジョーの後を引き取り、クロウがコツコツと靴を鳴らして歩み出る。さすがにもうパイプは咥えていない。

「それにはジョーの地道な活動もさることながら、たった半年で十二の適応症に対し二十品目以上の薬剤を取り揃えてくれたパーボの功績は計り知れない。リリー嬢のことは不運も重なったようだが、チヒロくん、君への信頼はいささかも揺らぐことはないよ。さっきも言いかけた話だが、ゆくゆくはこの病院にも本格的な薬剤部を作ろうと考えている。入院患者の投薬設計、血中濃度コントロール、新薬の治験コーディネート…もうこの世界でも遠い未来の話ではないのだよ。そしてその暁にはチヒロくんを病院薬剤師として我が病院に迎え入れたい」

「えっ!」

 突然のクロウの提案にマキナがすかさず抗議する。

「ちょっとクロ!そんなこと勝手に…!」

。その呼び方はやめろと言っている」

 クロウの瞳が怪しく光り、マキナの身体が固まる。あるいは本当に『麻痺パラジー』の魔法なのかもしれないが、マキナを射抜くクロウの眼光にはそれほどの力が込められている。つまり、本気だと言うことか…。動けないマキナの隣で、アクアはじっとクロウを見据える。

 バーゼルにおいて今やクロウの意見は絶対だ。口先では賛辞を並べていても、その気になればギルドごと潰すことだってできるだろう。ましてや息のかかった一介の街薬局の人事など小指の先ほどの些事に違いない。何人も逆らえはしまい。

 …だが。

 パーボの経営はクロウ自身とこの病院のおかげで軌道に乗ってきた。以前のように給与を滞納したり水道を止められたりすることはないし、処方箋の方式になってからはツケや値切りに悩まされることもなくなった。パナケーア・パーボは薬局だ。薬さえ揃えていれば客は来る。チヒロを慕っている患者の足が遠のいたとしても、クロウは次々と新しい患者をパーボに送り込んでくれるに違いない。たとえチヒロがいなくてもパーボが立ち行かなくなるようなことはないだろう。

 だが。

 たまたまアクアの前に現れて、たまたま薬の知識を持っていた。気紛れに手伝い、一方的に頼られて、いつの間にか並みならぬ情熱を注いでくれるようになっていたが、彼女は異世界の人間なのだ。アクアたちに縛り付ける権利もなければ、チヒロがパーボのために尽くす義務もない。元の世界に帰りたいと言われたら止められないし、クロウの招聘に応じるのであれば黙って見送るしかない。尊重すべきは彼女の意志だ。

 だが…!

「それはできません。クロウ会長」

 アクアはきっぱりと言い切った。クロウが俄かに眉を吊り上げその眼光でアクアを射抜く。手足が強張り冷や汗まで止まる。だがそれがどうした。アクアは単純な男だ。まだこの目がある口がある。こんななど、今の僕に効くものか。アクアは負けじとクロウを真っ直ぐに見返し続ける。

「…チヒロは、パナケーア・パーボの従業員です。従業員の去就は店主である僕が決めます。彼女はお渡しできません…!」

 クロウを敵に回して売り上げが落ちれば困るのはマキナだ。コルシュは実験が続けられなくなって落ち込むかもしれない。彼女が移籍や帰還を望めばフェッテならその背中を押すだろう。アクアにしたって気持ちは同じだ。

 だが、だからこそ僕は言おう。

 勝ち気で意地っ張りで、時にはぶつかり喧嘩もするが、チヒロはパーボの一員だ。家族などと言ったら鼻で笑われそうだが、チヒロがこの世界で生きる場所はパナケーア・パーボ以外にあり得ない。そのためなら僕はいくらでも泥を舐め悪に染まろう。

 覚悟は、できている。

「…クロウ、その辺にしておいたらどうです?」

 ジョーが溜め息交じりにたしなめ、にやりと口角を上げる。…指が動く、手が動く。いつの間にかクロウの眉が下がり、眼光は細く柔らかくなっていた。

「私は本気なんだがね…いや、すまない。つい力が入ってしまったよ」

 どっと汗が噴き出る。マキナも息を荒げている。何がどこまで本気なんだか…喰えないクロウはニコリともせず、ただ穏やかにベッドに視線を戻す。

「……リリー…!」

 ベッドの上では肩を震わすチヒロがリリーに顔を寄せていた。寝惚けた瞼がとろんと開き、隙間から覗く瞳がしばし彷徨い、やがて声の主を探し当てる。

「…チヒロせんせー…」

 ほうっ、と熱い息を一つ漏らし、枕上でリリーがにっこりと笑う。

「…どうしてないてるの?…ほら、だいじょうぶだよ…なかないで、チヒロせんせー…」

 シーツの中から小さな手を一生懸命に伸ばし、チヒロの頭をリリーが撫でる。チヒロは声を上げて泣いていた。

「…ごめんね…大丈夫だよ…私…大丈夫だから…リリー…ありがとう…」

 涙でぐちゃぐちゃに濡れた頬を擦り寄せ、なおもチヒロの嗚咽は止まらない。

「チヒロせんせー…またおくすりつくるとこみせてね…せんせーも、せんせーのおくすりも、あたしだいすき…」

 誰もが皆、寄り添う二人をそっと見守っている。その間もずっと、全てを癒すリリーの小さな手はチヒロを優しく撫で続けていた。


「チヒロさん、リリーちゃんの胸に手を当ててみてください」

 シーツを掛け直していると、ジョーがその上からリリーの胸に手を置いた。

 リリーが再び眠りに就いた頃、チヒロはひとしきり泣き尽くし、ようやく落ち着きを取り戻していた。ベッドサイドではマキナがお茶を淹れ、アクアはお見舞いのお茶菓子を開けている。クロウは今日も忙しく、ジョーに後を任せて仕事に戻っていった。季節は秋でも窓辺に射し込む日差しはまだまだ元気で、リノリウムの床まで伸びる影を色濃く縁取っている。母親が立ち上がり、ガラス窓を少しだけ開ける。隙間から吹き込む風が涼やかに薄手のカーテンを揺らし、熱気の籠る部屋の空気を入れ替える―――リリーの病室にはそんな穏やかな時間が流れていた。

 チヒロはジョーに倣い、起こさないよう静かにリリーの胸に手を当てる。トクン、トクン、と小気味良いリズムがシーツ越しに伝わってくる。元気な鼓動。聴いているだけで安心する。何のことだろう。別に変わったところは―――

「…あ…れ?この子、もしかして…」

 小さな胸に乗せた手を左右に置き替え、ジョーが伝えたいことに気付いた。

「心臓が右にある…!」

「そうです。透過像がないので断言はできませんが、恐らく心臓だけでなく全臓器が反転していると思います」

 完全内臓逆位…!ドラマや漫画でそんなのが出てきたのを覚えている。心臓が右だから助かっただとか、逆に危機に陥ったりだとか、そう言った類の奴だ。今の今まで架空の世界にしかない想像の産物だと思っていた。本当にあるんだ…!

「でも…大丈夫なんですか?内臓が逆転しているとか、何か不具合がありそうな…」

「完全であればそのこと自体に問題はありません。左にあろうが右にあろうが個々の臓器はちゃんと機能しますから。ボクはさっき、リリーちゃんの病名を『線毛機能不全症候群』だと言いましたよね。本当は微視的な観察をしないと診断はできないのですが、内臓逆位に気付いて確信しました。彼女は『カルタゲナー症候群』を併発しています」

「かるたげ…?またワケ分かんないこと言って…。あんた、そんな風に専門的なことをそのまま話すから患者に嫌われるのよ」

 ベッドサイドでお茶を啜るマキナの文句に、母親が苦笑いする。ジョーは不服そうにふっくらした頬をさらに膨らます。

「しょうがないでしょう、向こうの世界でそう呼ばれているんですから。覚える方も大変なんですよ?…それはともかく、良い機会ですからパーボの皆さんも知っておいてください。この疾患は先天的なもので、細胞表面に生えている線毛の運動が弱かったり、全く動かなくなったりします。特に気管支の粘液層を口側に向かって掻き出す機能が損なわれるので、異物や細菌が排除できず炎症を起こしやすくなり、気管支拡張症や副鼻腔炎が高頻度で発生します。さらに線毛の運動は胎児の臓器配置にも関わっていて、この疾患があると母親のお腹の中で成長していく途中で体液の流れが一定方向に保たれず、臓器がランダムに配置されると考えられています。実際、線毛機能不全症候群患者の半数が完全内臓逆位だそうです。そしてその三徴候、気管支拡張症、副鼻腔炎、内臓逆位を併発した場合を特にカルタゲナー症候群と呼ぶのです。…ここまでいいですか?」

 ジョーはすらすらと一息に語り切る。チヒロはおおよそ理解できたが、アクアもマキナも老夫婦のように茶菓子を頬張りほのぼの窓の外を眺めている。

「今日もいい天気ですなぁ、マキナさん」

「たくさんお客が来てくれるといいですねぇ、アクアさん」

「ジョーさん、完全に思考停止している人たちがいますが気にせず続けてください」

「…いいんですいいんです、チヒロさんさえ聞いてくれればそれで…ええと、細かいことはともかく、大事なのはカルタゲナー症候群は生まれつきの本態的な疾患だということです。つまり治療を続ければ完治するといったものではなく、一生付き合っていかなければならない病気なのです。呼吸器は季節や生活習慣で都度症状が変わりますし、内臓逆位の影響もゼロとは言い切れません。心臓だけ右側にある右胸心の患者の場合はVSD、心室中隔欠損のような畸形があったり、脾臓がなかったりすることもありますので」

 怖いことをさらっと言う。それも医師の性なのだろう。確かに小難しいし回りくどく喋っているが、ジョーが何を言いたいかは良く分かる。チヒロはリリーのピンクの髪をそっと撫で梳き、くつろぐ二人に向き直る。

「…アクア。やっぱり私、元の世界に戻るね。我が侭ばっかり言って振り回してごめん。マキナ。私の分のお給料はなしってことで。悪いけど、シフト組み直してもらえるかな。これまでのレシピはコルシュが全部把握してるし、フェッテさんもカウンターなら問題なくやれると思う。常連さんたちと仲良いし、みんな優しいからきっと大丈夫…」

「お…おい、チヒロ、まさか!」

 アクアが立ち上がり口の端から食べカスを飛ばす。汚いなぁ、もう。リリーの病室だってのに…何をそんなに慌ててんのよ。

「待ってよチヒロ、あんた抜きでどうやっていけばいいのよ?シフト組み直しとか、認めないよそんなの!お金のことは心配しなくていいから、お願い…!」

 怒ったりなだめたり、マキナも忙しい。いらないって言ってるんだからいいじゃない。

「考え直してください、チヒロさん!リリーちゃんにはこれからもチヒロさんのサポートが不可欠なんです!まだツロブテロールのことを気にされているんですか?バカな!チヒロさんは何も悪くないって言っているじゃないですか!」

 あれれ?なぜジョーさんも?もしかして壮大に勘違いしていませんか…?

「お願いします、チヒロ先生…!リリーには、私たちには先生がいないと…!」

「ちょちょ、ちょっと待ってください、お母さんまで…どうしたの?まるで私がもう来ないみたいに…」

「え?元の世界に帰るって、チヒロが今…」

「違う違う!平日は、ってこと!向こうが休みの日は今まで通り来るよ!来させて!」

 全員が胸を撫で下ろし安堵の息を吐く。また言葉が足らなかったか…

「さっきのジョーさんの話を聞いて投げ出したりするはずないじゃない。そんな薄情に見える?ちょっとは信用してよ…」

「いや、チヒロのことだから責任は全部自分が取るとか思い詰めて…」

「向こうの世界でも居所がなくて悲観に暮れた挙句当てもなく一人旅に…」

「やめてよ」

「まったく…相変わらず人騒がせですね、チヒロさんは」

「これからもリリーを見ていただけるんですね?良かった、本当に…」

「お母さんまで流れに付き合わなくていいんですよ?」

 病室が笑い声で穏やかに満たされる。窓辺から風がひと吹きカーテンを揺らし、リリーの頬を爽やかに撫でる。

 熱は下がった。ペニシリンのおかげだ。向こうの世界で歴史を変えた抗生剤は、こちらの世界でも無数の人々を救うだろう。

 だがそれで終わりではない。チヒロの仕事はむしろこれからだ。

 ベンジルペニシリンは胃酸に不安定で注射剤にしかできない。簡単に経口投与できるセファロスポリン系やマクロライド系の抗菌薬が必要だ。耐性菌の発現にも気を配らないと。それにリリーのためにはステロイドと言うハードルも乗り越えなければならない。それだけじゃない。高血圧にはカルシウム拮抗薬やACE阻害薬、糖尿病にはSU剤やα―グリコシダーゼ阻害薬、もちろんインシュリン製剤も、スタチン系コレステロール低下薬、分子標的薬、抗ウイルス薬…

 ステラは待ち望んでいるのだ。

 この世界の常識を覆す、ブロックバスターを。

「さて。長いこと店を空けてしまったし、僕らもそろそろお暇しようか」

「そうね。チヒロが来ているのを聞きつけてお客さんが来てるかもしれないし」

「私もどうせ夜までは帰れないから手伝うよ。あ、それと…」

 部屋を出る前に、チヒロがジョーに振り返る。

「ジョーさん。病院薬剤師のお話、とっても有難いし嬉しいですけど、当面はお断りします。そうクロウさんに伝えておいてください」

 ジョーは分かっていますと、でもちょっと残念そうに微笑み、大きく頷く。

「ただ、念のため聞かせてください。当面、と言うのはいつまででしょう?」

「そうですね…」

 チヒロも微笑みを返し、そのままその笑みをベッドの上に向ける。

「この世界で一緒に働いてくれる薬剤師ができるまで…かな」

「…なるほど。それは随分と待たないといけませんね」

 チヒロの視線の先にあるあどけない寝顔に、ジョーは小さく首を振る。

 母親が一礼してチヒロを見送る。部屋の外ではマキナが待っていてくれた。アクアが先に廊下を走っていく。そう言えばランプを待たせっぱなしだった。アクアの後を追ってチヒロとマキナも駆け出す。

 さあ、帰ろう。

 私の生きる場所、パナケーア・パーボへ。


「すみませんでした!」

 早朝、都築製薬製剤研究所居室の脇にあるミーティング室、通称『説教部屋』に部屋の広さと時間をわきまえない大声が響く。

「許してもらえるとは思っていません。どんな処分でも受け入れるつもりです。ですが、できることならもう一度プロジェクトチームで働かせてください!お願いします!」

 ニュージャージーの本社と電話会議の最中だったノヴァは目を丸くする。

「……Terribly sorry, but my frie…mm…compeer I spoke the other day come back just now. …I’ll call you back later」

 タブレットのマイク越しに聞こえたのだろう、日本語が分からないはずの電話相手も状況を察して笑っていた。社服にも着替えずスーツ姿のままノックもせずに飛び込んできたこの奇妙な日本人は、ぴったり九十度に腰を折りシャザイのポーズを取っている。

「…上司への反抗、業務命令無視、無許可の早退に度重なる無断欠勤と連絡不通…この会社の就業規則に照らし合わせれば、役員による事実確認及び本人への意見徴収を行った上で論旨退職の勧告、応じなければ懲戒解雇…ってところかしら。もちろんあなたには黙秘権があり、弁護士の立ち合いを求める権利がある。なお、あなたの供述は法廷で不利な証拠として提示される可能性があり、もし…」

「…私、逮捕でもされるんですか」

 チヒロは腰を折ったまま顔だけを上げ、半開きの目で口を尖らせる。…うん。良い表情になったじゃない。

「冗談よ。あなたに反抗も無視もされた記憶はないし、そもそも私はあなたの上司でもなければ、この会社の社員でもない。あなたを裁く権利なんて持ち合わせていないわ」

「……上司じゃない…そうでした、すみません…やっぱりクビ…ですよね…お邪魔してすみませんでした…」

 ノヴァの何気ない一言に途端にしょぼくれ過剰に落ち込む。この面倒臭さも以前の調子が戻ってきた証拠か。がっくりと肩を落とし出て行こうとするチヒロに、ノヴァはやれやれと立ち上がる。

「ええ、そうよ。私はあなたの上司じゃないしあなたは私の部下でもない。何度も言っているでしょう?私たちは同じ職場で仕事をする同僚であり仲間でありパートナーよ。本当はもう一つ加えたいところだけれど、それはあなた次第だから今は保留しておくわ…で、いつまでその格好でいるつもり?どうしても処分を受けたいのなら竹田所長にでも自供してちょうだい。もっとも彼は、あなたは普通に有給休暇を取っているだけだと思っているから、端から説明するのはきっと骨が折れるでしょうけど」

「…え…?でも…」

「それはいいから、早くこっちの提案資料の整理を手伝ってもらえない?古塚さん、張り切るのは分かるけど全然まとまってないのよね…メンバーから外されていた理由が良く分かったわ。それにさっきの電話会議の続きもしないと。チヒロに議事録つけてもらわないと、私一人じゃとても追いつかないから」

「…どうして…?私はもうプロジェクトの仕事は…?」

 ノヴァが机の上にバラバラに広がったプリントの束を見渡し大仰に肩を竦めて見せるが、チヒロは呆けたように首を傾げている。コズエの言っていた通りね。自分のことには嘘みたいに鈍感なんだから。

「チヒロ。私はあなたにプロジェクトの仕事をするななんて一言も言っていないわ。今度は勝手に出て行かずにちゃんと最後まで聞いてちょうだい。あなたにはプロジェクトのメンバーから外れてもらい、私のサポートに回ってもらいます。スケジュール管理のような秘書的な仕事は四宮さんから引き継いでもらって、これからは常に私と行動を共にすること。英語はもちろん、私の持っている知識も技術も全部叩き込んであげるから、そのつもりでね。今まで以上に忙しくなると思うけど、あなたならきっとやり遂げてくれると信じているわ」

 驚いたのか嬉しいのか、チヒロの目からポロポロと涙が零れ落ちている。ようやく理解できたようね。意図したつもりはないが、これだけ見事に掌の上で転がってくれる子も珍しい。まったく、見ていて飽きないわ…つられてノヴァの目元にも笑みが浮かぶ。

「ううう…でも…これだけ迷惑をかけておいてお咎めなしだなんて…うう…みんなに合わせる顔が…」

「あら、そうかしら?私には迷惑しているような声は聞こえてこなかったけど?コズエなんか自分も休んで探しに行こうとするから、そっちをなだめる方が大変だったわよ。何にせよ、ちょうど良い休暇が取れたんじゃない?…チヒロ、今すごくいい顔してる」

「なっ…や、やめてください…!」

 もうひと転がし、ノヴァが片目を瞑るとチヒロは身を縮めて頬を赤らめる。可愛い反応してくれるじゃないの。

「フフッ、できれば何があったか聞かせて欲しいけど…いいわ、私もあれこれ詮索はしません。誰にでも、言えない秘密の一つや二つはあるものね…。でも一つだけ聞かせて。私が前にした質問…答えは出たかしら?」

 ―――何のためにここで仕事をしているの?

 チヒロは涙を拭い静かに目を伏せ、束の間思案した後、ゆっくりと視線を戻す。

「―――分かりません」

 少し困ったように眉を垂らし、でも口元には笑みさえ浮かべたその面持ちは、ノヴァの胸の奥底にしまわれている記憶を懐かしくくすぐる。

「何のためとか誰のためとか、今の私にはまだ良く分かりません。ノヴァさんに出会って、見つけた気になったりもしたけど、それもやっぱりどこか違っていて…。でも、いつか見たいんです。私たちの作った薬が、この世界の誰かの役に立つところを。上手く言えないけど、そのために私はここで働きたい。この会社で、この職場で、みんなと一緒に働きたい。この薬は私たちが作ったんだって、胸を張って言えるように…」

 潤んだ灰色の瞳は揺るぎなく、ノヴァを捉えて離さない。胸の奥の記憶から湧き上がる熱い塊を吐息に変え、ノヴァは優しく強く、蒼色の瞳で見詰め返す。

「ふっ…じゃあチヒロがその答えに辿り着くまで、私も一緒に働かせてもらえるかしら?」

「……はいっ!こちらこそ!」

 チヒロは頭を床にぶつけそうな勢いで一礼し、心底嬉しそうにはにかんでみせる。

「さ、さっさと着替えてらっしゃい。休んだ分たんまり仕事が溜まっているんだから。泣いている暇なんてないわよ。あ、でも今日の夜は空けておくこと。チヒロには先週の埋め合わせをしてもらわないと。あのお店のタイショーとも仲良くなれたし、何でも私のことを陰で『オバちゃん』なんて呼んでる輩もいるらしいわね。どういうことなのかたっぷり話を聞かせてもらうから。…フフッ、やっぱり日本のノミカイは最高ね。いいこと?遅れたらカケツケサンバイだからね!」

 最後までイジメられチヒロは頭を抱えて部屋を飛び出していく。ドアを開けたところでコズエに抱きつかれてもがいている。その周りをプロジェクトのメンバーが囲み笑い合う。チヒロはまた泣きながら一緒になって笑っている。閉じられていくドアの向こうからなおも溢れる笑い声、笑い声…

 一人残されたノヴァは、昂った熱を冷まそうと小窓に手を伸ばす。片開きの窓を目一杯に開けると、既に高く昇った太陽が色素の薄い肌を灼き、前髪をそよぐ風もまだまだ夏の名残を纏っている。

「この国の夏は長いわね…」

 冷ますどころかますます熱を帯びる胸の内に、堪らずまだ着慣れない社服の襟元を抓み扇ぐ。扇ぐ度胸に当たる感触に、ノヴァは内ポケットに入れてあるものを思い出した。

「…私たちの薬…か」

 ジッパーを下げ、はだけた胸元から小さなノートを取り出す。熱源はこれだった。無骨な堅表紙に刻まれた無数の傷と補修の跡が、如何ほど年季を重ねてきたかを物語る。その表紙にはこの国のものではない文字で、確かにこう銘打たれていた。

『マムノート』

 ノヴァは細く長い指でその文字をそっと撫でる。それはまるで我が子の頬を撫でるかのように、優しく、愛おしく…

「あの子ったら、先生と同じことを…」

 窓の向こうに青々と木々が茂る峰のそのまた向こうから一陣の風が訪れ、ノヴァの煌めく金糸を遊ばせる。指で漉き梳き掻き上げたその下から、普段は隠れている耳介が覗く。それは不思議に長く尖っていた。

「いつか聞かせてね、あなたのステラの物語―――」

 さらに高く昇らんとする太陽に目を細め、ノヴァはどこか遠くのお伽の世界に、いつまでも思いを馳せていた。


 おわり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

お伽の国のブロックバスター 浦杜英人 @Spacolar

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る